温かい食事
ミチヒの面倒を看ることは確定したが、私はまったくもって無計画だった。まず味音痴で料理はからっきしだったし、ミチヒの食の好みもわからない。ああいった状態の時に何を食べたら良いのかも。
自分が適応障害になって半分引きこもりのようになっていた時は、不安や悲しさを打ち消すかのように手当たり次第食べていたが、ミチヒの様子から見るに過食には走っていない。空腹かどうかもわからないのだろうし、自分の経験はあまり役に立ちそうにない。帰りの自転車を走らせながら、限界まで食べては腹を壊して下痢をしていた時の自身をぼんやり思い出し、あの状態からよくここまで回復したものだと苦笑した。毎日のように情けない自分を責め立て、社会の役に立てないなら死んだ方が良いのではないかと思った日もあった。
だからこそ、ミチヒもきっと元気になると思った。私がこうして回復したように、彼女も回復するのだと。そのために精一杯のことをしようと決めた。お金はあまりないが、時間はある。きっと大丈夫だ。大丈夫にしてみせるのだ。きっとまた元通りになる。今よりもっと良くなる。
その日から、仕事でミスが増え始めた。明らかに考えすぎている。ミチヒに届ける食べ物のことや、お風呂には入れているのか等の心配がずっと頭の中でぐるぐる回っているのだ。
――一昨日はとりあえずコンビニとスーパーでいっぱい調達したから、今日はとりあえず大丈夫。いや、ちゃんと食べてるか見に行くべき? なんか監視みたいで嫌だな。明日はどうしよう。家のご飯を持っていく? いや、もっとこう、栄養があって元気が出るようなもの……
そんなことをひとり考えながらラーメンの器を拭いていると、手元が狂って床に落としてしまった。大きな音がはまなか食堂にこだまする。こういうミスだけはするまいと思っていたことをついにやってしまった。
「ツバサちゃん。何かあったでしょ?」
割れた器を片付けながら、麻央さんがすべてを見透かしたように言った。
「あの、実は――」
詳細はぼかしつつも、私は麻央さんに相談してみることにした。すると彼女はこの食堂のご飯を食べさせてあげてはどうかと提案してくれた。
「元気の出る食べ物は……レバーとか良いって聞くよね。レバニラ炒め持っていけば?」
それだけ持たせてくれる時点でありがたいのに、麻央さんは余り物で作った鮭とホウレン草のスープまで持たせてくれた。仕事を終え、自転車でミチヒのアパートへ向かう途中で、川沿いの「豆花と杏仁豆腐の店」が目に留まった。そろそろ閉店時間だったが、ギリギリで滑り込んで暖かい豆乳豆花をテイクアウトした。
「フードデリバリーで~す」
ふざけたことを言いながらドアをノックするとミチヒが鍵を開けた。部屋の中は相変わらず散らかっていたが、玄関まで出てきてくれるようになっただけでも上出来だった。食事もいくらか喉を通るようになり、最悪だった顔色も回復しつつあった。
ミチヒに食事を渡して私は帰ろうかと思ったが、冷静に考えてみると、レバニラ炒めもスープも豆花も一人で食べるには量が多すぎることに気づいた。ミチヒの方もそう思ったらしく、「予備の箸あったっけ」と言いながら部屋の奥へ消えていった。部屋には前に買っておいたパックご飯がいくつかあり、割り箸も何とか見つけ出し、二人で食事を取ることになった。むしろどうして今まで私はそうしてこなかったのだろうと少し不思議だった。はじめからそうしていればよかったのではないかとも思ったが、それが却ってミチヒの負担になった可能性を考えると、このタイミングで良かったのかもしれないと、半ば強引に自分を納得させた。
リサイクルショップで手に入れたらしい小さなダイニングテーブルに、白ご飯とレバニラ炒め、鮭とホウレン草のスープと豆花が並んだ。どれも生ぬるくなっていたのでレンジで温めなおすと、少し寒い部屋の中にふわりとおいしそうな香りが漂った。
食べている間、ほとんど話はしなかった。お互いに目の前の食べ物に集中していた。それは傍から見れば奇妙な光景なのかもしれないが、かつてないほどに穏やかな時間のようにも思えた。
「豆花って初めて食べるかも。優しい味がする」
豆花に手を付けた辺りでようやくミチヒの方から口を開いた。器の縁までたっぷりと入ったほんのり甘い豆乳の中に、つるりとした柔らかな豆腐が入っていて、ピーナッツと緑豆とタロイモ団子が底の方に沈んでいる。本場の味とは少し違うのだろうが、確かにとても優しい味がする。
「そういえば、彼氏台湾に行ってるって言ってたよね。いつ帰ってくるの」
私はおもむろに尋ねた。やっぱりやめた方が良かったかと口に出してからうっすらと思ったが、遅すぎた。しかしミチヒは嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
「わかんない。すぐかもしれないし、何年も先かもしれない。私のところに戻ってくるかもしれないし、来ないかもしれない」
「連絡は……」
「あんまり。こっちが何か送っても返信が遅いし、そもそも既読も付かなかったりする。元々そういう人だから特に気にもしてないんだけど、まあ、そろそろ色々と考えないとね」
彼氏は今のミチヒの状態を知っているのだろうか。もっと気にかけてくれればいいのに。そろそろ考えなければとはいったい何のことだろうか。ぷかぷかと疑問が湧いてきたが、それ以上は何も聞くことができなかった。
「――ねぇ」
ふいに、ミチヒが声を落とした。彼女の殆ど声にならないようなかすれた音は、確かに私に向けられていた。だが、私は返事が出来ずにいた。
「ツバサ」
今度はもう少し大きな声――と言っても蚊の鳴くような声だったが、私の名前が呼ばれた。私は短く声を出し、返事をした。
「いつか、大丈夫になると思う?」
無理やり絞り出すような声だった。沸き上がる不安や心細さ、甘え、恥といったあらゆる感情を何とか押し殺して吐き出したかのような。そんなことをさせてまで、彼女に言わせてしまったことに罪悪感が募る。
「なってもならなくても一緒にいる。大丈夫」
私は答えた。これが自分に言える限界のように思えた。私の答えを聞いて、ミチヒは穏やかに微笑んでいたが、実際彼女が何を考え、何を感じているのかまではよくわからなかった。
家族を亡くし、彼氏は側におらず、元々いた友人に甘えることもできず、冷え切ったアパートの一室で独りじくじくと傷む心を抱えたまま、毎年厳しい冬を乗り切ってきたのかと思うと、もっと何かしてやれることはないものかという気になる。しかし自分ごときにそんな役目が務まるのか、そんな権利があるのかもわからない。そもそもこの気持ちが何なのかすらよくわからない。これまで人との関わりが希薄すぎたせいだろう。これは同情か? 哀れみか? それとも優越だろうか?
家に帰ってからもずっとずっと考えていた。ミチヒの部屋に泊まることも考えたが、ベッドを掃除していないから嫌だと本人が言うので帰ってきたのだ。
考えれば考えるほど、眠れなくなってきた。そういえば睡眠薬を飲んでいない。しかしかといって洗面所まで取りに行くのも面倒だ。私はゆっくり目を閉じ、何も考えないように努めた。




