10.知りたいと願う罪悪 後編
午後の日差しが差し込む図書室は明るく、裏庭に面した窓の外は緑の芝生が広がっていた。膨大な蔵書は天井まで埋まり、仕事柄嗅ぎ慣れた紙とインクの匂いはユーフェミアの緊張を解してくれる。
窓辺近くに置かれたソファに、王太子は姿勢を正して座っていた。
その正面にユーフェミアが座し、隣にはジュリア。背後にはディーンが立っている。アシュレイとロジャーは現在同席していない。
王太子を目の前にしたユーフェミアは、不思議な感覚に囚われていた。
穏やかな眼差しに見つめられながら、対面したブライアンにユーフェミアはずっと目を奪われていた。
髪の色はアシュレイと同じ淡い金髪、瞳の色はジュリアと同じ空色の瞳。その色合いに、押さえきれないほどの懐かしさが込み上げる。
自分がどう挨拶をし、何を喋ったのか。まるで夢の中にいるかのようで、現実感がない。
不躾だと分かっていたが、視線が――ユーフェミアの全てが彼の一動作に引きつけられる。彼の発する声が、耳に心地よく残る。
「……さま、ユーファ姉さま?」
ジュリアの声と、突然背後から視界を覆われた手に、ユーフェミアは強制的に現実に立ち戻らされる。暗くなった視界に、一体、今まで自分は何をしていたのかと慌てる。
「あ、え?」
目を覆う手を除ければ、背後から覗き込んで、どこか不機嫌そうな顔をしたディーンが視界に飛び込んできた。その距離は思いのほか近い。手を離せば、その手はそのまま肩に置かれる。
「どうしたんだい? きみが呆けるなんて珍しい。一体、何に見惚れていたのかな?」
ディーンの意地悪な口調にどこか違和感を覚えながらも、ユーフェミアはいつものように反論する余裕さえなく、再びブライアンに視線を向けた。自然と心が向かう。
記憶の底から甦る、懐かしい人にそっくりで。
自分と同じ色の髪と、春の晴れ間のような温かい空色の瞳。
年齢も、当時のあの人と変わらない。
エド……。
心の中で名前を呟く。
「……そんなに似ていますか?」
まるでユーフェミアの心の中を見透かしたように、ブライアンは微かな笑みを浮かべる。それはどこか困惑していて、ユーフェミアに更なる追い打ちをかける。
それだけで心臓が痛くなる。泣きたくなるような衝撃に、心が打ち震える。
たまらず息を押し殺す。
でないと、本気で泣いてしまいそうだった。
「兄さま……。もしかして、ユーファ姉さまは――」
ジュリアが落ち着かすようにそっと背中を撫でてくれながら、何かに気づいたのだろう。問いをブライアンに投げる。それに、彼は静かに頷いた。
「彼女は一度、会っているはずです。もう忘れてしまった可能性の方が高いと思っていましたが……覚えていたのですね?」
今更、誰を、と聞くのは愚問だった。最後の方は、確認というより確信に近い。
ユーフェミアは込み上げる感情を抑え込むよう息を飲み込み、頷いた。
忘れるはずはない。ずっと心の奥に引っ掛かっていたのだ。
あの人の事を知っている人がいる。そう思うだけで、心が浮き立つ。
「どうして、あなたは……いえ、あの人のことを知っていらっしゃるのですか?」
気がはやる。
知りたいと、心が渇望する。
その気持ちが表れていたのか、背後から軽く肩を引かれて、前に身を乗り出していたことに気づいた。
落ち着くように肩を軽く叩かれ、ユーフェミアは先走る気持ちを我慢する。
ブライアンはわずかに視線を下げると、小さく苦笑する。
「アシュレイの非礼を本人の代わりに詫びるつもりだったのですが、どうやらあなたはそのようなことよりも『あの人』のことが気になるようですね」
言われ、ユーフェミアはアシュレイを弁明するつもりでここに来たことを思い出した。
当初の目的をすっかり忘れていたことを見透かされ、出来ることなら両手で顔を覆ってしまいたかった。代わりに羞恥を耐えるようにスカートを握りしめる。
当然、ブライアンの詫びを受け入れるつもりは当然ない。が、本来の目的は果たすべきだ。
気は半分以上削がれていたが、気を引き締めるとぐっと顔を上げる。
「あの、王太子殿下がアシュレイ殿下の――」
先に片付けるべきことを口にしようとすると、ブライアンからすぐに手を上げ止められた。
「ここは王宮ではありません。そんな堅苦しい敬称は必要ありません」
