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「その猫、捨ててきなさい」──息子が拾ったのは、私を捨てた魔王様でした

作者: kinoko
掲載日:2026/10/17


「お母さん! 猫、ひろった!」


夕食の支度をしていたアデリアは、玄関から聞こえてきた息子の声に顔を上げた。

3歳のエリルが、両腕いっぱいに黒猫を抱えている。

その後ろから、双子の妹のララも顔を出した。


「ララも、さわったの。ふわふわだったよ」


娘がアデリアの服を引き、嬉しそうに笑った。


「見て! まっくろ!」


差し出された猫と目が合った瞬間、アデリアの手から芋が落ちた。


艶のある黒い毛並みと、長い尻尾。

そして、不機嫌そうに細められた金色の瞳。


その顔には、嫌というほど見覚えがあった……。


「……捨ててきなさい」


「ええっ!?」


エリルが慌てて猫を抱き寄せ、ララもアデリアの服を引いたまま首を振った。

猫まで、なぜか同じように目を見開いている。


「どうして? かわいいよ?」


「……いいから捨ててきて!」


「お母さん、この子いい子だよ! ずっと、だっこさせてくれたもん!」


「なでなでも、させてくれたよ!」


いい子──?


その言葉に、アデリアのこめかみがぴくりと動いた。


「……そう。じゃあ、少しだけ貸してくれる?」


エリルから猫を受け取り片手で首根っこを掴まえると、アデリアは自分の顔の前まで持ち上げる。

長い胴体がだらんと伸びたが、金色の目は明らかにアデリアから逸らされていた。


「クロヴィス……」


猫の耳が、ぴくりと動いた。


「こっちを見なさい」


猫はそれでも目を合わせなかった。

その代わり、ものすごく不自然な声で鳴いた。


「……にゃ、にゃあー……」


アデリアは深く息を吐き、目の前の黒猫を睨みつけた。

この猫は、普通の猫ではない。


──四年前、アデリアに「飽きた」と言い放ち、離婚した元夫。


魔王クロヴィス、その人だった。




結局、この日猫は、家に入ることになった。

捨ててくるように言うと、エリルが泣き始めてしまい、その隣でララまで口をへの字に曲げ、猫の背中を抱き締めた。

二人揃ってぽろぽろと涙をこぼされては、アデリアも追い返せなかった。


「今日だけよ。明日には出ていってもらうから……」


「うん!」


「ごはんも、あげるからね!」



アデリアが睨むと、猫は家の隅の方に歩いていき、気まずそうに背中を丸めた。



夕食のスープを小皿に取り分け、床に置く。

クロヴィスは皿を見た後、アデリアを見上げた。


「猫は、そちらです!」


椅子へかけようとしたクロヴィスの前足が止まった。


「お母さん。猫さん、いっしょに食べたいんじゃない……?」


「床で大丈夫よ。あっちへ行きなさい!」


「……かわいそうだよ……。じゃあ、ぼくも、ねこさんとたべる!」


エリルが皿を持ち上げる。

ララまで椅子から降りようとしたので、アデリアは慌てた。


「待って。分かったから……。猫も椅子でいいわ」


「よかったね、ねこさん!」


ララが猫の背中を撫でる。

息子は笑い、猫も嬉しそうに尻尾を立てた。



「名前、クロにしよう!」


今度はアデリアがむせた。


「……別の名前にしない?」


「まっくろだから、クロ!」


その理屈はよく分かる。

何しろ、昔アデリアがつけた名前も、まったく同じ理由だった。


「クロ、こっちむいて」


ララに頬を撫でられ、猫はおとなしく顔を寄せた。

それから皿へ鼻先を近づけ、スープを一口飲む。

ふと、その動きが止まった。



――お前の作るものは、うまいな。



アデリアは視線を落とした。


魔王城の立派な食堂で、彼はいつもそう言っていた。

豪華な料理など作れないアデリアが、せめて何かしたいと作った野菜のスープ。

それを何杯もおかわりするものだから、翌日には料理長が作り方を聞きに来たほどだった。


「お母さん、こぼれるよ」


ララの声で我に返った。


「ああ……ありがとう」


鍋の蓋を閉め、席へ戻る。

黒猫がこちらを見ていたが、アデリアは目を合わせなかった。


◆◆◆


最初に出会ったときも、彼は黒猫だった。

小さな島国アリエル王国で、王女として暮らしていたアデリアは、雨に濡れた猫を拾った。


魚の骨を取ってやれば食べるくせに、頭を撫でると不機嫌そうに尻尾を振る。

なのに手を止めると、自分から頭を押しつけてきた。

ずいぶん面倒くさい猫だと思った。


正体を知ったのは、故郷が他国に攻められた日だった。

父も母も、たくさんの人が死んだ。


燃える城から逃げようとして壁の下敷きになったアデリアを、黒い竜が救った。

気づけば、長い黒髪の男に抱き上げられていた。


「あなた、クロ……?」


「……ああ。猫じゃなくて悪いな」



その男は、魔族の王クロヴィスだった。

百年以上かけて、人間と魔族の和平を実現した魔王クロヴィス。

猫が男になったと思ったら、しかも魔王だったなどと、誰が予想するだろうか。


