09.気付いたら、もう遅い 前編
恨まないけど、いたたまれない――。
出来ることならアシュレイと顔を会わせたくないというのが本音だ。だが、同じ邸で過ごすからには不可能な場合もある。
それが食事時だ。
こちらは客であるため時間をずらすことも憚られる。べレスフォード邸に仕える者たちからしてみれば、ジュリアやアシュレイも客であることに変わりはないのだろうが、彼らは王族だ。その王女からの招待を受けたとはいえ、庶民のユーフェミアが彼女の兄と同席するのを嫌がるなど不敬極まりないことに違いない。
もしそれがたとえ不敬などと思われなくても、わざわざ時間をずらすなど、べレスフォード邸に勤める彼らの仕事を増やすだけだ。それを考えると、ユーフェミア一人が食事の間我慢すれば全て問題なくなるのだ。
カチャカチャと皿にあたるナイフとフォークの音が食堂に響く。
いつかディーンと二人だけで開店祝いをした夕食とは大違いだ。
食事のマナーは見様見真似でなんとかやり過ごしているが、ジュリアたちと比べると申し訳ないぐらいお粗末である。意外だったのはロジャーだ。こういう場に慣れているのかユーフェミアほど手こずっているようには見えない。
手を休め、落とした視線の先はナイフを持つ手に向かう。
昼間、挨拶と称してアシュレイに力を込めて握られた指先を見下ろす。咄嗟にあの場の雰囲気を壊さないよう痛みを隠したが、しばらく赤みが残り、鈍い痛みもなかなか取れなかった。今ではすでに落ち着き痛みもないが、そういう手荒な振る舞いが怖くないわけではない。
警戒心を持って食堂に向かったが、しかし顔を合わせた時は意外にも何もなかった。
いや、なさすぎた。
無言で食事をするわけにもいかず、ジュリアの手前話しかけたが、とにかく無視された。それはいないも同然で、慌ててジュリアが言葉を引き継いでどうにか会話を成立させる始末。
嫌われているという段階ではない。何か気に障るようなことした覚えもなければ、身分をわきまえていないから、という理由でもないのだ。
なぜならロジャーとは普通に会話をしているのだ。しかも談笑までしている。笑っているのだ。
これにはさすがに絶句した。
それ以降、ユーフェミアは食事に専念することにした。
見たことも味わったこともない料理の数々だ。この際、嫌なことから目を背けても誰も文句は言わないだろう。さすが公爵家、と内心褒めそやしながらとにかく料理に舌鼓を打つ。
ちなみに、もう一人の人物については、ユーフェミアは完全にアシュレイと同じ態度を取っている。
話しかけられてもいないも同然。
別に怒っているわけではない。
ジュリアから聞いた話を、少し心の中で整理する時間が欲しいのだ。
この状況に置かれてもなお、ユーフェミアは一歩を踏み出せない。自分でも何を恐れているのだろうと思うぐらいだ。
考えられるのはジュリアが言っていた、話は複雑で全てが一つに繋がっているということ。それが、ユーフェミアでなければ彼女に協力できないということ。
とても嫌な予感はする。
知らなければ火の粉を払えないと思ったが、きっと知ってしまったら泥沼から抜け出すことさえ出来なくなってしまう。
そんな予感だけは人一倍強く感じる。
きっとディーンもそれに関わっている。彼のことを知ると言うことは、必然的にジュリアの目的に近づくことだ。
取り留めもないことをぼんやりと考えていた為、完全に手が止まっていた。正面に座るディーンがこちらを見て何かを言いたそうな様子に、諦めて息を吐く。
「何?」
視線を合わす勇気がなく、葡萄酒の注がれたグラスに手を伸ばす。
あまりお酒を飲んだことはなかったが、思ったよりも飲みやすく、頭の奥を麻痺させる感覚が、不安な感情を鈍らせる。
「いや、少し飲み過ぎのようだけど、そろそろ違う飲み物にした方がいいんじゃないか?」
心配する素振りに、カチンとくる。一体、誰のせいでこんなにも不安定な状況に陥ったのか。
「あなたに心配――」
「カーティス!」
いわれはない、と続けようとしたが、かぶせるように遮られ、またですか、と苛立ちが増す。
先程からジュリアやロジャーと話そうとするたびに、アシュレイが割り込んで来るのだ。相手が王子だと思うと譲るしかない。
