街の銭湯へ
豆花店を通り過ぎ、海へ向かって川沿いを歩く。海からの風を正面に受け、ふたりとも髪をお揃いのオールバックにし、西の空に傾く夕日に目を細め、他愛もない話をしながら、もしくはただ黙ったままひたすら足を動かす。川には大昔に作られたであろう車1台やっと通れるほどの橋が掛かっていて、その橋の向こうには寂れた銭湯がある。白く細長い煙突からは煙が出ていた。「凪の湯」は、私が産まれる遥か前からこの場所に店を構える銭湯だ。隣にはコインランドリーも併設されている。
中に入ると、古びた外観とは裏腹に中は意外にも(と言っては失礼だが)清潔感がある。掃除や補修が行き届いているのだろう。ロビーには茶色いソファとマッサージチェアがあり、1人の老人が小刻みに揺れながら寛いでいた。フロントには60代くらいのおばさんが1人いて、甘夏を食べながらテレビを見ていた。おかげで甘酸っぱい香りがそこら中に漂っている。自由。鷹揚。大らか。そんな言葉が浮かんでくる。
おばさんは私たちを視界に入れるやいなや食べていた甘夏を脇に追いやり、「あら、いらっしゃい」と笑顔を作った。
脱衣所へ行くと誰の姿もなかった。壁に掛かった扇風機が首を振る音だけが無機質に響いている。服を脱いで貴重品はロッカーへ入れると、「貸し切りかな?」などと話しながらいそいそと浴場へ入った。ここは近場の銭湯でありながら数える程しか来たことがなかった。最後に来たのは、確か中学の頃だ。家の浴室を改装していた時以来になる。
浴場へ入ると、お湯の中にぽつんと1人お婆さんが浸かっているだけで、他には誰もいなかった。タイル張りの壁には富士山と海の絵が描かれており、奥にはサウナもあった。
「ほぼ貸し切りだったね」
ミチヒがいたずらっぽく笑いながらこちらを見た。
頭と体を洗い終え、湯船に浸かる。他人の体のことをとやかく言うのは良くないことだが、ミチヒは少し心配になる程度には痩せていて、殆ど日焼けもしておらず、それがなんだか彼女の人生を物語っているようで何とも言えない気分になった。あんまり元気そうで無邪気に笑うのでたまに忘れそうになるが、ミチヒは家族を全員失っているのだ。恋人とも会えていない。仕事も辞めている。ここへ来るまでに色々な出来事や感情の揺らぎがあったことだろう。それらと対峙し、受け止め、たった1人で東京からこんな田舎町にやって来て、私なんかと仲良くしている。しっかりと浮き出た肩甲骨に目をやりながらそんなことを考えていると、なんだか無性に謝りたくなってきた。何故。何を謝りたいのかはよくわからなかった。何か言いようのない申し訳なさに似た感情がじんわり湧いてきて、目の奥が熱くなるようだった。
秘密の場所で、ミチヒはただ「過去にこんな出来事があった」と話しただけで、他には何も語らなかった。今となっても弱音すら吐かない。日々の生活が、人生が楽しくなるように、どうしたらごきげんに過ごせるのかを第一に考えて生きているように思えた。それがどうしようもなく眩い。だが同時に酷く心配だ。あの場所で事情を聞いた時、何か助けになれないかなどと烏滸がましいことを考えたが、むしろ助けられているのは――
「ありがとね。私のために色々付き合ってくれて」
私が1人ぐるぐる考えていると、ミチヒがぽつりと呟いた。眉尻が下がっている。何故、そんな顔をするのか。
「私が、好きでミチヒを連れ回してるだけだから」
だからどうか何も心配しないでほしい。気にすることは何もない。何かをしてもらっているなどと思わないでほしい。友達なのだ。少なくとも私にとっては。
「お礼を言われることは何もしてない」
「してるよ。秘密の場所を分けてくれたし」
「別に私だけの場所じゃない」
「散歩にも付き合ってくれるし」
「キナコがいるからどのみち散歩には行く」
「話し相手になってくれるし」
「人付き合い下手だから大した話もできてない」
「私に向ける目も声も優しいし」
「普通にしてるだけ」
私が何でもかんでも否定するのでミチヒは面白くなったのか、ニヤニヤしながら更に続けた。
「私のペースに合わせて歩いてるのも知ってる」
「合わせてない」
「自分より私が楽しいかどうかを考えてる」
「別に――」
「じゃあ、よく奢ってくれる!」
食い気味に大きな声でミチヒが言う。
「……それは、まあそう」
奢っているのは事実なので、こればかりは否定できなかった。さっきのアイスだって私の奢りだ。はまなか亭でも時折奢っていた。
「銭湯代は割り勘だけど」
そう言ってみたが、返しとしてはなんだか弱い気がした。ミチヒは満足そうに笑みを浮かべながら「勝ったな」と宣った。いつの間にかおかしなゲームになっていたらしい。
「あなたたち本当仲が良いわねぇ。羨ましいわ」
少し離れたところでお湯に浸かっていたお婆さんがニコニコしながらこちらを見ていた。私は急に恥ずかしくなって顔を引きつらせた(はず)が、ミチヒは全くそんな様子もなく「やっぱり、そう見えますよね?」とどこか誇らしげだった。
「ええ、キラキラしてるわ。あなたたち」
お婆さんはそう言い残して、脱衣所の方へ去って行った。キラキラしているだなんて、そんなことを言われたのは生まれて初めてのことだった。