かくして、故郷を失ったアデリアは、彼に連れられて魔王城で暮らすようになった。



恐ろしい人物なのだと身構えたのは、最初だけだった。

クロヴィスは争いを好まず、仕事の合間に人間の恋愛小説を読みふけっていた。

ある日、その本からひらりと一枚の紙が落ちた。


『花は有効。相手の好みを調べること』


見覚えのある几帳面な字だった。

その日の夕方、アデリアの部屋は花で埋まった。


「……花が……どうして、こんなにあるの?」


「お前の好みが分からなかったから……」


「全部集めてきたってこと?」


「……」


嬉しくないわけではなかったが、寝台へ行くにも花を避けて歩かなければならなかった。

アデリアは、気まずそうにしているクロヴィスを見て笑った。


「……一輪で十分よ。あなたが選んでくれたものなら、どんな花でも嬉しいわ」



翌日、彼は一輪の花を持ってきた。

差し出す手に妙に力が入っている。

受け取ると、ようやく息を吐いた。


「け、結婚してくれ、アデリア」


「……ありがとう。嬉しい!」


アデリアが笑うと、クロヴィスはぎゅっと抱きしめた。

クロヴィスの心臓の鼓動の速さと、抱きしめる腕の震えを感じ、アデリアはそっと目を閉じて思った。


──この人となら、きっと幸せになれる。




「クロヴィスって、ずっと魔王だったの?」


別の日、並んで座りながら尋ねたことがあった。


「もとは人間だ。昔、魔王の生命核を受け継いだ」


「人間だった頃は、覚えている?」


「ほとんど覚えていないな……」


彼はアデリアの手を取った。


「だが、お前の手が温かいことは分かる」


低い声で言われ、思わず見上げる。

クロヴィスは握った手を見つめていたが、視線が合うと唇を結んだ。


「……嫌か」


「嫌じゃないわ」


大きな指が、そっとアデリアの指の間へ入ってきた。

顔が熱くなったが、彼も少しも余裕のある顔ではなかった。



初めての夜は、大変だった。

クロヴィスは、アデリアが少しでも傷ついてしまわないかと気にしすぎて、結局行為が終わるまで何時間もかかった。

それでも、抱きしめ合って眠ることがこんなにも心地のよいものかと、心から安心したのを覚えている。




アデリアが体調を崩し始めたのは、しばらくしてからだった。

いくら寝ても眠く、食事を取っても気持ちが悪くなる。

心配をかけたくなくて、アデリアは「疲れただけ」と笑っていた。


ある晩、目を覚ますと、クロヴィスが寝台の脇でアデリアの手首を握っていた。


「……クロ?」


「何でもない。寝ていろ」


彼は慌てたように手を離した。

その夜から寝室に戻らない日が増え、触れ合うことさえなくなった。

アデリアの体調は戻っていったが、夫とは顔を合わせる時間すら減っていった。


そして、あの日。


「……お前には飽きた」


彼はアデリアを見ようともせず、離婚の書類を差し出した。


「もう、ここにいる必要はない」


何を言われたのか、すぐには分からなかった。

書類にある彼の署名を見て、初めて指が震えた。


「クロヴィス……。私、何かした?」


返事はなかった。


「直すから。何が嫌だったか、言ってくれれば……」


彼は動かなかった。


「お願い! ちゃんと、こっちを見て……!!」


最後まで、その願いも聞いてはもらえなかった。



クロヴィスの重鎮であるグレイが、アデリアの故郷であるアリエル王国を復興したことを教えてくれた。

戦火に飲まれたあの土地を、クロヴィスは再び人が住めるようにしてくれていたのだ。


そこに小さな家が用意されていた。


本当に欲しかったのは、そんなものではなかったのに──。



子どもがいると分かったのは、その後だった。

伝えようと何度も手紙を書いたが、最後まで書き切れなかった。


子どもを理由に、戻ろうとしていると思われたら……。

もし、この子までいらないと言われたら……。


その先を考えると、ペンが動かなくなった。



生まれてきたのは、男の子と女の子の双子だった。

小さな二人を胸に抱き、アデリアは何度も名前を呼んだ。

エリルと、ララ。

一人が泣くと、もう一人も泣いた。

どうすればいいのか分からず、一緒に泣いた夜もあった。

それでも、小さな手に指を握られると、離すことはできなかった。


◆◆◆


双子が寝静まってから、アデリアは居間へ戻った。

黒猫は窓辺に座り、こちらを見ていた。


「……もう、いいでしょう。あの子たちは寝たわ」


猫は動かない。


「今さら何の用? 猫のふりをしてまで、私をからかいに来たの?」


すると猫は窓辺から飛び降り、床に触れる前に人の姿へ変わった。


背が高く、肩幅のある男が、狭い居間に立っている。

長い黒髪が黒い外套へ落ち、窓からの月明かりを受けていた。

通った鼻筋も、形のいい唇も変わっていない。

アデリアはその顔を見ないように、彼の襟元へ視線を落とした。


クロヴィスは、目の前のアデリアから目を離せなかった。

少し髪が伸びた。

頬には赤みが戻り、あの頃のように痩せてはいない。

名前を呼ばれたときから、胸が落ち着かなかった。


(……なんと言えばいいんだ……)


