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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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10.知りたいと願う罪悪 前編

 死ぬかと思った――。


 凍えるような寒さに目を覚ましたユーフェミアは、束の間、自分がどこにいるのか分からなかった。

 目は開いているはずなのに視界は黒く、身動ぎしようにも拘束されているかのようにしっかりと身体は何かで固定され、訳の分からぬ出来事に混乱しそうになる。動転するあまり無意識に口元にせり上がってきた悲鳴を何とか飲み込むと、まずは落ち着こうと動ける範囲で深呼吸をする。

 長時間同じ体勢でいたためか、首から肩にかけての筋肉がひどく強張り、頭をかすかに動かしただけで首に痛みが走った。

 反射的に顔を顰めると、仕方なくその体勢のままで周囲の様子を窺うことにした。

 身体に伝う振動から、どうやら馬車に乗っているようだと分かる。視線だけを動かすと、窓の外を流れる景色に、先程視界が変だったのは目がおかしくなったのではないのだと分かり安堵する。だが次の瞬間、思いがけない状況に気づき愕然とした。

 視界が黒いと思ったのは、誰かの胸に顔を埋めるように寄りかかっていたからだ。しかも不自然な体勢の割に安定しているのは、背中に回された腕ががっちりと身体を支えているからだ。

 何があったのか状況が飲み込めず、恐る恐る視線を上げると、自身を拘束する者の首筋に濡れて張りついた黒髪が見え、それだけでこの腕が誰のものかを悟る。

 ユーフェミアの身体には見覚えのある上着が巻きつけてあり、すぐに記憶の端にロジャーの姿が引っ掛かった。

 しかしながらその上着は気休めでしかなく、濡れたドレスは確実にユーフェミアの身体から熱を奪っていた。すでに指先も足先も冷え切り、痛みを伴っている。現実を思い出すと、途端歯の根が合わないような寒気を感じて、ぐっと奥歯を噛みしめた。

 ディーンは湿り気を帯びた自らのコートをはおっていたが、顔色は酷く悪い。それは単に寒さの為なのか、それとも自分を心配して――。

 あり得ないと考えを打ち切り、再度視線だけを動かし周囲を見渡したが、馬車には他に誰も乗っていなかった。

 かすかに身動ぐと、身体に回された腕がわずかにゆるむ。

 視線を下げたディーンと一瞬目があったが、すかさず腕に力を込められ、身体がさらに密着する。咄嗟に非難を口にしようと口を開きかけたが、すぐにその理由を知ったユーフェミアはそのまま口を噤まざるを得なかった。

 濡れてはいたが、かすかに感じる互いの体温が唯一の暖だった。服越しに感じる体温はわずかにディーンの方が高い。

 結局、身動ぐことさえためらわれ、邸に着くまでその体勢のまま終始無言を通すこととなった。

 着いてからは待ち構えていた邸の者たちに早急に運ばれ、強制的に湯に浸けられた。その上、十分温まるまで出てはならないと見張りを付けられ、足し湯までされ、おかげで指先の感覚までしっかりと甦り、ようやく生き返った心地がした。

 しかし部屋に戻ると、今度は待ちかまえていた医者に診察をされ、特に異常が無いことがわかると、今日はとにかく温かくして休みなさいと言われ、やっと安心した邸の者たちから解放されたのだ。

 このような扱いをされたことのないユーフェミアはただ恐縮しっ放しだったが、休め、と言われてもまだ日は高く、心配したジュリアあたりが訪ねてくる可能性を考えると着替えるのもどうかと悩む。

 使用人が部屋を退室する前、何か温かい飲み物でも持ってきましょうかと尋ねられたが、水を飲み過ぎたらしく食欲はなかった。部屋は十分過ぎるほど温めてあり、ユーフェミアは横になるべきかどうか迷ったが結局は寝台の端に腰かけるにとどめた。

