41話
廊下を歩いていくと少しだけ静かになって、いかに会場が熱気で溢れていることに気づかされる。
それにしても、結衣は落ち着いている。緊張しないのだろうか。何か、体の奥底からメラメラしたものは感じるけど。
触れて火傷しないように、そう思いつつも、自分の心の内もどこか落ち着いていて、大一番の前だというのに、不思議とへっちゃらだった。
すると、隣を歩く結衣が燃えた気がした。
星ヶ丘学園の野緑さんだ。向かって、もう一人、ジャージ姿のチームメイトと歩いてくる。
すれ違い際に、お互いちらりと目が合っただけ。結衣を意識しているようではあったけど、私のことは覚えてないかな、そんな感じだ。
「あ、自販機あった」
結衣が声を上げた視線の先には、星ヶ丘学園の選手たちが賑わっていた。しかも主力だ。
キャプテンの背番号四番を中心に、長身のビクトリアさん。頭一つ飛び抜けている。ガーナ出身で帰化したと聞いた。それと、U18日本代表のもう一人もいた。代表選手が三人。しかも三年生。まさに貫禄の塊。
距離があってはっきりとは聞こえないけど、結衣の話をしているようだった。
丁寧なプレーとチームプレーができてオールラウンドな選手——
「ワンマンで攻めればもっと点が取れるのに」
と言う声もしたけど、まあ、外は野緑、中はビクトリアで問題ないだろうと結論づけているようだ。
向うはこっちに気づいてない。わざわざこんなところでかち合う理由もない。たしか他にも自販機はあったと記憶している。なのに、
「結衣あっちにも自販機あったからあっち——」
と、私は言いかけて目を疑った。
結衣が何の迷いもなく、悠然と敵陣へ突っ込んでいくのを目の当たりにしたからだ。
——えっ、えええーーー⁈
+
「あー純君、おはようっ。あら、今日はずいぶんと顔色が良さそうだねえ」
ダイニングキッチンでは、笑みを浮かべたばーちゃんが、ほっとしたような顔で出迎えてくれた。
「天気もいいし、散歩でもしてきたら?」
用意してくれた昼食を簡単に食べてから、玄関を出る。外は驚くほどの快晴だった。空は雲ひとつなく青く澄み渡り、ばーちゃんの言葉どおり散歩日和だった。
川沿いの遊歩道を歩き始めると、休日のせいか親子連れの姿が目につく。子供たちの笑い声や、小さな手を引く親たちの穏やかな表情が、何となく心に引っかかる。
川面がきらきらと輝いている。風が柔らかく頬を撫で、自然と足が止まった。
こんなふうに何も考えずに歩くのは、いつぶりだろうか。
滝本のばあちゃんに声をかけられたのは、ほんの偶然だったのかもしれない。
「あら、勉強はかどってる?」
突然の一言に、俺は思わず「ま、まあ……」と答えて視線を逸らしてしまった。
この占い師には、嘘がバレるような気がして正直少し苦手だった。……たしか、自分のことを、へびつかい座の女、とも言っていたな。
「こんなところで何を?」
「ああ、この辺は私のウォーキングコースだからね」
聞いてから格好を見ると、それ相応だったため納得できた。
「それより……」
俺の瞳を覗き込む、へびつかい座の女の視線に、つい背筋が伸びる。しばらくして小さく息をつくと、言葉が耳についた。
「あら、まだ迷走中だね」
「はあ……」
何を言い出すんだと思ったが、話は続く。
「やっぱり男は時間がかかる。まあ、それでいいんだけどね」
そう言うと、背中に背負っていた小ぶりのリュックから袋を取り出し「これ食べて大きくなるんだよ」と手渡してくる。
袋の中身はパンだった。それなりの量がずっしりと詰まっている。飲み物も見えた。
「あなたのお気に入りのへびつかい座の女は、脱皮して龍になろうとしてるわよ」
意味不明だが、それを訊く間もなく、へびつかい座の女は「ほら、蛇は行った行った。あんまり、へびつかい座の女を泣かすんじゃないよ」と、俺をこの場から追い払うようにして言う。
その場を去ると背後で「ふふ」と笑う声が聞こえた気がしたけど、振り返るのはやめた。