謝るつもりだった。

会えたら話そうと、何度も考えていた。

けれど彼女がすぐそこにいると、それだけで頭の中がいっぱいになった。


「……元気そうだな」


「ええ。見ての通りよ」


アデリアが腕を組んだ。

クロヴィスは寝室の扉へ目を向ける。


「子どもたちが、いたんだな」


「そうね」


「父親は……お前たちを、大切にしているのか? ……姿が見えないが……」


アデリアはゆっくりと彼を見た。


「大切にしていないわ。最低の父親よ。私が泣きながら子育てをしているのに、全く手伝わずに知らんぷりしている男だもの」


金色の目が細くなった。


「名を言え……」


「聞いて、どうするの?」


「話をしてくる。……できるだけ穏便に……。命だけはとらないでおいてやろう……」


そう言いながら、クロヴィスの目がみるみる赤く染まり、爪は長くとがりはじめる。


アデリアはため息をついた。

その顔で穏便に済むなら、誰も苦労はしない。


「いいえ。その男は、どうしようもない男なの。一度死んだ方がいいわ」


「……わかった。お前が望むなら、最も残酷な方法で殺してやろう。……名を言え」


「クロヴィスよ」


彼が眉を寄せる。


「父親の名前。クロヴィス」


今度こそ、彼は動かなくなった。

寝室の扉を見て、アデリアを見て、もう一度扉を見る。


「……俺か?」


「ほかに心当たりがあるの? 同じ名前で、妻を捨てた男に」


クロヴィスは口元を手で覆った。


「俺の、子……二人とも?」


「双子なの。エリルとララ」


「……双子」


「声を小さくして。二人が起きるわ」


彼は頷いた。

口元に当てた手が震えている。

アデリアが見ていると、目が元の金色に戻り、爪が元通りになったその手がゆっくりと下がった。


「なぜ、言わなかった……!」


「言えると思う?」


思ったよりも冷たい声が出た。


「飽きたから出ていけと言った人に、あなたの子ができましたって。それで、喜んでもらえると思える?」


クロヴィスが息を呑む。


「私だけなら、まだいいわ。でも、この子たちまでいらないと言われたら……」


唇が震えた。

言いたくなかった。

今さら、この人の前で泣きたくなどなかった。


「アディ……」


彼が手を伸ばした。

アデリアは反射的に後ずさる。


「触らないで」


その手が止まった。

彼の顔を見ていると、余計に涙が出そうになり、アデリアは俯いた。


「……お母さん?」


寝室の扉が開き、エリルが立っていた。

慌てて頬を拭ったが、息子はもう見ていた。

クロヴィスを見上げ、アデリアの前に立つ。


「……おじさん誰? ……お母さん、泣かしたの?」


クロヴィスは答えなかった。


ララも寝室から出てきて、眠そうに目を擦った。

母の顔を見ると、何も言わずにその足へしがみついた。


「だめだよ。お母さんに、いじわるしちゃ! 謝って!」


クロヴィスはゆっくり膝をつき、エリルに目を合わせた。

彼の視線がアデリアへ向いた。


「すまなかった……。アデリア……本当にすまなかった」


ララが服を引いた。

アデリアがしゃがむと、小さな手が頬に触れた。

娘は袖で涙を拭おうとしている。


「お母さん、もう大丈夫だよ」


アデリアはその手を握った。

頷こうとしたのに、また涙がこぼれた。



◆◆◆



「……陛下。どうしてまた猫になっているんですか」


翌朝、訪ねてきたグレイは椅子の下を見て、深々とため息をついた。

黒い尻尾が床を叩く。


「昨日から姿が見えないと思えば……」


ふん、と、猫が顔を背けた。


「アデリア様、お久しぶりです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


「グレイのせいではないわ。座って」


双子は近所の老婦人に預かってもらっていた。


アデリアはちらりと猫の方を見てから、ため息をついた。


「……四年前、何があったの?」


猫が顔を上げ、次の瞬間クロヴィスの姿になっていた。


「グレイ。余計なことを言うな!」


「あなたは黙っていて!」


アデリアが言うと、クロヴィスのはしゅんとなり口をつぐんだ。

グレイは彼を一度見てから、アデリアへ向き直った。


「……アデリア様は、瘴気中毒だったのです」


アデリアは眉を寄せた。


「魔族の瘴気が、人間の体に蓄積して起こります。魔王領の人間は幼い頃から馴染んでいますが、アデリア様は魔族のいない島で育った。しかも、お相手は陛下です」


クロヴィスは目を伏せていた。


「治療法は探しました。ですが、当時は間に合わなかった。あのまま一緒に暮らしていれば、命に関わる状態でした」


「……だから、私を追い出したの?」


クロヴィスはしばらく黙っていたが、やがて低い声で答えた。


「……俺が離れれば、治ると言われた」


夜中に手首を握られたことを思い出した。

あの時、クロヴィスは泣いていた。

そして、それから私に触れなくなった。


アデリアは膝の上で両手を握った。


「どうして、言ってくれなかったの」


「言えば、お前は残ろうとしただろう」


「それでも、説明くらい――」


「休めと言っても、廊下で俺を待っていた。食べられないのに、大丈夫だと笑っていた」


