07.罠に掛けて雁字搦めに束縛してあげる 前編
いつも必要なことは言ってくれないのね――。
結局その後、仕立て上げる予定のドレスにバックや靴を合わせ、その他の小物類も揃えて店を出た時には、周囲はすっかり夜の気配が満ちていた。
すでに空には月が昇り、青白い光を地上に落としている。
凍てつくというほどの寒さではないが、吐く息がかすかに視界を曇らせる。
あれから更に生地を選び、やはり採寸をしておこうという段になると、目の色を変えた店員たちに着せ替え人形よろしくいいように弄ばれることとなった。
だからなのか、力仕事をした後のような倦怠感が全身を覆っているのは。
もはや最後の方は抵抗する気も起きず、どうせ勘定はすべてディーン持ちならば好きにしてくれと諦めの境地に至った。これだけの買い物が、仕事とどのような関わりがあるのか考えただけでも恐ろしい。一体、どんな仕事をさせようとしているのか。
王宮へと続く中央通りには等間隔にガス灯が灯り、人通りもほとんどない。周囲を見渡すとちらほらとそれらしき気配を感じて、ユーフェミアはリオンの回してきた馬車に早々と乗り込んだ。今更乗合馬車で帰ろうなどとはもちろん思わない。
進行方向を背にして座ると、昼間とは違って隣にディーンが腰を下ろしてきた。二人が並んで座っても余裕はあるのだが、向かい合わせの席は荷物が置いてあるわけでもなく空席だ。訝しむようにして隣を見ると、ディーンは肩をすくめて「彼」の存在を口にした。
「隣り合うなら女性の方がいいだろう?」
どこまで本気なのか。
あいにくユーフェミアには「彼」を見ることは出来ない。だからディーンが本当の事を言っているのかどうかも分からない。たまに気配を感じることはあるのだが、いくら目を凝らしてみてもやはり見えないのだ。
「彼」についてディーンから聞いた話によれば、いる時もあればいない時もあるらしい。昼夜関係なく現れ、場所にこだわることもなくユーフェミアの側ならこうしてクライトンにまで付いてくる。決して害をなすものではなく、普通の霊と少し違い、ただ側にいるというのだ。
ディーンは気にする必要はないと言ったが、そう言った彼自身がこうして避ける態度を取っているとやはり気になってしまう。
それにどうして見ることが出来ないのだろうか。感覚は昔に比べると強くなっているというのに。
眉間に皺を寄せて「彼」がいるだろう場所をじっと見つめていると、隣から小さな笑い声が降ってくる。
「睨まないでくれ、って言っているけど?」
「……別に、睨んでなんか……」
このまま「彼」について考えても何かが分かるわけでもない。詳しいことはディーンも話さないし、彼らと関わることがいいことだとはユーフェミア自身思っていない。
取りあえず当面の問題を片付ける事の方が先だろうと、気を取り直して、それよりも、と先程ディーンが店内で話しかけたことを口にする。
「あれはどういうことなの? 仕事って言っていたけど何をさせるつもり?」
勝手に仕事を引き受けたことについては、本来ユーフェミアの知ったことではない。
ディーンと交わした契約にしても、主に筆跡に係わることについてだ。当然、今までの写字の仕事から、ディーンの仕事関係で筆跡を必要とする書類の作成も含まれている。だが、それのどこにドレスを身に付ける項目があっただろうか。
雇い主である以上、多少のことなら目を瞑る覚悟もしていたのだが、この度、桁違いな金額が動いたことについてユーフェミアは納得していない。
先程の店で用意された布地は、極上の手触りのものばかりだ。繊細で緻密な模様に編み上げられたレースは、一体いくらするのだろう。レースに憧れない女性はいないと言われているが、もちろんユーフェミアも例外ではない。あまりの素晴らしい出来栄えに、あの瞬間目も心も奪われたが、実際に似合う似合わないは、また別の話なのだ。
隣に座った男は、視線を正面に向けると珍しく困ったように息を吐き出した。その紺色の瞳は周囲に同化し、完全に夜の色を湛えている。
「仕事っていうか……まあ、きみにとっては仕事だと考えた方が納得できると思ったからそう言っただけなんだが……。昼間に会ったジュリアのことは覚えているかい?」
「ええ、イヴァンジェリンに似た彼女ね」
確認すると、ディーンは一つ頷く。
