08.いつか余裕ぶったその顔を驚かせてやろう 後編
ジュリアが王女であるとか、ディーンが嘘をついていたかもしれないという色々な葛藤はばっさりと切り捨て、むしろ怒りを込めて目の前の王女を見つめた。
ジュリアはあの後ひたすら謝り続けた。王女らしさは微塵も見せず、むしろ普通の少女のようにユーフェミアの顔色を窺いながら説明をさせて下さいと言ってきた。
一方、当のディーンは何かをジュリアに小声で告げると、ロジャーを連れてさっさとその場から姿を消したのだ。事もあろうに王女であるジュリアに全てを押しつけて。
現在、場所を居間から移し、べレスフォード邸の裏庭にある大温室にいる。
大、とつくだけあってユーフェミアの家が何軒入るだろうというぐらい大きい。天井部分の高さは、普通の家の三階はあるだろうか。白く塗られた骨組とガラスで作られた囲いの中は温かく、見たこともない植物に溢れていた。
状況がこのような時でなければ、ゆっくり見て回りたかったのだが、気分はそれどころではない。
温室の一角に設けられたベンチに腰かけて、隣に座る王女を見やる。
きゅっとスカートをつかみ、うつむき加減に思い詰めた表情で地面を見つめるジュリアを、王女さまと呼んだ方がいいのだろうかと迷う。逡巡した後、半分は嫌味を込めてそう呼ぶと、今にも泣きそうな顔をした彼女に呆気ないほど簡単にほだされてしまった。
ずるい。
「ユーファ姉さまをこちらに招待したのは、実は折り入って協力して欲しい事があったからなのです」
目元に滲んだ涙を拭いながら、いきなり話し始めようとしたジュリアを慌てて止める。
王女からの協力を簡単に引き受けていいとは思えない。王女という身分なら、どのようなことも簡単に出来てしまうのではないだろうか。それなのにわざわざ庶民のユーフェミアに協力など――しかも折り入ってとは怖すぎる。
じっと彼女の様子を窺いながら、まず確認させてもらうことにした。
「私に?」
「はい」
「他の人じゃ駄目なの?」
聞きながら、何となく駄目だろうという予感はした。
「ユーファ姉さまじゃないと駄目なのです」
両手を胸の前で組むジュリアは縋るようにこちらを見つめる。潤みの残る瞳で、そのような表情をされると、無条件に何でも聞いてあげたくなってしまうではないか。
まずいと思いながら、慌てて視線をそらす。
王女に協力など庶民のユーフェミアが役に立てるわけがない。まず有り得ないだろう。それとも、これは命令なのだろうか。
ふと思い立ち、顔を上げる。
「――拒否権はあるの?」
もしもないと言われようものなら、すぐにでも退出させてもらうつもりだった。
「……無理強いは致しませんわ」
答えたその口調は硬い。表情も同様で、ユーフェミアはしばらく考えた後、諦めて息を吐き出した。
「とりあえず話を聞くだけ。でもその前にディーンが先程呼ばれた名前と、あなたたちの関係について教えてくれる?」
どうしても王女である彼女に協力を乞われることに納得できなかった。
しかしそれ以上に、彼らの関係は気になっていたのだ。子爵である彼と、王族である彼女たち。気軽に名前を呼びあう関係は、親密さを窺わせる。
一体、どのような知り合いなのか。聞きたくはないが知ると決めたのだ。巻き込まれるなら知っておいかなければいざという時逃げられない。
ジュリアは少し考えた素振りを見せた後、口を開いた。
「……話はとても複雑なのです。すべて繋がっていると言った方がいいのですけど――……分かりました。ユーファ姉さまがディーンと呼ぶあの方のことからお話します」
空色の瞳の色を濃くしたジュリアに、ユーフェミアは頷いてみせた。
「つまり、彼の本名はカーティス・ディーン・ラムレイで間違いないのね?」
口に出して彼の本名を辿っていく。それはとても奇妙な感覚だった。名前一つの事なのにすごく遠い人に感じてしまう。
胸に生じた違和感に首を傾げつつ、やはり嘘をつかれるのは気分のいいものではないからだと認識する。騙されていたと一度感じてしまうときっと些細なことでも彼を信用出来なくなる。仕事のことを考えると、やはり信頼関係が崩れるのは良くないだろう。
しかしよく考えてみれば、イヴァンジェリンやロジャーが彼をためらいもなく、まして言い間違える事もなくディーンと呼んでいたのだから嘘ではないことぐらい分かって当然だったのだが。
