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海辺のふたり  作者: 生吹
10/13

弟の帰省

 その後はのぼせる寸前までお湯に浸かりながらくだらないことをあれこれ話した。何故銭湯には富士山の絵があるのかとか、サウナは本当は体に悪いんじゃないのかとか、皆が入るお湯の中にオシッコが混ざっている確率だとか、ムダ毛は夏の方が元気で早く伸びてくるから面倒だとか、永久脱毛は更に面倒だとか。そして最後に真面目な話。この銭湯がいつまで現役でいられるのか。そのためにできることは何か……なんてことを。


「無くならないでほしいけど簡単なことじゃない。できることと言ったら、度々ここへ来て、お金を落とすくらいのことしか思いつかない。それでも働ける人がいなくなったらどうしようもなくなる。せめて外観だけはって思うけど、維持するにもお金が要る」


 すっかり日に落ちた川沿いの小道を歩きながら私は言った。保存しろと言うだけなら簡単だ。もしかしたらお金や人員だけの問題ではないのかもしれない。こういうことは専門外だ。いや、そもそも私に「専門」なんてもの自体無いのだが。


「東京に住んでた時さ、昔銭湯だった建物を少しいじってコンセプトカフェにしてるの見たよ。でも銭湯は銭湯としての役割であって欲しいかも……」


 ミチヒはコーヒー牛乳を飲みながら眉間にしわを寄せていた。こんな話を真剣に誰かと話したことはない。いや、真剣に何かを話す相手などこれまでいたのだろうか? いたかもしれない。ずっとずっと昔。子供の頃に。中学で他人の恐ろしさを知り、高校では自分を大事にし過ぎたあまり臆病になって誰とも打ち解けられず、大学でも表面的で上っ面だけ取り繕ったような人間関係しか築けなかった。必死に普通になろうとしたのにだ。


 何故ミチヒとは話せるのだろう。普通になろうなんて気持ちはこれっぽっちもない。素の自分のまま雑に言葉を放り出しても彼女はかならず丁寧に受け止め、軽やかに投げ返してくる。私は自分が思っている以上にミチヒに甘えているのかもしれない。やっぱりこれは良くないことではないか。

 しっかりしなくては……などと思っていると、ふいにミチヒが「あっ」と声を上げた。


「犬がいるよ!」


 そう言って薄暗い前方を指さす。最近LEDに変わった街灯の元に、なにか黒い影がうごめいていた。


「何? 犬? 野良犬?」


 もしくはどこかの家から脱走した飼い犬だろうか。そんなことを考えながら少しずつ距離を詰めていく。


「なんか、でかくない?」

 

 私はスマホを取り出してライトを点け、うごめく影に向けた。


「……あ」


 思わず声が漏れた。一瞬、頭が真っ白になる。いや、予感はしていた。もしかしたらそうではないかと。


 そこにいたのは犬などではなく、馬鹿でかいイノシシだった。

 イノシシはミミズでも探していたのか、一心不乱に地面を鼻先でほじくっていたが、こちらの存在に気付くと鼻息を荒くしてギロリと私たちを睨みつけた。

 危険な野生動物に遭遇した時、背中を向けて逃げてはいけないという。目線を合わせたまま、静かにゆっくりと後退りするべきだと、何度も聞かされたものだ。だが実際に対峙してみると、そうもいかないらしい。気が付くと私たちは絶叫しながら思い切り背を向けて走っていた。


「やばい! 殺される!」


 ミチヒが叫ぶ。町からは離れてしまっていたので誰も反応しなかったが、何も知らない人が聞いたらさぞびっくりする台詞だろう。


「何が犬だよ! あんな犬いてたまるか!」

「ツバサ待って! 速い! 足が速い!」


 私は構わず全力で走り続けた。イノシシは追ってきてはいないようだったが、それでも走った。走って走って走り続けた。


「殺される時は一緒だからね!」


 ミチヒはまだ気付いていないのか、そんなことを言いながら必死に私の脚に食らいつこうとしてくる。


「そんな重い約束はしない!」

 

 段々と可笑しくなってきて、私は乱れた呼吸のままゲラゲラと笑い出した。つられたミチヒも笑い出す。苦しい。走りながら笑うと死ぬほど苦しいのだと久しぶりに思い知った。可笑しくてたまらない。後ろを振り返る。イノシシの姿はどこにもない。ただ笑いながら必死についてくるミチヒがいるだけだった。


「死ぬ……」

 

 ついに呼吸困難に陥って、私は足を止めた。帰る方向とは真逆の方向に走ってしまい、後悔の念がじわじわと湧き上がってきた。

 落ち着くまでひとしきり笑ってから、汗だくかつ冷静な頭で考える。そう言えば、今日は弟の歩が帰って来る日ではなかったか? すっかり忘れていたが。


「悪いけど、迎えに来てもらうか」


 私は歩に電話を掛け、事情を説明した。もしまたイノシシに遭遇したら危険だ。幸い歩は家にいて、私の車で迎えに来てくれることになった。大阪から新幹線で遥々やって来たというのに申し訳なかった。


 10分後、水色のラパンが到着した。ミチヒは後ろの席に座ると、歩に頭を下げ、わざわざ来て頂いてすみませんと申し訳なさそうにした。


「気にしないでください。姉を構ってくれてありがとうございます。汐路荘に引っ越してきたんですよね?」

「はい。そうなんです」

「何かあったらこの人をこき使って良いですから」


 歩がそう言って私の方を指差し、私はその指をはたき落とした。車の中は冷房が効いていて気持ちが良かった。だが、またお風呂に入る必要がありそうだ。


 家に着くと、ミチヒは改めてお礼を言い、そそくさとアパートへ入っていこうとした。それを歩が引き止める。


「夕飯はまだですよね?」


 何を言うかは大体わかっていた。私は止める理由も無いので黙って彼の横に仁王立ちしていた。


「もしご迷惑でなかったら、食べていきませんか? 母がお寿司頼んだんですけど、頼みすぎちゃって。おかずも作りすぎちゃって。良かったら手伝ってくれません?」


 歩はこういう人間だった。基本誰にでもフレンドリーで人懐こく、弟とは思えないほど面倒見が良くて時にお節介だ。おまけに私と違い外見にも恵まれていると来た。自慢できる弟だと思うが、正直なところ、同時に劣等感も抱いてしまう。

 

「まあ、無理にとは言わないよ。いきなりだし……」


 私も歩の後に続く。ミチヒは少し考え込んでから、はにかむように笑い、またお礼を言った。

 母と祖母、歩と私、そしてミチヒの5人で食卓を囲んだ。母も祖母も明るいミチヒを気に入ったようで、とにかく彼女にたくさん食べさせようとした。


 ミチヒが帰り、私がシャワーから上がると、リビングでスマホを見ていた歩が話しかけてきた。


「姉ちゃんが誰かと仲良くしてるの久しぶりに見た気がする。友達ができて良かった。いっぱい連れ出してもらいな」


 いつもどこかヘラヘラとしていてお洒落に余念がなく、いつでも陽気でごきげんで、よく言えば「良いヤツ」で、悪く言えば「アホっぽい」弟だが、こういう台詞をなんの躊躇いもなくさらりと言ってしまうところにはいつも感心する。普通大人になった姉弟なんて殆ど口をきかないものなのではないか? 私には無い素直さを持っている。帰省のことを忘れていたのが余計に申し訳なくなった。


 


  

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