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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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11.零れて乾いてく涙は、見ない振りに決めて 前編

 今この瞬間が、怖い――。


 次にブライアンが目を開いた時、その瞳は先程まで見せていた厳しさを完全に拭い去っていた。

 ユーフェミアを見ていながら、どこか違う何かを見ているような眼差しで、口元には穏やかな笑みまで浮かべている。

 先程までとはあきらかに違う雰囲気にユーフェミアは困惑した。

「あなたは――母から聞いた、あなたの母君とそっくりだ」

 苦笑と共に呟かれた言葉を、ユーフェミアは数度頭の中で繰り返した後、思わず目を見張っていた。

 どうしてここで母が出てくるのか。いや、それよりも国王ではなく王妃がクリスティアナのことを知っていた事実に頭が混乱する。

 ブライアンの様子から、王妃が彼女の子供たちである彼らに悪意を込めて母のことを話したわけではないことぐらい容易に想像できる。でなければ、彼らが、これほど穏やかな表情をしているはずがない。

 彼らの母親でもあるパメラ王妃――。確かに、ユーフェミアの母クリスティアナが生きていたら同じ年頃だろう。とても穏やかで美しい人だと噂で聞いたことがある。その王妃であるパメラが母を知っているとは。

 驚きのあまり二の句が告げずにいると、ブライアンは身体から力を抜き、ソファの背もたれにすがると、やがてゆっくりと話し始めた。

「母はグラッドストン公爵メイナード家の出で、あなたの母君のエヴァンス家とも懇意だったと聞いている。交流のあった両家に同じ年頃の娘。過去にも先にも親友と呼べたのは彼女だけだったとよく聞かされていたよ」

 視界の端で、隣に座ったジュリアの頭が同調するようにかすかに動く。

 彼らは子供の頃からクリスティアナの話を聞かされていたのだろうか。

 ブライアンの瞳がわずかな間、遠くを見つめた。それはとても穏やかで、ユーフェミアが想像していた――憎しみを込められた感情はそこに見えなかった。

 一方、クリスティアナとの思い出を辿りながら、いくら考えても母の口から王妃の名を聞いた記憶はなかった。

 事実、聞かされたところで、庶民の中で育ったユーフェミアが母と王妃が親友だと言われても信じなかっただろうし、そのようなことをユーフェミアがうっかり周囲に漏らし、聞き付けた何者かに自分たちを悪用されることを恐れていたのかもしれない。母の立場を理解するには自分は幼過ぎたし、母が亡くなるのも早過ぎたのだろう。母の口から何一つ、父親のことでさえ聞いたことがなかったのだから。

 どこかもやもやするものを抱えながらも、再び口を開いたブライアンの話に耳を傾ける。

「母は幼少の頃にはすでに父と婚約を取り交わしていた。社交の場に出る歳になると、王太子の婚約者として扱われ、同年代の娘を持つ親やその娘自身から、隙あらばその地位から引きずり降ろそうと何度も嫌がらせを受け、どれほど挫けそうになったかと言っていたことがある。だが、絶対的に味方となってくれた親友がいたから乗り越えることができたと聞いている」

 それがクリスティアナなのだろう。

 ブライアンの口からさらりと語られた上流階級の黒い部分は、ユーフェミアが想像できるようなものではないし、想像したくもなかった。だが何となく、母がパメラの味方となっている姿は想像ができた。きっと母の事だ。他の貴族の令嬢に口でも――もしかしたら手でも負けはしなかったことだろう。

 どこまで彼らは母の話を聞いているのか分からなかったが、どことなく決まりが悪くて身を縮こまらせた。

 しかしブライアンの声音が穏やかだからか、いつの間にか緊張がほぐれていることに気づく。

 気を取り直して顔を上げると、ブライアンはこちらを見てかすかに微笑んだ。その顔はやはりエドに似ていて切なくなる。

「だが、実質あなたの母君――クリスティアナが社交界にいたのは約一年。母と共にその美貌で社交界でも注目を浴びていたクリスティアナは、忽然と姿を消すことになった――ある噂と共に」

「……噂?」

 思わず眉を顰めていた。

 その口ぶりから、噂が決してよくない手合いものであることだと分かる。

 ちらりと隣を窺うと、ジュリアも組み合わせた手に視線を向けたままでいつもの元気はない。

 ユーフェミアにもその噂がどのようなものであるか、ある程度予測はつく。

 一般に、貴族の娘が社交界に出ると言われているのが十四、五歳だ。ユーフェミアはクリスティアナが十七歳の時の子供なのだ。時間的には合っている。しかもこの会話の流れからいくと、やはり……。

「常に母の側にいたクリスティアナと母の婚約者である父が顔を合わす機会はいくらでもあったはず。まして周囲は敵だらけ……。先程も言いましたが、どうにかして母を婚約者の立場から引きずり降ろそうとしている連中にとって、母の味方であるクリスティアナの汚名は、親友と婚約者の両方に裏切られた母を社交界に居づらくさせるには恰好の材料だったのだろう――事実、クリスティアナは君を身籠っていた」

