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文句を言わない婚約者は、俺の愛する幼馴染みを許していなかった

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/04/03





 アウローラのクラスへ向かうと、彼女は窓際で教科書を読んでいた。


「悪い。今日の茶会、30分遅らせて。

 エステルが『腹痛い』っていうから送ってく」


「わかりました」


 声をかけると、短く事務的な返事。


 薄紫の瞳と同様、彼女は揺らがない。


「良かった。じゃあね」


 そう言って教室を出た。




 ノワイエ男爵邸。


 部屋にエステルを運び、ベッドに横たえる。


 ミルクティー色の髪が枕に広がり、水色の瞳は弱々しく揺れている。


「じゃあ、俺は帰るよ。お大事に」


 早く戻らないと、アウローラとの茶会に間に合わない。


「待って、トリスタン。行かないで」


 エステルは起き上がり、儚げな顔で俺を見つめた。


 俺は、この顔に弱い。


 婚約者のアウローラは、美人ではあるが隙がなく可愛げがない。


 対して幼馴染みのエステルは喜怒哀楽が、はっきりしていて愛らしい。


「寝てろよ」


「もう良くなったわ」


「え?」


 さっきまであんなに痛がってたのに、そんなにすぐ治る?


「それより、この前アウローラに酷いこと言われたの」


「なんだって?」


「学園の中庭を通ったら、お友達とクッキーを食べてたわ。

 だから『私にも1つちょうだい』って言ったら──」


「言ったら?」


「『さすが卑しいわね』って笑われて、くれなかった……」


「何だって? たかがクッキーで?

 わかった、注意しておく」


 立ち去ろうとすると、エステルが袖を掴んだ。


「待ってよ。このまま、すっぽかした方が反省するわ」


「そうかも」


 彼女の言う通り俺は、そのまま茶会をすっぽかした。


 これで少しは反省すればいいけど。





 ──翌朝。

 俺はエステルと登校する。


 彼女は実家で冷遇されていて馬車を出してもらえないので、俺が送迎している。


 並んで歩くエステルの肩は華奢で、守ってやらなきゃと思わせる。


 校舎の方を見ると、アウローラのプラチナブロンドが目に入った。


「アウローラ!」


 呼び止めると、少し前にいたアウローラが振り向いた。


 表情は、いつも通り変わらない。


「何か言うことあるか?」


「いいえ」


「何だと? エステルに『卑しい』と言ったそうじゃないか。

 謝れよ。

 さもないと、今後も茶会をすっぽかすぞ」


 アウローラは2度だけ瞬きをした。

 声は冷静そのものだった。


「あなたとは2度と茶会しないから、この先いくらすっぽかしても構いません。

 昨日も待ってませんでした」


「……え?」


 婚約者は何も言わず、踵を返して去っていく。

 背筋はまっすぐで、まるで俺など最初から存在しなかったかのようだ。


「待て!」


 追いかけようとした俺の腕を、エステルが掴んだ。


「追いかけたら向こうの思う壺よ。

 駆け引きしてるんだって。

 あなたが焦ることで、自分が優位に立ちたいのよ」


「なるほど」


「それより、もうすぐ花祭りね。

 もちろん一緒に行くでしょ?」


 エステルは俺の腕に寄り添い、甘い声で囁く。


「それは……一応、アウローラに聞いてみないと」


 花祭りは、恋人や婚約者が一緒に行く伝統行事だ。


 他の相手を連れて行けば、婚約が上手くいっていないという意味になる。


 エステルは小さく首を振った。


「今このタイミングで花祭りに誘えば、許したことになってしまうわ。

 あなた婿に行くのでしょう?