アデリアは口を閉じた。


「俺を嫌いになれば、戻ってこないと思った」


時計の針が動く音が聞こえた。

アデリアは立ち上がり、彼の前へ歩いた。

顔を上げたところで、その額を指で弾く。


「……っ」


「馬鹿じゃないの!?」


彼は額を押さえなかった。

アデリアを見たまま、何も言わなかった。


「私のためだったからって、傷つかなかったことにはならないわよ」


声を落ち着かせようとしたが、うまくいかなかった。


「私も、黙って我慢すればいいと思っていた。それはよくなかった。でも、あなたに捨てられたと思って、私がどれだけ……」


彼の服へ伸ばしかけた手を引き戻した。


「すまない」


クロヴィスが頭を下げた。

アデリアはすぐには答えられなかった。

椅子に戻り、膝の上で手を握り直す。


グレイが、卓上に小瓶を置いた。


「瘴気を抑える薬です。先月、ようやく完成しました。持続時間には限りがありますが、これを使えば、おそばにいても問題ありません」


アデリアはクロヴィスを見た。


「……それで、会いに来たの?」


彼が頷いた。


「顔も見たくないかもしれないと思った。猫なら……」


「家に入れてもらえると思ったのね。やっぱり馬鹿だわ。私が気付かないとでも思ったの?」


クロヴィスは黙った。


小瓶を手に取った。

中の液体が、傾きに合わせて揺れる。


「エリルとララは大丈夫なの? あなたの近くにいても」


「二人とも俺の血を引いている。瘴気には耐えられる」


クロヴィスは、少しだけ表情を緩めた。


「……エリルと、ララ」


「そうよ」


「いい名だな。二人とも」


もう一度、口の中で名前を呼んでいる。

アデリアは小瓶を卓上へ戻した。


「会うことは止めないわ」


彼が顔を上げる。


「でも、あの子たちに父親だと言うのなら、猫になって逃げないで。ちゃんと、自分で話して」


「……ああ。分かった」


グレイが、横からそっと口を挟んだ。


「今度こそ、最後まで話してくださいね」


クロヴィスは何か言いかけ、口を閉じた。


「……わかっている」



クロヴィスはおとなしく椅子へ座った。


◆◆◆


「この人が、お父さん?」


帰ってきたエリルは、アデリアとクロヴィスを交互に見た。

ララは兄の隣から、じっと男の顔を見上げている。

アデリアは二人の前にしゃがみ、手を取った。


「そうよ。昨日はちゃんと話せなくて、ごめんね」


「お母さん、猫さんは? 捨てちゃったの?」


「……えっとね……」


クロヴィスが一歩前へ出た。


「猫も、俺だ」


そう言って黒猫の姿へ変わった。

エリルの口がぽかんと開き、次の瞬間、声が弾んだ。


「すごい! お父さん、すごい!」


黒い尻尾が持ち上がる。


「もういっかい!」


猫が人になり、また猫になる。

エリルはそのたびに手を叩き、クロヴィスは真面目な顔で応えた。

ララは猫の頭を撫でようとして、人の姿に戻った父親の膝へ手を乗せた。


「まだ、さわってないよ!」


「ああ。すまない」


また猫になった。


横を見ると、グレイが口元を押さえていた。

アデリアは咳払いをする。


「もう、そのくらいでいいでしょう。お父さんと、お話をしましょう」


ようやく人に戻ったクロヴィスの外套を、エリルが掴んだ。


「お父さん、いままで、どこにいたの?」


彼は膝をついた。


「遠くにいた」


「おしごと?」


クロヴィスがアデリアを見た。

アデリアは何も言わず、待った。


「……お母さんを傷つけた。だから、会いに来られなかった」


エリルが眉を寄せた。

ララはアデリアの膝へ手を置いている。


「きのうも、ないてたよ」


「ああ」


「また、いじわるしたの?」


「そうだ。だから、謝った」


エリルは少し考えてから、小指を差し出した。


「じゃあ、こんどは、しないでね。お母さん、いたいの、かわいそうだから」


クロヴィスの手が動いた。

小さな指に、自分の小指をそっと絡める。


「……ああ。約束する」


ララも空いている方の手へ指を伸ばした。


「わたしとも、やって」


「ララとも、約束だ」


二人と指を繋いだまま、クロヴィスはしばらく動かなかった。


ララが嬉しそうに指を揺らし、エリルも笑う。

アデリアもつられて口元を緩めた。


「……何だ」


「三人とも、同じ顔をしているなと思って」


クロヴィスはアデリアを見た。

笑顔を向けているアデリアから目を離さないクロヴィスを見て、グレイが横で軽く咳払いをする。


「陛下。お子様の前です」


「何もしていない」


「ええ。見惚れているだけですね」


クロヴィスが睨んだが、グレイは平然とお茶を飲んだ。


◆◆◆


それからクロヴィスは毎日、薬を飲んで朝に来て、夕方に帰るようになった。

双子と遊び、家の仕事も手伝うと言い出した。


薪割りは見事だった。

外套を脱いで袖をまくり、太い薪を一振りで割る。

木片が飛ばない場所へ双子を座らせ、割った薪を手早く積んでいく。

アデリアは洗濯物を抱えたまま、つい見入った。


「上手ね」


クロヴィスが振り向いた。

目が合い、アデリアが笑う。


次の一振りで、薪割り台まで割れた。


バキィッ!!!