 死にかけたと思えば、身体に残る疲労感が瞼を下げようとする。確かに体調は万全ではないが気にかかるほどではない。

 一人部屋でぼんやりとしていると、ふとあの時、川縁でアシュレイと交わした会話が甦ってきた。

 途端、ユーフェミアは後悔に呻き声を上げ、頭を抱え込んでいた。

 今思えば、何と大胆な事を言ってしまったのか。

 アシュレイに散々なことを言われたといはいえ、もっと理性を働かすべきだった。矜持はないのかとか媚びているのか、と気分を害する事を散々言われても、どれほど我慢ならなかったとしても、黙っていればよかったのだ。

 要するに――魔がさしたのだ。

「殿下のおっしゃる矜持とは何でしょう。王族や貴族の矜持など、生まれた時から庶民の私に持ち合せているものではありませんし、理解できるものではありません。ですが、庶民の私にも生きていく上で必要だと思う矜持は持ち合わせております。失礼ですけど、殿下のおっしゃる矜持は、庶民の……特に労働者階級の女性の生き方を否定しているものに聞こえます。殿下は私たち女性がどのような苦労をしているのか本当に知っていらっしゃるのでしょうか。もしもそれも知らずにそのようなことをおっしゃるのであれば、私たち庶民を――いえ、女性を見下げているとしか思えません。そのような方に一体国民の誰がついて行くでしょう?」

 確かにアシュレイの言うように、労働者階級の女性の中には羽振りのいい男性に媚びを売って甘い汁を吸っている者がいないわけではない。だからと言って、彼女たちの生き方を非難するつもりはユーフェミアには無い。なぜなら元を糾せば、女性が生きにくい世の中であるから、アシュレイの言うような女性が多く出るのだ。そのような世の中を知りもせず、変える力を持っている王族である彼がただ非難を口にするのは許せなかった。

