「愛するつもりはない」と言い放った夫は、泡となって消えた。
この世には、救いようのないクズというものが存在する。
他人を振り回すくせに、自分の主義主張は絶対に曲げない。
常に自分の意見や考え方が正しいと思いこんでいる。
プライドが高くて、思いどおりならなければ気がすまない。不機嫌で周りを動かそうとする。
自分自身を客観視することができず、決して顧みない。
視野が狭く、他人に気を配ることさえしない。
『自分勝手』と『自由』を履き違えている愚か者。
それが、この国の第一王子、ヴァレリオ・カリスウェル。
大変、誠に、心底、遺憾ながら……本日をもって、わたくしの夫となった人物である。
「クレイト・エヴェノール。最初に断っておくが、俺からの寵愛など期待しないことだ」
結婚初日の夜、ノックのひとつもせずにズカズカとわたくしの部屋に乗りこんできた王子は、開口一番そう言った。
まるでわたくしがこの男の寵愛を望んでいるとでも言いたげな口調だ。
バカバカしい。誰がそんなものを欲しがるのかしら。
わたくしがこんな男と結婚せざるを得なかったのは、国王夫妻による打診があったから。
それも、圧力をかけられていたので、ほぼ王命に近かった。
国や家族を思えばこそ、人身御供のようなつもりで結婚式に挑んだというのに。
――本当、バカにしている。
「……はい、心得ております」
だが、こちらとしても都合がいい。
こんな男に指一本でも触れさせるなど、考えるだけでおぞましいことだ。
今だって、拷問に挑むつもりで、ベッドの上に待機していたのだから。
初夜が回避できるというなら、いくらでもプライドなど捨ててやる。
王子はわたくしの返事を聞くと、「ふん」と鼻で笑った。
「わかっているならいい」
彼は窓ぎわのソファーにどかりと腰をおろす。
まるでこの部屋の主のような振る舞いだ。
王宮は国王の持ち物であり、この部屋は陛下からわたくしに与えられたもので、彼に所有権はないのだけれど。
足を組み、豪奢な絹の寝巻きをだらしなくくつろげている。
いつの間にか手にしていた銀細工の酒杯には、ぶどう酒がなみなみと注がれていた。
「お前のようになんの面白みもない女の相手は面倒だが、致し方ない。義務は果たさねばならぬからな」
「……は」
「さっさと服を脱いで、横になれ。寝ているだけでいいから、動くなよ。俺をわずらわせるな」
最悪である。こんな男と一夜をともにするなど、死んでもごめんだ。
しかし、これに関しては王子が正しい。
婚姻を受け入れた時点で、こうなることは覚悟しておくべきなのだから。
……けれど、わたくしにだってプライドというものがある。
「あら、それでは、わたくしと一生添い遂げていただけるということで、よろしいのでしょうか?」
一瞬、王子の表情が凍った。
その目の奥に、理解できないという苛立ちと、ぞっとするほど冷たい怒りが走る。
「……なに?」
低く、押し殺した響きだった。
けれど、わたくしはあえて涼しい顔を作って答える。
「いえ。てっきり、殿下はわたくしをお側に置くつもりはないのだと思っておりましたから。王子妃としての立場を保証していただき、感謝申しあげます」
「待て。なぜ、そんな話になる」
「なぜ、と申されましても……。一度、男女の仲になれば、もう二度と離縁することはできません。殿下もご存じでしょう?」
この国の法律は、『離婚』というものを認めていない。婚姻とは神との契約であり、これをやぶると神罰がくだると言われているからだ。
もちろん、抜け道はある。例えば、片方が不能だった場合、過去に遡って婚姻の無効手続きができる。
ただし、これには裁判官複数人の前で、お互いが不能ではないと証明する必要がある。つまり、実際にやってみせるのである。
たいがい、心理的負担のかかった男性が、その気になれずに失敗する。だから、男性に不利な手続きでもある。
これを回避するためには、『白い結婚』である必要がある。
それさえ証明できれば、最初からなかったことにできるからだ。
逆に言えば、ここで手を出してしまえば、もう二度と取り返しがつかない。
それに思い至ったのだろう、王子が苦い顔になる。
重苦しい沈黙が部屋に満ちた。
銀杯を持つ王子の指先が、わずかに震える。
だが、すぐに彼は無理やり余裕を取り戻した表情を作って、鼻を鳴らした。
「……くだらん」
「ええ、くだらないことですわ。ですが、わたくしにとっては、今後の身の振り方を決める、大事なことですの。お飾りの王子妃でいるのか、それとも一生を添いとげるパートナーとして振る舞うのか」
暗に、手を出したら王子妃として大きな顔をするぞ、と脅してみせる。
王子はぐいっとぶどう酒を飲み干すと、杯を乱暴にテーブルへ置いて立ちあがった。
「なにを勘違いしている。お前にそんな価値はない」
捨て台詞のように吐き捨て、彼は部屋を出ていく。
わたくしは殊勝な態度でその背を見送りながら、心の中で冷たく笑った。
――なんと御しやすい人なのだろう。
愚かで醜い、わたくしの夫。
絶対に、このままでは済まさない。
◇◇◇
「あいかわらず、ひとりの侍女もいませんでした」