「彼女からの招待で、きみを是非に、と言われたんだよ」
「……招待?」
あまり面白くない方向に話が進みそうで、自然と声が落ちた。
おそらくジュリアは貴族だ。ディーンの話しぶりからすると、同じ貴族でもかなり気を使う相手だということが窺える。ユーフェミアが貴族と関わりを持ちたくないことは、彼自身が身をもって知っているはずだ。だからあえて仕事だと言ったのだろうか。
いつもの軽さがなりを潜めている態度に、取りあえず耳を傾ける。
「彼女は時々コックス地区にあるべレスフォード邸で過ごすのだが――ああ、べレスフォード邸というのはね、王弟殿下にあたるフラムスティード公爵の別邸になるんだ。だけど、旅行好きな公爵は滅多にその屋敷に帰ってくることがなくてね。ジュリアは公爵に縁のある人だから、時々息抜きにべレスフォード邸を借りているんだよ」
最初こそあまりにも雲の上の人の話しに息を止めてしまったが、ディーンの説明に、知らず力の入っていた身体から力を抜いた。
もしも王弟殿下に会わなければならないなら、断固拒否しようと思っていたのだが、どうやらその心配はなさそうだ。いや、ただの庶民が会えるはずはないのだが。
「彼女はなかなか外出のままならない身でね。べレスフォード邸で過ごす時だけが唯一の自由な時間と言ってもいい。だからその時間を、是非きみと過ごしたいそうなんだ」
つまり、ジュリアがその屋敷で過ごす数日間、彼女の相手をする仕事、ということなのだろう。
聞いただけではそれほど難しいことのようには思えない。確かに相手が貴族の令嬢ならば気を使うだろう。しかしジュリアに関して言えば――わずかな時間しか話さなかったのではっきりとは言えないが――彼女の人間性にそれほど問題があったようには思えない。
それにコックス地区と言えば、バルフォアとクライトンを結んだ街道から少し東に向かった場所だ。ほぼクライトンの外れと言える。
それほど遠出にならない距離に安堵する。
しかし、公爵家の別邸とは……。
ユーフェミアは思わず呻いた。
思っていた以上に、話は想像を上回っていた。
だがふとディーンの説明に矛盾を感じ、首を傾げた。
「でも、今日は――」
街中で彼女を見たが、それはどういうことだろうか。
思わず口を挟むと、彼は困ったように笑った。
「……それ以外は大抵、監視の目をかいくぐって抜け出しているらしいね」
監視と言う不穏な言葉とは裏腹に、昼間に出会ったジュリアは至って普通の様子だった。落ち着き、逃げ隠れする様子もなく、ある意味彼女の容貌は人目を引いていたようにも思える。
あれが逃げ出した後の態度なのだろうか。
疑問ばかりが募っていく。
ディーンの話からすると、かなり不自由な生活を強いられている気がするのだが。
「抜け出すって、閉じ込められているとかじゃないのよね?」
「それはないが……なんて言ったらいいのかな。……常に誰かが側にいて、安全の為に行動が制限されているんだよ」
普通の貴族の令嬢というのは、そう言うものなのだろうか。
あまりにも違う生活環境に、思考が追いつかない。
「なんだか王女様みたいね」
まるで物語の中の話のようだ。非現実的過ぎる。
「……そうだね」
ディーンも同調したものの、それでもまだどこか歯切れが悪い。彼の整った横顔を眺めながら、これはまだ何かある、と束の間口を閉ざした。
互いの間に落ちた沈黙は、馬車の車輪や馬の蹄の音でかき消される。
視線を窓に向けると、月明かりで微かに外の景色が見えた。
しばらくして、ディーンが諦めたように口を開く。
「実はいくつか問題があるんだ」
視線を正面に向けたままの彼は、珍しく言い淀んでいる。そんなに言いづらいことなのだろうかと黙ってその続きを待っていると、ようやく夜色の瞳がこちらを向いた。
「おそらく、彼女の兄もやってくるだろう」
それがどのように問題があるのか、ユーフェミアには分からない。
首を傾げると、ディーンは自嘲気味に小さく笑った。
「会えば分かる。ただ……、私やジュリアを恨まないでくれたらありがたいな」
「なによ、それ……。さっぱり分からないじゃない」
恨む前からすでに胡散臭い男を見やる。
ユーフェミアが軽口をたたいた為か、ディーンのまとう空気が柔らかくなったような気がした。面白いものでも見るような目でこちらを見ている。
