06.よく分からないひと 後編
仕事代も無事に手に入り、行きがけに目星をつけておいた手袋を買えると思うと、郊外の道を歩く足取りも軽くなる。
この辺りはまだ高級住宅街で人通りも少なく、たまにすれ違う人は散歩でもしているのだろうか。皆ゆったりと歩いている。
冬も始まったばかりで色づいた葉も散りゆく季節。
鉄柵の間から見えるどこの屋敷の庭も掃除が大変なのだろう。使用人たちは箒を手に、忙しなく落ち葉を掃き集めている。しかし掃いた端から葉が落ちてくるのだ。終わりの見えない作業に、広い庭があるのも考えものだと横目で眺めつつ通り過ぎる。
そんなことを思いながら歩調を速める。
帰りも乗合馬車を利用するつもりだが、日が暮れる前にはバルフォアに着きたかった。冬場は一段と日没が早いので、自ずと人ならざる者が動き出す時刻も早くなる。彼らとの邂逅を可能な限り避けるならば、買い物する時間を絞るしかないだろう。
馬車の出発の時刻まで時間に余裕があったら、仕事用の新しいインク壺も見てみようかな、などと考えていると、通りを一台の馬車が追い越して行った。
馬車などどれも似たようなものだ。
頭では分かっているものの、微かに見えた御者の姿が今ではすっかり顔馴染みになってしまったリオンに似ていたような気がして、それだけで眉間に皺が寄ってしまう。
もうこれは条件反射だ。
初老に差しかかったばかりのリオンとは決して仲が悪いわけではない。顔を合わせれば挨拶もするし、世間話しにも花を咲かせるほどの仲だ。ただ、どうしてもリオンの顔を見ると、彼に附随する人物を思い出してしまい、いつだったかその話題が上った時には頭を下げずにはいられなかった。
つまり、リオンの姿を見れば、ディーンがいる確率は十割なのだ。
ゆっくりと速度を落として止まった馬車に、自然とユーフェミアの足も止まる。
馬車の扉が開く前に、御者台から挨拶代わりに帽子を振る手が見えて、どうして肩を落とさずにいられようか。それはリオンがいつもユーフェミアにしている挨拶だった。
扉が開くと予想通りの人物が姿を現す。
ユーフェミアは一拍置いて表情を改めると、諦めて歩み寄った。
「ちょうど良かった。もうバルフォアに帰ってしまったかと思っていたんだよ」
馬車から下りたディーンは、そのまま扉を片手で押さえるとこちらに手を差し伸べてきた。
手袋をはめたその手を見て、その意味を計りかねる。だが取りあえずその手は見なかった事して、開け放たれた馬車の中に視線を送った。
乗合馬車とは違い、見るからにクッションのきいた座り心地の良さそうな椅子だった。きっと振動も少なく、長時間乗っていても腰が痛くなることはないだろう。
だが、もしかしたらそこにいるかもしれないと思っていた人物の姿はなく、少しだけ気が抜けてしまった。
「ジュリアは一緒じゃないの?」
尋ねると、彼は肩を竦めた。
「彼女は家の者が迎えに来てね。あれからすぐに別れたんだ」
「そう……」
気のない返事をしつつ、自分に向けられた手にやっと視線を戻す。
どういう経緯で二人が街中を歩いていたのか知る由もなかったが、単なる知り合いにしてもディーンの彼女に対する態度は淡白だ。二人の関係を色々と想像していたのだが、どうやら恋人という立場ではないらしい。確かにジュリアもディーンに対して冷静すぎるほど素っ気なかったような気もする。
しかし……。
いつまでも手を取らないでいると、ディーンは苦笑しつつも近づき、背中を軽く押すようにして馬車へと促してきた。
「送っていこう。ついでだから」
目の前に開いた空間を眺めて、しばし考えた。
乗合馬車もタダではない。片道分の料金も馬鹿にならないことを考えると、ここは素直に送ってもらった方がいいのかもしれない。だが、片道一時間の道のりをこの男と同じ空間に、しかも二人きりでいることに我慢できるかどうか自信がなかった。
精神的な安らぎをお金で買えるのだとしたら、馬車代も安いものかもしれない。
一人で納得すると、隣に立つ男を見上げる。
「せっかくだけど、買い物をしようと思ってるから」
背中に回され腕を軽く押しやって、断りの言葉をやんわりと舌に乗せる。
決して嘘は言っていないし、手袋が欲しいのも本当だ。
断る理由が苦痛だからでは、さすがに失礼だということぐらいユーフェミアにも分かっている。
本当なら送ってもらうその時間が、彼の思惑を探ろうとしているユーフェミアにとって、絶好の機会であることも承知している。だが、移動する馬車内で彼の口車に乗っておかしな話になった時、口では勝てる気がしないし逃げ場もない。もっと慎重に場所も選ばなければならないような気がする。
今回はその機会を見送るだけだ。イヴァンジェリンが言うように、決して臆病風に吹かれたわけではない。
さっさと挨拶をしてこの場から離れようと考えていると、まるでその考えを見透かしたように腕を捕まれた。
「それなら私も付き合おう」
