01.予感と言うには曖昧な、 前編
失敗した――。
内心、大量の冷や汗をかきながら、けれど正面に向けた眼差しは決してゆるめることなく睨みつける。
散々街中を駆けずりまわったおかげで、ゆるく編み上げていた髪は見るも無残な状態だった。
冬も近づく寒空の下。まさかここまで汗をかくことになるとは。その上、日頃走ることとは無縁の生活を送っているため膝もすでに悲鳴を上げている。
背後は行き止まり。正面にはガラの悪い男が三人。
最初から狙っていたように路地裏に追い込まれ、まさかその先が行き止まりとは知らず。
「どうして私が借りてもいないお金を払わなくちゃならないのよ!」
朝から何度この問答を繰り返したことか。
「もう諦めなって。あの家を手放したって、まだ借金は返しきれないんだよ」
三人の中で一番年配の男が呆れたような眼差しを向けてくる。あれだけ走り回ったにも関わらず、男が息も切らしていないことに頭のどこかで逃げ切れないか、と諦念が過る。だが、ここで諦めてしまったらそれこそ相手の思うつぼだ。
彼らが決して手荒なことをしないのは、ユーフェミアを商品と思っているからだろう。
まったく冗談じゃない。
家の一階を貸していた一家が、自分の知らないうちに家と土地の権利書を持ち出し、お金を借りていたなんて。
今思えば、路地裏に駆け込むことよりも、あの一家に家を貸したこと自体が敗因なのだろう。自らの迂闊さに思わず歯がみする。
取りあえずこの状態を何とかしなければならない。じりじりと焦りながら、咄嗟に思いついた言葉をよく考えもせず口にしてしまったのは、きっとこの現実を受け入れたくなかったからに違いない。
「だからってこんな嫁き遅れの……トウの立った女が身体を売ったって、借金なんて返せないわよ!」
我ながらなんて情けない言いわけ。
ユーフェミアは先月二十五になったばかりだ。
二十歳前後で結婚するこのご時世に、未だ独身なのだから嫁き遅れには違いない。しかし肩身の狭い思いをしているわけではないので気にしていなかったが。
正面にいる男はユーフェミアの台詞に一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、肩をすくめると盛大な溜息を落とした。
「……ねえちゃん、それ、自分で言ってて悲しくねえか?」
「う、うるさい!」
しみじみと言う男の突っ込みに動揺を隠せず、口ごもりつつも反論する。気にしていないが、妙な同情は頭にくる。
お互い微妙な睨み合いのまま平行線をたどっていたものの、先程から視界の隅にちらちらと入る路地の一角が、実のところ気になって仕方がなかった。
取り立て屋たちのずっと背後。黒っぽいフロックコートを着た、まさに上流階級という様相をした男がじっとこちらを見ていたからだ。
壁に寄りかかり、こちらの成り行きを見ているその男は、二十代後半ぐらいだろうか。背は高い。髪は黒く、遠目で顔は良く見えないが、口元がゆるく弧を描いているように見える。
別に助けてくれとは言わないが、黙って――しかも面白そうにこちらを見ているのは、気分のいいものではない。
渋面を作ると、取り立て屋たちも自分たちから逸れた視線に気づいたのか、ユーフェミアの見ている先を追って男の存在に気づく。
「なんだ、にいちゃん。用がないならさっさと行きな」
感心なことに彼らも事を荒げるつもりはないようだった。静かに追い払おうとしているのが窺えて、助けて欲しいような、巻き込まれて欲しくないような、どっちつかずの感情がせめぎ合う。
たが、男のとった行動は予想外のものだった。やっと気づいてもらえたことが嬉しかったのか笑みを深めたのだ。
「いや、気にしないでくれ。珍しい光景を少しばかり見学していただけだ」
そう言うと壁から身を起こし、服についた埃を優雅にはたく。
「……――」
「えっと……」
取り立て屋たちもユーフェミアも、男の発言に呆気に取られた。
こういう場合、助けるのが紳士というものではないだろうか。確かに助けてくれとは言わなかったが、言わないと助けてくれないものなのだろうか。
唖然としていると、男はゆったりと靴音を響かせて近づいてきた。
「どうしたんだい? さあ、続けてくれ」
ユーフェミアが口を挟む間もなく、男は取り立て屋との間に立ち、続きを促すように両手を広げた。
なに、この人――。
取り立て屋たちもさすがに奇妙なものを見るような眼差しを向けている。
「見世物じゃないんだがな」
それには同感だった。
「そうかい? 見世物じゃなければ何だって言うんだろうね。女性をこのような路地裏に連れ込んで、普通じゃ考えられないだろう?」
穏やかな言い方に反して、取り立て屋たちに向けた眼差しは、先程とは打って変わり、決して穏やかとは言い難いものだった。