 今から舐められていたら、結婚した後いいように尻に敷かれるわよ」


「確かに、そうだ」


 俺はエステルの言葉を信じた。

 いつだって、エステルの言葉は俺の心を軽くしてくれる。





 学園の鐘が鳴り、授業が終わった。


 俺は廊下の柱の陰から、アウローラの姿を探した。


 彼女は友人と並んで、図書室の方へ向かっていく。


 その背中を見て、ほっと気持ちが軽くなった。


 ──これなら、エステルと花祭りに行っても問題ない。




 街は花祭りの飾りで彩られ、通りには色とりどりの花弁が舞っていた。


 屋台の灯りが夕暮れに揺れ、甘い菓子の匂いと花の香りが混ざり合う。


 エステルは、水色の瞳を輝かせながら出し物を見て回っていた。


 儚げな顔立ちに、花祭りの光がよく似合う。


 俺は屋台で見つけた銀細工のアクセサリーと淡い桃色の花を、エステルに手渡した。


「これ、似合うと思う」


「ありがとう」


 エステルは嬉しそうに笑い、頬を染めた。

 その笑顔を見るだけで、俺は満足だった。


 ──だが、その時だ。


 前方に、4人の姿が見えた。


 アウローラと友人のミリン。


 そして、ミリンの兄であるアレクサンダー・アークライト伯爵令息。

 黒に近い紺髪を持つ、実力派美男。


 さらにアウローラの従弟マリュス。

 淡い金髪の少年で、アウローラと同じ気品を纏っている。


 俺は思わず声を上げた。


「アウローラ! ここで何してる?!」


 4人が同時に振り向き、ぽかんとした表情を浮かべた。


 最初に口を開いたのは、アレクサンダーだった。

 鋭い灰色の瞳が、俺とエステルを交互に見た。


「あなたこそ。

 親族でも婚約者でもない女性と、何をしているんです?」


「こっちは幼馴染みだ」


「はあ?」


 アレクサンダーの眉がわずかに動く。


 その横で、マリュスが静かに言った。


「僕達は親族同士ですが」


「一緒に行動すれば、ダブルデートになるだろう」


 俺がそう言うと、アレクサンダーは呆れたようにため息をついた。


「単なる護衛役です。女性2人じゃ危ないから」


「いや、俺が言いたいのは──」


 言いかけたところで、エステルが俺の腕を引いた。


「何してるの。早く行きましょう」


 その声に、アレクサンダーがふと彼女の手元を見た。


「手に持ってる花は、誰が買ったんだ?」


 エステルは胸に抱えた花を見せ、微笑んだ。


「もちろんトリスタンよ」


 4人の視線が一斉に俺に向く。


 ──沈黙。


 アウローラの薄紫の瞳が、わずかに細められた。


「皆、ごめんなさい。空気を悪くして。

 良ければ我が家で晩餐を、ご一緒しない?」


 ミリンもアレクサンダーも、従弟も頷いた。

 その穏やかな空気に、俺だけが苛立ちを覚えた。


「おい! 男を家に招くな」


 声が少し大きくなった。

 マリュスが眉をひそめる。


「だから親族だと言ってるのに」


 エステルが、俺の袖を引いた。

 水色の瞳が不満げに細められる。


「トリスタン、いい加減にして。

 お祭りの途中なのよ」


「しかし──」


 言いかけた俺の言葉を、アウローラが遮った。


「これ以上しつこいと、“婚約者でない女性”と2人で花祭りに行って花を贈り、私達に絡んだことをバルネット侯爵に知らせます」


 その声音は淡々としているのに、背筋が凍るほどの威圧があった。


 名門ディアナス家の次期当主──その重みが、言葉の端々に滲んでいる。


 俺は何も言えなくなり、黙って引き下がった。


 父に報告されるのは、マズい。


 でも、本当は──エステルを送ったあと。


 アウローラに花束を届ける予定だった。


 あの3人が一緒なら、行ったところで門前払いされるに決まっている。


 歯軋りする俺を置いて、婚約者一行は去っていった。


 エステルが、俺の横でため息をついた。


「ちょっと。可愛げない婚約者のことなんか、どうだっていいじゃない。

 ああやって気を引きたいだけよ」


 その言葉に、苛立ちが和らぐ。


 そうかもしれない。


 アウローラはいつも冷静で、何を考えているのかわからない。

 俺を試しているだけなのかもしれない。


「ああ、そうだ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 下手に出れば、結婚後思いやられる。

 考えないことにしよう。




 エステルを送ってから帰宅すると、居間には重苦しい空気が漂っていた。


 母はソファに腰掛け、手紙束を握りしめていた。


「アウローラから手紙が来ないの。

 どういうこと?」


「は? 返事のし忘れでは?」


 しっかりしているように見えて意外と、うっかりしているようだ。


 だが母は首を横に振った。


「違う。トリスタンの婚約者予算が減ってるって事は、デートしたりプレゼントしたりしてるって事でしょ。

 だったら、お礼の手紙や季節の挨拶が来るはずなのに来ないのが、おかしいって言ってるのよ」


「それは……」


 言葉が詰まった。


 婚約者予算は、全部エステルに使っている。


 アウローラには何もしていない。

 茶会もしていなければ、デートもしていない。


 手紙が来るはずがない。


 そもそも交流がないのだから、婚約者と言えるのかすら怪しい。


 さすがに少しは交流した方がいいのかもしれない──そんな考えが頭をかすめた。


「向こうが友達と遊ぶのに忙しくて、こちらを後回しにしてるんだ」


 苦し紛れに言うと、母は眉をひそめた。


「そういうタイプじゃないと思うけど」


「母上の前では猫をかぶってるんだよ」


「ふうん。まあ、婚約破棄されて困るのはあなたよ。

 この年になったら、もう次の婿入り先なんか見つからないから」


「脅さないでくれよ。

 別に、俺たち喧嘩してるわけじゃないから。大丈夫」


 そう言いながらも、胸がざわついた。


 アウローラに少しは歩み寄った方がいい──俺はデート申し込みの手紙を書いた。


 内容は、俺なりに「折れてやった」のを全面に出した。


『お前がエステルに嫌味を言っても謝らず、花祭りで浮気していたのは許せないが、このままだとまた母に文句を言われるので、次の休みに遊びに行く』


 事実を書いた。



 しかし翌日登校しても、アウローラは何も言ってこなかった。


 俺の存在など、最初からなかったかのように振る舞っている。


 家に帰っても返事は来ない。

 夜になっても来ない。



 翌朝、俺は我慢できずにアウローラのクラスへ向かった。


 彼女は窓際で書類を読んでいた。


 白磁のような肌に朝の光が落ち、まるで彫像のように美しく静かだ。


「おい、何で手紙の返事を寄越さない」


 アウローラは、ゆっくり顔を上げた。

 薄紫の瞳が、冷たく俺を射抜く。


「あの、言いがかりと勝手な来訪の混ざった意味のわからない文のこと?

 嫌がらせに返事するバカが、どこにいるのかしら?」


「事実を書いただけだろう」


「これ以上食い下がるなら、バルネット侯爵に抗議文を送るわ」


「毎回毎回、そればっかりじゃないか」


 言い返した瞬間、背後からエステルの声がした。

 水色の瞳が、俺を見上げてくる。


「もう、いいじゃない。

 こんな無愛想で面白味のない人に、時間を使うことないわ。

 トリスタン『アウローラは可愛げない』って、いつも言ってるじゃない」


「それは……」


 言葉に詰まった俺を、アウローラは一瞥した。


「どうぞ、そちらの方とお過ごしください。

 こちらには、お構いなく」


 そう言い残し、自分の席へ戻って行った。

 俺など、最初から視界に入っていなかったかのようだ。


 こっちが折れてやっているのに、あんな態度を取らなくてもいいだろう。


 だが、なんとかして母に“仲がいい”と思わせないと、婚約者予算を止められてしまう。


 ──そうだ。

 うちの晩餐に招待すればいい。


 親が一緒なら、アウローラも断れない。


 そう思い立った俺は帰宅し、すぐに母に頼んでアウローラ一家を晩餐に招待した。





 ──晩餐会、当日。


 教科書を鞄に詰めていると、エステルが近づいてきた。


「私も晩餐に行きたい」


「うちの家族だけならまだしも、向こうの家族が来るのにエステルが同席していたら、おかしいと思われるだろう」


 エステルは唇を尖らせた。


「堂々と『幼馴染み』と言えばいいじゃない。

 やましいことないんだから。

 飛び入り参加ってことよ」


「さすがに、それをしたら付き合いを親に禁止されるよ」


「んー……だったら、学校終わってから晩餐会まで時間あるよね?

 その間だけでも一緒にいてくれる?」


 水色の瞳が潤んで見えた。

 必死にねだる声に、胸が締めつけられる。


「ああ、わかったよ」


「やった。良かった♪」


 エステルは嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を見ると、俺は間違っていないと思える。


 アウローラは冷たく、何を考えているのかわからない。

 エステルだけが、俺を必要としてくれる。




 下校してから晩餐まで、3時間あった。


 その間、エステルの部屋で過ごすことにした。


 ノワイエ男爵邸の小さな部屋は、薄いカーテン越しに夕陽が差し込んでいた。


 晩餐の30分前になり、俺は腰を上げた。


「そろそろ帰るよ」


「まだ、いいでしょ」


 袖を掴む手──小さくて胸を締めつける。


「遅刻すると、まずいから」


 そう言った瞬間、エステルが俺に抱きつき、そのまま唇を重ねてきた。


「……え?」


 水色の瞳が潤み、俺を見上げる。


「私、トリスタンが好きなの。

 だから、1分でも婚約者のところに行って欲しくないの。

 ギリギリまで、ここにいてよ」


 その声は甘く、弱く、俺の理性を溶かした。


 気づけば俺の方からもキスを返していた。


 ──一線は越えなかった。


 だが、夢中で抱き合い、触れ合い、時間の感覚が消えていた。


 気づけば、晩餐開始予定を1時間も過ぎていた。


 慌てて帰宅すると、屋敷の食堂ではすでに食後のお茶が飲まれていた。


 アウローラは、こちらを一瞥しただけで、何も言わなかった。


 その沈黙が、逆に恐ろしかった。


 次の瞬間、父の怒号が飛んだ。


「どこを、ほっつき歩いていた?!

 ディアナス伯爵ご一家を待たせて、どういうつもりだ!」


 父の顔は真っ赤で、怒りに震えていた。

 母も立ち上がり、鋭い目で俺を睨む。


「本当に恥ずかしいわ……。

 トリスタン、婚約者をバカにしてるの?!」


 言い訳なんてできなかった。

 俺はただ、その場に立ち尽くすしかない。


 食堂には重苦しい空気が漂っていた。

 

 アウローラは薄紫の瞳を伏せたまま、淡々とティーカップを口に運んでいた。


 沈黙が、何よりも怖かった。


 そんな中、アウローラの父が口を開いた。


「まあ、いいではありませんか」


 一瞬、許されたのかもしれない──そう思った。


 だが次の言葉が、胸を刺した。


「遅刻しても許されるぐらい優秀なのでしょう。

 うちに入ってくれたら、きっと領地の経営も楽になるはずだ。

 期待しています」


 笑っているわけでも、怒っているわけでもない。

 ただ淡々と、皮肉を言っているだけだ。


 俺はアウローラより成績が悪い。

 領地経営の知識もない。

 優秀どころか、足を引っ張る側だ。


 しかし、ここで否定すれば──

 婚約破棄の話になる。


 喉がひりつき、何も言えなかった。


 アウローラは一言も喋らず、目も合わせない。


 やがて、彼女はティーカップを置いた。


「お茶も飲み終えましたから、そろそろお暇しましょう」


 その声は淡々としていて、感情の欠片もなかった。


「ああ」

「そうね」


 アウローラの父母が立ち上がり、一家は簡単な挨拶だけを済ませた。


 アウローラは、最後まで俺を見なかった。

 


 その後、俺は両親にこってり怒られた。


 父は怒鳴り、母は泣きそうな顔で責め立てた。


 俺は何度も頭を下げ、埋め合わせをすると約束した。


 さすがに、自分でもこれはまずいと思った。

 アウローラの冷たい沈黙が、胸に重く残っていた。




 翌日。

 学園の廊下で、俺は意を決して声をかけた。


「次の休みに街歩きしないか」


 アウローラは、きょとんとした顔でこちらを見た。

 まるで意味がわからない、と言いたげに。


「いつもの方と行けばいいでしょう。

 忙しいのですが」


「いや、だから昨日の埋め合わせをしないと、両親に怒られるから」


「そうなのですか」


 淡々とした返事。

 怒っているのか、呆れているのか、まったく読めない。


「じゃ、次の日曜日──15時に迎えに行く」


 そう言って俺は、その場を去った。




 日曜日。

 14時半に出掛けようとすると、エステルから呼び出しが来た。

 

