45話
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「純君、ごめんねー。せっかくのクリスマスなのにバイト出てもらって」
「いや、俺はぜんぜん大丈夫ですよ」
努めて明るく答えたけど、こんなにもクリスマスにパン屋が忙しいものだとは思いもしなかった。友希さんとオーナーは今朝の四時から働きっぱなしだという。自分の負担なんてたかが知れている。
その大盛況も夕方になる頃には落ち着き、パンはすべて売り切れて、片付けもひと段落していた。日は傾き、夕陽が店の窓越しに薄く差し込んでいる。
「お疲れさまー! 本当にありがとうね、忙しかったでしょー?」
「いえ、むしろ体動かしたかったんで、ちょうどよかったです」
そう返事をすると、友希さんは「あー」と何か思い出したような表情をした。
「そっか、バスケット。今日、祐天寺の試合だったっけ? 純君は行かなくて平気だったの? 借り出しといて、こんなこと聞くのも変だけど」
「俺は大丈夫です。祐天寺には、最終予選ですごい試合を見せてもらいましたし」
「そっか。それならよかった」
友希さんが、俺の顔を少しじっと見た。気のせいかもしれないけど、微笑んでいるように見えるその表情には、どこか『頼もしくなったね』と言われているような気がした。
それともう一度、友希さんは思い出したように声をこぼした。
「あと、前に話してたやつなんだけど……お店、予定通り今月末で締めることにしたの」
「そうですか。わかりました」
「ごめんね、せっかく頑張ってもらってたのに」
「俺はほんと大丈夫ですよ。頑張ってください。応援してます」
「ありがとう。何だか純君たちみてたら、私ももう少し頑張ろうかなって思ってね」
そう言うと友希さんは、あれ? と顔を上げる。
「そういえば、お金は貯まった? 水槽、買いたいって言ってたけど」
「はい、おかげさまで」
「そう、よかった。それで何を飼うの?」
「うーん……」
と、少し考えてから、俺は言った。
「……そうですねぇ。グッピー飼ってみようかと思ってます」
友希さんは、海外に移住した友達と一緒にその土地でパン屋を開くという。
中目黒の改札を出て、川沿いの遊歩道に出た。
空には薄闇がかかっていた。冬の冷たい風が頬を刺し、吐いた息が白く染まって寒さを実感させられる。
コートのポケットに手を滑り込ませ、足を速めようとした——そのはずだった。けれど、ふと視界に広がった光のイルミネーションに、自然と歩みが緩んだ。
目黒川沿いの木々に無数のライトが灯り、そのひとつひとつが淡く脈打つように瞬いていた。揺れる水面に映り込んだ光は、まるで川全体が星空を閉じ込めたかのように輝いている。
——いつからだろう。我が家にサンタが来なくなったのは。
すれ違う人々の頬が、柔らかな光を受けてほのかに染まっていた。誰もが足を止め、夢の中に迷い込んだような表情で、イルミネーションを見上げている。
ふと、一つの木の下で足を止めると、スマホが鳴る。画面を見ると滝本だ。ウィンターカップの結果を知らせるメールだった。
空に白い息がさらわれ、目の前の木に視線を向ける。
枝には短冊がたくさん結び付けられていて、それぞれに願い事が書かれていた。文字を見るに、幼い子供たちが書いたのだとわかる。
そのとき、視界に白いものがちらついた。
ひとひら、またひとひらと空から降りてくる。イルミネーションの光を受けながら、静かに揺れ、地面へと溶けていく。
「あ、雪だ」
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「あ、雪だ」
思わず、空に手を伸ばす。ひらひらと舞い落ちる雪は、指先に触れた瞬間、儚く消えた。冷たいけれど、不思議と心は穏やかだった。
試合会場を後にし、千駄ヶ谷駅へ向かっていた。人々が赤信号の前で立ち止まって、それぞれの時間を過ごしている。誰かがスマホを見つめ、誰かが話し、誰かがただ静かに夜の空を仰ぐ。
空気はしんと冷え、白い息がふわりと宙に消えていく。
青に変わった瞬間に足が一斉に動き出し、私は人波に紛れ、駅へと吸い込まれていく。
電車に乗り込み手すりを軽く握る。車内は混み合っていたけれど、どこか静かだった。窓の外では雪に霞む街の灯りが流れ、光の粒が滲んでいた。
代々木の駅で乗り換えると、高層ビルのガラスに映る光の帯をぼんやりと眺めた。寒さのせいか電車の窓からは、人々の肩が少しすぼまって見えた。駅のホームには、コートの襟を立てた学生たちの姿。
どこかの部活帰りだろうか。
しばらくすると、車内は少しずつ空いていく。隣に座っていた人が降り、ふと感じる空間の余白。窓に映る自分の顔が、どこか遠くの誰かのように見えた。
窓の外はすっかり夜の深みに沈んでいる。きらめく街に雪が降りしきる。静寂のなか、揺らめく感情が景色の輪郭をぼかしていく。
きっと、私は……
冬が終わる頃には、この日を何度も思い返すのだろう。
何気なくスマホを取り出すと通知がくる。画面を確認すると、たくさんのメールが届いていた。チームメイトからのねぎらいの言葉や、頑張ろう的なスタンプが並んでいる。杏とお姉ちゃんからも来ていた。
画面をスクロールしながら、ふと、一瞬だけ期待してしまう。来るはずのない名前を探す指先が、情けなくて笑ってしまう。
鳴海君とは会っていない。
予選が終わってからは、テストや練習に追われ、顔を合わせる機会もなかった。すぐに学校が冬休みに入ってしまったのもある。
それに、あのとき——『ほっといてほしい』と言われた台詞が、心のどこかに引っかかっているのもあった。
電車がホームに滑り込み、扉が開く。吐き出されるように乗客が降り、雑踏の中に紛れる。改札を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは、クリスマス一色の街だった。
大きなツリーが飾られ、赤や金のオーナメントがキラキラと輝く。通り沿いのショップは暖色の光を灯し、ショーウィンドウにはクリスマスリースや雪の結晶のデコレーション。どこかのカフェから流れる軽快なジングルベルのメロディーが、ひんやりと耳に届く。
行き交う人々も、どこか浮き立って見えた。恋人や、友達同士、家族連れ。楽しそうな笑い声と、プレゼントの袋を抱えた姿。私とは無関係な、温かな世界。
駅を離れ、川沿いの道に出る。水面に映るイルミネーション。木々の枝には、少しだけ雪が積もっていて、ほんのりと街を白く染めていた。
人通りはまばらだった。指先が冷たくなる。両手を口元に寄せ、白くなる息を吹きかけてから手袋をはめた。
一歩、また一歩と踏みしめるけど、雪の感触はなかった。地面にふわりと舞い降りた雪は、足跡だけを残してじんわり消えていく。
まるで、これまでの記憶が少しずつ溶けていくみたいで——そのことが、どうしようもなく悔しかった。胸の奥が、じんと熱くなって視界がわずかに揺らぐ。
「……あ」
一つの木の前で足が止まった。道の隅っこには脚立も置いてあった。
木を見上げると、『おかしがいっぱいたべたいです』、『じてんしゃがほしいです』などと書かれた短冊が、いくつも飾られている。
眩しかった。そろって飾られた照明のせいにしたかった。懐かしさもあったのかもしれない。
ぽっと心に広がる温かさと一緒に湧いてくる悔しさ。
私はそのとき、これまでの気持ちに、蓋をしていたのだと気づかされる。無理矢理。