ジュリアの話によると、ディーンはラムレイ家に養子として引き取られたらしい。とは言っても、彼と養父とは血の繋がりがあり、ディーンの実母の兄がその養父にあたるという。養父――つまり伯父から与えられた名前が、カーティスというものだったのだ。
どういう理由から名前を使い分けているのか。それはジュリアにも分からないらしい。ただ察するに、貴族社会ではカーティスを名乗り、商売をする場ではディーンで通しているのではないか、とのことだった。
だからジュリアやアシュレイがカーティスと呼ぶのも間違いではなく、ユーフェミアがディーンと呼ぶのも間違いではないのだ。
さらにジュリアは説明を続けた。
「カーティスは兄の遊び相手として王宮によく連れて来られていたのです」
「アシュレイ殿下の?」
「いえ、もう一人の兄、ブライアン兄さまのです」
つまり、王太子、ということか。
遊び相手という事は、子供の頃からの知り合いなのだろう。
「幼馴染?」
王族に対してその言葉が適切なのか迷ったが、ジュリアは頷いた。
「わたくしやアシュレイ兄さまにとって、カーティスは兄のようなものなのです」
そう言いながらも、ジュリアの瞳に影が走ったことにユーフェミアは気づかなかった。
ただ、今回のこの場で、彼の立場を追々説明するつもりだったらしい。最初からユーフェミアに気まずい思いをさせるつもりではなかったのだとジュリアは何度も繰り返した。
それには少々面食らう。
別に気まずい思いはしていないし、ディーンが何かを隠していることは分かっていたので、そこまでのショックは受けなかったが。
……ショック?
それはない、と軽く頭を横に振る。
そんなユーフェミアの行動に、ジュリアは怪訝な顔をする。それにもまた頭を横に振り、ショックでないなら何だろう、と考える。
胸の中に湧き出すこの感情はどこか後ろめたい何かを訴える。あえて名前をつけるとするならば、それは多分、ディーンに対する罪悪感だ。
知らなければならないと思ったのは確かだった。
だが単純に知ってやろう、と思った自分はなんて図々しい人間だったのだろうとも思う。彼が本名を告げないことに、知られたくない理由がそこにあるとなぜ考えなかったのか。
実際にジュリアがその背景にある事情を話してくれたわけではないが、彼女の口ぶりから何かがそこに見え隠れすることぐらいユーフェミアにだって分かる。どうして伯父に付けられた名前を厭うのか。もちろん、単なる想像でしかないが。
もしかしたら立ち入ったことを聞いてしまったのかもしれない。
知るという行為は、相手に踏み込むということだ。彼らの内面に関わり、相手に対する責任も生じてくる。不用意な発言をしたとしても、知らないからこそ許されることもあり、知っていて見て見ぬ振りをするなど、単なる好奇心を満たした結果でしかないだろう。そう考えると、ユーフェミアが自らの為に相手を知ろうとしていることは、とても無責任なことなのではないのだろうか。
必要以上にユーフェミアに踏み込んで来るディーンは、黙っていることはあっても多分嘘をついているわけではないのだろう。ある意味、誠実とも取れる。では、自分はどうだろう。彼らのことを知っても逃げ出さずに正面から向き合うことが今後もできるのだろうか。
思わず口を片手で覆うと、無理かも、と呟く。
正直、自信はないし、知ることに対しても途端に気が引けてしまう。
自分はディーンに対して無関心でもあったが、知らないことを嵩に来て、彼の好意に甘えていただけのような気がする。
そう考えると、確かに気まずい。
沈んでしまったつもりはなかったが、黙り込んでしまったユーフェミアを気づかい、ジュリアは話を打ち切った。
「着いて早々にこんな話をしてしまって、お疲れになりましたよね? 本当はまだまだお話しすることはあるのですけど……時間はまだあることですし、お部屋にご案内しますわね」
心配を表情に滲ませるジュリアは、先に立ち上がるとベンチに座ったままのユーフェミアに手を差し伸べた。
まるで立場が逆転したその行動に、なぜだか苦笑が込み上げる。
「王女さまって、もっと高飛車なのかと思ってた」
彼女の手を握りながら立ち上がると、大きな目を更に大きくした彼女がすぐに笑みを深くした。
「そんなことないですわ。わたくしだって分をわきまえておりますのよ?」
「分をわきまえるって?」
ユーフェミアが目を瞬かせると、耳元に唇を寄せ、小さく呟いた。
