09.気付いたら、もう遅い 後編
翌日――。
冬の合間の暖かい日差しに恵まれ、邸の裏を流れるギボン川を上流に向かって散策することがジュリアの一存で決まった。邸の者にピクニックバスケットを用意してもらい、要はぶらぶらと散歩をしましょうとのことだ。
大温室を抜け、周囲を見渡すと、丘陵地に建つ邸からは川がべレスフォード邸を中心に半円を描くように流れていることが見て取れた。遠くから見た川沿いには木があるなと思う程度だったが、実際にその場を上流に向かって歩いていくと次第に木は本数を増していき、周囲は森のような様相に変わっていった。
なぜかこの散策にはアシュレイもついてきていた。だが、昨夕とは違い一言も喋らない。不気味なほどの静寂を守り、一定の距離を離れてついて来ており、その上ユーフェミアが誰と話そうとも邪魔をすることはなかった。
別に何か悪いことをしたわけではなかったはずなのに、なんだか居心地の悪さを感じる。だからと言って、無暗に話しかけて返り討ちにされてもたまったものじゃない。おそらくこのピクニックはジュリアが自分の為に計画してくれたことだ。
そう思いつつ折角だから楽しもと思っていたのに、今日は今日でジュリアとばかり話していると、ロジャーの恨めしい視線が突き刺さってくる。仕方なく気を利かせて二人が話すようにもっていくのだが、気づくといつの間にか再びジュリアと話しているのだ。
やむを得ず背後について来ていたディーンのところまで下がり、二人を眺めることにした。
こうして見ると、ジュリアは王女というよりも、どこにでもいる可愛いらしいお嬢様だ。しかし現実には彼女は王女で、ロジャーの想いが叶う日は確実に来ることはないだろう。
森に分け入ると、落ちた葉を踏み分けながら、鳥の囀りに耳を傾ける。
冬とはいえ、頭上は葉で覆われ、隙間から木漏れ日が差し込んでいる。
前を行く二人の上にちらちらと瞬き落ちる影は、それさえ彼らの美貌を彩る道具でしかない。
もともと容貌のいいロジャーとジュリアが並ぶと、まるで一枚の絵のようだった。ただ一つ残念なことは、姉妹のようしか見えないことだ。
冬の木漏れ日にロジャーの豪華な金髪がきらきらと輝く。男だと分かっていても、あまり異性を感じさせず、ユーフェミアも意識したことがない。きっとジュリアも同じ感覚なのかもしれない。
「もったいないな……」
思わずこぼすと、隣を歩いていたディーンが耳ざとく拾う。
「何が?」
「ロジャーよ」
視線を前に固定したまま、少しだけ声を潜める。
ジュリアが王女でないなら、是非ともロジャーを勧めたいほど彼がいい人であることはユーフェミアも分かっている。仕事に対しても真面目だし、ユーフェミアへ回す仕事の指示も適切だ。分からないことに対しても真剣に考えてくれるし、疑問にも一つ一つ丁寧に答えてくれる。いつも穏やかで、腹が立つことはないのだろうかと思えるほどだ。
ただ、ジュリアのことに関しては周りのことが目に入らなくなるようだったが、そこまで想えることも逆に羨ましい。
そのことをディーンに告げると、彼も前を行く二人を見ながら満更でもない顔をした。
「妬けるね。きみがそこまでロジャーを評価しているなんて」
口ではそう言っているが、彼も同じなのだろう。
「ジュリアもロジャーの良さに気づけばいいのに」
王族と労働者階級の者が、こうして身分を気にせず同じ場所で遊んでいるなど、本当は奇跡なのかもしれない。だから、この貴重な時間をロジャーは少しでも多くジュリアと過ごしたいのだろう。彼女と仲良くする自分を妬んでしまうほどに。
ぼんやりと二人を眺めていると、隣から予想外に真面目な答えが返ってくる。
「彼女も気づいるよ。ただ、ロジャーに深く関わっていないし、相手がそれなりの立場でない限り、彼女は頑なに相手を意識しないようにしているんだと思う。それに、なによりも理性が働くならば、ロジャーに魅力を感じていない証拠だろう」