「……台は割らなくていいのよ」


「すまない……。ついはりきってしまった……」



クロヴィスは、洗濯物を絞るのも最初はできていた。

ところがアデリアが隣から手を伸ばした途端、袖が取れた。


「……ねぇ。どれだけ力、あり余ってるの?」


「お前が急に近づくからだ……!」


「私のせい?」


「……いや」


彼は取れた袖を見つめている。

アデリアは笑いを堪えながら、それを受け取った。


「力を抜いて。そんなに絞らなくても乾くわ」


「魔法なら、すぐに乾く」


「普通に暮らすことを覚えたいと言ったのは、あなたでしょう」


彼は黙って次の一枚を取った。


一方で、何も言わなくても気づくことはあった。

アデリアが低い戸口で頭をぶつけそうになれば、さっと手が差し入れられる。

高い棚の瓶へ背伸びをしていると、後ろから長い腕が伸びてきた。


「これか」


「ええ。ありがとう」


振り向くと、顔が近かった。

アデリアが言葉に詰まると、彼も瓶を持ったまま動かなくなった。


「……? 取ってくれたのよね?」


「あ、ああ」


ようやく瓶が差し出された。

受け取った指が触れると、彼の喉が小さく動いた。


「どうしたの?」


「何でもない……」



クロヴィスは、頬を赤く染めながら空いた棚へ視線を向けた。

何も入っていないのに、ずいぶん熱心に見ていた。



双子に対しては、どうにも甘かった。


「二人に、何を渡したの?」


アデリアが尋ねると、クロヴィスの両脇で双子が手を隠した。


「エリル。見せて」


小さな手に、砂糖漬けの果物が二つあった。

ララの手にも二つある。


「夕食の前でしょう」


「菓子ではない。果物だ」


「砂糖漬けです」


「……果物でも、菓子なのか」


エリルが父親と同じ顔で驚いている。

ララはアデリアの顔を見てから、そっと一つを父親へ返した。


アデリアは、ため息をついてエリルとララの頭を撫でた。


「……それは、夕食の後にしましょう」


約束をすると、三人はそれぞれ頷いて笑った。



五日目には、靴の左右も間違えなくなった。

双子は朝になると並んで窓を覗き、お父さんが来るのを待った。


「お父さん、まだかな」


「きょうは、わたしがさきね」


「きのうも、さきだった!」


「きのうは、猫だったよ」


二人の背中を見ていると、嬉しいのに、不安にもなった。

もしまた来なくなったら。

そのとき、この子たちに何と言えばいいのだろう。



ある夕方、アデリアは帰り支度をするクロヴィスを呼び止めた。


「……私、まだ怖いの」


彼は外套を持つ手を止めた。


「来られない日は、必ず知らせる」


「そういうことだけではなくて……」


クロヴィスは外套を椅子へ戻した。

時計を確かめ、アデリアの隣へ座る。


「四年も会いに来なかった俺を、すぐに信じろとは言わない」


膝に置いた彼の手が握られた。


「だが、怖いなら言ってくれ。何も言わずに我慢するのは、もうやめてほしい。俺も……そうする」


アデリアはその横顔を見た。

彼は急かさず、黙って座っていた。


「あの子たちが生まれた日もね、すごく怖かったの」


気づけば、そんな話をしていた。

初めての出産で、双子だと分かり、どう育てればいいのかも想像できなかった。

一人目の泣き声が聞こえた後も、もう一人が泣くまで息を詰めていた。


「二人とも、驚くほど小さかったわ。抱くのも怖くて。なのに助産師さんは、はい、もう一人ですよって」


手を動かすと、クロヴィスもその形を見た。


「両腕に?」


「そう。でも、温かかったの。二人とも、ちゃんと生きてるって……」


アデリアは指を握り、膝に戻した。


「エリルが初めて笑ったのは、私がくしゃみをしたときだったわ」


「くしゃみで?」


「ええ。何がおかしいのか、何度も笑うの。だから私、わざと何回も……」


思い出すと笑ってしまった。

彼も口元を緩めた。


「ララは?」


「少し後だったわ。エリルが笑っているのを見て、一緒に笑ったの」


クロヴィスは膝の上の自分の手へ目を落とした。


「……見たかった」


アデリアの笑みが止まった。


「初めて笑った顔も、歩いたところも。お前が、二人を抱いているところも」


彼の手に、自分の手を重ねた。


「……じゃあ、これからは、見ていて」


金色の目が上がる。


「まだ、できないことの方が多いんだから。教えることも、たくさんあるわよ。あの子たちには父親が必要よ」


クロヴィスは一度唇を結び、それから頷いた。


「……ああ」


重ねた手を、ゆっくりと握り返してくれた。



◆◆◆



休日、四人で市場へ出かけた。

クロヴィスが双子と外を歩くのは初めてだった。


「欲しいものがあれば、何でも言え」


「……なんか、嫌な予感がするわ……」


アデリアの予想通り、玩具屋の前で足を止めた途端、彼は店主へ声をかけた。


「ここにあるものを全部――」


アデリアは慌てて横から割って入る。


「馬の玩具を一つと……ララは、何がいい?」


店主が戸惑いながら木彫りの馬を差し出すと、ララは隣の棚を指さした。


「これ。あかいおようふくの子」


小さな人形だった。

アデリアが頷くと、娘は両手を伸ばした。


「一つずつでいいのか? あと十体くらいは必要なのでは……?」


「……そんなにたくさんあっても遊べないでしょう」


「……どうせだったら店ごと……」


「……必要ない!」


アデリアはぴしゃりとクロヴィスを黙らせた。

クロヴィスは納得していない顔だったが、双子は玩具を抱き締めた。


「ありがとう、お父さん!」


「この子、おうちでいっしょにねるの。ありがとう!」


彼は二人の顔を見て、少し黙った。

それから、順番に頭を撫でる。


「……そうか。これで満足なんだな」


アデリアはその横顔を見て笑った。


「嬉しそうね」



彼はアデリアを見て、何か言おうとした。

けれど口元を緩めたまま、また双子を見た。


帰り道、エリルは肩車をしてもらった。

父親の黒髪を両手で掴み、港を指さしては船の数を教えている。

ララはアデリアと手を繋ぎ、何度も上を見た。


「つぎは、わたしのばんよ」