何かを企んでいるような笑顔を向けられ、ユーフェミアがわずかにひるんだその隙に強引に馬車に押し上げられていた。
「え、ちょっと、ディーン!?」
「座って」
狭い馬車の中で中腰のまま振り返ると、ディーンも戸口に足をかけ乗り込もうとしていた。完全に逃れることは無理だと見て取ると、仕方なく進行方向に背を向けて座る。
椅子は思っていた以上にクッションがきいていて、座り心地は想像以上だった。これだと本当に馬車に乗っている気がしないかもしれない。やはり乗合馬車とは大違いだ。
扉が閉まると、ゆっくりと動き出す。
斜向かいに座ったディーンを見ると、満足そうな笑みを浮かべている。
逆にユーフェミアは渋面を作ると、苦々しく言い放った。
「相変わらず、強引ね」
「強引ぐらいじゃないと、きみは相手にしてくれないだろう?」
ぬけぬけと言ってのける目の前の男に、返せるものは溜息ぐらいしかない。
彼の言い分からしてみても、素気無くされている自覚はあるのだろう。それならいっそのこと、放っておいてくれればいいのに。
口には出さないが、胸中で呟かずにはいられない。
視線を目の前の男から窓に向け、流れる景色を見つめる。こうなってしまっては仕方がない。
「ところで何を買うつもりなんだい?」
笑顔で尋ねてくるディーンに、もはや逆らう気力はなかった。
クライトンの中央通りで馬車から下りたものの、ユーフェミアはすでに帰りたくてしょうがなかった。
「ねえ、ディーン。無理だから、絶対に。買い物はもういいから帰りましょう」
斜め前を歩くディーンの背中に小声で声をかける。
彼が入ろうとしている店はすぐ目の前だ。
つい先程、馬車からディーンの手を借りて下り、彼の視線が向いた先の店の看板を見て、ユーフェミアは青くなった。
――王室御用達……。
一介の庶民が常識的に考えて一生、縁のある店ではない。
店員だって見るからに貧乏そうな人間を相手にするはずはない。上流階級を相手にする店は、決まって客の足元を見るのだ。見下げられるのはごめんだった。惨めな気分になると分かっているのに、店に入りたくなどない。
「ディーンっ……」
なんとか呼び止めようと声を上げかけたが、ディーンが扉に手を伸ばすより先に内側から扉が開いた。
店から出てきたのは穏やかな雰囲気を湛えた白髪の初老の男性だった。にこやかにディーンを出迎え、その背後にもう一人、こちらは三十代ぐらいの凛とした女性が姿を現す。
「これは、ラムレイ様。わざわざ足をお運びいただかなくても、連絡を下さればこちらからお伺い致しましたのに」
「いや、急に思い立ったからね」
ディーンと懇意なのか、一通り挨拶を交わすと白髪の男性はユーフェミアに視線を移動させ、穏やかな眼差しのまま軽く礼をした。彼の背後に控えている女性も、どうぞ、と笑顔で店の中へと促す。
「ユーフェミア、入ろう」
振り返ってこちらを向いたディーンに、道の真ん中に突っ立っていたユーフェミアは、ためらいがちに小さな声で無理だと告げる。この際、泣きごとだろうがなんだろうが無理なものは無理なのだ。
見下げられなかったことはさておき、要は先立つものの問題だ。仕事代が入ったからと言って、全額を手袋にさく予定はない。今後の生活費もかかっているし、何より仕事代を注ぎ込んでも買えるかどうか……。
「心配は無用だよ。この店に連れて来たのは私だから責任は持つよ」
確かにディーンなら手持ちは大丈夫だろうが、足りなかったからと言って借りるのもどうかと思う。
「それは駄目。借りるつもりはないわ」
借金なんてこりごりだ。取り立て屋たちに追い立てられたことが脳裏に甦り、気分が滅入りそうになる。しかしディーンはおかしなものでも見る目でこちらを見返しただけだった。
「――貸すつもりはないんだが……。まあ、取りあえず見るだけでもいいんじゃないか?」
先程から黙ってこちらのやり取りを見ながら、開けた扉を押さえていた初老の男性は、ためらうユーフェミアに頷いて見せる。
扉の側いた女性店員に視線を向けると、彼女も笑顔で一つ頷いた。
「……見るだけぐらいなら」
そこまで言われて渋るほど大人げない態度もどうかと思い、内心絶対に買わないぞと心に決める。
ディーンや店員に促されるように一歩を踏み出し、結局店内へと足を踏み入れた。
何かが激しく間違っている、と鏡を前にしたユーフェミアは疲れきった自らの顔を見つめた。
身体に巻き付けられた布地はどう見てもドレス用のものだ。冬の普段着用の布地ですよ、と言われ、あっという間に身体に沿うよう、まるで本当にドレスを着ているかのように巻き付けられる。
翡翠色の布地に幅広のレースを要所につけられ、これは絶対に普段着では着られないと確信する。
出迎えてくれた女性店員に、布をあててみるのは無料なんですから、と力説され、言いなりのまま、すでに両手では足りないほどの回数は布を巻き付けられている。