もしかして助けてくれようとしているのだろうか、と思わず淡い期待をしてしまう。何気に取り立て屋たちとの間に立っているのも庇ってくれている、と考えるのは都合が良過ぎだろうか。
だが、突然豹変した男の非難めいた台詞に、取り立て屋たちの方が気色ばんだ。色めき立って一歩出た彼らは、しかし手前にいた年配の男に制され踏み止まった。一方、最初から話をしていた年配の男は、ちらりと男に視線を投げると、なんと彼を執り成し始めたのだ。
「そうは言うが、こっちも仕事なんだよ。そのねえちゃんがお金を返してくれないと困るんだよ」
「私はお金なんて借りてないわよ!」
折角助けてくれそうな人なのに誤解されては困ると、すかさず反論する。事実、非難されてもそれは身に覚えのない借金なのだ。
確かに家を抵当に入れられたのは迂闊だった。だが、身に覚えのない借金まで背負うほどユーフェミアもお人好しではない。
「だが見るからにこの状況からすると、かなりの借金なんだろう?」
取り立て屋の説明から、くるりとこちらに向き直った男は、すでに険しさを纏っていなかった。あれは目の錯覚だったのだろうかと思えるほど穏やかな眼差しを向けてくる。
だが今、何か聞き捨てならないことを言わなかったか。
「待ってよ! あなた、どちらの味方なの!?」
思わず怒鳴ってしまい、ハッと手で口を覆った。助けてくれようとしている人にこの言い草はない。機嫌を損ねるわけにはいかないだろう。
男は慌て始めたこちらの様子など気にも留めず首を傾げていたが、何を思ったのか、ふいに身をかがめるとユーフェミアの顔を覗き込んできたのだ。しかも無遠慮にしげしげと見つめてくる。
「……きみ、もしかしてユーフェミア・エヴァーツ?」
「え? ええ。そうよ」
あまりの近さに身を引きながら頷いた。
少なくとも彼とは初対面のはず。名前を知られているのは少し気味が悪いが、会ったことがあっただろうかと思わず男の顔を凝視した。自然と目は男の印象的な瞳に寄せられて、その夜を湛えたような深い色を頼りに記憶の底を引っくり返す。しかし見覚えはなかった。出会ったことがあるなら、きっと忘れるはずはない。
しかもこの現状をどうにかしてくれるというなら、藁にも縋る気持ちで期待を込めて見つめてしまった。
その思いが伝わったのかどうか。男は身を起こすと、顎に手をあてて唸っていたが、それは一瞬の事ですぐに顔を上げると男たちを振り返った。
「事情が変わった。きみは家に帰っているといい。おまえたちは元締めのところに案内してくれるかい? 彼女の借金について話し合おうじゃないか」
「は? 代わりに払ってくれるっていうのか?」
取り立て屋が胡散臭げに鼻を鳴らす。
「場合によってはね。ということで案内してもらおうか」
手早く話をまとめると、さっさと身を翻し、路地から出て行こうとしている青年にユーフェミアは咄嗟に声をかけた。
確かに現状をどうにかして欲しいと思ったが、いくらなんでも見ず知らずの人に借金を返済させるつもりはない。
それを告げると青年は振り返ってニヤリと笑った。
「どちらにしろ、きみの家を訪ねるつもりだったんだ。話は落ち着いてした方がいいからね。取りあえず、こちらは片付けてしまおう」
そう言って、取り立て屋たちを促し歩き出す。
最初はいきり立っていた取り立て屋たちも、互いに顔を見合わせて戸惑いを見せている。
だが、やはりというか仲間を仕切っていた男だけは、両腕を組んで青年に声をかけた。
「そう言って彼女を逃がして、おまえも俺たちを撒こうって魂胆がないとは言えないだろう? だから俺は話がつくまで、こっちのねえちゃんを見張っておくが構わないよな?」
男の言葉に心臓がひやりとする。言い分は分かるが、家も知られているため逃げられるはずもないのに。
怖さの方が先に立ち、縋るように彼を見た。
だが彼は「抜け目がないな」、とだけ呟くとあっさりと了承してしまった。
「いいだろう。彼女の家で待機していてくれ」
「わかった。――ところで、にいちゃん。あんたの名前は?」
問われ、再度青年は振り返った。
「そうか。まだ名乗っていなかったな。――ディーン・ラムレイだ」
一瞬、先に行こうとしていた取り立て屋たちがピタリと足を止めた。
ユーフェミアも耳を疑った。この街の者なら、その名前に誰もがすぐに一つの言葉を思い浮かべてしまう。
――変人ラムレイ……。
密かに囁かれるそれが彼の異名だ。
では行こうかと、取り立て屋二人を促して青年は路地裏から姿を消した。
驚きのあまり息をすることさえ忘れていたユーフェミアだったが、それは残った男も同じだったようで、思わず互いに顔を見合わすと、止めていた息を深々と吐き出したのだった。