「この橋を渡ったら、代わろうな」


「やくそくだよ」


「ああ」


アデリアは繋いだ手を握り直した。

クロヴィスの肩で息子が笑い、隣では娘が人形を揺らしている。


「お父さん、あしたも来る?」


「ああ」


「あさ?」


「ああ。朝だ」


「じゃあ、ぼくの靴お父さんが、はかせてね」


「分かった。約束だ」


「わたしのもよ。ピンクのくつ」


「二人とも、俺が履かせる」


その返事を聞いて、アデリアも笑った。



橋のたもとへ差しかかった時だった。

馬のいななきが響いた。

荷車の車輪が石の隙間に挟まり、馬が暴れている。

御者が手綱を引いたが、車体は大きく傾いた。

積まれた石材の留め具が外れ、勢いよく前を歩いていたアデリアとララの方に倒れてきた。


「あぶない!」


エリルが叫んだ。


ハッとしたアデリアが、ララをかばうように抱きしめる。


クロヴィスが素早く息子を抱き下ろし、空いた手を石材へ向ける。

しかし、その直前、エリルの両手から金色の光が広がった。

アデリアの頭上に薄い膜ができ、落ちた石材を受け止める。


「エリル、やめろ!!」


何かが割れる音がした。

金色の光が砕け、すぐに黒い靄が石材を包んだ。

道の端へ石が落ち、人々が悲鳴を上げる。


「エリル……?」


ララが、アデリアの指を強く握った。

クロヴィスの腕の中で、小さな頭が力なく垂れていた。


◆◆◆


「ねえ、エリル。お母さんの声、聞こえる……?」


家へ連れ帰っても、息子は目を開けなかった。

小さな唇から色が抜け、握った手は冷たくなっていく。

アデリアはその手を両手で包み、何度も擦った。


ララが寝台の端へ手をかけていた。


「エリル。おめめ、あけて」


いつもならすぐに返事をする兄が動かず、娘も黙ってしまった。

アデリアの袖を掴んで、そばに立っている。


呼び寄せられたグレイが、エリルの胸へ手をかざした。

金色の光が弱く明滅する。

長い診察の後、彼はララをアデリアの隣へ座らせた。


「生命核が損傷しています」


アデリアは顔を上げた。


「まだ幼い体で、大きな魔力を放ってしまった。核が負荷に耐えられなかったのでしょう」


「……治せるんでしょう?」


返事がなかった。

アデリアはクロヴィスを見た。


「魔法でも、薬でも……何かあるわよね?」


彼は息子のそばへ座った。

小さな手には、木彫りの馬が握られていた。

指を一本ずつ開き、玩具を枕元へ置く。


「俺のを使え」


グレイが顔を上げた。


「陛下。それは……」


「同じ血だ。適合するだろう」


「……何を、使うの?」


アデリアが尋ねると、クロヴィスはこちらを見た。


「俺の生命核を、エリルに移す」


「そうすれば、この子は助かるの?」


「ああ」


よかった、と言いかけた。

けれどグレイの顔を見て、口を閉じた。


「……あなたは?」


クロヴィスは答えなかった。


「クロ。あなたは、どうなるの?」


彼の腕を掴む。

答えたのはグレイだった。


「魔族は、生命核を失えば生きていられません」


アデリアは彼を見た。

聞こえた言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。

クロヴィスの腕を掴んだ指に力が入る。


「だめよ……!」


そう言ってから、寝台の息子を見た。

胸がかすかに上下している。

少し待っても次の息が来ない気がして、アデリアまで息を止めた。

ようやく小さな胸が動き、声が漏れた。


「……だめ。そんなの」


エリルを助けてほしい。

クロヴィスにも、ここにいてほしい。

それ以外のことは、考えられなかった。


「アディ」


大きな手が、アデリアの手に重なった。

俯いたままでいると、彼はそれ以上何も言わずに待った。

アデリアは唇を噛み、顔を上げた。


「俺は、エリルを助けたい」


「……私だって、助けたいわよ」


涙がこぼれた。


「でも、あなたが死ぬなんて嫌……」


クロヴィスの顔が歪んだ。

目を閉じ、握っていた手へ力を込める。


「俺も、お前たちと一緒に生きていたい」


その声がかすれた。


「明日の朝も、二人に靴を履かせる約束をした」


アデリアの涙が、彼の手へ落ちた。

クロヴィスは寝台の息子を見た。


「もっと、お父さんと呼ばれたかったな。……お前と二人で、あの子たちが大きくなるところを見たかった」


ララが、彼の服を引いた。


「お父さんも、ないてるの?」


クロヴィスは娘へ顔を向けた。

小さな頭を撫で、額へそっと口づける。


「ララ。お母さんのそばにいてくれ」


娘は頷いた。

父親の手が離れると、アデリアの服へ掴まり直した。


「見ててよ……」


アデリアは首を振った。


「大きくなるところ、見ててよ! 私、もう出ていけなんて言わないから……!!」


彼の指が涙を拭った。

アデリアはその手を掴んだ。


「お前のスープも、まだ食べたい」


「作るわよ。何度だって作るから!」


温かい手だった。

さっきまで、二人を抱き上げ、玩具を渡していた手。

どうしても離せなかった。


「すまない」


「嫌……」


彼の服を掴む。


クロヴィスは腕を伸ばし、アデリアを抱き寄せた。

顔が胸へ触れた瞬間、懐かしい匂いがした。

彼の服に額を押しつけ、アデリアは声を絞り出した。


「好きよ」


抱き締める腕が、強くなった。


「嫌いになんて、なれなかったわよ。ずっと、好きだったのに……」


クロヴィスの唇が、アデリアの桃色の髪に触れた。


「俺もだ……アディ」


アデリアが顔を上げると、クロヴィスはゆっくり腕をほどいた。


「そばに、いてくれ」


「いるわよ。どこにも行かないから……」


彼の背へ手を添える。

クロヴィスは自分の胸へ手を当てた。

指先が黒い光に沈み、やがて金色に輝く結晶が引き出された。

体が揺れ、アデリアは慌てて支えた。


「クロ……」


彼は結晶をエリルの胸へ重ねた。

小さな体に光が沈み、部屋の中が白く染まる。

アデリアはクロヴィスを支えたまま、息子を見つめた。

ララが兄の指を握っている。