実家から連れてきたメイドのアリエルが静かに言う。
後宮の一角に与えられた、王子妃専用の部屋。
ただでさえ広々としたそこは、中にいるのがたったふたりということも相まって、ずいぶんと寂しい空間に思えた。
不満を口にしながらも、アリエルの手際は見事だ。
絡まったわたくしの長い金髪を、ていねいに櫛けずっていく。
「ええ。殿下のありがたいお心づかいでしょう」
わたくしは皮肉って答える。
嫁いでこのかた、身の回りを世話する侍女は最低限にも満たなかった。
実家からアリエルを連れてこなければ、今ごろどうなっていたことやら。
「ですが、そのおかげで……面倒な耳もなくて、助かります」
「うふふ。そうでしょう?」
唇に笑みを浮かべつつ、わたくしは鏡越しにこの侍女を見つめた。
その赤い瞳と視線が重なり、美しい笑みが返される。
……この美貌をヴァレリオ殿下に見られでもしたら、厄介なことになるかもしれないわね。
この子はわたくしのもの。あんな王子に手出しされたら、たまったものじゃないわ。
「王宮の者たちは、よほどわたくしたちを侮っているようね。でも、かえって都合がいいわ。……首尾はどう?」
「上々です。他の侍女から、面白い話が聞けましたよ」
「まあ、どんなお話かしら」
アリエルは声をひそめ、何気ない表情のまま続けた。
「シアラ・ブレナン……男爵家の娘だそうです。噂では、ヴァレリオ殿下の恋人だとか」
「まあ、ずいぶんと身分違いの恋ね。まるでおとぎ話のようだこと」
「寝物語ですよ。国王夫妻は、彼らの関係に反対したそうです。それで急遽、クレイト様との婚姻話が取りつけられたとか」
「どこまで人をバカにすれば気がすむのかしら」
つまり、愚かな王子の尻ぬぐいを押しつけられた、というわけだ。
「それから、もうひとつ。……例のものは、彼らの手に渡っていたようです」
「……まさか」
「エヴェノール卿より、下手人のひとりを捕らえたと連絡がありました。それから、殿下からお手紙を預かっております」
「まあ、あの殿下から?」
受け取った手紙をペーパーナイフで開封する。
美しい筆跡は、あきらかに代筆したものだった。
……サインまで他人に書かせるだなんて、ずいぶんと舐められたものだわ。
けれど、『例のもの』に、タイミングのいいお茶会。
彼らの目的は明白だった。
「なるほど。邪魔者にはいなくなってもらおうというわけね」
だが、手のうちさえ知っていれば、やりようはある。
「そのお茶会、喜んでお招きにあずかりましょう」
「……よいのですか?」
「ええ、もちろん。わたくしは、このままヴァレリオ殿下の手のうちで踊らされる気はなくってよ」
そう言って、鏡に映った自分を見つめる。
あの日、彼から「深海のようだ」と讃えられた瞳の奥に、冷たい決意が宿っていた。
「まずは、味方を作らなくては。そのために、エナ――いえ、アリエル。接触したい人がいるの」
髪を束ねていた手がぴたりと止まる。
「……その方に、協力を仰ぐおつもりですか?」
「ええ、そうよ」
「うまくいくでしょうか」
「必ずいくわ。ほら、よく言うでしょう? 敵の敵は味方、って」
「……なるほど、そういうことでしたか」
アリエルから差し出された手を取って、わたくしはゆっくりと立ちあがる。
「仰せの通りに、ユア・グレース」
「もう、やめてちょうだい」
紳士的に跪いてみせるその人に笑いかけながら、わたくしは心の中で冷たい算段を組み立てていた。
あの人がどんなに策を弄しても、こちらには手札がある。
……そのために、まずは罠にかかったふりをしてみせましょう。
◇◇◇
お茶会当日。
ヴァレリオ殿下からのお招きに応じ、わたくしは庭園の一角に設えられた白い東屋へと足を踏み入れた。
初夏の風が淡い薔薇の香りを運んでくる。
美しく整えられた花々が、陽光に照らされて鮮やかにきらめいていた。
けれど、せっかく四季折々の草花も、殿下にとっては眺める価値がないらしい。
先ほどから、招待された令嬢たちの中にいる、たったひとりばかりを熱心に見つめている。
……なるほど、あれがシアラ・ブレナン男爵令嬢なのね。
わかりやすくて助かるわ。
柔らかな亜麻色の髪を可憐に揺らす少女は、なるほど庇護欲を掻きたてる容姿をしていた。
ふふ、まるで小リスのようね。お可愛いこと。
彼女の前では、わたくしのような気の強い女など、さぞ悪い女に見えるのでしょう。
「まあ、クレイト様。お会いできるのを楽しみにしておりました」
ニコニコと人好きのする笑みを浮かべて、ブレナン嬢が話しかけてくる。
他の令嬢たちは、遠慮がちな態度で、遠巻きにこちらを見つめていた。
……まあ、そうよねぇ。
ふつう、家格が下の者は、上の者に自ら話しかけはしない。向こうから声をかけられて、初めて会話を許されるのだから。
「まあ。あなた、どちら様?」
名乗りもせず無礼だと遠回しに伝えると、ブレナン嬢はくしゃりと泣きそうな顔になった。
「も、申し訳ございません。わたしはただ、クレイト様と仲よくなりたかっただけで……」
「おい、クレイト。シアラをいじめるんじゃない」
なんの茶番かしら?
