08.いつか余裕ぶったその顔を驚かせてやろう 前編
聞いてない――。
どうして二人の名前を聞いた時に思いつかなかったのだろうとあまりの迂闊さに地団太を踏みたかった。
とにかくこの場から逃げ出したい、というのがユーフェミアの本音だ。
まるで王女様みたいね、と言った自らの言葉が頭の奥で反響している。もう少し真剣に考えていればこのような事態に直面しなくても済んだのかもしれない。
知っていたら……当然仮病を使ってでも断ったに決まっている。
クライトンの外れに建つべレスフォード邸は、遠目からでもその大きさは見て取れた。
邸は、ゆるく弧を描いたギボン川からわずかに内側に入ったなだらかな丘の上にあった。岸辺から邸まで敷き詰められた芝生は冬場でも枯れないのだろう。この灰色の景色の中、緑が一際目を引いている。
馬車には当然ディーンとユーフェミア、そしてゆるみきった顔を隠そうともしないロジャーが乗っていた。
この度の招待の話を聞いたロジャーは、今回の主賓がユーフェミアだと知ると、朝一番に骨董品店にやって来るやいなや、土下座せんばかりの勢いで連れて行ってくれと頼み込んできたのだ。もちろんユーフェミアとしても知り合いは多い方が心強い。二つ返事で承諾すると、喜色を露わにしたロジャーは見るからに舞い上がり、今にもユーフェミアの手を取って踊りだそうとしたほどだった。
まあ好きな女性に会えるなら浮かれるのも当然だろう。
一方ユーフェミアは準備をする段階になってさえ、届けられたドレスが目に入るたびに複雑な心境に囚われていた。
先日、馬車でディーンから言われた戯言さえなければ、ある意味ここまでの抵抗はなかったのかもしれない。
彼の為に着飾る――。
もちろん、そんなつもりは毛頭ない。
常識として、贈られたドレスを贈った本人の前に着て立つという行為がどれほど勇気のいることか。それが恋人とか家族なら意味のあることだと思うのだが、しかし相手はディーンだ。彼の本心がいまいち分からない上、ユーフェミアとしてもディーンのことは雇い主以上の感情は生憎持ち合わせていない。
よくよく考えれば、ドレス自体受け取るいわれもなかったのだが、自分に合わせてあつらえたと思うと、悲しいことに貧乏人の性か、今更返すのも勿体ないという思いの方が先に来てしまったのだ。我ながら現金なものだ。
悩んだ末、かなり不本意ではあったが、その中でも最も大人しい色で、なおかつデザインも大人しいものを選んだつもりだ。これはドレスではなく仕事着だと言い聞かせながら袖を通してみたものの、襟元や袖口にあしらわれたレースをどこかで引っかけないかと気が気ではなかった。こんなにもひやひやする仕事着は本来有り得ない。
しかしいざ着てみると、浮き立つ心は押さえられなかった。新しい、それも今まで着たこともないようなドレスだ。髪もいつもとは違うようにもっとお洒落に結い上げてみたくなるのが女心と言うものだろう。ちょっと試しに編み込んだりしてみたが、途中で鏡をのぞいて早々に諦めをつけた。結局どんなに着飾っても鏡の中の自分が急に美人になるわけではないのだから。
べレスフォード邸に着くまでの約一時間。ある意味、地獄だったと言ってもいい。
ロジャーは蕩けきった顔のままジュリアの素晴らしさや会える喜びを語り、ディーンもユーフェミアが着ているドレスを見て嬉しげに頬をゆるめると、終始賛辞の言葉を述べていた。
何の拷問だ、と思いつつ、当初は気乗りのしなかった今回の招待も、むしろ早く目的地に着かないかと思わずにはいられない程だった。
しかしジュリアの出迎えでべレスフォード邸に踏み入った時から、ユーフェミアははっきり言って、男二人の存在を完全に忘れ去った。
そこは紛れもなく非日常の世界だった。
目に入るものすべてに圧倒された。
今まで仕事で貴族の邸に足を踏み入れたことは何度もあったが、大抵が玄関入ってすぐの広間までだった。それでも今まで見てきたどの邸とも違う。物の良し悪しは分からないが、細部にわたる細工の一つ一つから違う。
