台風と同居人
9月。大型の台風が町に直撃した。
詳細は省くが、手短に言うと、台風で汐路荘が盛大に破壊されてしまったのだ。部屋の屋根はめくれ上がり、部屋は水浸しになってしまった。元々かなり老朽化が進んでおり、住人の数も少なく大家も高齢なために修繕は見送られ、あれよあれよという間に解体されることになってしまった。ミチヒは立ち退き料が貰えると言って小躍りしていたが、その顔は少し寂し気に見えた。
そして、何だかんだでミチヒは私の部屋にいる。
「冬までには新しいアパート見つけて出ていくからね。仕事も探さなきゃ」
ミチヒは真剣な顔でそう言いつつも、ベッドに寄りかかって両脚を床の上に投げ出すようにして寛いでいた。その脚の上にはキナコが顎を乗せて寛いでいる。ふたりはもうすっかり友達であるらしい。
「べつに、無理しなくて良くない?」
私が言うと、ミチヒは黙って首を横に振り、また「冬までには」と繰り返した。どうやら決意は固いらしい。確かに期限を設けた方が動きやすいのかもしれないが、どうもミチヒは無理をしているように見えた。
彼女は私の家族とも完全に打ち解け、毎日のように食卓を囲んでいた。その様子はいつも楽しげではあったが、どこか寂しげなようにも見えた。いや、ただ寂しいのではない。何と言い表せば良いのかわからない。とにかくミチヒが何かを密かに抱えて葛藤していることは確かだった。だが私は彼女に直接尋ねるようなことはしなかった。今思えば、この時何か手を打つべきだったのかもしれない。心の奥底にある繊細な感情を丸ごと受け止められる自信が、私にはまだ無かった。
「ねぇ、卒業アルバムとかある?」
藪から棒にミチヒがそう言った。ドキリとして、反射的に「なんで?」と低い声が出てしまった。しかしミチヒはそんなことは意にも介さず、「友達の実家の部屋に行って見るものと言えば卒業アルバムでしょ」と言って聞かない。もういっそ捨てたとか燃やしたとか言ってしまえば良いのではと思ったが、そう考えたのと同時に彼女は私の本棚から卒業アルバムを見つけてしまったのだった。
「見てもいい?」
「嫌かも」
「どうして?」
「クソみたいな思い出しかないからだよ」
「でも取ってあるんだね」
確かに。どうして捨てずに取ってあるのか自分でも不思議だ。私がそんなことをぼんやり考えていると、ミチヒはおもむろにアルバムに手を伸ばしていた。一応こちらをちらちらと窺っているが、いずれにしろ読むつもりなのだろう。私は大きくため息をついて、「どうぞご勝手に」という顔をした。そのはずだ。それにもしかしたら、ミチヒが私のクソのような過去を何か愉快なもので上書きしてくれるかもしれなかった。
「中学のアルバムだね。今とあんまり変わらないね。ちょっと笑顔が引きつってる」
ミチヒはクラスメイトの顔写真が載ったページを開くと私の写真を見てそう言った。長い黒髪に分厚い前髪。いかにも笑い慣れていない表情。これが今と変わらないって?
彼女は他の生徒を端から順に指さして、この人は生徒会にいそうとか、この人はヤンキーに憧れてそうとか、勝手にプロファイルを始めた。
「うーん、この人はねぇ」
やがて彼女の指はある人物の前で止まった。その瞬間、私の額に冷や汗が滲む感覚がした。思い出したくない過去が頭の中に蘇る。
「なんか、意地悪そう」
ミチヒがそう言って顔を歪ませた瞬間、私はいやに大きな声で「そうなんだよ!」と叫んだ。その声にびっくりしたキナコが勢い良く顔を上げるほどだった。
「その人、私をいじめてた主犯格」
中学時代、私はいじめられていた。理由はくだらないもので、主犯格の子と仲良くするのを拒んだからだ。彼女はいつも誰かの悪口ばかり言って、人を小馬鹿にしたように下品な笑みを浮かべていた。最初はそんな彼女に何故か気に入られ、親友になってよとまで言われたが、私はどうしても受け入れられなかった。そこからのいじめは壮絶なもので、机がチョークの粉で真っ白にされていたり、椅子に画鋲が置かれていたり、廊下でわざとぶつかられたり、体育の授業で誰とも組んでもらえなかったり、授業中に暴言が書かれた紙を回されたり……今思えば子供臭くてくだらないやり口でしかないが、当時の私には酷く堪えた。親にも教師にも相談したが、結局中学の3年間は殆ど誰とも仲良くできずに終わった。あれからというもの、私はずっと人との関わり方がよくわからないし、いつも心の奥で何かに怯えている。だから成人式にも同窓会にも行っていない。
「見つけたら思い切りぶん殴ってやりたいね」
私の話を聞いたミチヒは真剣な顔でとんでもなく物騒なことを言った。彼女の口から「ぶん殴る」という言葉が出てくるのは何とも言えずシュールだった。
「まあ、いじめられたけど、その子と仲良くしなかったこと、後悔はしてない。拒絶して傷付けたかもしれないけど、それだっていじめをやって良い理由にはならないし」
少し強がりも入っていたが、私は過去の自分を励ますように言った。ミチヒは相変わらず真剣な顔をしていて、「そうだよ。それにそんな子と仲良くしたら、一生後悔するよ」と言って私の背中を勢い良く引っ叩いた。