確かにここに王太子がいるのは、きっと公なことではないのだろう。本来なら護衛と称して数人の近侍に囲まれている、と確かジュリアが話していた。
彼は一人でべレスフォード邸にやってきたのだ。つまり私的に来たと思っていいのだろう。
躊躇いながら、ユーフェミアは言を繋いだ。
「アシュレイ様の件をどのようにお聞きになったのかは存じませんが、川に落ちたのは私の不注意です」
非は自分にあるとはっきりと告げる。
正面から見つめると、ブライアンの眉がわずかに持ちあがる。
「アシュレイを責めるなと?」
話が早い。
結論を先に言われ、ユーフェミアは目をそらすことなく短く首肯した。
するとブライアンの瞳に、興味深げな色が浮かんだ。まずジュリアを見、次いでディーンを見て、再びユーフェミアを正面から見つめる。
「なるほど。アシュレイがあなたに反感を持つはずだ」
「……はい?」
思いがけない返事に、気の抜けた返事をしてしまった。数度彼の言葉を頭の中で繰り返したが、意味するところが分からない。反感を持たれていたのは知っているが、どこからそういう結論になるのか。
ディーンやジュリアは大人気ない理由だと言っていたが、結局それも分からずじまいだった。
できることなら分かるように説明して欲しかったが、それを王太子である彼に求めるのはさすがに躊躇われた。
だが、きちんと戸惑いが伝わったらしい。ブライアンは、ゆるく口角を上げると簡単に説明をしてくれた。
「私たちの周囲には大きく分けて二種類の人間がいるのです。媚びる者と縋る者。私たちの顔色を窺い、媚びへつらいながら私たちの持つ特権のおこぼれにありつこうとする者。もう一つは、私たちに縋り、揉め事を回避しようとする者。王宮にはそのような人間ばかりだと言っても過言ではない」
その中心にいるはずなのに、ブライアンは顔色を変えることなく淡々と告げる。慣れてしまったというよりも、それを当然の世界として受け入れているように聞こえた。
ユーフェミアにしてみれば受け入れがたい世界だった。まるで自分のために他人を利用するのが当然だと言っているようだ。
ふと、アシュレイに川岸で散々罵られた言葉の数々を思い出し、ブライアンが今言った言葉が混じっていたことに気づく。アシュレイが自分をどういうつもりで罵ったのか、理由は分からないまでも気持ちだけは分かったような気がする。
王族は庶民から見たら遥かに恵まれた生活を送っているとばかり思っていたが、この邸に来て彼らを知れば知るほど、同情に近い感情を覚えてしまうのは、きっとおこがましいことに違いないだろう。だが、思わずにはいられない。
自らの意識に沈もうとしていたところを、ブライアンの声で立ち戻る。
「あなたのように媚びるでもなく、縋るでもない者は私たちにとって、とても稀な存在だ。そのような汚れ切った世界を見て育ったジュリアやアシュレイが、あなたに好意を持つことはおかしくはない」
ゆったりと話すブライアンの声は耳に心地よく、思わず聞き入りながら、畏れ多い褒め言葉に慌てて首を横に振る。だが、すぐに信じがたい言葉があったことに首を傾げた。
「あの、アシュレイ様も?」
声が疑ったものになってしまったのは仕方がない。昨日から散々な目にあったのだ。あれが好意から来ているものとは到底信じられない。
「ええ。弟の場合は少し色々なものが混ざってしまって、反感を持つに至ったのだと思います」
やはり反感なのか。
渋面を作ったまま、取りあえず納得する。完全に理解したつもりはないが、アシュレイの根底に好意があるならば、まだ関係改善に余地はある。
苦笑を浮かべたブライアンは、話し終わるとジュリアに視線を向けた。
「それでもまだ、きみたちの目的に彼女を巻き込むつもりなのかい?」
優しい口調だったが、それはどこか冷酷な響きを持っていた。
好意を持っているにもかかわらず、目的の為ならばユーフェミアを利用するのかとブライアンは聞いているのだろう。だが、ジュリアは言っていたではないか。強制はしないと。話を聞くだけというのは約束したのだから、ユーフェミアは彼女が出した結論に異論を唱えるつもりはなかった。
ジュリアはかすかに青ざめたが、ちらりとユーフェミアの背後に立つディーンに視線を向けると、コクリと頷いた。
