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海辺のふたり  作者: 生吹
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海辺のふたり

 ミチヒはゆっくりと回復していった。少しずつ職場にも顔を出し、外にも出られるようになった。1月には地元の神社に初詣でに行き、冷たい海風が吹き荒ぶ海岸沿いを散歩した。春が来れば、きっとまた元通りになる。今よりもっと良くなる。その為に私はお金も時間も惜しまない。ひとりそう思っていた。


「彼氏に会いに行こうと思ってる」


 2月の半ば。前に花火を見た秘密の場所で、ミチヒは私にそう告げた。まるでファミレスでメニュー表でも読み上げるかのように淡々と、こちらとは目線も合わせずに、乾いた調子で投げられた言葉は私の頭の中で何度か反響した。しかし、私の心はいくらか凪いでいた。意外でも何でもなかったのだ。立ち直っていくとはそういうことだから。元通りに。今よりもっと良くなる。それはつまり、私の側から離れることを意味しているのかもしれないと、うっすらとだが度々考えることがあった。


「いつ行くの? 台湾」


 何気なく尋ねたつもりだったが、ミチヒの表情からして悲しみを含んだ質問に聞こえたのかもしれない。それも間違いではなかったが、彼女は少し申し訳なさそうに笑って、3月19日と答えた。


「話さなきゃいけないことがたくさんあるよ。これからのことも、考えないと」

「そうか。それが良いね」


 前向きに捉えていると伝わるような返事をしたつもりだった。いつ帰ってくるのか。帰ってくるならその後は? もしかしてここにはもう帰ってこない? 聞きたいことはいろいろあったが、ミチヒの気詰まりになるようなことを口にするのは気が引けた。しかし彼女の表情は相変わらず曇ったままだった。そこからどんな言葉を交わしたのかあまり記憶にない。

 家に帰った後も、私はずっと考えていた。本当にかけるべき言葉は何だったのだろうかと。


 それからミチヒが旅立つまではあっという間だった。思い出作りに何か特別なことをしようかと思ったが、たった1度ドライブに行っただけに留まった。お互い何かと忙しかったのだ。でもそれで良かったのかもしれない。おかげで余計なことを考えずに済んだ。


 3月19日はあっという間にやって来て、ミチヒは早朝の便で日本から飛び立っていった。空港までは車で送ったが、ゲート前までは何かと理由をつけて行かなかった。

 その後仕事を終え、夕日の沈みかけた遠い海の向こうを眺めた。それが無駄なこともわかっていた。海の向こうで、ミチヒは彼氏と再会できただろうかと、ぼんやり考える。終わりと始まりの感覚が同時にあった。

 

 ――話さなきゃいけないことがたくさんあるよ。これからのことも、考えないと。

 

 もしあの時、私が「行かないで」と言えば、彼女は行かないでくれたのだろうか。

 ミチヒにはまだアパートの部屋がある。このまま帰って来ないということはないだろう。それが明日なのか、もっと先なのかはわからない。

 でも、もし帰って来た時、何もかもが変わってしまっていたら……

 考えるのは止そうと、私は海沿いをひとり歩き始めた。家とは逆の方向に向かって、いつかミチヒと歩いた川沿いまでやって来て、川の流れに逆らうようにして、いつの間にか銭湯までやって来ていた。すると何となく熱いお湯に浸かりたくなってきて、私はひとり中へ入った。


 浴場には私のほかにひとりだけ客がいた。前にミチヒと来た時にもいたお婆さんである。後ろ姿だけで何故かわかってしまった。確かあの時は、私たちふたりに向かって「キラキラしてるわ」と言ってくれたのだった。その他には誰もいなかった。お湯の流れる音だけが穏やかに響いている。


「あら、久しぶりね。今日はひとりなの?」


 お湯に浸かっていたお婆さんは、こちらを振り返ってにこやかに言った。その笑顔を見た瞬間、私の中で張りつめていたものがぷつりと音を立てて切れてしまったような気がした。


「はい。ひとりなんです」


 誰かに話したい。この人にすべて打ち明けて、聞いてもらいたい。そんな風に、自分勝手に思った。

 

「あたしもね、親友が結婚した時、ぽっと出の男を恨んだね。あたしの方が付き合いも長いし、喧嘩して泣かせたこともないってのにさ。返せよあたしの親友を!って思ったもんだね」


 お婆さんは私の話を聞くと、うんうんと大きく頷いてそう言った。ミチヒの彼氏は決してぽっと出の男ではなかったし、むしろぽっと出なのは私の方だったのだが、頷いてくれるだけでありがたかった。


「でもさ、親友の幸せを最優先するのがあたしの幸せだったもんだから、何も言わなかったよ。困らせたくなかったし。でももし、結婚相手が親友を傷付けることがあったら、容赦なくぶん殴るつもりでいたね」


 お婆さんは続けた。ぶん殴るというワードがいかにも穏やかそうな老人の口から出たことに思わず笑ってしまったが、気持ちはよくわかる。確かにそうなのだ。親友の幸せは最優先事項だ。困らせたくないのも、依存したくないのも、させたくないのも確かなのだ。いくら本人が好きで選んだ相手だとしても、自分はその人に遠く及ばない存在だったとしても、親友を傷つけることは許せない。逆に傷つけないのなら、邪魔になるようなことはしない。すべて親友の幸せのため。そのはずだ。なのに、どうしても暗い感情が湧いてきてしまう。