どういう嫌がらせだ、と思いつつ口を閉ざした。それがアシュレイの思惑だと知りつつも。
給仕が空になったグラスに葡萄酒を注いでくれ、ユーフェミアはためらいもなく喉に流し込む。
鼻に抜ける香りはかすかに果物の甘さを残し、ささくれ立った感情をやわらかく包み込むと、同時に愉快な気分にしてくれる。
「ユーファ姉さま、大丈夫ですか?」
目を丸くしたジュリアが、隣から心配を滲ました声を掛けてくる。
「ふふ……。美味しいわね、このお酒」
胃の中も熱いが、頬も熱い。
これが酔っぱらうということだろうか。マナー違反かもしれないが、少し席を外した方がいいような気がしてジュリアに断りを入れた。アシュレイの視線が痛すぎて、いたたまれない。これは今後の対策を練らないと、と思いつつ席を立つ。
が、ふわりと視界が揺れた。
軽い眩暈のような感覚に、咄嗟に椅子の背もたれをつかむ。
これは、まずい。
軽く息を吐くと、出来るだけ何事もなかったように背筋を伸ばす。
いくらいたたまれないからと言っても、お酒を飲み過ぎて失態を犯すのは、アシュレイに更なる弱みを見せることになる。なんだかそれはかなり腹立たしい。
可能な限り真っ直ぐ歩く努力をしながら、ユーフェミアは食堂から事実上、逃げ出した。
しかしながら、食堂から出るとすぐに壁に手をついた。
思ったよりも目が回る。
今はまだ気持ち悪さはないが、きっと動くと酔いが回って気持ち悪くなるだろう。
そのまま壁に寄りかかり、軽く息を吸い込む。
食堂の外は空気が冷え、熱くなった頬に心地いい。
「馬鹿みたい……」
ぽつりと呟く。
何の為にここに来たのか。単にジュリアの話し相手ではなかったのだろうか。
だが、実際に来てみたら彼女の兄には嫌がらせを受け、ジュリアやディーンも何か思惑があって今回の招待を画策したようで、居心地が悪い。
本音はもう帰りたい。
貴族は嫌いだ。関わりたくない。
だけど、ジュリアは嫌いにはなれない。何かに利用しようとしているのかもしれないが、彼女から向けられる気持ちは偽りではない。純粋に慕ってくれていると信じたい。
吐く息が酒臭く、最悪だ、と呟いた時、食堂の扉が開いた。
「大丈夫かい?」
全く、どうしてこういう時に限ってこの人が来るのか。
「問題ないわ。ああ、ごめんなさい。お酒臭いわ」
目の前の空気を手で払い、苦笑する。
「歩ける?」
ゆっくりと近づいてくるディーンに、目の前の空気を払ったその手を更に横に振る。
「今は無理。動くと気持ち悪くなりそう」
正直に告げると、ディーンは肩をすくめてユーフェミアの隣に立ち、同じように壁に寄りかかる。その瞳はどこを見つめているのか。視線を追うと、暗くなった窓の外に向けられていた。
ユーフェミアは頭の中にかかる靄を払いながら、言葉をつかみ取る。お酒を飲んでいるからだろうか、いつもより気安く感じてしまうのは。
「ねえ、本当のあなたはどちらなの?」
昼間に聞いたディーンの名前は、どちらも彼のものだ。それは分かっているが、どうして使い分けているのか。聞いてしまうのは簡単だが、聞けば一歩を踏み出してしまう。踏み込んでしまう。それは彼らの思惑に近づくことになる行為だと知りつつ、それでも感情に従ってしまう。
「どちらとは?」
「貴族と商人」
カーティスとディーン。
彼はどちらで呼ばれたいのか。
「……きみにはディーンと呼んで欲しいな」
向けられた眼差しはどこか暗い。
「それは商人として向き合いたいということ?」
ユーフェミアに最初に告げた名を望むのであれば、なぜこの場に連れてきたのか。貴族の邸に王族の人間。周囲を上流階級に囲ませ、一体どうしたいのか。
それとも単に、貴族としての彼をユーフェミアが嫌っていることを知っているからだろうか。
「さて、ね……。そんなことより、かなり酔ってるね」
「誤魔化すの?」
再度の問い詰めに、彼は小さく笑っただけだった。
その瞳はユーフェミアから逸らされると、窓の外へと向かう。何を考えているのか、珍しく表情までも暗い。