床は白と黒の二色で幾何学模様が描かれ、目の錯覚だろうか。見た目よりも奥行きを感じる。左右の壁はシンプルに白一色。しかし壁際には古の神々らしき彫像が飾られ、全体的に上品で、派手さがないぶん繊細さが際立つ。天井も白一色。しかし小さな浮彫が描かれ、窓から入ってきた明かりがそこに陰影を出し、その緻密さがくっきりと浮かび上がる。
ありとあらゆる物に目を奪われるユーフェミアにジュリアは一つ一つ丁寧に説明をしてくれながら――半分以上よく分からなかったが――居間への扉をわざわざ開いてくれて、さらに中へと促した。
一歩踏み出したユーフェミアは、思わず目を見開かずにはいられなかった。
どのように表現したらいいのだろうか。今までのシンプルさと違って、彩りが目にも鮮やかだった。
床は顔が写るのではと思えるほど磨かれ、壁に添うように天井まである丸みのある柱は、緑がかった大理石だ。部屋の中央には、深みのある艶やかな光沢を放つ木製のテーブルとソファが置いてある。
本当にここで人が暮らしているのだろうか。あまりにも日常からかけ離れ過ぎていて、まるで別世界へと迷い込んだような気分になる。
店にある骨董品が高級品だと思っていたが、こうして見ると確かにあれは骨董品だ。良質なものではあるだろうが、目の前の部屋に置かれている家具と比べるとその差が歴然だ。
ただもう溜息しか出てこない。
あまりにも見惚れていて、だからそこに先客がいることに気づかなかった。
風景の中に溶け込むように、男はくつろいだ格好でソファにふんぞり返っていた。
まだ若い。ジュリアとさほど変わらないように見える。
しかし、男と視線が会った瞬間、ユーフェミアは思わずたじろいでしまった。
何なの……。
最初に湧き上がった感情は不快感としか言いようがなかった。無遠慮に見つめてくる眼差しは、こちらが気づいたからといって逸らされることもない。表情さえ変わらないことに、次第にそれは畏怖へと変わっていく。
だがすぐに、その瞳に蔑みが含まれていること気づいた。冷ややかで遠慮がない。上から下まで一通り眺め、目を眇めた男から突き刺さすような敵意を感じ、ユーフェミアは思わず一歩下がっていた。
珍しい淡褐色の瞳をした男は、身動きの出来なくなったユーフェミアを見て、やっと表情を動かした。それは嘲るような暗く澱んだ笑みだった。
「何を突っ立っているんだ。もしかして挨拶の仕方も分からないのか?」
眼差しと同じく冷ややかで、どこまでも高慢な物言いに、まさかと思う。
思い当たる人物は一人しかいない。これが話に聞いていたジュリアの兄なのだろうか。
ならば挨拶をしなければならない、と頭では思うものの、上から押さえつけるような圧迫感に喉元が締め付けられる。
「あ、の――」
ふいに、かつて母と訪れた屋敷でよく向けられていた視線を思い出した。当時は母の背に隠れてやり過ごしていたが、今は遮るものが何もない。
見下げるような、馬鹿にするような、虫けらを見るような眼差し。
どうしてそんな目で見るの、という疑問と、とにかく早く何か言わなければ、という思いで気ばかりが焦る。だが焦れば焦るほど言葉が出てこない。
挙句、息苦しさまで感じてしまい、じわりと嫌な汗が全身に滲んだ。
部屋の外でディーンと何かを話していたジュリアが、ようやく異常に気づいたのはそんな時だった。慌てたように部屋に飛び込んでくると、すぐに事態を察したのか二人の間に立ち塞がる。
「アシュレイ兄さま! ここで何をなさってるの!?」
ジュリアが庇うように一歩前に出てくれなければ、ユーフェミアはもしかすると倒れていたかもしれない。極度の緊張のあまり、知らず息を止めていた。
華奢な身体が視界を遮ると、止まっていた時が動き出す。
気づくと、全身が小刻みに震えていた。
正直、恐ろしかった。まさかあのような視線に再び晒されることになるとは思いもしなかった。