 体調不良だと言う。


 急いで見舞に行き、気づけば1時間も遅れてアウローラの家に到着した。


 ディアナス伯爵家の屋敷は白い石造りで、庭には整えられた薔薇が咲き誇っている。


 執事が頭を下げた。


「本日、お約束があるとは聞いておりませんが? 何時のお約束でしたか?」


「ええっと、それは……」


 遅刻したせいで言いにくい。


「アウローラは、どこへ行ったんだ?」


「孤児院の慰問です」


「わかった。そちらへ行く」




 ──孤児院。


 だが、アウローラはいなかった。

 すでに帰ったと職員がいう。


 再びアウローラの家に戻ると、執事は首を振った。


「お嬢様は、まだお戻りではありません」


「中で……待たせてくれ」


 そう言って、屋敷に上がり込んだ。


 白い応接室で待ち続け、気づけば夜になっていた。


 いつの間にか、うたた寝していたらしい。


 使用人を呼ぶと、淡々と告げられた。


「お嬢様は、すでに就寝されました」


 胸が冷たくなった。


 仕方なく、俺は家に帰った。


 ──アウローラは、俺を待っていなかった。





 学園の白い回廊を歩くアウローラは、いつも通り背筋が伸びていた。


 その背中を追いかけ、俺は声をかけた。


「どうして、昨日は家にいなかったんだ?」


 アウローラは振り向き、薄紫の瞳をわずかに細めた。


「なぜ家に居なければ、いけなかったのですか?」


「俺が行くと予告したろ」


 アウローラは、ふっと笑った。

 冷たい、意味のない笑みだった。


「予告。さようですか」


 そう言って席に着き、教科書を取り出す。

 完全に話を終わらせる態度だった。


「おい! ……まあ、いい。

 放課後エステルを送ったら、そちらの家に行く。いいな?」


 返事を待つこともせず、俺はその場を去った。




 エステルが“帰らないで”と引き止めたせいで、アウローラの家に着いたのは20時だった。


 ディアナス伯爵家の白い屋敷は、夜の灯りに照らされて静かに佇んでいる。


 執事が扉を開け、深く頭を下げた。


「すでに、お嬢様は就寝の準備をしております」


「いや、そこを何とか……」


 食い下がろうとした瞬間、別の使用人が現れた。


「主人が、お会いになるそうです」


「え」


 アウローラではなく、その父親。


 嫌な予感がしたが、ここで帰れば婚約破棄かもしれない。

 仕方なく応接室へ向かった。




 アウローラの父は、白髪混じりの髪を整え、深い紺色の礼服を着ていた。


 その姿は威厳に満ち、薄い灰色の瞳は鋭く俺を射抜く。


「2年半前に婚約してから今日まで、君が娘と2人で会った回数を知ってるか?」


「えーと……」


 言葉に詰まった俺の代わりに、ディアナス伯爵が静かに答えた。


「8回だ。普通の婚約者は、週に1度は茶会するのに。

 家族ぐるみのイベントも合わせればキャンセル47回、すっぽかし6回、パーティーで放置12回、遅刻23回。そして今回」


 怒気を含んだ声に、心臓が締めつけられる。


「そんなに娘との婚約が嫌なら、君の方から破棄すれば良かったではないか」


「いえ、破棄するつもりはなく」


「ならば、どういうつもりで我が家をバカにしてるのか」


「違います。たまたま急用ができたりで……」


「その急用は、親が危篤になるレベルなのか」


「そこまででは……」


 アウローラの父は深く息を吐き、冷たい声で告げた。


「学園を退学してここに住み、私の補佐をしなさい」


「はい? なんですって?」


「ラストチャンスだ。

 拒否するなら婚約破棄するついでに、うちの娘がされたことを貴族院に提出する。

 君の貴族籍はなくなるだろう」


「そんな! あまりに横暴です」


「最後通牒だと言ってる。譲歩はない」


「ですが!」


「ならば婚約破棄の書面にサインしろ」


 執事が静かに書類を、テーブルに置いた。


「言い訳はきかない。

 謝罪も受け入れない。

 譲歩もしない。

 2択以外ない。

 話を長引かせるなら強硬手段をとる」


 逃げ道はなかった。


「……わかりました。親に相談します」


「相談ではない。決定だ。

 明日、引っ越して来なければ婚約破棄。

 これ以上は待たない」


 アウローラの父は席を立ち、部屋を出ていった。


 執事が静かに頭を下げる。


「玄関まで、お見送りします」


 俺は立ち上がりながら、足が震えているのを感じた。


 ──終わったかもしれない。




 屋敷に戻ると、家族が居間で待っていた。


 父と兄は腕を組み、母は険しい顔で座っている。


 俺は喉がひりつくのを感じながら、アウローラの父から言われたことを伝えた。


 もちろん、キャンセルの回数や遅刻の数は伏せた。


 ただ「これまで家族ぐるみの付き合いに何度も遅刻したため、婿にふさわしくない。心を入れ換えて働かないと婚約破棄だ」と告げられた──そう説明した。


 家族は晩餐やパーティーで俺が遅刻したり、途中で姿を消したことを知っている。


 案の定、呆れた顔を向けてきた。


「もう帰ってくるな。

 婚約破棄されたら縁を切る」


 父の声は低く、怒りを押し殺していた。


「自分の立場を理解しなさい」


 母は冷たく言い放つ。


「どうせ、いつか離婚されて戻ってくるだろう」


 長兄が笑った。


 俺は何も言い返せなかった。

 ただ、心が冷たく沈んでいくのを感じた。





 退学の手続きは父がすると言い、俺は荷物をまとめてアウローラの家へ引っ越した。


 夕方、アウローラが帰ってきた。

 俺を一瞥することもなく、ただ静かに廊下を歩き去っていく。


 何も言わない。

 怒りも、失望も、歓迎も、興味すらない。


 その無関心が、胸に刺さった。


 ──やっぱり、婚約破棄した方がいいのかもしれない。

 今なら復学できる。


 だが、父に「婚約破棄されたら縁を切る」と言われている。

 家を失うわけにはいかない。


 堪えるしかない……のか?


 アウローラの冷たい背中を見送りながら、胸がじわりと痛んだ。





 引っ越して数日が経った。


 ディアナス伯爵家に、エステルが訪ねてきた。


 応接室に入ると、彼女は前のめりで言う。


「いきなり『送迎、出来なくなった』と伝言があってビックリして、帰りにトリスタンの家に行ったのよ。

 そしたら『婿入りの予定を早めて婚家に行った』と……急に、どうしたの?」


 俺はアウローラの父に言われたことを話した。


 退学、引っ越し、補佐として働けという命令。

 拒否すれば婚約破棄と貴族籍剥奪。


 エステルは瞳を大きく見開いた。


「そんな酷い! 横暴じゃない」


「エステルも、やっぱりそう思うよな」


「思うけど……ここよりいい婿入り先を、この先見つけられるとも思えないわ」


 事実だった。


 同世代の貴族は、ほとんど婚約済み。

 今から新しい婿入り先を探せば平民か、老貴族と再婚になるしかない。


 それに──


 アウローラは、俺とエステルの関係に一切文句を言わない。


 他の家に行けば、間違いなく無理やり別れさせられる。


 エステルは俺の胸に手を置き、甘い声で囁いた。


「結婚して当主交代すれば、うるさいアウローラの父親も隠居するわ。

 それまでの間だけ我慢すればいいわよ」


「そうだな」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の重さがふっと軽くなった。


 アウローラの父の圧力も、冷たい屋敷の空気も、エステルの甘い声がすべてを溶かしてくれる気がした。


 ──俺は間違っていない。

 そう思いたかった。


 それからエステルは、3日に1回のペースでディアナス伯爵家を訪れるようになった。





 ──冬休み。


 アウローラが次期当主として本格的に執務を始めた。


 書類を淡々と処理していく姿は、まるで鬼神のようだった。


 俺が理解する前に、彼女はすでに次の仕事に移っている。


 正直、驚いた。

 そして、悔しかった。


 その気持ちをエステルに漏らすと、水色の瞳が細められた。


「本当に可愛げない女ね。

 でも、でも! あの女が仕事してくれれば、あなたはお金だけもらって、あと自由に過ごせればいいじゃない」


 その言葉は甘く、耳に心地よかった。


 そうだ!

 アウローラが全部やってくれるなら、俺は無理に頑張らなくてもいい。


「やっぱりエステルは、よくわかってる。

 俺にはエステルだけだよ。

 いつも心が軽くなって助かってる」


 エステルは嬉しそうに微笑んだ。


 しかし──


「それなら良かった。

 ただ……私の方も助けて欲しいの」


「どうした? 俺にできることならするよ」


「トリスタンが学園辞めてから、友達ができなくて浮いているの」


「ああ……」


 もう学園ではグループが固まっている。

 今さら1人になっても、どこにも入れないだろう。


 エステルは水色の瞳を潤ませ、俺の袖を掴んだ。


 その仕草が、胸に刺さる。


 ──俺が守らなきゃ。


「それに、もう3ヶ月で卒業パーティーでしょ?」


 卒業パーティー。


 俺はアウローラのパートナーとして出席しなければならない。


 だが、アウローラとは事務的なやり取りしかしていない。


 話しかければ返事は返ってくるが、そこに感情はない。


 ──今回はエステルに譲ってくれ、と頼んでみようか。


 そんな甘い考えが頭をよぎった。


 エステルは小さく息を吐き、視線を落とした。


「卒業パーティー……父の古い知り合いの老男爵をパートナーにすると言われたの」


「は? それって?」


「そう。私の結婚相手」


「何だって?!」


 思わず立ち上がった。

 胸がざわつき、怒りが込み上げる。


「酷いじゃないか」


 エステルは、弱々しい声で続けた。


「私って両親に、よく思われてないから……」


 エステルは、子供の頃から親に疎まれている。


 俺が遊びに行くと表向きは愛想のいい両親だが、影では暴言を吐くという。


 登下校の馬車も出してもらえず、自由になる予算も与えられない。


 だから俺はエステルを送迎し、空いた時間はなるべく一緒にいた。


「私の体が弱いから"要らない子"だと思ってるの。

『どうせ子供が産めないんだから、後妻で十分だ』って」


 エステルは虚弱体質で、季節の変わり目には必ず風邪を引く。


「だから……あなたがいないと、私……本当に……。

 でも、その老貴族は辺境だから会えなくなっちゃう」


「ま、待ってくれ!