手袋を見るはずだったのに、なぜ服をあつらえるような状態になっているのだろう。しかも奥から他の店員が帽子まで持ってきて頭にのせている。
ディーンは白髪の男性となにやら話しながら、時々こちらを見ては、それは駄目だ、とか、色違いはないのか、と口を出してきている。
一体、何を考えているのか。
女性店員の口調や態度から察するに、別に売りつけようとしているわけではないようなのでまだ安心できるが、ディーンのために着飾らされているような気がして納得がいかない。
いい加減ぐったりとしてきたところで、ディーンが更に奥から違う布を運んできた店員を止めてくれなければ、逃げ出していたかもしれない。
「何なのよ、一体……」
よたよたと近寄ると、白髪の男性が椅子を用意してくれたので、礼を言って腰かける。
文句をこぼしながら、このようなことの原因となった男を見上げた。しかしディーンは、先程ユーフェミアが身につけた布を見ながら、彼がいいと言ったものばかりの布を見て女性店員と何かを話していた。
ぼんやりとそれを見ながら、もしかして、と考える。
あの布は誰かに贈る予定なのかもしれない。その誰かがちょうど自分と同じような身体的特徴の為に代わりに付き合されたのかも、と。
全く、いい迷惑だ。
「お疲れになりましたか?」
白髪の男性が紅茶の入ったカップを側のテーブルに置いてくれた。
「少し……」
本音は大いに疲れたのだが、彼に文句を言っても仕方がない。
苦笑混じりに誤魔化すと、ところで、と男性は軽く咳払いをした。
勧められるままにカップに手を伸ばしかけていたユーフェミアは、何だろう、と男性を見上げる。
「つかぬことをお伺い致しますが、ここ一、二年の間に極度にお痩せになったりとか……その、体形が変わられたことなどございませんか?」
おかしなことを聞くな、と思いつつも、いいえ、と答える。
ここ一、二年、服も新調していない。去年の冬服がきつくもなくゆるくもないところをみると、体形は変わっていないのだろう。
自らの身体を見下ろしながら、もしかして今着ている服のサイズが合っていないのだろうかと不安になる。そんなユーフェミアに男性は安心したようにほっと息をついた。
「さようでございますか。では、大丈夫でしょう」
何が大丈夫なのだ、と首を傾げていると、ディーンがやっとこちらを向いた。
「では手袋だけ持って帰る手配をしてくれ」
「かしこまりました」
軽く頭を下げた男性は、ユーフェミアにも目だけで礼をすると仕事に戻っていった。
逆に近づいてくるディーンに呆れた眼差しを送る。
「まったく、誰のものを見立てたのか知らないけど、そういうつもりなら最初に言って欲しいわ」
カップの中から立ち上る湯気に息を吹きかけながら、一応文句を言ってみる。自分のではないが、やはり綺麗な布地を見るのは実のところ楽しかったのだ。
「ん? あれはきみのだけど?」
さも当然のように言われて、一瞬時が止まる。次の瞬間、口に含もうとしていた紅茶を吹き出しそうになってしまった。
「な、何言ってるの? 待ってよ。どうして私がドレスを買う必要があるのよ。私が見に来たのは手袋よ? あなた、一体何着頼んだの!? って言うか、そんなお金ないわっ。払えない!」
一応声は押さえたつもりだったが、気が動転しているため次第に大きくなっていく。それと同時に血の気が引き、かすかに身体が震える。
布のあの手触り。あれはユーフェミアが普段着にしている布地ではない。薄くて光沢があり、しかも織り目自体に模様が施されているものもあった。きっとユーフェミアの想像することができないような金額に違いない。
店に入る前、借金するつもりはない、とはっきり言ったつもりだったのに。
ディーンはちらりと背後を振り返ると、女性店員が重ねている布地を見る。
「取りあえず三着だったかな? もちろん、まだ後で追加する予定だけど。お金のことは心配しなくていいよ。きみに頼みたい仕事が出来たから、きっちり働いて返してもらうつもりだし、そのことについては帰りの馬車の中で話そうと思ってたんだよ」
「待ってよ! 仕事って、引き受けること前提なの!?」
「引き受けてくれないと困るな。って言うか、もう引き受けてしまったし?」
いっそ清々しいほどの口ぶりで言ってのけたディーンに、ユーフェミアは開いた口が塞がらなかった。
思えば、家の件にしてもそうだった。当人には相談もなく決めて、あとで否と言えなくする。先行投資と言えば聞こえはいいが、一種の騙しうちだ。
「ああ、ついでに採寸もしておくかい? バルフォアの仕立屋の奥さんに、一応きみの採寸表をもらってきておいたんだけど……」
その言葉に、いつぞや二階の窓でほくそ笑んでいたケイトの顔が脳裏にちらつく。
彼女のことだ。きっと嬉々としてディーンに教えたに違いない。
がっくりと肩から力を抜くと、力なく首を横に振った。どうしてこんなことになってしまったのか。
あとは彼と関わるようになった自らの不運さを呪うことしか出来なかった。