「これでも失恋したことだってありますのよ」
そう言って、悪戯っぽく笑ってみせる彼女に、もうその残滓は見えない。それはすでに過ぎ去ったものなのだろうか。
確かに痛みを知ったからこそ学ぶこともある。それは、ユーフェミアにも心当たりがある。
だが、恋愛に関してジュリアは別だと思っていた。世の男が彼女を前にして彼女からの好意を断るなど考えられない。どう考えても断るのは彼女の方だろう。
「もったいないわ。ジュリアを振るなんて。その人は見る目がないわ」
心からの呟きだったが、ジュリアは首を横に振った。
そして静かな目をすると、その人のことを思い出しているのか、とても大人びた顔を見せた。
「彼の心にずっと誰かがいたことは知っていましたわ。もちろん権力で彼を縛ることも可能でしたけど、それでは残るのは虚しさだけですわ。それはわたくしの望むものではありませんもの。それに、王女であるわたくしを正面切って振ったのです。大した人物だと思いません?」
だから彼に恋をした自分の目は確かだったと、彼女は高飛車に言って見せた。それは強がりだと分かってしまったが、ユーフェミアは素直に頷いた。
しかし彼女は突然何かを思いついたようにパッと顔を輝かせると、今度はユーフェミアの手を引いて再度ベンチに腰を下ろす。
「次はユーファ姉さまの番ですわ」
「はい?」
彼女につられて座りなおしたが、意味が分からず問い返すと、ジュリアは興味津々といった様子でこちらに身を乗り出してきた。
「わたくし、憧れておりましたの。女同士での恋の話!」
「ええっ!?」
突然のことに、視線が泳ぐ。
人に話せるような恋愛経験は、はっきり言ってしていない。二十五にもなって、だ。
笑って誤魔化そうとしたが、彼女の瞳に宿る期待の強さに、がくりと項垂れる。
まさか王女さまとこのような話をする破目になるとは。
もう一度、ちらりとジュリアの顔を窺ったが、にっこりと笑いながら今か今かと待っている。
これは話さなければ納得しないだろう。それに、王女さまの失恋話を聞いて、ユーフェミアが話さないのは公平ではないような気がする。
深々と溜息をつくと、一応念を押す。
「面白い話ではないのよ?」
「人の経験談は勉強にもなりますわ」
からりと告げられ、覚悟を決める。
本当に、面白い話ではないのだ。
「――十八歳の頃よ、その人と出会ったのは。その頃、私は職人としてまだまだ駆け出しで、仕事も全くなかったわ。でもね、本を作る過程って沢山の人が関わっているのよ。伝手を頼ってどうにか仕事を回してもらったりしていたの。彼もそうだった。画家の卵で、画家としてまだ身を立てられないから、写字をした後の装飾を請け負っていたのね。仕事の流れから、私と彼はよく会うことが多かったのよ」
そこまで喋って、一息をつく。
今では完全に過去の話なのだが、話し出すとあの頃のなんとも言えない甘酸っぱい感情を思い出す。
「何となくなんだけど、もしかしたらこの人と将来は結婚するのかもしれないと思っていたわね。決して燃え上がるような想いだったわけではなかったけど、とても居心地のいい関係って言えばいいのかしら。二人でいると落ち着けたわ。だけど一年が過ぎた頃、あの人の画家としての才能を認める人が現れたの。その人に彼は留学を進められて――それで、おしまい」
「え?」
あまりにも呆気なかったのだろう。きょとんとしたジュリアに、軽く笑って見せる。
「別に勉強にもならない話でしょう?」
忘れたつもりだったのだが、未だに苦い思いが込み上げてくる。
本当はまだ続きがあるのだ。
互いに待つとも待ってくれとも言わなかった。勉強する彼の邪魔にはなりたくなかったし、その頃からナフムの体調が思わしくなかったからだ。ただ、彼が出立する時、待つのが当然のような雰囲気だった。最初こそ手紙のやり取りはしていたが、次第に疎遠になり、ユーフェミアもナフムの看病の為にそれどころではなくなって、気づいた時には彼が帰ってくるはずの三年はとうに過ぎていた。
帰ってきたとの連絡もなく、突然街中で再会した時、彼の傍らには彼の子供を抱く女性がいた。その時、完全に終わったのだと気づかされた。
決して聞いていて気分のいい話ではない。後学の為にという彼女に、わざわざするような話ではないだろう。
もしも、この先彼女が同じ状況になった時、不安を煽るだけだ。とは言っても、王女さまにそのような状況がくるとは思えないが。
