3話
「ちょっ、ちょっと、桃っーー! 大丈夫っ?」
「……あー、大丈夫、大丈夫」
幸い擦り傷程度で済んだ。何ともないフリをして、すぐに結衣の隣に戻り一緒に腰を下ろす。
「もぉー、気をつけてよー。こんなとこで怪我しないでよー。今、大事な時期なんだからー」
それと、相も変わらず、どんくさい自分が嫌になった。
「わかってる、わかってる。ほんと平気だから、ありがと」
祐天寺高校は、毎年夏に開かれるインターハイ予選を敗退し、全国大会への出場の切符を逃した。
「引退した先輩たちはいないんだからねー」
「わかってるって」私はできるだけ笑顔を心がけた。
大学受験のため三年生は、もういない。私たち二年生は、十年ぶりの全国への出場を目指すべく、次の冬に開催されるウィンターカップに向けて熾烈なレギュラー争いをしていた。
弱メンタルで、シュート成功率の好不調の波が大きい私とは違って、一年生の頃から試合に出ている結衣は、問題ないとは思うけど。
そう胸に内で思いつつも、私は鞄から絆創膏を取り出し、少しだけ出血していた膝に貼り付けながら訊いた。そんなことよりも気になることがある。
「結衣、あの二人と仲良かったの?」
すると結衣はにやりと笑い、肩を寄せると肘で軽くつついてきた。
それから、まるで大好物の苺のショートケーキを目の前にしたときみたいな満面の笑みを浮かべ、ぐっと顔を近づける。猫のように頬をすり寄せながら。
「ほんと、桃の肌は柔らかくて、赤ちゃんみたいにすべすべしてて気持ちいい~。これぞ桃肌やな~」
「ちょっとふざけないでよー。結衣っ」
私が真剣に結衣を見ると、お互いの距離感が適切な位置に戻った。結衣は、まだおちゃらけた感じだけど。
私の目をじっと見て言う。何だか、愛の告白をされるみたいだ。胸が、きゅっと締め付けられる。
「大丈夫……。私が何とかしてあげるから」
だけども、状況が全くつかめなかった。結衣は一体何を言っているのだろうか。
次の瞬間、私は再びパニくる。
「鳴海君のこと気になってるんでしょ?」
ど直球の質問すぎて言葉にならなかった。その球は、私の心に突き刺さり感情に揺さぶりをかける。
「おい、顔真っ赤だぞ? 今度は口から火、吹きそうだな」結衣は冗談でからかってくる。
そしてもう一球。
「私に任せといて!」
私は一体、何を任せるのだろうか。頭の上で、クエッションマークがたくさん並んだ。
鳴海君のことを気になっているのは間違いない。現に今日は朝から、何か接点を持つために何度もトライしてきっかけを作ろうとした。全て空回って撃沈したわけだけれども。私は明らかに避けられていた。
理由は……
明白なのだけど。
もう、会うのはやめよう。
何かの間違いだったんだ、と、そう小さく決意したはずだったのに。
なのにどうして……?
追い打ちをかけるように、豪速球が投げ込まれてきた。
「来週のお祭り、二人とも誘っておいたから」
——えっ。
何で?
「四人で行こ!」
全く意味がわからなかった。どうしてそんな流れになるのだ。目の前の視界がぼんやりと白っぽくなってきて、私は気絶寸前となる。
声をかけてくれる結衣の言葉が、水の中に潜ったときみたいに、くぐもって遠い。真剣で本気で心配してくれているのが痛いくらいに伝わってきて嬉しいのに、ほんのわずかだけしか私の鼓膜には届かないのが本当に悔やまれる。
ただ……
両肩を抱えて脳を揺さぶるのは、お願いだからやめて。ほんとに意識がどこかへと行っちゃいそうだから。
+
「おい、滝本よ、何をどうやったら、その展開になるんだ?」
下校の際に訊いた。
「そー言うなよ親友~。なりでそうなっちまってさ~」
呆れた。そもそも『なり』とは何だ? と思ったが、俺は黙って足を進めた。一体、何を考えている? 何か、含んだ笑みが不気味だ。
「まっ、悪いようにはしないからさっ」
滝本は、最寄りの祐天寺駅までの道のりもついてくる。女子との予定がないときだけらしいが。
「んじゃ、おれはここでエリコと約束してっから」
「ああ、またな」
滝本と別れて、改札口を通る。
……何だ?