和らいだ空気に、ならばついでとばかりに不満を口にする。
「それに、どうしてドレスをあんなに沢山買う必要があるのか分からないわ。公爵様の御屋敷って言っていたけど、格式ばった場所だから?」
そのような場所に招待されること自体場違いだろう。出来ることなら辞退したい。
ディーンは悪戯っぽく笑うと、しれっと言ってのけた。
「いや、今日はきみに不快な思いをさせてしまったから、そのお詫びだと思ってくれないかな」
「――お詫び?」
不快な思いならいつもしているが、なぜ今日に限るのだろうか。何事かあっただろうか、とドレスを買うよりも前の出来事を思い浮かべる。
だが、これと言って何かされたような記憶はない。
「……何かあったかしら?」
首を傾げながら呟く。別にとぼけたつもりはなかった。
ディーンはユーフェミアの態度に、盛大な溜息をついた。
「私がきみ以外の女性と連れ立っていたのは事実だ。きみが怒っているのも無理もない。だけど彼女とは何でもないんだ。信じてくれないかな」
まるで浮気をした男が必死に恋人、もしくは奥さんに釈明している台詞に聞こえるのは気のせいだろうか。
その上、わずかに身を乗り出すようにして、自らの潔白を切々と訴えかけているつもりのようだ。
――信じるも何も、別にどうでもいいのだが。
「はいはい」
なげやりな返事に、切なげな表情をされた。どこまで本気なのかしら、と呆れてしまう。
「もう、いいわよ」
どうだって、と続く言葉は飲み込んでおく。
これ以上、馬鹿げた会話につき合いたくない。
しかし――。
「では、私の為に着飾ってくれるんだね?」
「は?」
耳に飛び込んできた単語に、ユーフェミアは思わず目を見開く。今の会話からどうしてそうなるのだろう。
馬鹿なことを、と噛みつこうとしたが、声は口から出なかった。
薄闇の中、視界がディーンの手を捉えると、顔のすぐ前をかすめるようにして長い指先が、ユーフェミアのほつれて落ちてきていた前髪をすくい取った。横に滑らすようにして耳にかけると、今度は頬をかすめるようにゆっくりと離れていく。
一連の動作に、思わず息を止める。
「私も行くし……心配するほどのことはないかもしれないけどね」
いつもより低く聞こえる声が、ユーフェミアに不確かな感情を呼び起こす。
もしかして、本気で心配してくれているのだろうか。
「……さっぱり分からないわ」
思わず呟いた言葉を、苦情と聞きとったのかどうか。どうやら彼の耳にはその言葉の意味が届かなかったようで素通りされた。
「とにかく、きみは私の相手だけをしてくれていたらいいよ」
臆することもなければ、それが当然という態度で口元をゆるめる。それはいつものことながら、うんざりするほどの甘さを含んでいる。
前言撤回だ。心配などやはり思い違いだったようだ。
外の気温と同じほど冷ややかな眼差しと口調をまとうと、容赦なく突き放す。
「ジュリアからの招待なんでしょう? どうしてあなたの相手をしなければならないの。それは失礼でしょう?」
たとえ何か問題があろうとも、こちらが出来る限り礼儀に則った態度を取っていれば、重大な問題が起こるとは思えない。確かに貴族は苦手だが、招待主はジュリアだ。その兄に対しても、全く知らぬ存ぜぬで過ごすわけにはいかないだろう。
そう思っての発言だったのに、ディーンは心底傷ついたような顔をした。
「分かっているのかい? ジュリアの招待とは言っても、遠まわしに彼女の兄――アシュレイにきみを紹介しているようなものなんだよ? こんな役回りをする羽目になった私をきみは少しも憐れんでくれないのかい? しかも、きみが私以外の男をその瞳にうつすと思うと、とても穏やかではいられないよ。もしもきみが彼に恋心でも抱くようなことがあったら、私はきっと死んでも死にきれない」
芝居がかった大袈裟な台詞まわしに、逆に心の底が冷えていく。果たして、こんな嘘くさい台詞に騙される女性がいるのだろうか。だが、もしかしたらいるかもしれないと思うと、それはそれで止めを刺しておく必要があるかもしれない。
「どうでもいいけど、死んでまで私の前に出てこないでよね」
死者になった彼とまで関わるのはごめんだ。
冷たく言い放ったその一言に、ディーンは一瞬目を瞬いた。だが、苦笑すると軽く頭を横に振り、それからしばらくは口を閉ざしたままだった。