だからか。それ以上追求してはならないような気になり、ディーンと同じように窓の外を眺めた。外は暗く何も見えない。闇がただ広がり、一点の灯りさえない。まるで自分の置かれている状況のようだった。
「アシュレイ……様は、いつもああなの?」
自分だけが嫌われていると思うのは、何となく傷つく。一般庶民に伝わってくる王族の姿など、尾ひれがついた眉唾物だということが良く分かったが。
「いや、そんなことはない――と言ったらきみを傷つけてしまうか。……きちんと理由があるにはあるが――ちょっと、子供じみているとは思うんだけどね」
苦笑を洩らすディーンに思わず向き直った。
「なによ、それ」
聞き捨てならない台詞に、感情が高ぶる。お酒のせいだろうか。うまく感情が制御できない。
「一体、どういう理由だって言うのよ」
嫌な思いをしたのだ。それぐらい聞いてもいいだろう。
しかしディーンは、挨拶の為にアシュレイに取られたユーフェミアの手を取ると、軽くその手――指先を撫でた。まるで、昼間の痛みを知っているかのように。気づいていたかのように。
「取りあえず、私としてはきみが彼に好感を持たなかっただけ嬉しいんだけどね」
顔を覗き込むように見つめられ、咄嗟にその手を振り払う。
「またそうやって誤魔化す!」
「……本当に、酔ってるね。動けるようなら、もう部屋に戻った方がいい。送っていこう」
どうしても理由を話そうとしないディーンについ苛立ちをぶつけてしまう。回りまわって彼が悪いのだと、理由づけて。こんなところに連れて来られて、こんな目に会うなど理不尽だ。
「結構よ!」
きっぱりと拒否すると、彼は意外にもにっこりと笑んだ。それはどこか楽しげで、黒い。
「いいのかい? この邸はかなり古いけど、本当に大丈夫?」
その意味するところを察して、一気に周囲の気温が下がったような気がした。
「……もしかして、いるの?」
どこ吹く風というようにしれっとした顔をして、ディーンはこちらを見下ろすとほくそ笑んだ。
「――いるね」
はっきり告げられ、頬が強張る。
食堂に来る前はまだ日暮れ前だったが、今はもう窓の外は完全に夜に閉ざされている。
冷えた廊下が、別の意味でひやりとする。
遠くで物音が聞こえる。足音が響く。それが使用人のものだと分かっていても、ここが見知らぬ場所というだけで恐怖が増す。
周囲に視線を走らせながら、知らずディーンに寄り添っていた。
「きみの方から抱きついてくれるなんて感激だね」
決して抱きついているわけではない。少しだけ彼の方に寄っているが。
馬鹿なことを、と思いつつも、視界の端に過る影に乾いた笑みを漏らした。
冗談じゃない。いつまでもこんなところに留まっておくなど言語道断だ。
非常に不本意だが仕方がない。揺らぐ視界に瞬きながら、思いをそのまま声に滲ませ、彼を見上げた。
「ディーン……」
果たして、揺れているのは自分なのか、ディーンなのか。
未だ酔いは冷めない。
ユーフェミアの言いたいことを汲み取ったらしい彼は、仕方ないなと呟きながらも、どこか嬉しそうに腕を伸ばしてくる。その腕は檻のようにユーフェミアに触れることなく囲いこみ、身に触れる空気の温度がわずかに上がったような気がした。
「もう少しこのままでいたかったが、そのような表情をされると、まるで理性を試されているような気がするね」
そう言いながらも、互いの身体の間に出来たわずかな距離は縮まることはなく――ユーフェミアは身体に回された腕とその言葉に眉間に皺を寄せて見上げた。
その意味するところが決して分からないわけではない。これでも一応、嫁き遅れと言われる年齢だ。だが、軽々しく口にしていい言葉ではないはずだ。相手にするほど心安い間柄でもないし、自分がそのような対象になるとも思えない。
背中に回された腕を軽く押しのけると、簡単に檻は開く。ユーフェミアは身体の向きを変えると、一歩離れて目線で促す。すると、性懲りもなく片手を取られた。
一瞬振り払うべきかどうか悩んだが、すかさず腕自体を支えるようにぐっとつかまれ、真っ直ぐ歩けない自分の為だと気づいた。結局、おぼつかない足ではそれに頼るしかなく、ユーフェミアはふらつく頭を空いた片手で軽く押さえると、やっとその場から動きだした。