この悪寒は。
嫌な予感しかしないぞ⁈
駅のホームで立ちながらスマホをいじっていると、メールが届いた。滝本からだ。
すぐにタップすると、『すまん!』『祭りよろしこ!』という文章と、ウサギとクマが泣きながら懇願するスタンプだった。
俺は、何か憎めないやつだな、と思いながら電車を待った。
どんな祭りなのだろうか? 花火大会か?
幼少期に家族で行っただけの記憶しかない俺には、祭りと聞いても、いまいちピンとこなかった。
一駅で中目黒に着く。
改札を抜けると、人の多さがこの駅の都心らしさを物語っていた。代官山などの主要な駅へも、徒歩十五分ほどで行けるらしい。
駅を出て、川沿いを歩く。
カフェやバー、アパレルショップにインテリアショップ——多彩な店々が並ぶ街並みは、夕陽に染まり、川面にはオレンジ色の光が揺れていた。反射した光が、まるで無数の星のように瞬いて見える。
この道は、多くの人にとって特別なのだろう。
桜並木が続くこの道も、今は緑の葉が風に揺れているけど、春には満開の花で彩られると、ばあちゃんが言っていた。
毎日の通学や通勤の路でもあるこの場所には、友達と笑い合った記憶や、一人で考え事をした時間が詰まっているのかもしれない。今日もまた、それぞれがこの道を歩きながら、一日の出来事に思いを馳せるのだろう。
俺には、全くもって、関係のないことだけど。
途中、小さな橋を渡り、大通りを離れた。いくつか坂の上り下りを繰り返すと、マンションが見え、やや年季の入ったエントランスに入る。
すると管理人が笑顔で迎えてくれる。「おかえりなさい」と言われると、自然と頬がゆるんだ。
エレベーターを降りて、足を進め、ドアを開ける。
家の玄関に入ると、おかえりなさい、と、温かい光を放ったばーちゃんが迎え入れてくれる。
「ただいま」
*
部活の練習の合間に体育館の片隅で、
「今日は調子良さそうじゃんっ」と、体を弾ませてやってきた結衣に肩を軽く叩かれた私は、笑顔で「まあね」と答えてから訊いた。
練習に集中しないといけないのに、どうしても頭から離れなかった。結衣の言葉が、まだ耳の奥で響いている。
『四人で行こ!』
まるでエコーのように何度も繰り返される。
どうしてそんなことを言ったのか、結衣の意図が全く理解できない。彼に避けられているのは明白なのに、どうして一緒にお祭りに? それに、気になることがあった。
「ねえ、何で滝本くんなの?」
結衣のお気に入りの男子は他の人だ。前にそう聞いたことがある。ましてや、あんなチャラい感じの男子なんて——。真剣にスポーツに取り組んでいる結衣とは釣り合わない、そんな気がした。
「今日は男バスもいるね」
結衣は、ぼんやりと男子バスケ部に視線を移してから私を見た。今日はバドミントン部もいた。
「なり、だよ。なり」
言ってから、結衣はまた男バスをちら見した。
そう、結衣が気にしているのは、男子バスケ部のキャプテン。お祭りだって、本当なら視線の先の彼と行きたいはずなのに。
「……よかったの?」
そう問いかけた瞬間、女バスのキャプテンの声が響く。
「次、私たちの番だよ!」
結衣と顔を見合わせ、気持ちを切り替えるように大きく息を吐いた。
——今は部活に集中しよう。
そう思いながらも、心の奥で何かが引っかかる。
あれ……なんだろう、この気持ち。
結衣には申し訳ないと思う。でも、避けられているはずの彼とのお祭りが、どこか楽しみな自分に気づいてしまう。
理解できない感情に戸惑いながら、私はコートへと足を踏み出すのだった。