わたくしは名前を聞いただけなのだけれど。
それにしても、『シアラ』、ね。親しげな態度を隠そうともしないじゃない。
……ならば、こちらにも考えがある。
わたくしは彼女を倣い、悲しげな顔を作った。
「まあ、ごめんなさい。わたくし、辺境伯領から出たことがございませんの。中央で有名な貴族の方のお顔を存じあげなくて。世間知らずで申し訳ございません」
「う、うむ。わかれば……」
「こんなわたくしがご一緒してしまっては、空気が悪くなってしまうわね。今日のところはお暇させていただきます」
「ま、待て待て待て! そこまでしなくていい!」
「ですが、彼女が泣きそうで……」
「し、シア……いや、ブレナン嬢。少し向こうへ行っていてくれないか」
殿下がそう言うと、ブレナン嬢はあからさまに不機嫌な顔をした。
……なるほど、そっちが本性ね。
わたくしは彼女を無視しつつ、他の令嬢たちに挨拶をして回る。
彼女を認めていない、という遠回しなアピールだ。
おとなしく舐められたままでいる女じゃなくってよ。残念だったわね。
「わたくしなどが、こうして妃殿下とお会いできるなんて……殿下のご配慮に感謝申しあげます」
「わたくしも、皆さまにお会いできて嬉しいですわ。……最近は、外出する機会が減っていたものですから」
柔らかい口調の中に、そっと棘を忍ばせる。――殿下のせいで部屋に引きこもるしかなかった、という意味を言外ににじませて。
隣で聞いていた殿下は一瞬、顔を引きつらせたものの、すぐに笑みを作り直した。
「そ、そうか。ならば今日の茶会は、いい気分転換になるだろう」
――あらあら、必死なこと。よほどわたくしにこのまま参加してもらわなくちゃ困るようね。
心でせせら笑いながら、用意された席に腰を下ろす。
周囲には、ヴァレリオ殿下の息がかかったであろうメイドたちが控えていた。
「今日は特別なお茶を用意した。キミの好みに合うものを選ぶといい」
殿下はわざとらしく言い、銀盆にのせられた二種類の茶葉を示した。
「おま……いや、キミの育った辺境伯領では、このような茶が流行っていると聞いた」
指し示した缶には、淡い琥珀色の軽やかな茶葉がつめられていた。
「それとも、こちらはどうだ? 遠い南方のサラニア王国から輸入した珍しい茶葉で……」
別の缶には、赤茶色の濃い茶葉が並んでいる。
……何を企んでいるのか、あまりにもわかりやすい。
必死すぎて滑稽ね。
まあ、いいでしょう。そのお粗末な計画に乗って差しあげる。
「では、サラニア産を」
わたくしが平然と告げると、控えていたメイドが「承知いたしました」と軽く膝を曲げて応じた。
赤茶色の茶葉をポットに移し、お湯を注ぎ始める。やがて、濃厚な香りが立ちのぼり、その場にいた人間の鼻をくすぐった。
殿下はわざとらしく迷うそぶりを見せると、「ならば、俺はこちらで」と言い、もう一方の茶葉を指示した。
メイドはすぐに応じ、自然な仕草で紅茶を淹れる。
……あら、すごい。彼女、手品師の才能があるのではないかしら。
事前に情報を仕入れていなければ、すっかり騙されていたかもしれない。
こんな人材がヴァレリオ殿下の手の者だなんて、もったいないわね。
「どうぞ」
わたくしの前に、深い赤茶色の紅茶が差し出される。
殿下の目の前には、美しい琥珀色のお茶。
……さて、そろそろかしら。
「きゃあっ!」
庭のほうで悲鳴があがった。
見れば、とつぜん垣根の間から小さな白猫が飛びこんできて、メイドが運んでいたワゴンをひっくり返したようだった。
「えっ、猫!?」
「誰か、その猫を捕まえて!」
小さな乱入者は食器をなぎ倒しながら、伸ばされた手をひらりひらりと踊るように躱していく。
「なにごとだ!」
殿下が椅子を蹴るようにして立ちあがった。
「誰がこんなところに猫を!」
「失礼いたしました、殿下! すぐに追い払います!」
と、メイドたちが猫を追いかけていく。
ようやく騒ぎが落ちついたころ、殿下は苛立たしげに席に戻った。
「……まったく、とんだ目にあった」
「まあ、大目に見ましょう。可愛らしいゲストだったではありませんか。きっと猫も、この素晴らしいお茶会に参加したかったのでしょうね」
そう嘯いて、わたくしは琥珀色のお茶に口をつける。
ヴァレリオ殿下はニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「……ふん、くだらない冗談はやめろ」
殿下は形だけの気づかいをさっさと打ち捨て、元の傲慢な態度に豹変する。
……まったく、わかりやすくて嫌になるわね。
「まあ、失礼いたしました」
舌になじむ茶を味わいながら、わたくしはほほ笑んでみせる。
どちらが本当の愚者か、試して差しあげましょう。
――さあ、反撃の始まりよ。
◇◇◇
「おい、クレイト! お前の夫がきてやったぞ! 茶のひとつでも出せ!」
ノックもなく乱暴に扉を開け放ち、ヴァレリオ殿下はズカズカとわたくしの部屋へ踏みこんできた。
まあ、騒々しいこと。相も変わらず、横柄なお方だわ。
わたくしは椅子に腰をおろしたまま、傍らの侍女を仰ぎ見た。
「……アリエル、申し訳ないけどお願いできるかしら?」
「承知いたしました」
予定外の仕事に文句のひとつも言わず、アリエルは粛々と仕事をこなしていく。
いつもどおり、わたくしの侍女は優秀だわ。
「まったく。お前の部屋は、見ているだけで鬱陶しい。目障りなものにあふれている」
殿下はイライラと部屋を見回し、花瓶に目をとめた。
「なんだ、その花は。趣味が悪い、すぐに撤去しろ」
「まあ、こちらは先日、王妃殿下より賜ったお花ですが」
やんわりと告げると、殿下の顔がわずかに引きつる。
だが、すぐに苦しまぎれの理屈をこねた。