*
息巻いて切り裂いていく結衣を一人で放っておくわけにもいかず、私も着いていくはめになる。
星ヶ丘学園の皆皆様方も当然、私たちの存在に気づいているわけで、冷たい視線を感じる。大人の対応で道は開けてくれたものの、そこに漂う緊張感は肌を刺すようだった。
結衣が自販機にスマホを片手にかざすと、わずかな電子音が鳴ってから飲み物が落ちる音がした。
それがやけに大きく聞こえたのは、この場の静けさのせいだろう。
ペットボトルを取り出した結衣は振り向くと、何事もなかったかのように再び悠々と歩き始める。
そして結衣は、あろうことか星ヶ丘学園のキャプテンとビクトリアさんの間で立ち止まると、この場の凍りついた空気を粉々に粉砕するのだった。
「私、負けないので」
——えっ、えええーーー⁈
ただ結衣を見つめるしかなかった。
堂々と言い放ったその立ち振る舞いは自信に満ち溢れていて、それはまるで、テレビドラマで見た天才外科医の決め台詞みたいだった。
「ちょっと、結衣。無茶しすぎだって」
詰まっていた息をようやく緩めることができたけど、結衣は平然と手にしたペットボトルのキャップをひねり、口元に持っていく。そして、何事もなかったかのように、けろっとした表情でこう言う。
「これで勝つしかなくなったでしょ?」
+
俺は、今まで……
必死にもがいて明日を描いていたのかもしれない。
いつの日か、本当の明日が来ることを願いながら。
公園のベンチでぼんやりと座っている。陽気な天気だ。特に何も考えることもなく雲が流れていく。
目の前で、親子がバスケットゴールに向かってボールを地面についていても、心を動かされることはなかった。宙ぶらりんな浮遊感の中、ボールの跳ねる音がやけに響く。
何も見出せないこの時間は、まるでスキップされたドラマのワンシーンのようだった。
少年にバスケを教えている父親の動きは、見た目からしてもかなりの経験者だとわかる。
……俺は、
いつからバスケを始めたんだ?
と、そのときだった。
少年の無邪気な声と父親の笑い声に、何か懐かしい感覚を覚えた。
そして、少年のシュートがネットを揺らし、ゴールの下にボールが落ちて、音が響いた瞬間、頭に稲妻が落ちたかのような衝撃が走った。
あ——。
ほんの一瞬だけ、目の前の父親と少年の姿が、遠い記憶の中の父さんと重なって見えた。
しばらく眺めて、はっとする。
何かを掴めそうな気がした。
両手で顔を覆い記憶の糸をたぐり寄せる。
暗闇の中にわずかに見え隠れするもの——それは、父さんの声と大きな手、それにいつも笑っていた顔……。
ごめん、父さん。
そんな言葉が自然と胸に湧き上がり、手を下ろして再び親子を見つめると、過去の自分と今の少年が完全に一致した——
ボールの跳ねる音が……まるで俺の背中を押すかのように響いた。
気づけば走っていた。玄関のドアを勢いよく開ける。
「ただいまっ」
覗き込んだばーちゃんが「おかえり。あら、どーしたの? そんなに慌てて」と目を丸くしている。
「ごめん、ばーちゃん。俺、急いでるから」
そのままの勢いで部屋に駆け込んで、手早く着替えを済ませ身支度をする。心臓はまださっきの走りで高鳴ったままだ。
玄関へと向かう途中、もう一度ばーちゃんの方を振り返る。
「ばーちゃん!」
思わず叫ぶように声が出ていた。
「俺、少しだけ記憶が戻ったかもしれないっ」
空は高く風が心地よかったけれど、そんな風景に浸る暇もなく再び走り出す。
……俺は小学三年生のとき、父さんに教えてもらってバスケを始めたんだ。
父さんが死んだのは、きっともっと先のことだ。
胸がざわついて仕方がなかった。それ以上のことを思い出そうとしても、何も浮かんでこない。
それでも……
俺の頭の中には、何でか野々原の姿が思い浮かぶ。
やっぱり俺は……。
あの公園で、何か大切な思い出を忘れている——そんな気がしてならない。




