8話
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……いて。
後ろから男の子がぶつかってきて、そのまま目の前を走っていくな、とぼんやりと見ていたら、後を追うようにして、母親らしき人物が、ごめんなさい、と頭を下げてきて、待ちなさいっ、と声を張り上げ嵐のように去っていく。
小学生低学年くらいだろうか。
親子の姿が過去の自分と重なったのせいか、足を踏み出したときに、ふと中学生まで過ごした、鎌倉での記憶を遡った。
でも、それはとてもぼんやりとした曖昧なもので、ただ、地域のお祭りに家族と来たという事実的なものだけだった。
さほど気にすることもなく歩き始める。まあ、幼少期の記憶など、そんなものだろう。
そして、二歩、三歩と進めたとき、何か違和感を覚え、そのまま後ろを振り返って気づいた。
いない。
一瞬、状況が飲み込めなかった。
居ると思っていたはずの野々原の姿がなかった。
はぐれた? いつからだ?
辺りを見回しても、それらしい姿はない。無情にもお祭り気分の人々の声だけが耳に残る。今、見えている光景が、何だか安っぽく感じる。
咄嗟に頭の中で、探しに行くか、帰るか、の二択が浮かんだが、どうする? と、少しだけ脳みその前頭前野を活性化させただけで、至った結論は、割とあっさりとしたものだった。
帰る、の一択。
そもそも俺には関係ないことだ。野々原の目的などは知る由もない。
俺が何をしたのか知らんが、懺悔の毒霧なら後日でもいいだろう。できる限り避けたいところではあるが。
それに滝本の邪魔をするのも野暮ってもんだ。今ごろは、会話も弾んできたところに違いない。あいつの目的も不明だが、今、電話なんてしようものなら、戻ってきそうだし、それはそれで面倒だ。あいつは謎に、俺に気を使ってくる気がある。
まあ……頃合いをみてメールを送っておけばいいだろう。
*
——え。
居ない⁈
何で?
どうして私は、いつも空回ってしまうのだろう。
私はただ、一生懸命やっているだけなのに。
慌てて周囲を必死に探すけど、鳴海君の姿は見当たらない。
今の状況が、全く理解できなかった。
私の鈍臭さに痺れを切らして、帰ってしまったのだろうか。ふわふわ思い出に浸ってしまったせいだ、と後悔と不安ばかりが募った。
それでも……、私に今できることは、とにかく探してみよう、それしかない、そう思って駆け出した。
はあ、はあ、と、一つ一つの呼吸に、心臓をぎゅっと掴まれる。部活の練習で追い込んだあともあってか、そろそろ足の限界が近い。立っているのも辛かった。
どうやら、ここにもいないみたいだ。
ひとまず、脇にあった石垣に腰を下ろす。座るのにちょうどいい高さで、数少ない街灯がひっそりと照らしている。
神社の裏手にある駐車場だけあって、人通りはほとんどない。停まっている車も数えるほど。
近隣の道路は封鎖されているし、おそらく関係者のものだろう。遠くから聞こえる祭囃子だけが、賑わいの余韻を伝えていた。
スマホを手に取り、結衣にメッセージを送る。帰宅の約束をした時間まで、もうわずかしかない。
今日もミッションを果たせなかった。そう思うと、ため息が何度もこぼれる。明日こそは、いや、明後日も明々後日も自信はないけれど、それしかない……。
そのときだった。考え込む私の背後から、ふいに声がした。
同時に、肩と背中に何かがのしかかる。経験はないけれど、世間でよく耳にするパワハラ上司の圧みたいな、そんな重圧がのしかかって——咄嗟に背筋がピンと伸びてしまう。
「おい、お姉ちゃん、ひょっとして迷子か?」
私は恐る恐る立ち上がって振り返る。
え。子供? 私が座っていたよりも何個か上の石垣に男の子が座っていた。そして、何故だかとても偉そうで貫禄がある。
「安心しろ! おれも迷子だっ」
話を聞くと、ふざけて母親から逃げていたら、完全に迷子になったのだと言う。
「そうなんですか……」
謎のマウンティングにより、敬語になってしまった私。
ただ、冷静に考えてみると、この子は迷子。運営本部に連れて行ったほうがいいよな……と、そう考えた私は、上司をちらりと見る。
すると上司は、たいそう驚いた顔をして訊いた。
「おい、おまえっ。なんで浴衣じゃないんだ?」
そう言う上司は浴衣を着ていた。立ち上がって私の元に下りてくる。
「彼氏と来てるんだろ? 浴衣着なきゃだめだろっ」
もしやこれが世間でいうセクハラ? 次にくるのはカスハラだろうか……。
「服装の乱れは心の乱れだっ。七色戦隊のレッドがそう言ってたぞ」
子供がテレビで見る、戦隊ヒーローのことだろうか。上司は、側で面と向かうと小さくて可愛く見える。聞いていると、段々とおかしく思えてきた。
「彼氏のこと、好きなんだろ?」
もう訳がわからなくなってきた。でも、率直に訊かれ、真剣に考えて言葉につまってしまう私はバカなのだと思う。
「何だ? 喧嘩したんか?」
妙に察しのいい上司だ。
「フラれたんか?」
痛いところをついてくる。よっぽど悲壮感が漂っていたのか、上司はすぐに、悪かった、と言って慰めてきた。
「でも伝えたいことはちゃんと伝えたほうがいいぞ。あとで後悔しないために」
これも戦隊ヒーローのレッドの言葉なのかは知るよしもないけど、うかつにも妙に納得してしまった。そうなのだと。
私はずっと訊きたかった。突如としてLINEの返信が途絶えたことを。
そっと声がこぼれた。
「ですよね……」
それに、また突然と、私の前から鳴海君が姿を消す、なんてことだってあり得る。
「その大事そうに持ってる、たこ焼きも、そいつのためのものなんだろ?」
「……はい」
たこ焼きを持つ手に自然と力が入った。
街灯の明かりに包まれた上司の顔は、勝ち誇ったみたいに得意げだった。ぼんやりとした光の中で、にこりと笑う。
そろそろ……この子の母親を探さないとな。
少しだけ平静が戻ってきたのか、やっと自分の思考がまともになってきた気がした。
親御さんも、きっと心配しているはずだ。
しかし、そう考え、私が行動に移そうと少年に歩み寄ろうとしたときだ。何だか少年の表情が、みるみるうちに変化していったのは。
感極まってる? 私にはよくわからないけど、小刻みに震えているようだった。
そして少年の顔が影に隠れ、張り上げた声と共に私は後ろを振り返る。
「た、隊長っ!」
隊長っ⁈
一瞬、何のことかわからなかったけど、状況はすぐに把握できた。隊長とは別の意味で。思わず大きく声が出てしまう。
「鳴海君っ⁈」
背格好と服装から、すぐにわかった。何で、顔に戦隊モノのお面を被っているのかは、わからないけど。おそらく、色を見るに、さっき少年が言っていた、七色戦隊のレッドだろう。
レッドは膝を曲げ、少年の顔を見て言う。
「お母さん、困らせたらだめだろ?」
優しい問いかけに、少年は大きく頷いたのだった。