はっきりと言い切った口調は、どこまでも現実的だ。貴族社会において恋愛結婚する方が珍しいことぐらいユーフェミアだって知っている。だけど庶民の中で育ったユーフェミアには、そこまで冷徹に割り切れるものは持ち合わせていない。
「ひどい言い方ね」
「そうかな? 王女である彼女は自分の立場をよく理解しているよ。自分の結婚が政治的な意味合いが強いことも知っているし、当然、周囲もそれを期待している。お互い妥協するなら、彼女はそれなりの相手を選ばなければならない。――そう、まだ、相手を選べるだけいいと思うよ」
かなり生々しい問題を日常会話のごとく言われ、貴族社会の一端にわずかばかり怯んだ。
ユーフェミアの知る結婚は、決して利益だけを目的としていない。ケイトたちのようにお互いに幸せがもたらされるものだとばかり思っていたのだ。
昨日のジュリアとの会話が甦り、思わずムッとする。
「だったら、ジュリアは本当に好きな相手と結婚できないの?」
ジュリアが認めた人は、彼女を受け入れなかった。結果として、そういうこともあるだろう。だが、もし彼女の理性が働かなくなるほどの相手と出会い、その人と想いが通じ合い、それが周囲に認められない人だったら……。
そこにあるのは不幸な結末なのかもしれない。
「だから彼女は相手を選ぶ」
まるでユーフェミアの考えを読んだかのように、ディーンはこちらを見ながら当然のように答えた。それが最良の選択だとでも言うように。
一瞬、言葉に詰まる。
だが、結局はディーンの言葉を受け入れられないと軽く首を横に振った。
「分からないわ」
上流階級と労働者階級。
結局は考え方も違えば、生き方も違ってくるということか。
こうして今は一緒に過ごしているが、やはり根本的なところは相容れることは出来ないのかもしれないと思うと、少しだけ寂しさを感じてしまう。
「たとえば、きみの言うようにこの先ジュリアが理性をなくすほどの人物と出会ったとしよう。しかし周囲は反対している。だが彼女は王女だ。自分の立場も理解している。愚かな行動はしないだろうし、周囲もさせない。そんな彼女にきみは彼女の感情を優先してもいいと言うことが出来るのかい?」
聞かれ、すぐに頷くことが出来なかった。
彼女が一介のお嬢様だったら、言えていたかもしれない。しかし、彼女を取り巻く環境が自分とジュリアの隔たりを厚くしている。遠まわしに彼はジュリアの肩に責任という二文字が乗っているのことを言っている。
まさに考え方も生き方も違うのであれば、自分のこの考えは彼女にとって責任を放棄しろと言っていることになるのではないだろうか。
「すべては彼女が決めることだ」
ジュリアを見ながら、思いのほか穏やかな口調で言う。
聞きようによっては突き放すように聞こえるかもしれないが、そこには紛れもなくジュリアに対する信頼が見えた。彼女の選択がきっと正しいと、彼女自身が幸せになれる選択をするだろうと信じているように聞こえる。
ジュリアが彼を兄だと慕うように、ディーンも彼女を妹のように思っているのかもしれない。
ユーフェミアは気持ちを入れ替え、再度、前を行く二人を見つめる。
王女だろうと庶民だろうと一つだけ分かったことがある。
「結局は、他人のことに口は出せないのね」
「そういうことだね。身分は取りあえず置いておくとしても、色恋に関しては特に個人の問題だからね」
そう締め括ったディーンはなぜかその時、ジュリアを見ながら苦々しい笑みを浮かべていた。
ぶらぶらと目的もなく歩き、お腹がすいたので昼食を取るという、なんとも非生産的な時間の過ごし方に、ユーフェミアは絶対に貴族にはなりたくないと思った。
どうやらこれが貴族的な時間の潰し方らしい。
時間の有効活用を信条に生活しているユーフェミアには到底合わない。なんて贅沢な時間の使い方なのだろう。
小さな森を抜けると再び野原が広がった。しかしそこはもう人の手の入った庭とは違い、自然に伸びた枯草が地面を覆っていた。
ジュリアと相談し、風避けになる木の側でバスケットを広げることにした。