「……田舎娘には過ぎた品だ!」
「ええ、身に余る光栄でございます。王妃殿下のご厚意ですから、恐れ多くもこうして飾らせていただいておりますの」
殿下の唇が引きつり、次の標的を探すように視線をさまよわせる。
そして、今度は天蓋つきのベッドを指さした。
「なんだ、あの派手なベッドは! これだから成金のセンスは気がしれん!」
「家具はすべて、国王陛下の采配だとうかがっておりますが……」
再び、殿下の顔色がぎくりと変わった。
慌てたように目を泳がせる。
そして、壁にかけられた絵画に矛先を向けた。
「なんだ、この絵は! お前に価値がわかるのか!」
「まあ、こちらは……第二王子殿下から、結婚祝いにといただいた品でございます」
感情を抑えてそう伝えると、殿下の顔色があからさまにサッと変わった。
見るみるうちに顔が赤く染まり、怒りに歪んでいく。
「なんだと……!」
声を荒げ、絵画に手をのばすと、無理やり外した。
勢いのまま床に叩きつけられ、額縁のガラスが乾いた音を立てて割れる。
「こんなもの、目障りだ!」
わたくしはできるだけ残念そうな表情を作り、無惨に砕け散った破片を見つめた。
「せっかくの贈り物ですので、大切に飾っておりましたのに……」
「黙れ!」
殿下は吐き捨て、足早に部屋を去っていった。
荒々しく扉が閉まり、あたりに静寂が戻る。
「……本当に、お手間のかかるお方ですこと」
わたくしのつぶやきに、アリエルがそっと寄ってきた。
せっかくわたくしの侍女がお茶を用意してくれたのに、飲まずに帰るなんて。どこまでも身勝手な人。
「一体どうしてしまったのでしょうね、殿下は」
わざとらしく首をかしげ、あくまで何気ないようすでアリエルが言う。
だが、その赤い瞳の奥に、いたずらっぽい光が隠せていない。
……うふふ、わかっているくせに。
「ええ。最近、妙に不機嫌ですわ。……ああ、そういえば」
声をひそめ、ささやくように続ける。
「最近、ブレナン嬢のそばに素敵な紳士がいる、なんて噂を聞きましたわ。なんでも、このあたりでは滅多に見ない、銀髪の美男子だとか」
わたくしたちは顔を見合わせ、意味ありげに視線を交わす。
……策は整った。
あとは機を待つだけよ。
◇◇◇
きらびやかなシャンデリアが、宮殿のダンスホールを鮮やかに照らしていた。
あちらこちらで華やかなドレスが翻り、貴族たちの笑い声と、楽師の奏でる音色が溶けあう。
王家主催の舞踏会。
わたくしは王子妃として、参加を余儀なくされていた。
あのお茶会以来、ようやくの外出。
しかも、ドレスのひとつも用意されず、困り果てた。
本来ならば配偶者が手配するものだが、あのヴァレリオ殿下がそんな気を回せるはずもない。
そんな予算があるのなら、ブレナン嬢にアクセサリーでも買い与えようとするでしょうね、あの男は。
王子妃がみすぼらしい格好をしていたら、それは殿下の恥にもなるのだけれど、わかっていらっしゃるのかしら。
仕方なく、持参していた礼装の中から一着を引っぱり出し、アリエルとふたり急いで手直ししたのだった。
「本当に、あの子には感謝しなくてはね……」
小さくつぶやき、真珠の髪飾りにそっと触れる。
その時、大広間の階段上から、カツカツと大仰な足音が響いた。
見れば、わたくしの夫――ヴァレリオ殿下が、わざとらしい威圧感をまとい、ゆっくりと降りてくるではないか。
彼はあの品のない笑みを浮かべながら、勝ちほこったように言った。
「クレイト! お前との婚姻はなかったことにする!」
その声は、舞踏会のざわめきを一瞬で凍らせた。
楽師たちの奏でる旋律が止まり、貴族たちの視線が一斉に階段に集まる。
もったいぶった動きで、殿下は階段を降りてくる。
誰もが固唾を呑み、次の言葉を待っていた。
「お前の悪行は、すでに耳に入っている!」
殿下の大声が、会場の隅々まで行きわたる。
「シアラのドレスにわざとワインをこぼし、染みを作った。社交に慣れていない彼女を人前で笑いものにした。さらに、階段から突き落としたと聞いている。俺からの寵愛を得られないからと、陰湿な真似を働いたものだ!」
どよめきが広がる。
周囲の貴族たちが、わたくしに視線を向けているのを感じる。
……まったく、愚かなことを。
「身に覚えのないことです」
わたくしは緩やかにほほ笑んでみせる。
殿下が苛立つのを感じたが、なにか言われる前に言葉を重ねた。
「わたくし、侍女はひとりしかおりませんの。なんでも、婚姻後にお与えいただけるはずだった侍女たちは、みな急病でこられないとか」
驚きの声があがり、非難の視線がヴァレリオ殿下へと集まる。
「お恥ずかしながら、この身ひとつで身の回りを整えるしかなく、外出もままならず……ブレナン嬢どころか、殿下ともろくにお目にかかれず、申し訳なく思っております」
大広間に、再び驚愕と困惑のざわめきが広がった。
周囲の貴族たちが顔を見合わせ、ささやき合っている。
「妃殿下ともあろうお方が、侍女もつけてもらえないとは」
「国王自ら打診してのご婚姻であったと聞いているが」
「王家は辺境伯を冷遇しておられるのだろうか」
「そもそも、殿下はなぜ男爵令嬢などを親しげに呼ばれるのでしょう」
ヴァレリオ殿下の顔が怒りと焦りで歪む。
人々の間に疑念の声が広がるのを、無理やり抑えつけるかのように吠えた。
「黙れ! すべて、お前の陰謀に決まっている! この場で王子妃の座を剥奪し、追放を言い渡す!」
その場にいた全員が息を呑む。
それは、他人の人生を大きく左右する命令。
証拠もないまま、軽々しく口にしていいものではない。
わたくしは扇子で口もとを隠しながらほくそ笑んだ。
これで、どちらに非があるかは明白でしょう?