それを見て、ブライアンは深く息を吐き出した。
仕方がないというように。
「……つくづく私も甘い。どうやったらそこにいるカーティスのような人間になれるのだろうね」
どう言う意味なのか分からなかったが、困ったように一人呟くブライアンの声は、決して小さくはない。
「ブライアン、それはどういう意味かな?」
言葉を返すディーンもどこか楽しげだ。笑い合う二人を見て、本当に幼馴染なのだとはっきりと感じる。
この邸に来てから、ユーフェミアはディーンとの距離をありありと見せつけられ、実際にその身分の差を感じていた。今まで気安く接してきたが、王族の中に入っても違和感がない。確かに彼は上流階級なのだ。
そこに寂しさを感じないと言えば嘘になる。ユーフェミアにとってディーンは、すでに知り合いの域を超えている。いつも反発しているが、向ける感情は友人に対するそれに近いものがある。だが、現実は違うのだ。その上、違う世界を垣間見た後悔が押し寄せてくる。この邸に来るべきではなかったのかもしれないと、もう何度も思っていた。
「さて、話を戻そう。アシュレイの件はあなたがそう言うのであれば、その言葉に甘えてなかった事にしよう。それで、あなたは『あの人』の何を知りたいのですか?」
やっと話が戻り、正面から聞かれ、ディーンやアシュレイのことは取りあえず保留する。
今までは正直、エドのことと父親のことが結びつき、考えるたびに暗い気持ちに囚われていたが。
心臓が徐々に早鐘を打ち始める。
ずっと知りたかったことが、まるで薄いカーテン越しに影だけが透けて見ているような気がした。しかも手を伸ばせば届く位置にいる。
こうしてあの人によく似たブライアンを目の前にして、今となってはその答えは予想がついているが、そうなるとカーテンを開けるのが怖くなる。知りたいけど、知りたくない。
腿の上で握っていた両手がかすかに震える。
この期に及んで緊張してきた。あれほど川の水を飲んだというのに喉に渇きを覚える。
正面から見つめくる視線から逃れるように、ユーフェミアは自らの両手に視線を落とし、声を絞り出した。
「……私の記憶の中の人が、本当に――エドワーズ国王であったのか……」
言葉にしてしまえば、もう取り返しはつかない。
ブライアンはそんなユーフェミアの恐れに気づいたのか、安心させるように小さく笑った。
「それは間違いない。父はあなたを引き取りに、一度バルフォアに赴いている」
短い言葉だった。だが、すべてを説明しているかのようだった。
息を飲み込むと、一つの言葉を繰り返す。
「引き取る……」
「ええ。私なりに調べたのですが、あなた言う『あの人』が父であることに間違いはないでしょう。ですが――……あなたはこの続きを聞く勇気が本当にあるのですか?」
尋ねられ、咄嗟に言葉が出なかった。ブライアンはユーフェミアが何を躊躇っているのか分かっている。その躊躇いを知っていてなお、選択させてくれるというのか。
それはとても親切で、残酷だ。
情けない顔をしているとは思ったが、それでもゆっくりと顔を上げると、ブライアンは穏やかに笑んだまま、容赦なく切り込んでくる。
その春の日差しのような眼差しだけは真剣で。
「たとえあなたの望まない答えだったとしても」
それはどこまでも冷ややかに、現実を突きつけて。
「全ての生活が一変するようなことになっても」
まるで悪魔の囁きのように甘美で、同時にユーフェミアにとっては恐怖の宣告に近く。
「あなたはそれを全て受け入れる覚悟があるのですか?」
正直に言うと、分からなかった。
それでも知りたいと思うのは、悪いことなのだろうか。
覚悟と言われても、知って何が変わるのか。周囲が変わるのか、自分が変わるのか。
思いは決まっているのに、ブライアンの言葉が頭の中を混乱させていた。
だが、先程まで背中を撫でてくれていた手が熱を伝えて、促しているような気がした。肩に置かれた手に力が加わると、更に頭の中が静まっていく。
一度目を閉じ、息を吸うと、ゆっくりと視線を上げた。
空色の瞳を真っ向から見つめ、静かに息を吐き出す。
「私は……知りたい」
告げた言葉は思ったより大きくなく、その場に静かに落ちていく。
ブライアンは膝の上で両手を組むと、その答えが分かっていたように、ゆっくりと目を閉じた。