喫茶店と嘘
ミチヒがこの辺りに良いメンタルクリニックがないか尋ねてきたのは9月の末のことだった。私は昔自分が通院していた隣町のクリニックを紹介し、と言っても10月まで予約はいっぱいだったのだが、何とかミチヒの予約をねじ込んでもらった。
10月の中頃、私は自分の車で彼女をクリニックまで送った。初診なのでかなり診察に時間が掛かり、私は車で待つことにも飽きて外をぶらぶら散歩していた。10月といってもまだまだ残暑の主張は激しく、額にうっすらと汗をかいた。
1人歩いていると、良い感じの喫茶店を見つけた。看板には「純喫茶 彗星蘭」と書かれている。確か昔、ここは骨董品店か何かだったはずだが、改装していつの間にか喫茶店になったらしい。
ミチヒは診察を終え、私たちはお昼ご飯を食べるべく彗星蘭へと入った。大きな野菜がゴロゴロ入ったスープカレーがおすすめメニューらしく、先に来ていた客の殆どがカレーを食べていた。ライスにはレモンを絞るらしく、隣の席からはカレーのスパイシーな香りとレモンの爽やかな香りが漂ってきていた。
私はスープカレーを注文し、ミチヒはナポリタンを注文した。
「後でクリームソーダも頼んじゃおうかな」
子供のようにウキウキするミチヒを眺めながら少し安心していると、カランと音がして店の扉が開き、信じられない人物が入店して来た。私はその顔を見た瞬間、全身に鳥肌がたち、おもしろいくらい冷や汗が噴き出した。
信じられないことに、入って来たのはかつて私をいじめていた主犯格の女の子。千遥だった。彼女は小さな子供を連れており、中学時代と比べてだいぶ雰囲気は変わったが、間違いなかった。そして最悪なことに、彼女もまたこちらの存在に気が付いた。
あろうことか、千遥はこちらに近付いてきた。無視したかったのに、私は蛇に見込まれた蛙のように彼女から目が離せなくなってしまった。
「ねぇ、ツバサちゃんじゃない? 久しぶり……!」
千遥は私に笑い掛けた。何故彼女が笑っているのか理解できなかった。ミチヒも彼女の方を向いて、全てを察したのだろう。心配そうにこちらに向き直した。
千遥は色々と話しかけて来た。かつて私をいじめたことを悪く思っていること。ただ私と仲良くしたいだけだったこと。今は結婚して子供がおり、母校で養護教諭をしていること。あれから深く反省して、生まれ変わったこと……
「で、ツバサちゃんは今どこで何してるの? デザイナーの夢は叶った?」
覚えていたのか。当時、散々「なれるわけない」と馬鹿にしていたのに。まあ、実際なれなかったのだが。
「……東京に、東京に住んでる」
思わず薄っぺらい嘘をついた。今の自分の状況をそのまま話す気にはとてもなれなかった。そんなことをしたら、哀れみの目を向けられるか、マウントを取られて終わるだけだ。千遥が訝しげに東京のどの辺りかと尋ねると、ずっと黙っていたミチヒが突然口を開いた。
「吉城寺だよね!」
どうやら話を合わせてくれるらしかった。
「吉祥寺のお洒落なアパートにワンちゃんと住んでて、私は後輩なんです。デザインの仕事をしてて、今日はこっちの会社に用があったから、今その帰りなんですけど――」
そこから先の記憶はほとんどない。ミチヒは目にも留まらぬスピードで作り話をまくし立て、さすがの千遥も怯んだようで苦笑いを浮かべながら退散して行った。
「なんで合わせてくれたの?」
私が尋ねると、ミチヒはにっこり笑って言った。
「幸せそうにしてるのが一番の復讐って言うでしょ? ツバサにとっての幸せがそういうことなら、それに合わせようかと……ツバサは、今の暮らし嫌なの?」
「いや、別に嫌ではない。色々と不安定な状態で長いこと生きてきたけど、なんだかんだ今が一番安定してるし。そこそこ幸せなのかも。でも――」
「でも?」
「罪悪感がある。こんな状態に満足することに。世間の目も怖い。正しい人生を送れてないことに対する、目」