彼に王太子たる資質がないこと、おわかりいただけたかしら。
まあ、この歳にしてまだ『第一王子』なのだから、わかりきったことでしょうけれど。
言質は取った。さあ、そろそろ出番よ。
「――黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって!」
その怒声は、会場のざわめきを切り裂いた。
声の主は、ボロボロの粗末な外套を羽織った中年男。
泥だらけの靴を引きずり、場違いな姿で現れた人物に、参加者から悲鳴があがった。
「な、なんだ、あの男は!?」
「誰がこんな下賤な者を……!」
「衛兵は何をしているの!」
驚きと動揺が参加者の間に広がる。
口もとを押さえたり、後ずさりする者も現れた。
だが、男は気にしたようすもなく続ける。
「そこのお嬢さんより、テメェのほうがよっぽど悪どいことしてんじゃねぇか!」
震える指をのばし、ヴァレリオ殿下へ突きつけた。
とつぜん難癖をつけられた殿下は、眉をつりあげて怒鳴った。
「何者だ!」
「お、俺のことを知らないとは言わせねぇぞ! アンタに密輸を命じられて、こき使われた挙げ句、最後にゃ手ひどく切り捨てられた男だ!」
とんでもない告白に、会場の空気が凍りつく。
当のヴァレリオ殿下も、顔から血の気を失い、恐怖で唇を戦慄かせている。
「一緒にこき使われてた相棒は殺されちまった! それも、そこの王子サマの命令でな!」
男は悔しげに震える拳を握りしめた。
「俺も命を狙われたが、運よく保護された……けどよ、どこまで人を馬鹿にしてりゃ気がすむんだ!」
「なっ、で、デタラメだ! なんの証拠があってそんなことを! だいたい貴様、どこから入った!? 衛兵、この無礼者をつまみ出せ!」
見苦しくわめくヴァレリオ殿下を、朗々とした声がさえぎった。
「――その男の言うことは真実ですよ」
舞踏会場の入り口から、第二王子のイリオス殿下が静かに歩み出る。
……あら、いいタイミングね。まるで図ったかのよう。
乱入男が安堵の色を浮かべる。
「お、おう、殿下。俺は全部話した……!」
「ご苦労だった」
イリオス殿下は鷹揚にうなずいた。
さっとヴァレリオ王子の顔が敵意に歪む。
「その者はお前が引き入れたのか、イリオス! そんな、素性もわからぬ怪しい男を!」
「素性ならば、こちらで調べさせていただきました。――兄上、あなたとの関係もね」
日ごろの穏やかな表情は鳴りをひそめ、自らの兄をするどく見すえている。
「ここに、密輸計画を示す証拠がある」
イリオス殿下は懐から書類を取り出すと、侍従に命じて高々と掲げさせた。
「これは、我が兄自らが、密輸の手筈を整え、手下に命じた命令書だ。受け渡しの詳細や関係者の名前、証人の署名まで残されている」
第二王子まで出てきては、その信ぴょう性に疑いの余地はない。
会場は騒然となった。
「ち、違う……この俺が、そんな……!」
ヴァレリオ殿下は声を上ずらせ、あえぐように息をする。
必死に反論を探すも言葉が出ない、そんなようすだった。
「言葉をお控えください」
イリオス殿下の声が冷たく響く。
その威圧感に第一王子のみならず、会場の誰もが、しんと静まった。
「証拠も証人も揃っている。王家の威信を守るためにも、これ以上の醜態はなさいませんよう」
舞踏会場は完全に沈黙し、誰もがヴァレリオ殿下の言葉を待った。
しかし、彼の口からは、ついにひとつの言い訳も出てこなかった。
イリオス殿下は会場中を見渡し、重々しく告げる。
「真に罪に問われるべき者は、誰なのか。これで皆さまもおわかりでしょう」
華やかな舞踏会の空気は、今や葬式のような沈鬱に包まれている。
つい先ほどまでは得意の絶頂にいた男の命運が尽きてしまったことは、もはや誰の目にも明らかだった。
「あ、あ、あ……」
魂が抜けたように生気のない顔をしたヴァレリオ殿下は、周囲に視線をさまよわせ、やがてひとりの女性に目をとめた。
「シアラ……お前は……お前だけは、俺の味方だろう……?」
かすれて震えた声が、すがるような色を乗せる。
会場中の視線が、ヴァレリオ殿下とブレナン嬢に集中した。
彼女は一瞬、戸惑ったように目を伏せたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
困ったように眉尻を下げ、悲しげな表情を作る。
だが、その瞳に冷たい色が宿っているのを、わたくしは見逃さなかった。
「……申し訳ございません、殿下」
ブレナン嬢は静々と進み出ると、わざとらしく涙を浮かべた。
「わたくし、殿下にお仕えしていた身でありながら……そんなこととはつゆ知らず、お止めすることが叶いませんでした……」
涙にぬれた声が、場に響く。
彼女は小さく肩を震わせ、周囲に訴えるように言葉を重ねた。
「殿下がまさか、そんなことをしていたなんて……わたくし、なにも知りませんでした」
「な……っ!」
「知っていたら、必ずお止めいたしましたのに……」
言葉を詰まらせ、ハンカチでそっと目元を押さえる。
その声がだんだん小さくなり、やがてすすり泣きへと変わった。
そんな彼女の姿を、わたくしはどこか冷めた気持ちで見つめていた。
……あらあら、白々しいこと。
自分だけ逃げるつもりね。計算高くて嫌になるわ。
会場の貴族たちも節穴ではない。
誰もがその芝居に気づきながら、口には出せないでいる、そんな微妙な空気。
「お、お前……俺を裏切るのか……!」
ヴァレリオ殿下が激情に声を乱す。
対するブレナン嬢はそっと涙をぬぐい、彼へ向き直った。
「恐れ多くもわたくしは、殿下のご寵愛を賜っておりました。けれど……」
彼女は唇を噛み、言葉をつまらせる。
「些細なことでさえ、殿下のお気に障ってしまうのではないかと……怖くて……」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、小さな声でしぼり出すように続けた。
「だから……本当のことを申しあげる勇気がございませんでした……」
「待て、なんの話だ……」
嫌な予感に、殿下の表情が歪む。
ブレナン嬢は今まさに、彼に残されたわずかな希望さえ断ち切ろうとしていた。
「わたくし……本当は、他に好きな人がいるのです」
周囲にどよめきが走った。
王子の顔がまたたく間に赤く染まり、それから青ざめ、形を失うように崩れた。
「な……なに……?」
目が血走り、口元がわなわなと震えだす。
「ま、まさか……お前は……お前だって、俺を……!」
「銀髪の素敵な青年ですの。わたくし、その方をお慕いしているのです」
――その瞬間、異変が起こった。
ヴァレリオ殿下の手が突如として痙攣し、指先から小さな泡がぷくりと膨らむ。