やがて、エリルが大きく息を吸った。

頬に赤みが戻り、布団の上で指が動いた。


「……おかあ、さん」


「エリル……!」


アデリアは顔を寄せようとした。

そのとき、支えていた体が重くなった。

慌てて両腕で受け止めたが、そのまま床へ座り込んでしまう。


「お母さん。エリル、おきたよ」


ララの声に、クロヴィスが目を向けた。

寝台の息子と、その手を握る娘を見ている。


クロヴィスの指がアデリアの手を探した。

すぐに握ると、かすかに握り返された。


「……アディ。愛してる……」


声が途切れた。

アデリアはクロヴィスの顔を覗き込む。


指から力が抜けた。

アデリアはその手を握り直した。


「……クロ?」


返事はなかった。


「クロヴィス。ねえ、起きて……お願い」


ララが床へ座り、父親の顔を覗き込んだ。


「お父さんも、ねんね?」


アデリアは答えられなかった。

娘は小さな手で、クロヴィスの頬を撫でた。


「エリル、なおったよ。もう、いたくないよ」


返事を待ち、もう一度その頬に触れる。


「お父さん?」


ララがアデリアを見上げた。

その唇が震えていた。

アデリアは娘を片腕で引き寄せたが、何も言ってやれなかった。


アデリアは、クロヴィスの髪を払った。

頬に、自分の指の跡が残っている。

さっきは、力いっぱい顔を包んでしまった。


黙っているだけなら、いつもの彼と変わらない。

けれど胸へ手を当てても、何も伝わってこなかった。


「明日も来るって……言ったでしょう」


その声が、自分のものに聞こえなかった。



四年前は、追いかけられなかった。

嫌われたと思って、伸ばした手を引っ込めた。

今は、この人の気持ちを知っている。

自分と子どもたちのそばにいたかったのだと、聞いたばかりだった。


「一人で行かないでよ……」


彼の頭を抱き寄せ、額を合わせた。

触れても、体は苦しくならなかった。

あれほど離れる理由になっていた瘴気が、もうなかった。


「猫でもいいから。もう、追い出したりしないから……」


涙が、彼の頬を伝った。

ララが父親の袖を引き、声を上げずに泣いていた。


「……いっぺん死んだ方がいいなんて……言わなきゃよかった……。クロヴィス……お願い。死なないで」


泣きながらクロヴィスに縋りつくアデリア。

その時、グレイが膝をついた。

何か言いかけて、急に口を閉じる。

指がクロヴィスの喉元へ触れた。


「……アデリア様。そのままで」


胸へ耳を寄せ、もう一度喉元を確かめる。

アデリアは動けなかった。


「何……?」


「今、わずかに」


グレイは襟元を緩めた。

息を確かめるように顔を近づける。


「陛下は、人間であった頃の魂を失ってはいなかったのかもしれません」


アデリアは腕の中のクロヴィスを見た。

ララも泣くのを堪え、父親の顔を見つめている。


「クロ……。聞こえる!?」


頬に触れた。


「お願い。戻ってきて……!!」


胸に頬を寄せた。

何も聞こえず、もっと近くへ顔を寄せる。


小さな音がした。

アデリアは息を止めた。

少し間を置いて、もう一度聞こえた。


「……グレイ」


「ええ。動いています」


顔を上げると、クロヴィスのまぶたが動いた。

金色の目が薄く開く。


「……アディ」


返事をしようとしたのに、声が出なかった。

アデリアは両手で彼の頬を包み、何度も頷いた。


「……二人は」


「いるわよ。二人とも、ここにいる」


グレイが少し体を引き、寝台が見えるようにした。

エリルが眠っている。

ララが、クロヴィスの袖を握った。


「お父さん」


大きな手が動き、娘の指へ触れた。

ララは両手で握り返した。


クロヴィスが自分の胸を押さえる。


「核が……」


「ありません。魔力も消えています」


グレイの声が震えていた。


「ですが、心臓が動いています。人間として、生きておられます……!」


クロヴィスはアデリアを見た。

何か言おうとしたが、アデリアは首を振り、その首へ両腕を回した。

言葉にしようとすると、泣き声しか出てこなかった。

今はただ、ここにいてほしかった。


「……アディ」


背中に手が触れた。

今度は、抱き返してくれた。

ララも腕の間へ潜り込み、泣きながら父親の服を握った。


◆◆◆


十日ほど経つと、クロヴィスは家の中を普通に歩けるようになった。

ただ、人間の体には慣れないらしい。

水桶を二つ運んでは途中で休み、冷たい水で洗濯をすれば手を振っていた。


「人間は、不便だな」


芋の皮をむきながら、難しい顔をしている。

アデリアは厚すぎる皮を見て、ため息をついた。


「その不便な人間を、誰が好きになったの?」


軽くからかったつもりだった。

彼は顔を上げ、真面目に答えた。


「俺だ」


アデリアの方が黙った。

クロヴィスはしばらくこちらを見ていたが、やがて少し笑った。


「……また、その顔をする」


「どんな顔よ」


「いや」


彼は芋に目を戻した。

耳が赤いのは、こちらに見えていないつもりらしい。


その日、エリルが黒い毛糸玉を持ってきた。

ララは布団の上をきれいに空けている。


「お父さん。猫になって!」


クロヴィスは二人を見た。


「……もう、なれない」


「どうして?」


「魔法が使えなくなった」


エリルが毛糸玉を見下ろした。

クロヴィスは少し考え、猫のように手を伸ばした。


「にゃん――」


「人の姿でじゃれるのはやめて」


アデリアが先に止めた。

ララが父親の袖を引く。


「猫じゃなくても、いいよ。こっち、すわって」


布団を叩いて場所を示す。

彼が座ると、二人は当然のように左右へ潜り込んだ。


「ぼく、ここ!」


「せまいよ。もうちょっと、あっち」


押し合う二人の間で、クロヴィスはおとなしく座っていた。

アデリアが見ると、彼は片方の口角だけを少し上げた。


「猫でなくても、いいらしい」


「よかったわね」


「ああ」


魔王領の政務は、新たな魔王を迎えるまでグレイが取り仕切ることになった。

エリルの体も診てくれている。

受け継いだ力は、成長に合わせて少しずつ扱い方を覚えればいいそうだ。