何とか息を整えると、意識を正面に向ける。だが、ふいに肩をつかまれハッとした。背後を振り仰ぐと、そこには真剣な顔をしたディーンが立っていた。視線はジュリアを越え、ソファに向けられている。
「もう到着していたのか」
「なんだ。いたら悪いのか?」
男は余裕のある口調で、十分過ぎるほどの刺を含ませていた。
「もう、兄さまっ。いい加減になさって! それが初対面の女性に対する態度ですの!? そんなだから女性にモテないのです!」
腰に手を当てて堂々と言い放ったジュリアに、場の空気がふと変わった。わざとなのか、どうなのか。目の前にはジュリアの背中がある為、彼女の兄――アシュレイがどのような表情をしているのか分からない。
最初から機嫌が悪かったのかいつもなのか知らないが、もっと不機嫌になってしまったのではないだろうか。いくら妹でも、今のような言い方をされたらやはり怒ってしまうだろう。
もしもユーフェミアが男でジュリアにこうもはっきり言われたら逆に落ち込んでしまうかもしれないが。
内心ハラハラしながらアシュレイの出方を窺っていたが、心配は杞憂を終わった。
アシュレイの方から小さな溜息が聞こえると、ソファの軋む音がしてジュリアの向こうに立ち上がった彼の姿が見えた。
淡い金色の前髪を鬱陶しそうに掻き上げると、ゆっくりとテーブルを回ってこちらに近づいてくる。
その動作はゆったりとしていて、こちらに向けられる眼差しは先程のような威圧的なものではない。いや、お互いに立っているからだろうか。正面から見ると、むしろ友好的にさえ見える。
先程の視線は思い違いだったのだろうか。
アシュレイが立ち上がった時、思わず肩に力が入ってしまったが、心配するほどのことはないのかもしれない。
じっとアシュレイの行動を目で追いつつ、彼が何をするつもりなのかそれでも身構えてしまう。目の前に立ち、正面から見下ろされ、こちらに差し出された手が何を意味しているのか分からず困惑すると、さらに一歩近づいた彼に、右手を取られた。
「はじめまして。アシュレイだ」
横柄な口調は変わらないものの軽く頭を下げた彼は、そのままユーフェミアの右手を自分の唇に引き寄せた。目でそれを追いながら、思わず悲鳴を飲み込んだ。
持ち上げられた指先に込められた力は、手を取る、というようなものではなかった。まさに押し潰すという言葉に相応しく、骨が軋みを上げる。
ゆっくりと離れていくその淡褐色の瞳をただ、息を殺して見つめた。
上流階級の挨拶など、知らない。どうすればいいのか分からない。ただ、ジュリアの手前、騒ぐことなど出来なかった。
「アシュレイ――」
苦々しげな声が頭上から聞こえた。
その上、肩に置かれた手にかすかだが力がこもったように感じた。
もしかして彼は気づいただろうか。だとしてもジュリアの前で何も言って欲しくなかった。無用な心配はさせたくなかったし、何より初っ端から気を使わせてしまっては先が思いやられる。
一方、指先に走る痛みの為、気づくと緊張は取れていた。おかげでやっと言葉が滑り出る。
「……はじめまして。ユーフェミア・エヴァーツです。あの、この度はご招待に預かり、身に余る光栄です……」
正直、なんて言ったらいいか分からなかった。取りあえず教本通りの挨拶になってしまったが、貴族の邸に招待されることは、本音はさておき光栄なことには違いないのだろう。
ジュリアもアシュレイの態度に満足したのか、今度はさっさと彼を追い払いにかかる。
「もういいですわ。兄さまはどこか余所で過ごしてくださいね」
「何なんだ、それは」
「同じ邸に滞在するのに知らない殿方がいらっしゃるのは、ユーファ姉さまが不安でしょうから紹介しただけですもの。それに、いつまで姉さまの手を握ってらっしゃるの? 過度な接触は女性に嫌われますわよ?」
言外に紹介したくなかったと言っているように聞こえた。しかも明らかにこの部屋から追い出そうとしている。だがそこには兄妹ならではの気安さが窺える。