 当時、クリスティアナと王太子であるエドワーズが二人だけで会っている姿は何度も目撃されている。しかも、婚約者のいる者同士が人目を忍ぶようにこっそりと。それは次第に人の口に上るようになり、さらにクリスティアナの婚約破棄と妊娠の発覚――。

 その上、生まれた子供は王太子と同じ蜂蜜色の髪。

「おそらく事実関係から推測するとあなたは父の血を引いている」

「……え?」

 頭の中でたどり着いた結論に、ブライアンは早合点を止める。

 思わず聞き返と、彼は困ったように笑った。

「私も様々な手段を使って調べた結果です。父の補佐を長年している父の友人に聞いたこともありますが、なかなか事実は教えてもらえなかった。むしろ私に気づかうところが余計に認めているように思えて、何度も食い下がったところようやく認めた。だが母はあなたの髪色が父や私と同じでも、親友であるクリスティアナを未だに疑ってはいない」

 それは現在も、と言うことだろう。

 しかしふと疑問に思う。

 彼らが調べなければならないほど、事実は巧妙に隠されていたという事なのだろうか。二十五年以上も経った今では噂の大きさがどれほどのものであったか計れないが、確かにそのおかげでユーフェミアは静かに暮らしてこれたのだ。

 ならばなぜ、ブライアンやジュリアは、クリスティアナやユーフェミアの存在を知ることができたのか。

 ユーフェミアのわずかな表情の変化に気づいたのか、ジュリアは静かに話し出した。

「……昔、母が仕舞っていた過去の日記を見つけてしまったのですわ」

 どこか虚ろな遠い目をしてぽつりとジュリアはこぼした。

「ブライアン兄さまやアシュレイ兄さまと、母の私室で遊んでいた時です。母はその時留守で……偶然、侍女たちもいなかったのです」

 あまり感情のこもらない訥々とした調子でジュリアは話す。

 続きの間である衣装部屋に入りこみ、美しく豪華な色とりどりのドレスをかき分けでジュリアが隠れる場所を探していると、実家から嫁入り道具を入れて持って来たという箱を見つけた。

 ジュリアが隠れるにはちょうどいい大きさのその箱を開けると、中には意外にも数冊の本が入っているだけだった。だが普通の本とは装幀からして何かが違い、興味を引かれて手にとって開いてみると、中は職人が書いた文字とは明らかに違う、母の筆跡と思われる字で何かが書かれていた。

 まだ簡単な文章しか読めなかったジュリアは、取りあえず兄たちに見せることにした。

 そしてそれがパメラの昔の日記であることを知った。

 日付は、パメラがまだ結婚する前。

 主にその日の他愛ない出来事や親友のクリスティアナのこと、時には社交界での嫌がらせが綴られていた。

 だが、次第に親友の名前が日記から減っていっていることに気づく。

『まさかクリスがあの方の子供を身ごもるなんて……。私は二人の関係を知っていながら何もすることが出来なかった。婚約も破棄され、公爵の怒りも買ってしまったエヴァンス家はもう……。わたくしに出来ることは――そう、一つだけ。クリスを信じること。それが噂からも彼女を守る、唯一の手段……』

 それを最後に、その一冊からクリスティアナの名前は完全に消えた。

 ブライアンに読んでもらいながら、次第に二人の兄の顔色が悪くなっていくことにジュリアは気づいた。

 書いてあることの意味はほとんど分からなかったが、兄たちの顔色から良くないことが書かれていたことに不安になってくる。

 取りあえず日記を元の場所に戻し、母の私室から逃げるように出るとブライアンの部屋で口を濁す兄たちにしつこく問い質したのだ。

 知らされた事実に打ちのめされたのは、ジュリアだけではなく、話してくれた兄たちも同様だった。特にアシュレイの父に対する嫌悪は酷く、その憎しみはすぐにクリスティアナに向くこととなった。

 それから、ブライアンは色々な手段を講じてクリスティアナのその後を調べ上げた。

 王都からほど近いバルフォアで生活していること。すでにクリスティアナは亡くなっていること。ブライアンより一つ年上でユーフェミアという名の娘がいること。かつてクライトンにある大学に勤め、父の教師(・・)をしていたナフムという者と暮らしていること。