「な、なんだ、これは……!?」
彼の足もとからも白い泡が次々と湧きあがり、あっという間に床を覆った。
「お、おい、待て……これは……!」
その声に恐怖がにじむ。
「助けろ……誰か、助けてくれ……! 助けて、お願い……!」
ヴァレリオ殿下は泡に囲まれ、喉の奥まで気泡でつまらせたようだった。
「っ……お……おおお……!」
およそ人とは思えぬ、獣のような断末魔の咆哮。
その声が途切れると同時に、泡は王子の姿を完全に呑みこんだ。
残されたのは、白く泡立つ水面と、会場の至るところからあがる、絹を切り裂くような悲鳴。
「そ、そんな……!」
ブレナン嬢は困惑したように後ずさった。
「殿下が、消えてしまうなんて……」
彼女は震える手で口もとを押さえ、涙を流してみせる。
あらまあ、役者ねぇ。
でも、やりすぎて逆に胡散臭くてよ。
わたくしはじっとブレナン嬢を見つめる。
この女、いざというときはこうやって殿下を切り捨てるつもりだったのね。
そのうえで知らぬ存ぜぬを貫き、被害者を装って逃げる気なのだわ。
……でも、残念。
わたくしはそんなに甘くなくてよ。
「――静まれ!」
腹の底から響く声が、場の空気を震わせる。
玉座の奥から、一際目を引く人物がゆっくりと進み出た。
威厳に満ちた気配が場を支配し、周囲のざわめきが自然と鎮まっていく。
国王――ロドリゲス・カリスウェル陛下。
五十を過ぎた年齢を感じさせぬ、背筋の伸びた威容。
そのするどい視線は、ただそこにいるだけで周りを制圧していた。
ロドリゲス陛下は、殿下が消えた場所を見すえると、深く嘆息した。
「……間に合わなかったか。あの、バカ息子が」
国王の横から現れた王妃殿下が、階段を駆け降り、よろよろと床に手で触れる。
「おお、ヴァレリオ……!」
王妃は糸が切れたように泣き崩れる。
……誰かさんと違って、こちらは本物の涙ね。
陛下はすすり泣くブレナン嬢に冷たい視線を向けた。
「シアラ・ブレナン嬢……」
彼女はびくりと肩を震わせた。
「は、はい……」
か細い声を返し、じりじりと後ずさる。
しかし、国王の冷徹な声が逃げ場を封じた。
「彼女を拘束しろ」
国王の命に、近衛たちが動く。
「ま、待ってください! なぜわたくしが!? わたくしは、なにも……」
ブレナン嬢は必死に弁解し、表情を歪める。震える声で言葉をつむぐも、説得力はない。
国王は毅然と彼女に近づき、厳しい声で言った。
「ブレナン嬢、おぬしが王子に薬を盛ったとの情報は、数日前から我が耳に入っていた。そのうえ、おぬしの生家ブレナン男爵家が密輸に関わっていることもな。裏を取っている最中だったが……まさか、こんなことになるとは」
彼女の顔がみるみる青ざめる。
「ち、父は……」
「今ごろ、騎士団が違法取引の現場を押さえ、逮捕しているだろう」
「そ……そんな……」
「事件の重要参考人として、連れていけ」
冷たく下された命に、近衛がブレナン嬢の腕を掴んだ。
「い、いや……っ! わたくしは関係ない! 放してっ!」
必死の抵抗もむなしく、彼女は衛兵に引き立てられて会場を後にした。
「……ご苦労だったな、イリオス」
陛下が疲れたように言う。
そのご尊顔は、たった一日で数年は老けこんだかのようだった。
イリオス殿下は首を横に振る。
「いえ、わたしだけの手柄ではありません。……こちらにおられる、クレイト妃殿下のお力添えあってのことです」
「うむ、そうだったな。礼を言うぞ、妃殿下」
「いいえ、とんでもないことでございます」
そう、このたびの断罪劇について、わたくしは事前に知っていた。
ヴァレリオ殿下が盛られた薬の正体も、彼らの目的も。
わたくしは全て知っていて、彼に接触を図ったのだ。
この――イリオス第二王子殿下に。
さて、種明かしの前に、まず彼のことを知っていただかなくては。
「陛下。このたびの捜査について、もうひとり重要な立役者がおりますの。ご紹介してもよろしいでしょうか?」
「そうであったか。うむ、許そう。この場に連れてきているのか?」
「ええ、もちろん。――エナリオス、こちらへ」
人波の向こうから、ひとりの青年がゆっくりと歩み寄ってくる。
長い銀糸のような髪が、光を受けて氷の粒を散らしたようにきらめく。
白磁のような肌、魔性を感じさせる赤い瞳。どこか浮世離れした、完璧な美貌。
その場にいた誰もが、息をのんだ。
貴族たちの間から、ひそやかなざわめきが広がる。
「誰かしら、あの方……?」
「……こんなに美しい人、見たことがないわ……」
ささやかれる声は、驚きと戸惑い、そして見惚れるような響きを帯びていた。
彼は陛下の御前に進み出ると、胸に手を当てて、礼をとる。
「……そなたは?」
「お初にお目にかかります。わたくし、アトランティス帝国より参りました、王太子のエナリオス・アトラスにございます。このたびの件、及ばずながらお力添え申しあげた次第」
驚くほど澄んだ声が、耳に心地よく響いた。
「アトランティス帝国……?」
国王の声がわずかに揺れる。
「そんな国など聞いたこともない……」
エナリオスは、ゆっくりと笑みを深める。
「無理もありません。地上の皆さまには知られていないでしょうから。……わたくしどもの国は、遥か南方のクリティアス海の底――人魚たちの国、アトランティス帝国でございます」
「……クリティアス海……人魚だと……?」
国王の声が困惑に染まる。
そのとき、会場の片隅から、落ち着いた声がかけられた。
「陛下、どうかご安心を。この方のお言葉は真実です」
父の声だ。
わたくしは自然と背筋を正した。
現れた父の、武人らしい無駄のない身のこなしには、実直さと冷静さがにじんでいる。
その厳しい視線を背中に浴び、思わず気を引きしめた。
「エヴェノール領では、少し前からアトランティス帝国との交流がございました。情報の確証を得たうえで、時機を見てご報告するつもりでおりましたが……今、この場で真実をお伝えすることが叶いました」
エナリオスは一歩前に進み、堂々とした声で告げた。
「このたび使用されたのは、わたくしどもの国で禁じられている『人魚薬』という薬物です。ひとたび服用すればあらゆる病を癒しますが、失恋をすると泡となって消えてしまうという副作用がございます。そのため、国外に持ちだすことは固く禁じていたのですが……先日、何者かの手に渡ったという情報を得たため、辺境伯殿にご協力いただき、そのゆくえを追っていたのです」
「……そして、ブレナン男爵とシアラ、そして我が息子ヴァレリオが密輸に関わっていると突き止めたのだな」
「左様にございます」
国王は、重い沈黙の中で、なんとか言葉をしぼり出したようだった。