「友情と愛情だったら、やっぱり愛情の方が価値が上なんでしょうか? よく女の友情は薄っぺらいって言われますけど」


 私はずっと昔からなんとなく気になっていた質問を投げかけてみた。女の友情は薄っぺらく、どこか遠く、すぐに崩壊する脆いものだという言説はそこかしこに転がっている。私たちもそうなのだろうか。世間が思っているように。弟の友人関係を見ていると、なんだか彼らは一心同体のように見えることがある。溝がどこにもなく、親友は自分の延長線上にいるかのようなあの感じ……

 もし私ひとりだけの湿度が異様に高いのだとしたら、感情が異様に重たいのだとしたら、消えたくなるほど恥ずかしい話だ。

 だがお婆さんはきっぱり言った。

 

「それは間違い。あたしの思うに、女はさっぱりしてるっていうか、大抵の人は境界線がはっきりしてるだけ。それに愛情は友情より上ってわけでもないわよ。人と人の繋がりには色々な形がある。その人たちによって違うの。その絆に上も下も無いんじゃないかしら。ミチヒちゃんが彼氏のところに行っちゃっても、彼女はあなたを放り出したりしないと思うけど」

「……はい」

「まあ、信じなさいよ」


 お婆さんは自身満々といった様子で笑うと「私はそろそろ出るわ」と言ってお湯から上がった。私はお婆さんが出ていく音を背に、ぼんやりとお湯に浸かっていたが、ふとあることに気づいた。


「なんでミチヒの名前を?」


 私はお婆さんにミチヒの名前を言わなかったはずなのだが……




 それから2週間と4日が過ぎた。ミチヒはまだ帰ってこない。おまけに何の連絡も寄こさないので、私の心には常に暗い影が落ちていた。それでも生活は続いてゆく。世界の流れには抗えない。私は未だはまなか亭で働いている。まさかこんなに消息不明な状態が続くとは思っていなかったので、終いにはちゃんと生きているのだろうかと心配するまでになっていた。ミチヒと過ごした数か月間は、思い出してみるとまるで都合の良い夢でも見ていたかのようだった。

 ミチヒは本当に存在したのかすらよくわからなくなりつつも、私はやるべきことに集中するよう努めていた。祖母の病院への送迎、はまなか亭での仕事、キナコの散歩、父のお見舞いをしつつ、これからの自分の人生について考えていた。


 桜の花がぽつぽつ咲き始めた頃、いつものようにはまなか亭で洗い物をしていると、ガラリと入口が開いてお客が入ってきた。午後の中途半端な時間に入って来たなと思いつつ、「いらっしゃいませ」と声を掛けるため顔を上げると、そこにはミチヒが立っていた。


「やってますよね?」


 にやけ顔で彼女は言った。


「やってますよ。お好きなお席へどうぞ」


 私はあの日と同じように返してやった。喉元まで出かかっていた他の言葉がすうっと腹の底に落ちていくのがわかった。しかしそれは決して悲しくも寂しくもなく、ただ何かが繋がったような不思議な感覚だった。


「長い長い話し合いの結果、結婚を視野に入れることになりました」


 ミチヒはにやけ顔をやめて真剣な面持ちでそう言ったが、その直後に自分で吹き出してしまい、空気はぶち壊しになった。


「何が面白いの? 長いこと音信不通で、二度と帰ってこないかと」

「ごめん。それは本当にごめん。スマホを紛失しちゃって、かなりゴタゴタしちゃった。向こうで新しいスマホを買ったけど、色々パスワードとかわかんなくなってて」


 私が責めると、ミチヒは死ぬほど早口になって言った。


「でもさ。私戻ってきたよ」

「そうだね。彼氏は置いてきたの?」

「来年には日本に帰ってくる。そしたらあのアパートで暮らすつもり。ちょっとひとりで住むには広かったんだよね」

「来年一緒に帰ってくればよかったのに。それまで台湾にいれば――」


 私が言い終わるより早く、ミチヒは叫んだ。


「私はすぐにでも帰りたかったから帰って来てんの!」

「静かに。あと早く注文して」


 他の客の目が気になって、私は彼女の頭をメニュー表で軽くはたいた。ミチヒは渋々焼き魚定食を注文してくれた。


「台湾は気に入らなかった?」

「めっちゃ気に入ったよ。食べ物はおいしいし人も犬も猫も穏やかでさ。でもそれ以上に、ここに帰ってきたかったって話。私を救ってくれた町と親友のことを忘れられるわけない。一瞬たりともね」


 私は黙っていた。こんな時何と言葉を紡げば良いのかわからなかったのだ。ミチヒはただ私の方を真っすぐに見て、「大丈夫だよ」と言った。自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。


「私たちはずっと大丈夫だよ」


 彼女はもう一度言った。そうか。大丈夫なのか。ずっと。そう思うと全身の力が抜けるようだった。




 それから更に数か月後、私たちは初夏の海辺を歩いていた。この関係の形は時の流れと共にきっと変わっていくのだろうが、それももう、怖くないような気がした。





 

 



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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