未だアシュレイに力を込められている手も早く放して欲しかったが、ユーフェミアとしては肩に乗った手の方も気になっていた。
いつまで肩に乗せておく気だろうか。
ジュリアの台詞に素直に手を放したアシュレイとは逆に、やはりディーンは何時まで経ってもそのままだった。ジュリアの言葉が聞こえなかったはずはないだろうに。
アシュレイはぶつぶつと文句を言いながらも素直に居間から出ていく。どうやら妹には甘い兄の様子に、小さく笑う。アシュレイから取り戻した手を、空いたもう片方の手で握りながら。
ふと和んだ空気が漂ったところで、アシュレイが扉のところで足を止めた。何を思ったのかこちらを見て――ユーフェミアよりわずかに視線が上を向いているところを見ると、ディーンに用があるのだろう。人の悪い笑みを浮かべると静かに言った。
「そうだ、カーティス。あとで久しぶりにチェスに付き合え」
それは本当に何気だった。
聞き覚えのない名前に目を瞬く。
ジュリアが表情を凍らせ、わずかに視線を揺るがしながらこちらを向きかけ、何とか思い止まったことでそれが誰に向けられた言葉かを察する。
そして、アシュレイの勝ち誇った顔――。そこにある意図。
遠ざかる足音に、今まで扉の外にいたのだろう。そっと顔をのぞかせたロジャーが恐る恐る口を開いた。
「ディーン様。あの、今の方はアシュレイ殿下でいらっしゃいますよね?」
ロジャーの放った台詞に、心臓が大きく脈打つ。
ジュリアとアシュレイ――。
この国に暮らす者なら知っていて当然の名前。
まるで頭を殴られたような衝撃に、思わず足がふらついた。なぜ今まで気づかなかったのか。
受けた衝撃の強さに思わず口を手で覆うと、呻くように呟いていた。
「王女……さま?」
もしも背後にディーンがいなかったら、その場にへたり込んでいたかもしれない。腕を捕まれ、身体を支えられながら、それでも勇気を振り絞ってジュリアを見つめた。
気まずそうに視線をそらした彼女は、まるで叱られた子供のように身体を小さくすると、ためらいがちに一つ頷いた。
「――黙っていてごめんなさい」
謝られても、正直どうしていいのか分からなかった。呆然とジュリアを見つめることしか出来ない。
名前を前もって聞いておきながら、気づいて当然のことに気づかず、抜けているにも程があるではないか。この場合、むしろ謝罪しなければならないのは自分の方ではないのだろうか。
当然、ディーンやロジャーもジュリアが王女であることは知っていたはずなのに、なぜ何も言ってくれなかったのか。しかも、先程の聞き覚えのない名前。明らかにディーンに向けられたものだ。
――あまりにも知らないことが多すぎる。
現実を付けつけられ、今になってやっと知らないことを甘受していた自分に気づくとは。
ユーフェミアが関わろうとしなくても、相手が関わってくる以上知らなかったでは済まされない事態もこの先起こるかもしれない。まして相手がとんでもない人たちならなおのこと関係ないなどと言っていられなくなる。
先程アシュレイに取られた手を軽く握る。咄嗟に隠したが、鈍い痛みが走っていた。まるで本気で骨を砕こうとしたように込められた力は見事な加減で、ユーフェミアに何かの警告を告げているような気がした。
なぜこんな目に会わなければならないのか。
正直、貴族と関わるのは嫌だ。だが、この扱いはあまりにも馬鹿にしすぎではないか。ジュリアにしても騙すつもりではなかったのかもしれない。だが、彼女が王女というなら、なおのこと知っていれば自然と自らに降りかかる火の粉を振り払えるかもしれない。
あまりにも打算的な考えに苦笑が漏れる。だけど――。
ちらりと背後を振り返る。
今、身体を支える男だけはなぜだか許せない。話す機会も時間もいくらでもあったのだ。どうして黙っていたのか。先程の名前が何なのか、聞き出して、絶対に目にものを見せてやる、と密かに誓ったのだった。