用意されていた昼食はサンドイッチで、具材は分厚い肉や彩りのいい野菜が挟んである。貴族は時間の使い方も贅沢だが肉の厚さも贅沢なのね、と思いつつ、ジュリアと話しながら準備をした。
ボトルワイン一本と、人数分の皿やグラスの入ったバスケットはかなり重かったのではないかと思うのだが、それを一人で運んできたロジャーは、再び溶けそうな顔をしてジュリアを見ている。この邸に来てからというもの、ジュリアの視界に入らないところでは常にその顔だ。
大方準備も済み、一人離れて川辺に立つアシュレイを見る。
ギボン川はそれほど大きな川ではない。川幅は大人の足で十歩もあれば余裕で渡れるほどだ。しかし水量はかなりある。アシュレイはゆったりと流れる水面を眺めて何かを考え込んでいるように見えた。
昨日とは違い、大人しいものだ。
ピクニックにはついてきたが後ろを離れて歩いており、時々ディーンとは話していたようだったが、昨日の夕食時とは違ってユーフェミアが誰と話していても邪魔をしない。
だからと言って、こちらを見る眼差しに含まれる敵意は少しも減っていなかったが。
ディーンやジュリアは、子供じみた当てこすりのようなものだから、と言うが、理由も分からずに自分の暮らす国の王族に嫌われるなどユーフェミアにしてみればたまったものではない。
仲良く、とまではいかないまでも、普通に、接して欲しいと望むのは国民として望み過ぎだろうか。
せめて嫌っている理由ぐらい分かればいいのだが、ディーンたちの言うように子供じみた理由なら、お互いいい大人なのだから表面だけでも友好的に付き合うことも出来るはずだ。
少しだけ唸ると、すぐに決断する。
「アシュレイ様を呼んでくるわ」
昼食の準備が整い終わったのを見て、ジュリアに告げた。
彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに困惑したような笑みを浮かべる。無理をしなくてもいい、とその顔には書いてある。
「大丈夫よ。呼んでくるだけだから」
まさか皆の目の届く場所であからさまな非道な行いはしないだろう。ジュリアたちが一様にこちらを見つめているのを確認してからユーフェミアはアシュレイの元へと向かった。
だが、まさか、ということは起こり得る可能性もあるということで――。
あっ、と思った時には地面から足が離れていた。
一拍後、全身を覆う水の冷たさに、心臓がぎゅっと痛くなる。
どうしてこのようなことになったのか。
事実だけ述べるなら、アシュレイと言い合いをした直後、川に落ちたのだ。
それは状況的に非常に悪かった。
互いに声を荒げていたわけではないが、言い合う声はきっとジュリアたちにも聞こえていただろう。
だけど。
口を噛みしめると、わずかなためらいが現状を招いてしまったことを後悔する。
死ぬかもしれない。
あり得ないと思う反面、脳裏に過った言葉は、一瞬で恐怖を招くに十分だった。
どうすればいいのか直後分からなくなった。怖くて全身が硬直する。沈む勢いが強くて、このまま浮き上がることが出来ないのではないだろうかとさえ思えた。しかもその時、口から漏れ出た空気が泡となって水面に向かっていくのを視界にとらえ、ひどく焦るあまり、愚かにも喘いでいた。
当然、肺に流れ込んできたものは求めるものではなく。
あまりの苦しさに、吐き出そうにも吸い込もうにもどうにもならなくて、ますます頭が混乱する。
嫌だ。怖い。助けて。
それでもとにかく本能が空気を求めるまま、ようやく浮き上がり始めた身体が水面に近づくにつれ、広がったドレスの下衣を必死にかき分けながら水から顔を出した。
「姉さまっ!」
ジュリアの声を耳にしたが、返事を返せるほどの余裕などなかった。
濡れた肌に触れる空気は凍えるほどで、その上求めていたものはむしろ身体が受け付けなかった。
気管に入った水を押し出すように、せっかく吸い込んだ空気が咳と一緒に吐き出され、喉の奥がひりつく。
じわりと目の奥が熱くなる。
それは生理的なもの以外の何物でもなく、胸の中では純粋に、助かったと思っていた。
落ち着いてくると、周囲を見渡すほどの余裕が出てきた。