 それは兄妹だけの秘密となり、それぞれの中で消化され、想いは次第に別々の方向へと向いていくこととなった。

 ブライアンは父や母が静観しているならば静観を続けようと。アシュレイは嫌悪感から決して認めてはならない存在へ。ジュリアは次第に姉への思慕に変わっていった。

「だから――ユーファ姉さまは、わたくしの本当の姉さまなのです!」

 ずっと会いたかったのだと涙を浮かべて手を取られる。

 だが、ユーフェミアは覚悟をしていたものの、告げられた事実に戸惑いしか覚えなかった。

 二十五にもなって、いきなり弟や妹ができたと言われても、実感はわかない。どういう態度で接すればいいと言うのか。

 ただ話の中で、一つだけ納得できたのはアシュレイの態度だ。

 きっと彼は潔癖であるが故、怒りという形になって向けどころのない感情をユーフェミアに向けてしまったのだろう。ブライアンから聞いた経緯からは、憎しみを持たれてしまうのも分からなくはない。母は親友の婚約者を――彼らの母親から一時的にしろ奪い、子供まで産んでしまったのだから。

 ユーフェミアからしてみれば、ディーンやジュリアの言うように『子供っぽい』理由では片付けられない。受け入れられないと言うのも仕方がないと思う。

 重い息を吐きながらユーフェミアは俯く。

 知ってしまった後、何かが自分の中で変わるかもしれないと恐れていたが、今もってユーフェミアの心を占めるのは、やはり恐れしかなかった。

 父親が誰かを知りたかったのは確かだ。記憶の中にいるあの人ならいいのに、とずっと思っていた。

 だが、実際にあの人が国王であったなら、どうすればいいのだろう。もう一度会いたいと思っていたが、それは無理だ。会えるはずがない。

 心の中が突如、虚ろになってしまったような気がした。

「さて――あなたは自分の生まれを知ってしまいましたが……少し脅し過ぎましたかね?」

 ブライアンに言われ、指先を痛いほど握りしめていたことに気づく。手のひらに食い込んだ爪は痛みを感じないほど、二人の話に動転していた事実を教えてくれた。

「姉さま……」

 ジュリアがそっと力を入れ過ぎていた手を開いてくれる。痛ましげな眼差しに、そんなにひどい顔をしているのだろうかと思う。

 大きな衝撃を受けたのは確かだが、まだ現実としてユーフェミアの中に受け入れたわけではない。

「ブライアン」

 突然、背後に黙って立っていたディーンが口を開き、すっかり彼の存在を忘れていた事に気づく。

 ディーンがこの場にいてブライアンが話したという事は、この内容を彼も知っていたのだろう。回らない思考を何とか動かしながらゆっくりと振り返ると、ディーンは安心させるかのようにいつもの余裕のある笑みと視線をユーフェミアに向けたまま、ブライアンに話しかける。

「彼女はまだ休養の必要な身体だ。続きはまた今度にしてくれないか」

「そうだったね。――分かったよ。私は明日の午前中までなら時間が取れる。それまでならば、あなたの為にいつでも時間を取るつもりです――姉上」

 呼ばれた敬称に、ユーフェミアの身体はびくりと震えた。

 そうであるかもしれないが、王太子であるブライアンから敬称で呼ばれることに強い抵抗を感じた。彼らは十数年という長い間、ユーフェミアの存在を知っており受け入れていたかもしれないが、ユーフェミアにとってはほんの少し前に知ったばかりだ。まだ他人としか思えない。

 困惑を顔に浮かべて、ユーフェミアは首を横に振る。

「私はまだ、現実を受け入れられておりません。たとえそうであっても、名前で呼ばれた方が落ち着きます」

 言葉を慎重に選びながら、素直にそれを口にした。

「……わかりました、ユーフェミア殿」

 頷いたブライアンが、かすかに残念そうに見えた気がしたが、それはディーンによって瞬時に意識がそらされた。

「ユーフェミア」

 ブライアンの返事とほぼ同時に名を呼ばれ、腕を引っ張られる。反射的にソファから立ち上がったが、話の内容が強烈過ぎた為か、それともやはり溺れた影響なのか、足に力が入らずふらついてしまった。

 しっかりしないと、とは思うものの頭の奥が麻痺したように働かず、ディーンに支えられて何とか立っていられる始末だ。

 だが、背後から肩に手を回すように身体の向きを変えられ、完全にブライアンたちに背を向ける格好になってから、突如頭の中が鮮明になる。

「ちょっ――」

「では、先に失礼するよ」

 こともなげに平然と言ってのけたディーンに目を見張る。幼馴染かもしれないが、絶対に王族に対する態度ではない。

 残された二人の様子が気になって顔だけで背後を振り返るが、二人はまるで驚いた様子もなく、そのことにユーフェミアの方が驚愕する。

 ジュリアに至っては視線が合うと、ゆっくりお休み下さい、とまで親切にも声をかけてくる。

 だから、そのまま押されるように図書室を出たユーフェミアの耳に、ブライアンの呟いた言葉は届かなかった。

「カーティスは、どこまで本気なのだろうね」

「……わたくしにも分りかねますわ」

 兄妹はあきれたように顔を見合わせた後、小さく笑いながらも疲れた様に身体中から力を抜いた。やはり日頃から張りつめた場に慣れている二人にとっても、思った以上に緊張する会話であったことには違いなかった。

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