「ユーファ姉さま?」
心に湧き出してきた痛みを隠すように、先にベンチから立ち上がると、今度はユーフェミアが彼女に手を差し出す。
「部屋に案内してくれるのでしょう? どんな部屋か楽しみだわ」
半ば強制的に話を打ち切る。
ジュリアはどこか納得がいかない様子だったが、ユーフェミアの態度に何を感じたのか。諦めたように手を取ると、立ち上がった。
そして笑顔で爆弾を落とす。
「分かりましたわ。案内します。ですけど、私の部屋の隣とカーティス様の部屋の隣。どちらがよろしくて?」
さらりと笑顔で言ったジュリアに、当然、彼女の名前を告げたのだった。
ジュリアが王女だと知り、呆然としてしまったユーフェミアをジュリアに任せた後、ディーンはアシュレイの後を追うように居間を出た。
彼がいるだろう部屋に目星をつけ、扉を開けたその場にまるで待っていたかのようにチェス盤を前にして座るアシュレイに厳しい眼差しを向ける。
「彼女に何をした?」
挨拶の為にアシュレイに手を取られたユーフェミアの肩が、ある瞬間強張ったことを彼女の肩に置いたこの手が感じ取った。
ユーフェミアは咄嗟に空いた片方の手で隠していたが、その指が赤みを帯びていたのを目に留めた時、彼女にとってやはり思わしくない事態になってしまったかと、わずかばかり気が咎めた。
「何をしたって? 挨拶だろう」
悪びれもしないその口調に、彼が幼い頃に偶発的に知ってしまった件を未だ引きずっているのだと諦めに近い心境で再確認した。日頃の彼はもっと落ち着いているが、今は全身から刺々しいものを放っている。
ジュリアでさえもう割り切ってしまったというのに、いつまで引きずっているのか。
アシュレイの気持ちも分からなくはないが、今回のようなことを見逃すことは出来なかった。これから先、ユーフェミアの協力を得る為ならば、わずかな障害でも取り除かなければならない。でなければ、今までの苦労が水の泡になる。
「挨拶で女性にあのような手荒なことをするのはどうかと思うよ。弱い者いじめと変わらないだろう」
「つい力が入ってしまっただけだろう」
自らの行動を正当化するその態度に、ディーンは目を細めた。
いい大人になってまで、まだそのような子供じみた言い訳をするのか。
「彼女のあの手は、彼女の生活を支える大切な商売道具だ。もしも使い物にならないようなことになれば、あなたはその手で一人の国民の生活を壊したことになるんだ。人間としてあるまじき行為だと思わないのか」
王族だからといって、何をしても許されるわけではない。
女性が一人で生活をしていくのがどれほど大変なのか。ユーフェミアを見ていたらよく分かる。それに彼女が培ってきた職人としての経験が役に立たなくなった時、彼女の矜持など脆く崩れ去ることなど目に見えている。その時、彼女はどうやって生活していくのか。労働者階級からさらなる低みへと落ちるしかない。
もう少し自分の立場を深く考えてから行動して欲しいと、常々この第二王子に対しては思う。
彼女が筆跡を生かす仕事をしていることぐらい知っているのだから、考慮に入れてもいいはずだ。どのような理由があるにしても人一人の生活を――国の基盤を支えている彼女たちの生活を、王族や貴族が脅かすことがあってはならない。
アシュレイはどうやらその言葉でやっとハッとしたように、悔恨を淡褐色の瞳に浮かべた。
こういう自らの非を認める素直なところは昔から変わっていない。ディーンは取りあえず、もう一釘さす。
「あなたも王族として、もう少し柔軟な考え方をするべきだろう。それと否定的な感情を剥き出しにするのは控えた方がいい。徒に敵を作りかねない」
それは彼女に対してだけ言えることではない。自らの些細な言動で、取り返しのつかなくなった人間を幾人も見てきているのだ。
内心、彼女に対して少しでも風当たりが弱まれば、と思ったのは事実だ。自分たちの目的を知っているアシュレイならば、この件に関しては遠まわしに自分が敵になる可能性もあることを告げたつもりであったのだが。
しかし――。
「確かに、私もあの女が生きることまで否定したいわけではない。……分かった。手荒な真似はしないよう気をつけよう。だが、私があの女を気にくわないことに変わりはない」
きっぱりと告げるアシュレイの根は深い。これはまだ一波乱あるな、とディーンは溜息をこぼした。