 親に縁談を止めて欲しいって頼んでみるよ」


 俺が手を握ると、エステルは小さく首を振った。


「それより、ここで一緒に住めない?」


「何だって?」


 思わず聞き返すと、エステルは真剣な顔で続けた。


「両親には、あなたの愛人になると言うわ。

 老貴族は男爵で、あなたは侯爵令息。この家は伯爵だもの。

 男爵は何もできないわ」


 愛人という言葉に浮かれそうになるが、やはり今はマズい。


「それは……そうだが、俺も婚約破棄される寸前で」


 エステルは俺の腕を抱き締め、甘い声で囁いた。


「あなたは格下の家に婿入りしてあげるんだから、愛人の1人ぐらい置いてもいいじゃない」


 その瞬間、不安がふっと軽くなった。


 ──そうだ。

 エステルだけが俺を必要としてくれる。


「そうだな、わかった。

 どうせアウローラは、俺に興味ないんだし。

 エステルが男爵に嫁がなくていいように頼んでみるよ」


 幼馴染みの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとう。よかった……やっぱりトリスタンね!

 決まったら、すぐにでも学校をやめるわ。

 あなたのいない学校になんて行きたくないもの」


 その言葉は甘く、胸に深く染み込んだ。


 ──俺にはエステルだけだ。




 翌朝、俺は実家へ手紙を出した。


やはり婚前に、こちらへ連れてくるのは無理だと思ったからだ。

 

『エステルの縁談を潰してほしい。

 彼女を保護して、離れに住まわせてくれ──』


 だが返事は冷たかった。


『──なぜ親戚でも婚約者でもない赤の他人に、そこまでしなきゃならない?

 バカを言うのも休み休みにしろ』


 父からだ。

 説得はできそうにない。


 仕方なく、アウローラに頼むことにした。


 “愛人にする”とは言えないので、実家で冷遇されていて学園にも居場所がないから保護したい──そう説明した。


 執務机に書類を置いたアウローラは、淡々と言った。


「自分の実家に頼めばいいでしょう」


「頼んだが断れた」


「バルネット侯爵は、何て言ったの?」


「親戚でも婚約者でもない赤の他人を引き取る理由がない、と」


 アウローラは小さく息を吐いた。


「当たり前でしょう」


「頼むよ」


 俺が食い下がると、アウローラは冷静に言った。


「では使用人として雇ってあげる」


「体が弱いのに働かせられない」


「誰でもできる簡単な仕事。

 毎日ではなく、商談のある時だけだから大丈夫」


 それでも俺は渋った。


「でも……彼女は本当に弱いんだ。

 働かせるなんて……」


 婚約者は瞳を細め、静かに言った。


「では、あなたが彼女の生活費を負担するの?

 衣食住、医療費、雑費、人件費。全部」


「え……いや、それは……」


「あなたは領主代理補佐で、うちはその給与を払っているのだから、自分のお金で養って」


「それだとメイド1人も雇えないじゃないか」


「では私と婚約破棄して、住み込みの職場を探せばいい」


「ま、待ってくれよ!

 そんな極端な話じゃないだろ!」


 アウローラは淡々と告げた。


「自分の収入では養えない相手を、私に押しつけようとしている。

 “助けたい”と言うだけで、負担は全部こちらに回す。

 そんな人を夫にするつもりはないわ。婚約破棄よ」


「……っ、わかった。

 使用人として働いてもらう。

 本当に簡単な仕事なんだな?」


「もちろんよ」


「では彼女を連れて来る」


 アウローラは何も言わず、ただ静かに頷いた。


 怒りも失望もなかった。

 ただ、冷たい無関心だけがあった。




 エステルを連れてアウローラの家に戻ると、白い大理石の玄関ホールで使用人たちが出迎えた。


 だが次の瞬間、俺たちは別々の方向へ案内された。


「こちらへどうぞ、トリスタン様」

「ノワイエ男爵令嬢は、あちらの応接室へ」


 俺は思わず声を上げた。


「いや、2人でアウローラと話す。

 案内は1つでいい」


 だが使用人は一歩も引かない。

 薄い青色の瞳が、冷たく俺を見据えた。


「次期当主を煩わせるおつもりですか」


「煩わせるって……婚約者だぞ、俺は」


「婚約者であればこそ、礼を欠く真似はお控えください。

『こちらに従わないなら、実家に送り返す。

 荷物と婚約破棄の書類は後で送る』と、お嬢様から言付けられております」


 その声音は淡々としていて、怒りすら感じられなかった。

 ただ、決定事項を告げるだけの冷たい響き。


 俺は言葉を失った。


 エステルは別室へ連れて行かれ、扉が閉まる音が響いた。




 案内された応接室に入ると、そこにはアウローラではなく──

 家令と書記官、そして医師が待っていた。


 白い壁、整えられた書類、冷たい空気。

 まるで取り調べの場のようだった。


 家令が淡々と口を開く。


「では、ノワイエ男爵令嬢の健康状態について伺います。

 何の病気で、いつから、どのような治療を?」


「えっ……いや、その……本人から病弱と聞いただけで……」


 特に何の病気があるかは知らない。


 医師が鋭い目で俺を見る。


「診断名は? 主治医は? 処方薬は?」


「そ、それは……実家で冷遇されてて医者に診せてもらえないんだ。

 でも普段から頻繁に腹痛やふらつきがあって、季節の変わり目には風邪をひく。

 虚弱体質だ。仕事はできない」


 事実ながら、自分でも苦しい言い訳だと思った。


 すると家令が書類を差し出してきた。


「わかりました。では、こちらに署名を。

 “婚約者として不貞行為をしない”という契約書です」


「ふ、不貞って……!」


「ノワイエ男爵令嬢を屋敷に入れる以上、関係が疑われては困りますので」


 さらにもう1枚、静かに置く。


「こちらは婚姻届です。

 お嬢様との婚約を継続する意思があるなら、署名を」


「い、今ここで……?」


「当然です。

 責任を取る覚悟があるかどうか、確認させていただきます」


 逃げ道はなかった。

 アウローラの父の“最後通牒”が頭をよぎる。


 俺は契約書を読んだ。


 ──不貞した場合、持参金を慰謝料として没収。

 ──エステルがトラブルを起こした場合、トリスタンが全責任を負う。

 ──体調等、虚偽の申告があった場合、一生使用人として働く。

 ──給与は過去の度重なる侮辱行為デートのキャンセルなどの賠償を差し引いた額を支給。


 胸が冷たくなっていく。


 しかし、もう逃げられない。


 俺はただ、震える手で次々と署名するしかなかった。




 契約書への署名を終え、ようやくエステルのところへ行こうと立ち上がった瞬間だった。


 扉の前に立っていた使用人が、静かに頭を下げた。


「ノワイエ男爵令嬢は“使用人候補”です。

 あなたは“領主代理補佐”。

 職務上の接触以外は禁止です」


「ふざけるな! 俺が連れて来たんだぞ!」


 声を荒げると、家令が間に入る。


「これ以上騒ぐなら、屋敷からお引き取りください」


「出ていけって……?

 本気で言ってるのか?」


「お嬢様の判断ですので」


 俺は婚約者であっても、ここでは何の決定権もない。


 そのままエステルには会えず、応接室に取り残された。


 ──本当に、これで大丈夫なのか?