「この場で即断はできぬ……。わが国でも調査を進め、追って結論をくだそう」
「ええ、ぜひそうしてください」
「それから、妃殿下。このたびは誠に迷惑をかけた。辺境伯に対しても、王家がそなたたちを侮ったと受け止められても仕方がない……。今さらなにをと思われるやもしれぬが、これ以上に悪いことにはせぬ。しばし、時間を頂戴したい」
「かしこまりました」
粛々と謝罪を受け入れる。
……ああ、あと少しね。
陛下が決断できるだけの材料を、耳にお入れしないと。
わたくしはひっそりと笑った。
◇◇◇
青い水に囲まれた祭壇の前で、わたくしは静かに立っていた。
周囲には参列者たちのさざめきが広がり、誰もが祝福の眼差しを向けている。
彼らは鱗や透明な膜をまとい、虹色の尾びれを揺らして優雅に泳いでいた。
光る珊瑚や貝殻が、祝福の花のように揺れる。どこまでも幻想的な光景。
けれどその中で、わたくしは彼――エナリオスだけを見つめていた。
ここはアトランティス帝国。
本日は、わたくしと彼の結婚式だ。
ロドリゲス陛下からの謝罪と采配は、わたくしとヴァレリオ殿下との婚姻の無効化。
そして、わたくしとエナリオスの結婚を認めることだった。
この国とアトランティス帝国との、同盟の証として。
「ようやくここまでたどり着いたわね、エナリオス」
わたくしがうっとりと見つめると、彼も熱のこもった視線を返してくれる。
「ええ、ここまで長かった。……あの日、あなたがヴァレリオ殿下の妃として、王宮に拐われた時には――心が凍るかと思いましたよ」
「あら。でも、王宮までついてきてくれたじゃない。……そうでしょう、アリエル?」
エナリオスはあの子と同じ赤い瞳を、困ったように細めた。
――さて、答え合わせをしましょう。
わたくしとエナリオスは、以前から恋人同士だった。
それこそ、王家から婚姻の打診がくる、ずっと前からだ。
嵐の翌日、砂浜に打ちあげられていた彼を、わたくしが見つけて看病したことが始まりだった。
わたくしの生家、エヴェノール辺境伯家は、クリティアス海に面した領地を擁する。
つまり、アトランティス帝国に最も近い土地でもある。
これまで存在すら知られていなかった幻の海底王国とは、この出来事がきっかけで少しずつ交流が始まった。
その過程でわたくしと彼も、ゆっくりと心を育み、やがて愛情に変わるまで時間はかからなかった。
だが、相手はヴェールに包まれた国の王太子。縁づくならば我が国だけでなく、向こうの王侯貴族も説得しなくてはならない。
わたくしたちが方々に奔走し、ようやくアトランティス帝国側の承認を得られたころ。
――国王陛下から、ヴァレリオ殿下との婚姻を打診されてしまう。
断れるものであれば断っていたでしょう。
しかし、存在すら知られぬ国の王太子と結婚するなどと断っては、どんな不興を買うか。
かといって、なんの理由もなく辞退するには、外堀を埋められすぎていた。
結果、わたくしは泣く泣くヴァレリオ殿下へ嫁ぐことに。
一方のエナリオスは、国に伝わる秘薬で姿を変え、メイドとしてついてきてくれた。――そのころ、禁制品の『人魚薬』がアトランティス帝国外に持ち出されたと騒ぎになっていた、その事件を調べるためという建前で。
事件の調査には、我が父も協力してくれていた。
わたくしが王宮にあがってすぐ、父は人魚薬密輸の下手人をひとり確保した。断罪劇の際に第二王子が連れてきた、あの乱入男のことだ。
彼らは密輸に協力させられたあと、口封じに殺されようとしていた。
残念ながら片方は亡くなってしまったが、ひとりだけ保護に成功した。
相棒が目の前で殺された下手人は、「このまま命を狙われるか、罪を認めて証言者となるか」の二択を迫られ、後者を選ぶ。
……まあ、密輸は重罪だけれど、下っぱともなれば命までは取られない。賢い選択でしょう。
彼の証言により、『人魚薬』はブレナン男爵経由でヴァレリオ殿下に渡ったことを突きとめる。
そして、そのタイミングでわたくしは、ヴァレリオ殿下からお茶会に誘われた。
ここまで情報がそろえば、誰だって気づくでしょう。……ヴァレリオ殿下は、この『人魚薬』を使って、わたくしを亡き者にしようとしていると。
そこでわたくしは、第二王子のイリオス殿下に連絡を取った。
ヴァレリオ殿下とイリオス殿下が、王位継承権をめぐって仲が悪いのは周知の事実だったし……うまくいけば、わたくしの味方についていただけるのではないかと思って。
結果として、予想は的中したわ。
イリオス殿下はわたくしからの情報を得て、ヴァレリオ殿下のメイドにスパイを紛れこませてくれた。
そこからの情報で、彼らがお茶に薬を混ぜ、わたくしに飲ませるつもりだと確信を得たの。
ならば、素直に飲んであげる筋合いはないわね。
隙をみて、わたくしとヴァレリオ殿下のお茶を入れ替えたというわけ。
……そう、あの時点でヴァレリオ殿下は『人魚薬』を飲んでいた。
あとは簡単よ。
エナリオスに頼んで、本当の姿でブレナン嬢を誘惑してもらったの。
彼はわたくし以外を口説くことに抵抗があったみたいだけど……ブレナン嬢がヴァレリオ殿下から離れて、平和的に解決したらそれが一番だと説得したら、折れてくれたわ。
ちょっと可哀想なことをしてしまったけれど、これは結果的にうまくいった。
美しいエナリオスを前にして、彼女はみるみるヴァレリオ殿下から心が離れていったわ。
……まあ、エナリオスは見た目だけじゃなく、その心が一番美しいのだけれど。
ってあら、これは惚気かしら。うふふ。
そう、わたくしは平和的解決なんて、ちっとも望んでいなかった。
ヴァレリオ殿下が間抜けにも自ら盛った薬を飲んだ時点で、心に決めていたの。あの薬の副作用で消してしまおう、って。
まさか心変わりしたブレナン嬢が、邪魔になったヴァレリオ殿下に『人魚薬』を盛るとは思わなかったけど。
イリオス殿下の間者からもらたされた情報を聞いて、驚いちゃったわ。あの子もなかなかやるじゃない。
おかげで彼女が一身に罪をかぶってくれて助かった。これは計算外の幸運だったわ。
でも、彼らの自業自得よね。
わたくしがしたことは、ただブレナン嬢の恋心を奪っただけ。
彼女が一途にヴァレリオ殿下を愛していたり、そもそも彼らが人魚薬を使おうとしなければ、こんなことにはならなかったんだもの。
それにしても、あの舞踏会での断罪劇には驚いたわ。
ああして大勢の目の前でわたくしを振ることで、王子妃が泡となって消えた瞬間を目撃させようとしたのだろうけれど。
あとは、わたくしが毒をあおったとでも言って、密輸の罪もかぶせるつもりだったのでしょう。
でも、ずいぶんとお粗末な計画だと思わない?