ララにも生まれつきの生命核があり、二人は一緒に魔力の扱いを学ぶことになった。


「次に無茶をしたら、陛下でも叱りますからね」


「もう陛下ではない」


「では、遠慮なく叱れますね」


クロヴィスは何も言い返さなかった。


◆◆◆


夕方、アデリアはクロヴィスの指に巻いた布を替えていた。

前日に包丁で切った傷だった。

何でもない顔で隠していたので、見つけたときには叱った。


「動かないで。まだ赤いわ」


彼の手を取り、布を外す。

ふと見上げると、金色の目とぶつかった。


「何?」


「……いや」


目を逸らされ、アデリアは眉を寄せた。


「痛いなら、痛いと言って」


「痛くはない」


「では、どうしてそんな顔をしているの?」


彼は口を開き、また閉じた。

アデリアが待っていると、ようやく小さな声が落ちた。


「お前が近づくと、心臓が痛くなる」


布を押さえる手が止まる。

顔を寄せていたことに気づき、アデリアまで落ち着かなくなった。


「手当てをしているのよ」


「分かっている」


クロヴィスがこちらを見る。

視線が一度だけ唇へ落ち、すぐに戻った。


「昔から、お前が近づくと平気ではいられなかった」


かすれた声だった。

アデリアの指が、彼の手に触れたまま止まった。


「お前は、何でもない顔で近づいていたが……」


「何でもなくなんか、ないわよ」


思わず返すと、彼が目を見開いた。

二人とも黙り、どちらともなく顔が近づく。

唇が触れる瞬間、廊下から声がした。


「お母さん! お父さん!」


「みて! できたよ!」


二人同時に振り向いた。

双子が積み木の塔を指さしている。

アデリアは慌てて布を結んだ。


「……できたわよ」


「あ、ああ」


手を離すまでに、少しだけ時間がかかった。



夜、双子が眠ってから、二人で食卓へ座った。

今は寝台を増やし、クロヴィスも一緒に暮らしている。

人間になったばかりで心配だったし、双子も帰ってほしくないと言った。

ただし、アデリアとは別の部屋だった。


「アディ」


スープを飲み終えたクロヴィスが、姿勢を正した。


「俺と、もう一度結婚してほしい」


アデリアの手が止まった。

差し出されたのは、一輪の花だった。

茎を包んだ紙が少しよれている。

小さな花の絵も描かれていた。

エリルが紙を巻き、ララが描いたのだろう。


「……三人で相談したの?」


「……そうだ。エリルとララにも、“お母さんとけっこんして”と言われた」


アデリアは花と彼の顔を見比べた。


「そう。……でも、まだ早いわ」


花が少し下がった。


「……そうか」


アデリアは手を伸ばし、花を受け取った。

彼が顔を上げる。


「結婚は、もう少し先。でも、まずは……」


クロヴィスが口を閉じる。

花を包む紙を指で撫でた。


「恋人から、やり直しましょう」


金色の目が大きく開いた。

しばらくして、彼が手を差し出す。


「……触れてもいいか」


アデリアは笑い、その手を取った。


「……ええ」


大きな手が、アデリアの手を包んだ。

少し震えている。

指を握り返すと、彼の息がわずかに詰まった。


「そんなに緊張しないで……こっちが恥ずかしくなるから」


「……無理だ」


即答だった。

クロヴィスは困った顔で、繋いだ手を見ている。


「好きな女に、もう一度触れてもいいと言われたんだ。どうすれば平気でいられる」


アデリアは目を逸らした。

彼が少し笑った。

繋いだ手を持ち上げ、指先へ唇を触れさせる。

息を止めたアデリアを見て、すぐに顔を上げた。


「嫌だったか?」


アデリアは首を振った。

手が離れそうになり、今度はこちらから握った。


「……いいえ、ドキドキしてたまらないの……」


クロヴィスは、頬がピンク色に染まるアデリアを見て、今度こそ我慢の限界がきた。

そのまま熱いキスをして、見つめ合う。

もうそこに言葉は必要なかった。


◆◆◆


朝食の支度をしていると、寝室から双子が出てきた。

エリルがまっすぐ父親へ走り、ララもその後を追う。

クロヴィスは膝をつき、二人を受け止めた。


エリルは笑い、それからクロヴィスの頬へ手を添えた。


「……お父さん、もう、いたくない?」


クロヴィスの手が止まった。


「痛くない」


ララもクロヴィスの頬を撫でる。


「もう、ねんねしない?」


アデリアは鍋をかき混ぜる手を止めた。

ララの声は、あのときと同じくらい小さかった。

エリルも、父親の返事を待っている。


クロヴィスは二人を抱き寄せた。


「夜になったら眠る。だが、朝には起きる」


「あしたも?」


「ああ」


「あさっても?」


「ちゃんと、おきてよ」


ララの指に力が入った。

彼はその小さな手を、自分の手で包んだ。


「起きる。二人が呼んだら、ちゃんと」


エリルがようやく笑った。

ララも父親の肩へ頬を寄せる。

クロヴィスはしばらく、そのまま二人を抱いていた。


窓辺には昨夜の花が飾られている。

アデリアは食卓へ四つの器を並べた。


「スープ、できたわよ」


「ああ」


双子を椅子へ座らせ、クロヴィスがこちらへ来た。

彼の器へ芋を一つ多く入れると、手が重なった。


「アディ」


振り向くと、その指が頬に触れた。


「……どうした?」


自分が泣いていることに、初めて気づいた。

アデリアは手の甲で拭おうとしたが、彼の手が先に涙を拭った。


その手に頬を寄せ、アデリアは少し笑った。


「人間は、嬉しくても、泣くの」


彼はもう何も言わず、頬を撫でてくれた。


「お母さん、こっちだよ」


ララが隣の椅子を叩いている。

エリルは匙を握り、二人が座るのを待っていた。


「……ええ。今、行くわ」


アデリアはクロヴィスの手を取り、食卓へ戻った。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!


本当に、シナリオライターぶりに作品を完結させました(笑)

短編書くの楽しかった〜!


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