 夕食の時間になり、ダイニングへ向かった。


 長いテーブルには、アウローラと両親の席が整えられている。


 だが──


 俺の席だけ、何も置かれていなかった。


「これは何だ? 俺の分がないぞ」


 アウローラは、淡々と告げた。


「契約書に“虚偽があった場合、使用人として働く”とあったでしょう。

 あなたの幼馴染みは、至って健康だったわ」


 足が凍りついた。


 ──まさか……。


「だから、これからは使用人の食堂で食べてちょうだい。

 部屋も次期当主夫婦の部屋から、使用人部屋に移ってもらう」


 ふざけるな。


 エステルを家に置くのが嫌で、嵌めたな。


「診断を偽証させたんだろ」


 俺が言うと、アウローラは薄く笑った。


「そう言われると思って、うちと“反対派閥”に属している貴族の侍医に来てもらったわ」


 絶句した。


 つまり、アウローラは最初から俺の言い訳を潰すために準備していたのだ。


 証拠として完璧。

 俺には反論の余地がない。


 アウローラは淡々と続けた。


「良かったじゃない。

 使用人の食堂だったら、幼馴染みと一緒に食事ができるわよ」


 確かに、そうだ。


 婚約者のブスッとした顔を見るより、エステルと食べた方がいい。


 それに──使用人として働いても、表向きは婚約者であり貴族であり未来の婿だ。


「じゃあ、行ってくる」


 俺は喜んで使用人食堂へ向かった。




 翌朝、まだ薄暗い時間に使用人に叩き起こされた。


「トリスタン様、荷運びと庭掃除の時間です」


 寝ぼけた頭で外に出され、重い荷物を運び、庭の落ち葉を集める。


 冷たい風が頬を刺し、手はすぐにかじかんだ。


 ──何で俺が、こんなことを。


 苛立ちが渦巻く。


 これなら実家に戻って、新しい縁談を親に探してもらった方がいい。


 もし見つからなくても、父の執務補佐として働いた給与で、エステルを養えばいい。


 そんな甘い考えを抱えたまま、アウローラに会いに行くと──


 玄関ホールにいた彼女は、白金の髪を整え、外出用のドレスを身にまとっていた。


 ミリンの兄アレクサンダーと、パーティーに出かけるところだった。


「なぜ自分がパートナーでない?」


 思わず声が荒くなる。


「王子妃主催の茶会だもの。平民は王宮に入れないわ」


「は?」


「昨日、婚姻届を出した後、父が当主権限で、あなたの貴族籍を抜いたの。

 あなたは私の夫だけど、平民なのよ」


「な、そんな……あり得ない。嘘だろ?」


 除籍は本人の許可がなくても、当主が手続きできる。


 しかも貴族籍は、復籍が極めて難しい。


 それを本当に、やったというのか。


 アウローラは冷たく言い放つ。


「嘘をついて家に入り込もうとする人間に、力を持たせたまま置くはずないでしょう」


「違う! エステルは、本当に病弱なんだ。

 最近たまたま調子がいいだけで」


「ならば、これまでのカルテを提出して。

 あなたが手配して、あなたが証明するのよ」


「だからエステルは実家で冷遇されてて、医者を呼んでもらえなかったんだって」


「本当に働けないほど病弱なら、あなたが医者を呼んで費用を負担してたはずよ。

 毎日、一緒にいたじゃない。

 送迎して昼食も奢ってプレゼントもあげてたのに、診察代は払わないの?」


 言葉が出なかった。

 エステルが“病弱”だというのは、俺が勝手に信じていただけ。


「だけど……でも……平民だなんて、あんまりだ。酷いじゃないか」


 アウローラは、淡々と告げた。


「では離婚してあげるから、実家に戻って復籍してもらって。

 ただし、こちらは“今まであったこと"を王宮に報告するから、ほぼ100%復籍できないけどね。

 むしろ逮捕されるわ」


 背筋が凍った。


「もう行かないと」


 揃いの衣装を着たアレクサンダーが、アウローラの肩に腕を回して促す。


「待たせて、ごめんなさい。行きましょう」


 アウローラは玄関を出る前に、振り返って言った。


「忘れてるみたいだけど、“虚偽申告があった場合一生使用人として働く”と契約してるから、離婚して実家を頼っても、こちらへ出勤しないといけなくなるわ」


 息が止まりそうになった。


 アウローラは最後に、淡々と告げた。


「それから、これは大事なことだから言っておく。

 私達は白い結婚よ。

 私が、あなたを愛することはない。

 では行ってきます」


 扉が閉まり、メイドが「早く去れ」と、俺を見る。


 しかし、足が動かない。


 絶望が胸に広がる。


 ──どうすればいい?


 だが次の瞬間、背後から使用人の声が飛んだ。


「サボるな! 庭の掃除がまだ残ってるぞ」


 俺は追い立てられるように、再び外へ出された。


 ──もう逃げ道はない。


 そう思いながら、冷たい風の中で黙々と働き続けた。




 気付けば夜だった。


 使用人食堂に向かうと、エステルが小さなテーブルに座っていた。


 水色の瞳が不安げに揺れている。


 俺は周囲に聞こえないよう、小声で事情を話した。


 貴族籍を抜かれたこと。

 アウローラに完全に見抜かれていること。

 そして“病弱”の証拠を求められていること。


 エステルは、すぐに囁いた。


「医者を買収して、診断書を書いてもらいましょう」


 ──確かに、それなら全て元に戻る。


 結婚したのだから、実家から持参金が送られてくるはずだ。

 その金で医者を買収すればいい。


 そうすればアウローラを黙らせられる。


 いや、こんな目に遭わせたあいつを許すものか。


 俺は、すぐに執事を呼び止めた。


「持参金は、いつ届く?」


 執事は淡々と答えた。


「もうすぐ届く予定ですが、預り金ですので渡せません」


「預り金……?」


「契約書に“不貞があった場合、慰謝料として没収する”と明記されていますので」


 喉の奥が冷たくなった。


「少しくらいなら……」


「不可能です」


 食い下がっても、執事は一切取り合わなかった。


 戻ると、エステルが小声で言った。


「私が実家に“医者を派遣して”って頼んでみる」


「え? 実家では冷遇されてるんだろ」


「あ、え、それは……言うだけ言ってみるってこと。

 たぶん無視されるわ、無理ね」


「そうか……」


 弱々しいエステルを守りたいとは思うものの、不安が尽きない。


 ──打開策はあるのか……?




 夕刻。アウローラが、アレクサンダーと共に屋敷へ戻ってきた。


 だが──俺の目の前で、アレクサンダーが当然のように彼女の私室へ入っていった。


 思わず叫んだ。


「なぜアークライト伯爵令息が、妻の私室に入るんだ?!」


 アウローラは振り返り、薄紫の瞳で俺を見据えた。


「彼が内縁の夫だからよ。

 今日から一緒に暮らすわ。

 あなたは戸籍上の夫だけど、実質、使用人でしょう」


 頭に血が昇る。


 不公平すぎる。


「そんなバカな! 不貞じゃないか!

 俺が"不貞したら持参金は慰謝料だ"と言っておいて、自分は何だ!」


「あなたが不貞したら慰謝料と契約にあるけど、“私が不貞したら”については書いてないわよね。

 それに──平民のあなたが、私の不貞を訴えて勝ったところで、現状は変わらないわよ」


「っ、そんな……そんな馬鹿な……!

 なぜ、こんな酷いことをするんだ?」


 その瞬間、アレクサンダーがグレーの瞳で、俺を睨みつけた。


「酷い? 酷いのは、お前だろう。

 学園で堂々と幼馴染みと、くっついてたじゃないか」


「単なる幼馴染みだ」


 アウローラは、冷たく笑った。


「単なる幼馴染みの登下校を送迎し、2人きりで昼食をとり、学園の廊下で腕を絡めて歩くの?」


 アウローラの視線は、氷のように冷たい。


 俺は思わず叫んだ。


「送迎は『実家で冷遇されてて、馬車を出して貰えない』と言うから!

 昼食も『昼食代を貰えない』と!

 腕はすぐ転ぶから、転ばないように支えてただけだ!」


 アレクサンダーは、呆れたように黒い眉をひそめた。


「婚約者のいる男が支えなきゃいけないほど弱い立場と体なら、そもそも学園に入学できてないだろ」


 彼の言葉は、的を射ていた。


 言い返せない俺を、アウローラが見据える。


「冷遇、冷遇って……あなたは1度でも自分の目で“冷遇されてるところ”を見たの?

 頻繁に家に行ってたでしょう」


「俺がいる時は冷遇されないから、そのために通ってたんだ」


 アレクサンダーが鼻で笑った。


「その言い訳を、誰が信じる?」


 アウローラは淡々と続けた。


「彼女を本当に助けたいなら、騎士団や教会に相談すれば良かったでしょう。

 あなたは、ただ彼女と一緒にいたかっただけよ」


「君はエステルを受け入れてたのに、今更こんなこと言うなんて卑怯だ」


 他の女といるのが嫌なら、そう言え

ば良かったんだ。


「受け入れてなんかいないわ」


「だけど、1度も文句を言わなかったし……。

 茶会やデートをキャンセルしても、“さようですか”って言ってたじゃないか」


 アウローラは、小さく息を吐いた。


「あなたが幼馴染みと一緒にいることに苦言を呈したら、“私があなたとの婚約を望んでいる”と見なされるでしょう」


「じゃあ何で破棄せず入籍したんだ?

 君が入籍しなければ、俺は平民にならずに済んだのに」


 アレクサンダーが肩をすくめた。


「だからこそ、だろう?

 分かってないみたいだから教えるけど──

 入籍したところで君たちは“白い結婚”なんだから、後から婚姻は無効にできる。

 だけど1度、剥奪した貴族籍は戻らない」


 アウローラが続ける。


「考えてわからない?