わたくしはあんな男のことなんて、ひとかけらだって好意を抱いていなかったのだもの。失恋しようがないじゃない。
きっと、自分の寵愛を望まれているはずだと、信じて疑いもしなかったのでしょう。よくもそんなに思いあがれたものよね。
国王陛下には、わたくしへの詫びとして、エナリオスとの結婚を認めてもらえるように誘導したわ。
だって、わたくしはあのお茶会で、『人魚薬』を口にしたことになっているんだもの。
ここで無理に引き裂いて、わたくしが泡となって消えてしまったら、今度こそエヴェノール家との亀裂が決定的になってしまう。認めるしかないわよね。
それに、彼らにとってもアトランティス帝国との同盟関係は悪くない話でしょう。悩む必要もないくらいよ。
陛下の説得には、イリオス殿下も動いてくださったわ。
わたくしたちはもはや同志。そうなってくれると思っていた。
それに、彼にとっても、わたくしが国内にいないほうが都合がいいでしょう。
……ああ、そうそう。
イリオス殿下が貸してくださった、あの白猫。とっても賢くて助かったわ。
あんな優しい顔をして、殿下もとんだ食わせ者よね。
「エナリオス殿下、おめでとうございます!」
「クレイト妃殿下、万歳!」
人魚族の人々が、わたくしたちを温かく迎えてくれる。
海中に咲く花々が、潮の流れに揺られて舞い、ふたりの周囲を彩った。
父を含むエヴェノール家の人々も、慣れない水中に苦戦しながら、拍手を送ってくれている。
アトラス王家秘伝の薬が、水の中での呼吸を実現させていた。
わたくしは幸せな気持ちで、真珠の髪飾りを撫でる。
初めて心を通わせたあの日、彼がくれたこのアクセサリーは、わたくしの宝物だ。――それこそ、王宮にあがった後も、肌身離さず持ち歩いていたくらいには。
「……クレイト・エヴェノール」
エナリオスの声は、水を通してもはっきりと耳に届いた。
こうして名前を呼ばれるのは、あの最悪の日、ヴァレリオ殿下から初めて声をかけられた時と同じ。
けれど、あの時とはまったく違う、優しい響きがする。
「この瞬間より、そなたを我が妃へと迎える」
わたくしは静かにほほ笑み、胸に手を当てた。
「はい、喜んでお受けいたします」
互いの手を取り合い、指輪を交わしたその瞬間。
海中に泡が立ちのぼり、虹のような光が差しこむ。
水流に舞いあがったわたくしの金の髪と、エナリオスの銀の髪が、美しい金銀の流れへと変わっていく。
水音とともに、会場全体が祝福の拍手のようなさざ波に包まれた。
「海が、わたしたちを認めてくれたようだ」
エナリオスは嬉しそうに言って、わたくしの肩を抱き寄せた。
わたくしも、その手に自分の手のひらを重ねる。
――これからは、誰にも奪わせはしない。
愛も、誇りも、……なにもかも。
※作品公開以来、「国王が王子妃を殿下付きで呼ぶのはおかしい」「クレイトと名前で呼び捨てにすべき」とのご指摘を多数いただくので、解説しておきます。
国王がクレイトを『妃殿下』と呼んだ場面は舞踏会、あくまで公式・半公式の場です。こうした状況では、形式と敬称は非常に重視されます。
ここで国王が王子妃を呼び捨てにすると、宮廷内での上下関係を過度に強調してしまい、周囲に王子妃を「嫁いできた身分の低い者」というアピールをしていると受け止められかねません。
まして、国王は謝罪をしているのです。そんな場面で呼び捨てにするなんて品位を欠く言動をすれば、「本当は謝りたくない」と誤解を招きかねません。
よって、この場面では『妃殿下』呼びが妥当と考えます。誤字ではないので、誤字脱字報告でご指摘いただかなくて大丈夫です。
また、日本の報道番組では「キャサリン妃」「メーガン妃」などの名称が使われていますが、あれは日本の報道用に便宜的に使われている名称で、実際に「名前+妃」で呼ぶことは、公式の場ではまずないかと思います(調べた限りは、ですが)。
さらにつけ加えれば、王子妃には王族の血が流れていません。なので、『王子妃殿下』にはなれても『プリンセス◯◯』にはなれないわけですね(あれは王族の王女専用の呼称です)。
とはいえ異世界を舞台にしているので『クレイト妃』でも構わないのですが(実際、読者がわかりやすいように、私も一部『クレイト妃殿下』という表現を使用しています)、この世界では『妃殿下』が正式な呼称だと思ってください。
それと、わざわざ平仮名を使用している(漢字を開いている)ものを漢字に直して報告していただかなくて結構です。わざとそうしています。
◇◇◇
よろしければ感想やブックマーク、下記の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎で評価していただけると嬉しいです。
また、現在連載中の『わたしにかまうな、英雄ども。〜ぼっちのわたしが魔法学校で不本意にも友を得るまで〜』(杖と魔法のファンタジー)
『鷹使い、神鳥の神子となる。』(和風ファンタジー)も併せてお読みいただけると幸いです。