はまなか亭
夕凪浜町の海は青々と輝き、近くの海水浴場からは子供たちのはしゃぐ声やジェットスキーの音が聞こえてくる。海辺の夏の風物詩だ。世間はまだまだ夏休みか。そんなことを考えながら職場へと徒歩で向かう。
海辺の食堂「はまなか亭」で働くようになってから、早4年。正直接客は好きではないが、ここでの仕事も板についてきた。来るのは大抵馴染みの年配のお客か、都会からバイクツーリングに来たような人たちで、こんなボロい――いや、年季の入った小さな田舎の食堂に過度な期待をしたりハイレベルなサービスを要求する輩もいない。この見た目になってから滅多にセクハラもされないし、何かあれば店の主、浜中ファミリーが撃退してくれるだろう。それに……
東京に出て仕事をしていた時と比べ事がシンプルで、ストレスも少ない。6年前、無能な役立たずの烙印を押され、周囲からは小馬鹿にされ、必死に有能になろうと努力をしたが、結局得たものは適応障害の診断書と睡眠薬。そして「一身上の都合のため」と書かれた退職願だった。
思い出す度に情けなくなる。退職してしばらくは生きているのが恥ずかしかったものだ。決して東京の会社を悪く言うつもりはない。嫌な奴らもいたが、私が潰れたのは、すべて私の甘さと劣等が原因であるということは理解している。
はまなか亭に珍しい客がやって来たのは、お昼時を少し過ぎ、客足が途絶えた14時前のことだった。ガラリと戸が開き、色あせた青い暖簾のすき間からちらりと顔を覗かせた彼女は、誰もいない店内を見回して少し気まずそうにニコッと微笑んだ。
「やってますよね?」
「やってますよ。お好きなお席へどうぞ」
私は彼女を適当な席へ座らせると、お冷を取りに行った。彼女は木々の間から海が少しだけ見える窓際の席を選んだ。
「珍しいよね。あんな若い女の子がひとりでこんな食堂に来るなんて」
コップに水を注いでいると、厨房から浜中麻央さんが出てきて私に言った。麻央さんは浜中家の一人娘で、一昨年から2児の母になった5つ上の先輩だ。この店での仕事は殆ど麻央さんから教わった。気さくで表裏がなく、とにかく優しいので最初は何かあると彼女に頼り切りだったものだ。
「旅行者にしては荷物が少ないですよね。この辺の人でもなさそう」
私が言うと、麻央は眉間にシワを寄せて、「大丈夫かしら……」と呟いた。その「大丈夫」が何を指すのかはよくわかっていた。たまにいるのだ。この町を最後の場所に選ぶ人間が。
私は肩を竦めて見せ、お冷をもってテーブルへ行った。
「引っ越してきたんです。一昨日」
「え?」
こちらの会話を聞いていたのか、それとも何かを察したのか、彼女はにこやかに私にそう告げた。
「船着場の近くに汐路荘ってアパートあるじゃないですかぁ。あそこの2階」
「はぁ……」
汐路荘……嫌というほど聞き覚えのあるアパート名に心臓がドキリとした。何故ならそこは私の家から徒歩2分ほどの距離だからだ。いつの間に引っ越してきたのだろう。まるで気が付かなかった。それもあんな年季の入った古臭いアパートに。
「あらやだ。じゃあツバサちゃんとご近所じゃないの〜」
横入りしてきた奥さん……浜中由紀さんがサービスの冷や奴をテーブルに置きながら言った。正直あまり言わないでほしかった。
「そうなんですか! 歳の近い人が近所にいて良かった。私ミチヒって言います」
彼女はミチヒと名乗って嬉しそうにニコニコと笑った。何がそんなに嬉しいのか理解不能だった。それにミチヒは名前か? 苗字か? 普通赤の他人に名前を教える時は苗字を言うものだろうが……
「……珍しい苗字ですね」
「いえ。名前です。苗字は海老原ですけど、ミチヒって呼んでください。あと注文は野菜炒め定食で」
私の言葉に彼女はとんでもなく真面目な顔をして、しかし口角はキュッと上げたままでそう言った。
「東京の仕事辞めて東京から引っ越してきたんですよ〜」
聞かれてもいないことをミチヒはよく喋った。話す時は身振り手振りが多く常にヘラヘラしている。痩せ型の体型にぴったり合うようなリブTを着ているせいでやたらと華奢に見えた。髪の毛は焦げ茶色の癖っ毛で、でも髪質が細く柔らかいのか湿気でモサモサに爆発しそうな感じはない。癖が多少強く出る程度だろうか。剛毛ストレートの私からすれば羨ましかった。
そんなどうでもいいことを考えていると、ミチヒは更にヘラヘラと笑って「田舎暮らしデビューわくわくするな〜」と宣った。その言葉に一瞬だけ、私の神経がささくれ立つ。
――これだから都会から来た人間は。こんなショボい町に夢を見るなんて。
自分でもかなり呆れた顔をしていたと思う。私はミチヒの注文を厨房へ伝えるべく、無言でテーブルから立ち去った。
これが私とミチヒとの出会いだった。
それからというもの、彼女は度々店に姿を現し、この町のお気に入りポイントや田舎暮らしの素晴らしさについて私に語ってきた。彼女が「ここはいい場所ですよね」と言う度に、私は心の中で「あんたはもっといい場所から来たんじゃないのか」と毒づいていた。