 婿入りする立場であるにも関わらず、誰が見ても不貞してると思われる行動を繰り返し我が家の面子を潰しておいて、何もなく済まされるはずないでしょう」


 アレクサンダーが冷たく言い放つ。


「お前が侯爵令息のままなら、こちらも慰謝料以上のことはできない。

 でも結婚して平民にしてしまえば、どうとでもできる。

 バルネット侯爵も引け目があるから強く出られないしな」


 俺は思わず声を荒げた。


「でも政略結婚なのだから、そちらに利益はあるだろう!」


 アウローラは、面倒そうに説明する。


「侯爵令息が次期女伯爵に婿入りというのは、家格が上の人間が降るということで、本来なら我が家に箔がつく」


「そうだ」


 わかってるんじゃないか。


「でも──あなたの評判が最悪だから『家格が上でも、あの息子じゃね』と言われて、逆に恥をかいてるのよ」


 頬が引きつった。


 アウローラは容赦なく続ける。


「うちは侯爵令息を婿にもらう見返りに、バルネット侯爵領に食品加工工場をいくつも建てたのよ。

 でもあなたに価値がなくなったせいで、投資が無駄になった」


 喉がひりついたが、なんとか声を絞り出す。


「つまり……この結婚は報復?」


 アウローラは、声をあげて笑った。


「あなたが高位貴族だからと泣き寝入りしたら、うちが下に見られて取引で不利になるでしょう」


 アレクサンダーが肩をすくめる。


「貴族社会を何だと思ってるんだ?」


 その言葉が胸に刺さった。


 足元がふらつき、眩暈がする。


 俺は、その場から逃げるように立ち去った。


 ──俺は、もう婿としての価値すらない。




 エステルの部屋をノックした。


 ……返事がない。


 時間を置いて再びノックする。

 やはり無反応だった。


 慰めてほしかった。

 せめて話を聞いてほしかった。


 だが──彼女はいなかった。




 翌朝、食堂にもエステルの姿がない。


 部屋をノックしても不在。


 使用人に尋ねると、逆に叱られた。


「使用人に私的な接触は禁止されています!」


 胸がざわつく。

 昼になっても、エステルは食堂に現れなかった。


 嫌な予感が、じわじわと広がっていく。




 夜になって、ようやくエステルが戻ってきた。


 だが──

 その姿を見た瞬間、息が止まった。


 ドレスからのぞく腕と足に、いくつもの擦り傷。

 何より顔に血の気がない。


「どうしたんだ、その怪我……!」


 エステルは震える声で答えた。


「……仕事。来客の……前で……皿に……」


「は……皿?」


 エステルの説明を聞いて、頭が真っ白になった。


 手足を固定され、背中に取り付けられた台座の上に料理を載せた状態で、貴族の男たちの前に出されたという。




 怒りが爆発した俺は、アウローラの部屋へ駆け込んだ。


「どういうつもりだ?!

 エステルが怪我をして帰ってきたぞ!」


 内縁の夫とソファで寛いでいたアウローラは、俺を見下したように答えた。


「契約通りよ。

 彼女の契約書には“客のいかなる要求にも応じる”と書いてあるわ」


「そんなの詐欺だ! 貴族令嬢だぞ!」


「前提が間違ってる」


「は?」


「ノワイエ男爵令嬢は本来、あなたと一緒に謝罪する立場。

 我が家に泥を塗ったのだから。

 なのに一言も謝りもせず、逆に“居候したい”なんて厚かましいにも程があるわ」


 アレクサンダーが吐き捨てた。


「盗人猛々しいな」


「だからって、こんな酷いこと……!」


 アウローラは冷たく言い放つ。


「こちらは、あなた方を“詐偽”と“不敬”で騎士団に届けてもいいのよ」


 言葉が詰まった。


 俺は「エステルは働けないほど体が弱い」と申告し、署名もしている。


 ──どうすればいい……?


 しゃがみ込み、頭を抱えた。


「……エステルを実家に戻す」


「ノワイエ男爵令嬢は、あなたと同じで『虚偽があれば一生使用人として働く』と契約してるから、 実家に帰ったところで使用人のままよ」


 要するに、逃げられない……。


「どうしたらいいんだ?!」


 アレクサンダーが俺の腕を掴み、部屋の外へ放り出した。


「騒ぐな。次期当主の前だ」


 使用人たちが俺を取り囲み、強制的に連行していく。




 薄暗い石の部屋に押し込まれ、鍵がかけられた。


 ──懲罰室だ。


 冷たい床に座り込むと、虚勢が崩れ落ちた。


 怒り、悔しさ、情けなさ、恐怖──

 全部が混ざり、涙が止まらなかった。


 俺は声を押し殺して泣きじゃくった。


 ──もう、どこにも逃げ場はない。





 長いようで、永遠のようで、ただ冷たい石の壁だけが相手だった。


 7回、太陽が昇った。


 ようやく懲罰室から出された俺は、真っ先にエステルの部屋へ向かった。


 ──会いたかった。

 ──話したかった。

 ──せめて、俺の味方でいてほしかった。


 だが、ノックする前にドアの向こうから聞こえてきたのは、俺の名だった。


「……トリスタンは頼りにならないの。

 何でもするから、実家に帰れるよう取り計らってほしい。

 お願いよ……」


「本当に何でもするんだな?」


 相手の声は、執事だった。


 清潔感はあるが、25歳も上だ。


 やがて、2人の会話は喘ぎ声へと変わっていった。


 俺は、その場から逃げるように離れた。


 ──まさか。

 ──そんなはずは。

 ──俺は……一体、今まで何を信じていたんだ?


 ふらつきながら庭へ出ると、アウローラがアレクサンダーと楽しそうに散歩していた。


 白金の髪が陽に照らされ、薄紫の瞳が柔らかく笑っている。


 本来、あの場所にいたのは俺だったはずなのに。


 膝が崩れ、地面にへたり込んだ。


 すぐに使用人が駆け寄り、冷たく叱責する。


「サボらないでください。仕事がありますよ」


 俺は引きずられるように立たされ、黙々と作業をこなした。




 1日が終わった。


 心の整理もつかないまま風呂を済ませ、部屋へ戻ろうとした時──


 エステルの部屋の前に、使用人の男たちが列を作っていた。


「……何をしている?」


 問うと、先頭の男が答えた。


「『お嬢様に許してもらう嘆願書に署名する見返りに、自分を好きにしていい』と本人が言ったので、順番待ちです。

 すでに4人終わりました」


「バカな……」


 否定しようとした。


 だが──


 執事とエステルの“取引”を、確かに聞いてしまっていた。


 嘘だと言えなかった。




 なんとか自分の部屋に戻ると、膝から崩れ落ちた。


 頭を抱えても、うまく思考が回らない。


 ──俺は、何を守ろうとしていたんだ?


 誰のために、ここまで堕ちたんだ?


 どうして、こうなった?


 何を信じていたんだ、俺は?




 気付けば朝になっていた。


 使用人に揺すられ、機械のように廊下へ出る。


 エステルの部屋の前に並んでいた行列は、もう消えていた。


 恐る恐るドアを開けると──


 エステルは、何事もなかったかのようにスヤスヤ眠っていた。


 その無防備な寝顔を見た瞬間、黒い衝動が湧き上がった。


 ──どうして。

 どうして俺だけが、こんな目に。


 首に手が伸びかけた瞬間、廊下で物音がした。


 我に返り、慌てて手を引っ込める。


 ……エステルを殺しても、何も解決しない。


 むしろ平民の俺が、男爵令嬢を殺したら……。




 朝食の席で、俺はぼんやりとパンを噛んでいた。


 ──なぜ、あんな女を庇ってきたのか。

 なぜ、あんな女のために。


 全部、エステルのせいだ。

 あの女のせいで、俺の人生はめちゃくちゃになった。


 アウローラに謝罪して、婚姻を無効にしてもらおう。


 使用人契約破棄の慰謝料として持参金を渡せば、貴族には戻れないが──


 侯爵令息には戻れる。


 裕福な平民商人の婿なら、貰い手はあるだろう。


 まだ、やり直せる。

 まだ終わっていない。




 執務室の前に立つと、胸が苦しくなった。


 それでも、ここしか頼る場所がないと思い、扉を叩いた。


 アウローラは書類を閉じ、俺を見た。


「ちょうど良かった。2人は物置小屋に移動してもらうわ。

 あなたは彼女の下僕として、世話と仕事のサポートをして」


「待ってくれ! なんで、そんな話になるんだ?

 俺は……謝りに来たんだ。

 今までのこと、俺が間違っていた」


 頭を下げると、アウローラは答えた。


「契約書に“ノワイエ男爵令嬢がトラブルを起こした場合、あなたが全責任を負う”と書いてあるでしょう」


「トラブル……?」


 血の気が引く。


 確かに、署名した。


「使用人を誘惑して風紀を乱した。

 これがトラブルじゃなければ、何なの?」


「あっ……」


 昨夜の行列を思い出す。


 そこにトドメが刺される。


「それと、“謝罪して許される期間”は、とっくの昔に過ぎてるわ。

 仕事の内容は、メイドに聞いて。

 用件は以上よ」


 俺は強引に廊下へ押し出された。


 自分だけ助かる取引をしようとしたが、書面上の妻は一切聞く耳を持たなかった。




 案内されたのは、屋敷の裏にある古い物置小屋だった。


 埃と湿気の匂いが鼻を刺し、床は冷たく壁は薄い。


 エステルは、すでにそこにいた。


 俺を見るなり、彼女は顔をしかめた。


「……最悪」


「お前のせいだろ!」


 激しい罵り合いが始まり、全ての鬱憤を相手にぶつける。


 疲れて声が出なくなると、薄暗い灯りの下で、俺は膝を抱えた。


 どうして、こんなことになったのか。

 なぜ、あんな女を庇ってきたのか。

 なぜ、アウローラを裏切ったのか。


 後悔が、渦を巻く。


 エステルは壁にもたれ、疲れ切った顔で眠っていた。


 その姿を見ても、もう何の感情も湧かなかった。


 ただ、空っぽだった。




 食事は1日3回、使用人が無言で運んでくるだけ。


 俺たちは“仕事”をしなければならなかった。


 エステルの世話とケア、掃除、雑務。


 少しでも手を抜けば、使用人に冷たく叱責され、容赦なく追い立てられる。


 水を浴びせられたり、腕を掴まれて引きずられたり──

 “貴族の扱い”とは程遠い、徹底した下働きだった。


 俺は、ただ耐えるしかなかった。




 エステルの仕事が入るたび、俺は彼女に専用の衣装を着せ、別邸へ連れていく。


 そこで彼女は、来客の要求に応じる。


 俺は決められた位置から、それを見守らなければならなかった。


 ──何を見せられているんだ、俺は?


