悪夢
ある夜。洗面所の戸棚の中にある睡眠薬を2粒、水道水で流し込む。まだ少し湿っている髪の毛をドライヤーで乾かして、随分傷んだものだと鏡を見ながら眉をしかめる。何度も何度も市販のカラー剤で明るくした髪の毛は悲鳴をあげているようだった。
歯磨きまで済ませると2階の自室へ行き、ベッドに潜って明かりを消そうとした。だがどうしてもスマホが気になって、ついついSNSを開いてしまう。おすすめタイムラインは今日もギスギスとしていて、ずっと見ていると性格が歪みそうだったが、このドブ川の中でも時折お宝が流れてくるのでなかなかスクロールする指を止められない。たまに流れてくる「欲しい情報」に心を奪われている。なんだかギャンブルに似ている気がする。
私はしばらくタイムラインをスクロールして、顔をしかめた。どうやら今は実家暮らしの人間に噛みつくのが流行っているらしかった。それに続いて、職場にいる仕事のできない人間や精神疾患を持った人間、独身子なしの女……そういった人間が叩かれている様がおすすめされてくる。それらはすべて自分に向けられた言葉のように思えた。悲しいことに、どれも今の自分に当てはまるからだ。私の心情や事情など、熱心なSNS人間たちにはどうでもいいことなのだろう。何かに物申したい人間の鬱憤晴らしなど放っておけばいいことはわかっている。しかしどこかで、「これが世間から自分に向けられている目なのか。これが他人の本音なのか」と思い、自分の存在をどこか暗くて狭い場所に押し込めて隠してしまいたくなる。気にしなくて良いと思う一方で、すべてを真に受けて独りで傷ついている自分もいる。情けないことに。
気分が悪くなったので私はスマホを足元に放り投げた。気づけば時計の針は1時を回っている。少し夜風に当たりたくなって窓を開け、遠くを眺める。木々の間から、汐路荘の明かりがちらちらと見えている。あそこにミチヒがいるのだろうか。まだ眠らないのだろうか。もしや彼女も眠れないのだろうか。そんなことをぼんやりと考えた。昼間の人懐っこい笑顔を思い出す。あの笑顔は嘘偽りのない本物だろうか。今となっては他人から向けられる笑顔も信じられない。こちらを馬鹿にしてはいなかったか。
私は何度か深呼吸をして、窓を閉め、大人しくベッドに潜った。
目を覚ますと、私は東京のアパートの一室にいた。インターホンの音がしたので、玄関に行くと、近くのマンションに父と住んでいる母が立っていた。タクシーで老人ホームにいる祖母の面会に行った帰りだと言う。ああ、そういえばそうだったな。と、何の疑問も持たずに納得する。私は母を部屋に招き入れ、デザイン会社での仕事も順調で、彼氏との結婚の話も進んでいることを話した。誰もが認める普通の人生を私は歩んでいることをすっかり忘れていた。
「でもね、子供は産みたくなくて……申し訳ないんだけど」
私が言うと、母はニコニコしながら、「そういう人生もあるわよ」と言った。私が安心していると、ポケットのスマホが鳴った。反射的に手に取り、画面を見てみると、SNSの通知が複数あり、無数の罵詈雑言が目に飛び込んできた。どれも私の人生を批判するものばかりだ。通知音がやけに大きく頭に響く。
「なにこれ?」
恐怖のあまりそう呟くと、ガチャリと玄関のドアが開いて、ミチヒが入ってきた。ずかずかと歩いて私の目の前まで来ると、彼女は私からスマホを奪い取って窓からポイと投げ捨てた。そしてめちゃくちゃにうるさい声で怒鳴った。
「こんな世間体なんてね! クソ喰らえだよ!」
その瞬間、ドスン!という音がして目が覚めた。左肩に鈍い痛みが広がる。どうやらベッドから盛大に落ちたらしかった。
――ゴミみたいな夢だったな。
私は頭を抱え、自分の見た夢の意味について考えた。こんな夢を見るなんてどうかしている。すべて寝る前にしたことのせいだろうが、それにしたって……
――私が東京で一人暮らし? デザインの仕事も順調? 彼氏がいる? もうすぐ結婚する? お母さんがタクシーを? お婆ちゃんは老人ホーム? あり得ない。
自分の強欲さに苦笑いした。それでも、それが自分の考える普通でありお手本なのだと思うと、今現在の何も無い自分の姿がどこまでも惨めで滑稽に思えた。
閉め切ったカーテンを開け、汐路荘の方に目をやる。何故だかわからないが、いきなり登場して悪夢から引っ張り出してくれたミチヒには一応感謝しなければならない。本人は何も知らないだろうが。
「ありがとう」
今日も代わり映えのない、昨日のコピーのような1日が始まろうとしていた。