深さも胸の辺りまでで、思ったより流れは早くない。そのことに安堵したものの、あまりの水の冷たさにどんどん体温が奪われ、思うように手足が動かないことに気づく。
「姉さまっ、こちらに!」
川岸にドレスが汚れるのも厭わず、膝をついて必死に手を伸ばすジュリアが、ゆっくりとだが後方へと向かいつつあることに、自分がゆっくりと流されていることを知った。
まずいな、とは思うものの、水をかく指先が凍るような水温に痺れてくる。
懸命に腕を動かすが、一向に岸辺に近づけない。
誰かが川に飛び込んだ音が聞こえたと思ったが、どうやらユーフェミアが水面に顔を出す間に流されてしまった為か、離れた所で水をかき分ける音がする。
これはまずいかも、と思った時、ふと足に何かが触れた。
背中を這い上がる、寒さとは違う冷え。身体の芯からの嫌悪感に顔が引き攣る。
ふくらはぎをつかむ、はっきりと手だと分かるその感覚に、脳が思考を停止し、全身が拒絶反応を示した。
「――っ!」
声にならない悲鳴が、口から漏れる。恐怖が、身体の動きを止める。
どうしてこんな時に。
まだ日が高い時刻なのに、なぜ、と思う。同時に、水中の暗闇に時刻など関係ないのかと、どこかで納得している自分がいた。
「ディー、ン!」
水中に引き込まれる、と思った間際、なぜだか彼の名が口を突いて出ていた。
どうして彼なら助けてくれると思ったのか。
再び水中に沈んだユーフェミアは、確かに自らの足をつかむ影を見た。
悲鳴すらも喉に張り付き、再び鼻腔に水が入り込む。
今度こそ駄目だと思った。
ただひたすら怖い。
息が苦しくて、喉の奥が痛くて、それでも沈みそうになる意識に檄を飛ばして、水面に揺れる太陽に向けて手を伸ばした。
水底を自由な片足で蹴ろうとしたが、ドレスが絡み付いて上手くいかない。
暴れれば暴れるほど、息苦しさは増していく。
次第に指先さえ動かす力もなくなり、身体中から抜けていく力に、絶望に近い諦めが襲いくる。
意識が薄れていく、その瞬間――。
ふっと身体が浮き上がるような気がした。
「ユーフェミア!」
厳しい声で名を呼ばれて、頬にあたる風の冷たさに本能的に息をした。
喉の奥が詰まった感覚に咄嗟に咳き込むと、生温かい水が口の端を伝い落ち、やっと求めていたものが肺に入りこむ。途端、心臓が激しく脈打ち始める。
うっすらと目を開けると、怖いほど真剣な顔をしたディーンがいた。
まだそこは川の中で、抱えられるようにして彼の腕の中にいた。頬に温もりを感じ、彼の片方の手が添えられていることに気づく。
冷えた身体に足の感覚はすでにない。まだ何かが足をつかんでいるような気がして、目の前のディーンに縋りつく。
「駄目……、早く――」
岸に上がらないと、と告げたいが咳き込みすぎて声がかすれる。
彼は言いたいことを理解してくれたのか、一つ頷いた。ユーフェミアを両手で抱え上げると、岸に向かって歩き始めた。そして小声で呟く。
「大丈夫だ。『彼』がなんとかしてくれる」
濡れた黒い前髪から滴が落ちて、腕に抱えられたユーフェミアの頬で小さく跳ねた。
見上げたディーンの表情は、いつものように余裕が見えず、その瞳は怒気を孕んでいるように見えた。
身体はだるく、身を預けた状態のまま、視線だけでこの原因となったアシュレイを探す。
川岸に立ちすくむようにこちらを見つめ、青ざめるアシュレイに、わずかばかり微笑んでみせた。
あの瞬間、驚きに目を見張りながらも、咄嗟にこちらに手を伸ばしたアシュレイの手をつかまなかったのはユーフェミアだ。昨日の件が脳裏をかすめ、瞬間的に躊躇ってしまったのだ。
ただ、こちらに延ばされた手は、傍から見るとどう見えるか。突き飛ばしたように見えないだろうか。
その為にディーンが怒っているなら、誤解を解かないといけない。
だけど、徐々に瞼が重くなる。思いがけない急激な心労に、意識がついてこない。
「ディーン……。彼、を――責めない、で……」
それだけ力を振り絞って告げると、ユーフェミアはゆっくりと目を閉じた。