 終わると、エステルの身体を洗い香油を塗り、髪を乾かし、また物置小屋へ戻る。


 ──ひたすら繰り返しの日々。



 時折、小屋の隙間から、アウローラとアレクサンダーが舞踏会へ向かう姿が見える。


 豪奢な馬車、笑い声、光。


 俺はもう怒る気力もなく、ただ作業をこなすだけの存在になっていた。


 ──なぜ両親は、1度も会いに来ないのだろう?


 そう思うことはあった。

 だが、確かめるのが怖くて、何もしなかった。






 物置で暮らして7年経った、ある日。


 エステルの肌に湿疹が出始めた。


 最初は小さな赤みだったが、日に日に広がっていく。


 医者を頼んだが、誰も来てくれない。


 焦っているうちに、俺の身体にも同じ発疹が現れた。


 どうすればいいのか分からず、ただ不安だけが募っていく。


 ──そんな時だった。


 突然、使用人たちが小屋に押し入り、俺とエステルは無言で荷馬車に乗せられた。


 行き先も告げられず、理由も説明されない。


 ただ、車輪の軋む音だけが響いていた。




 荷馬車が止まり、俺たちは無理やり外へ降ろされた。


 眩しい光に目を細めると、そこは見覚えのある庭だった。


 白いテント、色とりどりの花、上品な音楽──実家のガーデンパーティーだ。


 突然現れた俺とエステルに、貴族たちの悲鳴が上がった。


 顔中、湿疹だらけ。

 誰が見ても“異様”だった。


 アウローラは、俺の両親に告げた。


「こういうことですので、ご子息はお返しします」


 その美しい横顔には、情も怒りもなかった。

 ただ“処理を終えた”という冷たい静けさだけがあった。


 俺の両親は蒼白になり、必死で頭を下げた。


「も、申し訳ございません……!」

「本当に、本当に……!」


 元はといえば俺が悪い。


 だが──7年も酷い目に遭わされたのに、なぜ侯爵であるうちの父が、あんなに必死で謝っているのか。


 理解が追いつかないまま、長兄が俺の胸ぐらを掴んだ。


「このバカ!」


「は?」


「わからないのか! お前達は梅毒だ!」


 世界が揺れた。


 足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、息が止まった。


「あ……ま、た、助けてくれ……」


 情けない声が勝手に漏れた。


 だが父は、冷たい目で俺を見下ろした。


「持参金をくれてやるから、勝手に生きろ。縁を切る」


「そんな……でも……」


 アウローラが前に出た。


「契約書通り、不貞の慰謝料は持参金と相殺するわ。

 そして今日、婚姻無効の手続きをしたから、うちはもう無関係よ」


 薄紫の瞳が、俺を“見る価値もないもの”として通り過ぎる。


「でも……そうだ、使用人の契約が……」


「『働けないほど健康を損なった場合は、契約を終了する』と書いてあったでしょう」


「でも……でも……」


 兄が吐き捨てるように言った。


「お前が長男だったとする。

 嫁ぐ予定で婚約してる公爵令嬢が、子爵令息とベッタリ1日中くっついて、自分との茶会やデートをドタキャンしまくった上に、その子爵令息を“うちで居候させろ”と入籍目前で言ってきたら──

 お前は、その婚約者を大事にするか?」


 胸が軋んだ。


 それでも、なんとか首を振る。


「…………しない」


 アウローラは薄く笑った。


「今更やっと、わかったの」


 アレクサンダーが、冷たい目で俺を見下ろす。


「くだらないクズだな」


 両親が、深々と頭を下げた。


「申し訳ない……」

「本当に……お詫びのしようもありません」


 俺は立っていることすらできず、その場に崩れ落ちた。


 過去の報いが、ここに完成したのだ。




 使用人に追い立てられるように屋敷を出され、俺達はふらふらと歩いてエステルの実家へ向かった。


 7年ぶりに見るその屋敷は、以前と変わらず瀟洒で、白い壁と青い屋根が夕陽に照らされていた。


 玄関先に近づくと扉が開き、エステルの両親が飛び出してきた。


 ミルクティー色の髪を乱したエステルの姿を見た瞬間、母親は口元を押さえて泣き崩れた。


「だから『入婿の愛人になるなんて無理だ』と、あれほど言ったではないか!」


 父親が怒鳴り、白くなった髪を震わせる。


 母親は涙で濡れた目でエステルを見つめ、抱きしめた。


「なんて馬鹿な子なの……こんな姿になって……」


 アウローラは学生時代、俺とエステルの関係に何も言わなかった。


 だから結婚した後も文句を言わないだろうと、俺もエステルも思っていた。


 その幻想が、今はただ虚しい。


 父親が深くため息をついた。


「仕方ない……離れで面倒をみよう」


 俺は咄嗟に手を上げた。


「あ……俺も、ここで見てくれ」


 エステル一家が同時に、こちらを振り向いた。


「「「は?」」」


 父親は眉をひそめ、冷たい声で言った。


「なぜ赤の他人の君を?」


 一瞬息が止まった。


 だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。


 エステルの父母の前で、必死に言葉を探した。


 夕暮れの光が玄関先を赤く染め、俺の影も長く伸びていた。


「だって俺はエステルのために、ずっと傍にいて……。

 ディアナス伯爵家での同居を受け入れたのも、エステルのためで……エステルから『一緒に住みたい』と」


 父親は、険しい目で俺を見た。


「私は、”君が『どうしても来てくれ』と言うから行く”と、娘に聞いたが?」


「俺は『家で冷遇されて辛いから助けてほしい』と……」


 その瞬間、空気が一気に冷えた。


 母親の表情が凍りつき、父親の眉が深く寄る。


「どういうことだ?」


 エステルは唇を噛み、叫ぶように言った。


「だって、そう言わないと納得しないでしょ!」


 母親は青ざめた。


「『お手付きになったから他に嫁げない。彼が責任を取る』という話だったんじゃないの?」


「アウローラとの婚姻前に、エステルと一線は越えていない。

 先に子供が出来ると困るから」


 俺がそう言うと、ノワイエ男爵は深くため息をついた。


「うちで面倒を見ようと思ったが……出ていきなさい」


「いやよ!」


 エステルが叫ぶ。


「俺はエステルに騙されていたんだ。

 ……面倒見てくれてもいいだろう!」


 すると、父親は冷たい目で俺を見た。


「君も下心あっての行動だろう。

 そうでなければ、なぜ同じ性病に感染している?

 空気感染するような病気ではない」


「それは……」


 言葉が喉でつまった。


 夫人が静かに首を振る。


「親戚でも婚約者でもない赤の他人の面倒は、見れないわ」


 昔、父の返信にあった同じ言葉を思い出す。


 心が、ずきりと痛む。


「とにかく出ていけ」


 体格のいい使用人が、俺とエステルを外へ押し出した。


「トリスタンのせいよ!」


 エステルが怒鳴る。


「嘘つくお前が悪いんだ!」


「男爵夫人になるより、伯爵家の愛人になった方がいい生活できると思ったのに!」


 その言葉に、頭が真っ白になった。


「……俺に惚れてたんじゃないのか」


 エステルは鼻で笑う。


「“何でも言うこと聞いてくれて、操りやすい”っていうことを“惚れてる“と言うなら、そうね」


「ふざけるな! お前なんか、もう知らない!」


「それは、こっちの台詞よ!」


 エステルは踵を返し、歩き出した。


「どこへ行くんだ?」


「放っておいて!」


「勝手にしろ……」


 俺は背を向け、アウローラの家へ向かった。


 夕陽は完全に沈み、冷たい夜風が頬を刺した。




 アウローラの屋敷の前。


 俺は石畳に座り込んでいた。


 灯に照らされた白い外壁は変わらず美しく、俺だけが変わり果てていた。


 扉が開き、アレクサンダーが姿を現した。


 夜会服の黒いコートが、彼の整った顔立ちを際立たせていた。


「お前、しつこいな。

 もう我が家とは関係ないんだぞ」


「お前じゃない。アウローラと話をさせてくれ」


 アレクサンダーは鼻で笑った。


「あのな、俺は正式にアウローラの夫になった。名実共にだ。

 平民で、アウローラの夫でもないお前が、貴族の俺にそんな口をきいて許されるのか」


 胸が締め付けられた。


「しかし、頼む……頼みます。

 ……もう後がないんだ……」


 地面に頭を付けると、アレクサンダーは肩をすくめた。


「あのさ、お前が幼馴染みと関係を持たなければ、あの女だけ放逐されて、お前は使用人として残れたよな?