 勢いで言ってしまったが、間違ったことを言っているつもりはなかった。それにユーフェミア自身、決して恥ずかしい生き方をしているつもりはないのだ。

 胸を張ってきっぱりと言い切ったユーフェミアに、最初こそ驚きの眼差しを向けたアシュレイだったが、すぐにいつもの冷淡な笑みを浮かべると、両腕を組んで見下ろしてきた。

「では、おまえの言う矜持が何か見せてもらおうじゃないか。決し媚びないと言うんだな?」

「当たり前です。誰かに寄りかかって生きようなど思った事はありません」

 淡褐色の瞳を正面から見返すと、わずかにその瞳が怯んだように見えた。それは一瞬のことで、すぐに逸らされる。

「だからと言って、おまえと馴れ合うつもりはないがな」

 それだけ言うと、ジュリアたちの元に向かうつもりだったのか、アシュレイに行く手を退くよう軽く肩を押されたのだ。

 いや、押す、と言うよりも、掠る、と言った方がいいのかもしれない。

 たまたまユーフェミアの立っていた足場が悪かった為、前日の件を思い出し、身を引いたユーフェミアが足を滑らして川に落ちる結果となってしまったのだ。

 思い出し、アシュレイがどうしているか気になった。

 きっと気にもしていないだろうが、あの時、川岸に立つ彼の顔が青ざめていたように見えたのは気のせいではないだろう。

 ディーンやジュリアに責められていなければいいが、と気を揉んだその時、扉をノックする音が響いた。

「はい?」

 返事をすると、すぐに扉は激しい音を立てて開き、血相を変えたジュリアが駆け込んできた。

 ドレスの裾を翻し、その勢いのままギュッと飛びついてきて、勢いあまって二人して寝台に倒れ込む。

「えぇっ、ジュリア!?」

「姉さま、生きてますよね!?」

 頬をぱちぱちと叩かれ、怪我はないかと先程の医者よりも慎重に身体に触れてくる。

 入口にはロジャーもおり、彼にも心配いらないと寝転んだまま笑顔を向けた。

「大丈夫よ、何ともない。身体だけは昔から丈夫なのよ」

 身を起こしながら、ロジャーに上着の礼を言う。

「ユーフェミアさんが無事で何よりです」

 彼も安堵の表情を浮かべながら、部屋の暖気が逃げてはいけないと思ったのだろう。入ってくると扉を閉めた。

「ごめんね。心配かけてしまったわね」

「いいえ。姉さまに大事が無くて良かったです。ですけど、アシュレイ兄さまは許せませんわ! 姉さまと同じ目に合わせてさしあげれば良かったですっ」

 拳を握り締めて力いっぱい言い放つジュリアは、表情も険しく、激しい怒りをあらわにする。本気で言っているように聞こえて、ユーフェミアは慌てて彼女の拳を押し留めた。

 少なくとも今回の件においてアシュレイは悪くない。むしろ助けてくれる素振りは見せたのだから、責めるべきではないだろう。

「待って。違うのよ。落ちたのは私の不注意なのよ」

「庇う必要はありませんわっ」

 力強く言い切るその眼差しは、いつぞやのアシュレイと同様冷ややかだ。しかしその視線の先にいるのが自分ではないからか、身の竦むような怖さは感じない。むしろ自分のためにこうして怒ってくれるジュリアに親愛さえ感じる。

 彼女の怒りを宥めるように、ユーフェミアはざっと事のあらましを説明した。

 ついでとばかりにアシュレイの所在を尋ねる。

「そう、図書室にいるのね?」

 返ってきた返事に、昨日部屋に案内される前、通りがかったついでに教えてもらった場所を思い浮かべた。

 この邸内の広大な図書室は、時間があったら行ってみようと思っていた場所の一つだ。ちょうどいい、と寝台から下りると、ジュリアはふてくされたように視線を逸らした。

「ですけど、今はカーティスと話し中ですわ」

「ディーンと?」

 確認しつつもジュリアの態度に、首を傾げる。

 まるで彼らの話から閉め出されたような口ぶりだ。

 聞いてはまずいような話をしているのだろうか、とためらいながら、それでも彼らの元に行く意思を示す。

「お邪魔かしら?」

「いいえ、大丈夫ですわ。きっとアシュレイ兄さまはカーティスに叱られている最中でしょうから」

 わたくしも一緒に兄さまを罵ってやりたかったのに、とジュリアは頬を膨らませて呟いた。

 その言葉にギョッとする。

 確かディーンには彼を責めるなと言ったはずだったのに。

 ユーフェミアは慌てて身を翻す。

「姉さま! 無茶をしては駄目です! 兄さまのことはカーティスに任せておけばいいんですわ!」

 背後から腕をつかまれて、身体を気づかってか引きとめられる。

 ジュリアにも説明したというのに、それでもこのまま誤解をさせておけというのだろうか。

 どういうつもりなのか問おうとして、ジュリアはその眼差しから逃げるように顔を背けた。

「それに――……もう遅いです。兄の元に連絡が行ってしまったんですもの……」

 空色の瞳に影を落としながら、次第にその声は小さくなっていく。赤みがかった金色の睫毛も弱々しく震えている。

「兄?」

「ブライアン兄さまです。わたくしたちに何かあればすぐに王宮へと連絡が行くことになってますの。だから……もうすぐ、兄さまがこちらにいらっしゃいますわ」

 彼女の告げた言葉に目を見張った。

 王太子まで、ここにやってくると言うのか。

 噂では人間的にもよくできた人物だと聞いているが、噂と現実の違いはアシュレイで立証済みだ。

 王太子が来る、ということがどういう意味を持っているのかユーフェミアには理解できなかった。ただ問題があれば、という言葉とジュリアの態度から、あまり好ましくない事態であることぐらい想像できる。

「姉さまはこちらにいらしてください。もしかしたら会う必要が出てくるかもしれませんけど、その……姉さまがお会いしたくないのであれば、わたくしから話しておきますから」

 どうやら昨日、彼女たちの正体を知って腰を抜かしそうなほど驚いたユーフェミアを気づかってくれているらしい。

 ユーフェミアは腕からジュリアの手をそっと外すと、彼女に向き直った。

 正直、歓迎すべきことではないが、必要があるならば会わなければならないだろう。もしもアシュレイ一人が悪者にされるような事態になるならば、きちんと誤解だけは解いておきたい。ユーフェミアが足を滑らしたせいで、この事態を引き起こしたのだから、きちんと責任をもって弁明するつもりだ。

「いいえ――必要があるなら会うわ」

 なんだか次第にやっかいなことになりつつある現実に、もしかして自ら首をつっこんでしまっているのかしら、とユーフェミアは首を傾げて自問自答した。

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