「正しい人生って?」
「都会へ出て、一人暮らしして、働いて、キャリアアップして、彼氏作って、結婚して、子供を産み育てて、家を買って、働いて、老いた親の面倒をみる。皆がやってるような社会貢献」
「そうしたいと心から思ってる?」
「わからない……ただ、そういうお手本に近づくための努力はしなきゃいけないと思ってる」
だってそうじゃなきゃ、そうじゃなきゃいけない。
「どうして。皆が皆、そんなお手本みたいな人生を送ってるわけじゃないよ。皆で同じ方向を向く必要もないし。いろんな人がいて当たり前だもん。それに、良い人生を送れなくても、わりと何も言われないよ?」
「ネットではボロクソ言われてるよ。いつか、現実世界でも、誰かから突っ込まれる。痛いところを突かれて大恥をかくんじゃないかと思う」
「自分のことを知りもしない他人に怯えなくてもいいのに。ましてやネットに張り付いてる馬鹿野郎なんか」
ミチヒは眉を少し上げて残り少ないレモン水を飲み干した。私はもうこの際だから心の内を全部話してしまおうかと思った。
「私はこの社会にとって必要な人間なのかってよく考える。私にとってこの社会は必要だけど、社会の方は私を必要としてない」
とはいえ、自分でもこれは言いすぎたと思う。こんなこと言ってもミチヒを困らせるだけだ。完全に甘えが出た。
結局、私が東京にこだわるのは、あの時の失敗と挫折を受け入れられず無かったことにしたいからであり、見下ろされる側から見下ろす側に行きたいからだろう。土台無理な話だとわかっていながら。
「悲しいな。今まさに目の前の人間に必要とされてるっていうのにさ」
何故私なんかをこの人は必要とするのか不思議だった。この時、私はきっとさぞ間抜けな顔をしていたのだろう。
「ありがとね。友達になってくれて」
畳み掛けられるようにそう言われ、もうわんわん泣いてしまっても良いのではないかと思ったが、喫茶店で泣くのはあまりに恥ずかしいのでぐっと我慢した。友達――彼女の口から聞くと酷く安心する。少なくとも「そう思っているのは自分だけ」という惨めな状態は否定されるからだ。
「本当は堂々と千遥に言えなきゃいけなかった。本当のことをね。でも昔も今も、あの人には負けてるから。何もかも」
私は自分の中のミチヒに対する甘えを殺せなかった。だが彼女は淡々と迷いなく答える。
「生き方に勝ちも負けもなくない? 問題は自分が幸せかっていうことだけ。独りで東京に行って、がむしゃらに働いて稼いで、結婚して子供を持って、あの女より成功できたとしたら、初めて堂々とできるの? そうまでしないと安心して自分を認められない?」
「そりゃあもちろん……いや、どうだろう」
少なくともあの人と自分を比較して自らを恥ずかしく思うことはなくなるだろう。気持ちよく見返せるかもしれない。ネットの中傷を見て心を痛めることもない。しかし、そんな自分自身を私は心から気に入るだろうか。
すべては、ただ自分を安心させるためだ。向上心などでは決してない。自分を見下した人間を見下したい。底の浅い力に固執するのは弱さがあるからだろう。
「キリが無いんだよ」
そう言うミチヒの目は珍しく鋭かった。一瞬、呼吸が止まり、空気がひりつく。
「合わない型に収まろうとすると死にたくなるでしょ。私を見なよ。仕事すらしてない。家族もいない。結婚もしてないし、彼氏ともうまくいってない。田舎町で友達を振り回してるだけ。そんな私をツバサは責めるの?」
責めない。そんなことをするわけがない。そんな奴がいたらただではおかない。どんな生き方をしていようがミチヒはミチヒで、私の友達だ。何事にも縛られずに、どこまでも自由であるべきだ。纏わりつく世間体など投げ捨てて、心から安らげる道を自らの意思で選んでほしい。私は無言で必死に首を振った。
「それが答えかもしれないね」
そう言ってミチヒはいつものようにニカッと百点満点の笑顔を向けた。