 使用人でいれば衣食住は保証された。


 仮に、あの女が病気にならなくても“客の接待”ができるのは、年齢的にあと数年が限度だった。

 そうしたら物置での生活も終わって、普通の使用人に戻れた。

 使用人として出世すれば、それなりの待遇にもなった。

 それは考えなかったのか?」


「まさか……病気になるとは……」


「病気じゃなくて、不貞について話してるんだが……。

 まあ、いい。

 ともかく不貞がなければ、1ヶ月後には持参金を返してもらえて自由になれたのに」


「1ヶ月……?」


 その時、屋敷の扉が開いた。


 アウローラが、子供の手を引いてきた。


 子供はアウローラに似た白金の髪と、アレクサンダーと同じ灰色の瞳をしていた。


 アレクサンダーが、説明する。


「貴族の子供は、5歳まで家から出さない。

 だが、それを過ぎると逆に“お披露目会”や“茶会”が始まる。

 その時に、俺が戸籍上も父親になっていないと色々不便だろう。

 だからこの子が5歳になるのに合わせて、お前とアウローラの婚姻を無効にし、俺たちが入籍する予定だった。

 それが1ヶ月後だ」


 頭が真っ白になった。


「つまり、お前が婚約者でも夫でもなくなるということは、アウローラ以外の異性を選んでも不貞にならないということだ。

 契約書に“不貞した場合、持参金は慰謝料として没収”とあっただろう。

 アウローラと無関係になれば、不貞は成立しない。

 俺達が入籍すると同時に、お前の持参金も返還する手筈だった」


 アウローラは一言も発さず、ただ静かに俺を見ていた。


 その瞳には、怒りも憐れみもなかった。

 “終わった人間を見てる”だけだった。


 俺は声も出せず、ただ石畳に倒れ込んだ。


 白壁が滲んで見える。


 アレクサンダーは冷たい瞳で俺を見下ろし、ため息をついた。


「持参金があれば、使用人をしながら裕福に暮らすか、アウローラに使用人契約破棄の慰謝料として差し出し、新しい縁談や仕事を探せたかもしれない。

 しかし、お前が幼馴染みを抱いたために、そうなった」


 頭を抱えた。


 あの時は、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちだった。


 自分が守っているはずだったエステルが、あんなことになって──


 せめて体でも繋げないと、やってられないと思った。


 だが考えてみればアウローラは、いつかアレクサンダーと結婚するのに、俺が邪魔になったはずだ。


 そしたら婚姻無効に……。

 そこまで考えていなかった。


 未来が見えず、自暴自棄になってしまった。


 アレクサンダーは、冷笑を浮かべた。


「いいこと教えてやる。

 お前は“幼馴染みが可哀相だから”と色々言い訳を並べたが、実際はただヤリたかっただけだ。

 だから『居候させたい』と言い、アウローラに拒否されても食い下がったんだ」


 胸が痛む。

 否定できない。


「考えてみろよ。

 ディアナス伯爵家に泥を塗る行為をした愛人が衣食住保証され、たまにしか働かなくていい“誰にでもできる仕事”って、何だ?

 しかも、給料から虚偽と不名誉に対する賠償を天引きできる額の仕事」


 言われてみれば、そうだ。

 高額な仕事なんて、接待しかない。


 アレクサンダーは、更に追い打ちをかける。


「本当に幼馴染みが大事なら、自分が1人前になって自由になる金が増えてから外に囲うだろう。

 何で、わざわざ正妻の家に連れてくる?

 何故、内容が不透明な仕事をさせるのに同意する?」


 返す言葉がなかった。


 俺は、ただ膝を抱えて震えた。


 アレクサンダーの言葉は、どれも正しかった。


 俺は“守るため”なんて言い訳をして、結局は自分の欲望と甘えで全てを壊したのだ。


 兄の言葉を思い出した。


 お前が長男だったら──


 確かに……俺がアウローラの立場なら、いい仕事をエステルに与えるはずがない。


 アレクサンダーは、呆れながら続ける。


「普通は、アウローラに冷ややかな対応された時点で、相手の怒りに気付いて婿入りの立場を省みる。

 結局、お前は“家格は実家が上だから”“今まで文句を言われなかったから”と婚約者を軽んじて、それが一生続くと甘い夢を見たんだ。

 なぜって?

 幼馴染みの体を貪れるまで、後1歩だったから。

 お前の頭の中には、それしかなかったんだよ。

 その結果が今だ」


 事実だった。


 エステルが多くの男と関係を持った時、“汚い”と思った。


 自分だけのものになるはずだったのに、と怒りも湧いた。


 契約書に“不貞”の項目があったことも知っていた。


 それでも手を出したのは──


 長い間エステルに対して抱えていた欲望の行き場がなくなったからだ。


 “守っていたはずの幼馴染”があんな扱いを受け、俺自身も未来が見えず、何もかもが崩れ落ちていく中で──


 抱かなければ、過去の自分が報われないと思った。


 純粋な性欲ではなかった。


 そうでもしないと、やっていられなかったのだ。


 アレクサンダーの言葉が、胸の奥に深く沈んでいく。


 アウローラが、ついに口を開いた。


 その姿は7年前と変わらず美しく、そして今はもう手が届かない。


「多くの貴族の三男は1人でも生きていけるように、婿入りしても立場が弱くならないように、自力で騎士爵や準男爵の位を取るのよ。


 あなたは爵位を取らなかったんじゃなくて、取る実力がなかった。

 どうして、それでも大事にされると思ったの?


 ノワイエ男爵令嬢のことがなくても、あなたは結局こうなったと思うわ」


 一瞬、視界が弾けて気絶しかけた。


 俺は“格上の家から来たんだから大事にされて当然”だと思い込んでいた。


 アウローラの仕事を適当に手伝えば、あとは遊んでいていいと。


 ──ただただ愚かだった。


 アウローラ一家が、ドアの向こうへ消える。


 別れの挨拶もなければ、なんて声をかけていいのか言葉も出てこない。


 ここから早く立ち去るべきだと思っても、体が動かない。


 使用人が俺の腕を掴み、再び荷馬車に押し込んだ。




 気付けば、薄暗い路地に倒れていた。


 石畳は汚れ、空気は湿って臭い。


 唯一の財産だったアクセサリーは、全てなくなっていた。


「あの、すいません……ここは何処でしょうか?」


 近くにいた老人に声をかけたが、無視された。


 場所を変えて、子供に話しかけると笑われた。


「金がないなら教えない」


 俺はふらふらと歩き回り、仕事を探した。


 だが、梅毒で荒れた肌を見た瞬間、誰もが顔をしかめて追い払った。



 やがて倒れ込んだところに、炊き出しの列が見えた。


 2日に1回の炊き出しで、俺はどうにか命をつないだ。


 だが、どんどん弱っていく。


 使用人のままでいれば、1日3食出ていたのに。


 風呂にも入れて、着替えも貰えた。


 給与は天引きされるが、実家から持ってきた物を売れば、多少の贅沢もできた。


 それらを、自分で捨てたのだ。


 せめて残っている私物を取りに行こうと思ったが、ここがどこなのか分からない。


 貧民街の路地は、どれも同じように汚れて臭い。


 夜になれば獣のような声が響き、昼になれば人の呻き声が聞こえる。


 もう、どうにもならない──


 深夜、馬車の音がした。


 黒い影が近づき、路地の端に何かを放り捨てると、すぐに走り去った。


 金目の物でも落ちていないかと近寄ると、そこに倒れていたのはエステルだった。


 ミルクティー色の髪は泥にまみれ、肌は青白く、唇は乾いてひび割れていた。


「……トリスタン……?」


 かすれた声が、俺の名を呼んだ。


「お前か……何してるんだ?」


 エステルは震える声で答えた。


「……救貧院に行ったら……門前払いされて……でも、諦めずに……何日も粘った。

 ……パンを与えられて……毒に気付かず食べたの……。

 ……動けなくなったら……馬車で運ばれた」


 梅毒では助かる見込みがない。

 だから受け入れられなかったのだろう。


 そして、門前に居座られては困るから──


「そうか……」


 俺は立ち上がった。


 エステルを見下ろしながら、2つの選択肢が頭に浮かんだ。


 1つは救貧院へ行き、同じように毒入りのパンをもらうこと。


 もう1つはアウローラの元へ行き、残りの私物を返してもらうこと。


 どちらを選んでも、未来はない。


 だが、どちらかを選ばなければならなかった。


 俺は、ふらつきながら歩き出した。


 夜の街は冷たく暗く、静かだった。


 そして、2度とエステルを振り返らなかった。





□完結□





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― 新着の感想 ―
兄に言われるまで自分のおかしさに気づかなかいなんてある意味すごいです。7年もあったのに離婚が決まっていることにも思い当たらず、使用人とはいえ3食きちんと食べれたある意味保障された生活だったのに離婚後も…
せっかくの中世っぽい異世界なのに、会話(しかも貴族)の中で「ドタキャンしまくった」みたいな現代俗語が出てくると、そこでスッと気持ちが一歩覚めちゃうんですよね。 お話は面白かったです!
トリスタンが愚かすぎて…むしろちゃんと解説してくれるアレクサンダー滅茶苦茶優しいな??とすら思えます。 アウローラも名目上の夫が必要だったからとはいえ、こんなのをよく養っていたよなぁ…。 アレクサンダ…
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