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37話

 ありがとうございました、と声をかけてタクシーを降りる。


「本当にここで平気? 家まで乗ってったら?」

「はい、大丈夫ですっ。鳴海君を見かけたらLINEします」


 少し寂しげな表情を浮かべるお母さんに、私は軽く頭を下げた。

 タクシーが走り去り、駅前の明かりだけが残る。空には夕陽の名残がほのかに残っているけれど、すぐに夜に飲み込まれそうだ。


 鳴海君……。


 家にちゃんと帰ってるかな、と思いながらも、不思議と私の足は自然に動き出していた。

 言葉にはできないけれど、何かに引っ張られるように足が進んでいく。



 気づけば足は自然と公園に向かい、バスケットゴールのある場所へたどり着いていた。

 辺りは薄暗く、ほんのりと照明の光が地面に長い影を落としている。静かな空気の中で、ボールをつく乾いた音だけが響いている。

 ベンチに腰を下ろし、無意識にため息が出た。

 目の前では、同い年くらいの二人組がバスケをしていて、今日はやけにボールをつく音がいつも以上に耳ざわりだった。ボールが地面を叩くたびに、感情をかき乱されるような感覚に(さいな)まれる。


 俺は何となく気づいていた。


 この記憶喪失という状況と、バスケが密接に関わっていることを。自分に寄ってくる人間は、例外なくバスケの話題を持ち出してくる。

 そんなことをぼんやり考えながら、目の前でボールを追いかける二人を眺めていると——


「さっきから何見てんだよ!」


 突然の声に顔を上げると、一人がこちらに向かって歩いてきた。目が合った瞬間、その喧嘩腰な態度に、俺は内心で舌打ちしていた。


「ああ、ごめん……」


 素っ気なく無難に言って視線を逸らした。だけど、関わるのは面倒だと思ったのに、相手は引き下がる気配がないようだ。


「何かコイツ、むかつくんだけど」


 そう言いながら、距離を詰めてくるため、俺はため息をつきながら仕方なくゆっくりと立ち上がった。


「な、なんだ、おまえ……でかいな……」


 声のトーンが明らかに変わった。目の前で威勢よく睨みを利かせていた男が、ほんの少し後ずさっていた。すると、そこへもう一人が駆け寄ってきて仲裁に入る。


「おい、やめとけって! ごめんごめん」


 男2が軽く頭を下げ、男1を引き下がらせる。ほっとした表情を浮かべる二人を見て、やれやれと思ったそのときだった。


「あれ、ひょっとして……青幸中の鳴海君じゃない?」


 男2の声に、胸がざわつく。この展開にはもううんざりしている。それなのに。

 話を終わらせようと適当に、違う、と答えようと思ったのに、何故か俺は「ああ、そうだけど」と言ってしまう。

 案の定、男2の表情が一気に変わり、興奮した様子で手を叩く。


「まじか! すご! 本物だ!」


 それと、無邪気な笑顔で「一緒にバスケやってくれないかな?」と言うのを断るのも、それもまた面倒で、俺はしぶしぶ頷いてしまう。そして気づけば、二対一の対戦が始まっていた。

 まあ、そうなったところで、俺の遠距離の3ポイントシュートが軽々、次から次へと何本も何本もゴールに吸い込まれていくため、男たちは……


「……何だよ、こいつ……バケモノか」


 と言い、あまりの実力差に嫌気を差して、すぐにその場を立ち去っていくのだけれども。


 もう一度ベンチに腰を下ろして確信する。

 ……俺は、バスケをやっていた。それもかなりの経験者だ。


 体は覚えてるのに、頭が忘れてるとか、どんだけ俺はポンコツなんだ——

 そう思うと、ため息が出た。


 ……それと、一人の人物の顔が思い浮かぶ。


 そして、その人物は、どうしてか、いつもここぞというタイミングで現れるのだった。

 足音が聞こえて遠目に気づいた俺は、自然と視線を戻した。


「鳴海君っ!」


 息を切らしながら、目の前に現れた野々原は、肩を大きく上下させながら、「よかったー」と安堵の声を漏らしている。


 よかった?

 いまいちピンとこなかった。


 でも、必死な姿がその疑問を口にするのを飲み込ませる。

 汗ばんだ額と荒い呼吸で、全力でここまで駆けてきたことが一目でわかった。


「鳴海君」


 野々原は、何年も会っていなかった友人にでも再会したかのような笑顔を浮かべて、「隣、座るね」と言って腰を下ろした。

 二人の間には沈黙が落ちる。お互い口を開くでもなく、ただ時間だけが過ぎていく。

 けれど、野々原のわずかに伏せられた瞳と、どこかぎこちない仕草に気づいて、何となく一つの考えが過ぎった。


 もしかしたら、今日、俺に起きたことを知っているのでは——


 野々原が小さく息を吸い込み、ためらいがちな声を漏らす。


「……ごめん。鳴海君が記憶をなくしちゃってること、黙ってて」


 俺はもう気づいていた。


 初めて会ったときの野々原の驚きよう。お祭りに、水族館。何でか俺は、拒否反応を示しながらも、どこか遠い昔の夏の日差しを感じていた。

 それに今日、中学時代の友達から見せられたバスケ部の写真。


 もう間違いないのだろう。


 そして——この公園は、俺が野々原を二度、泣かせた場所だ。



 ちょっとだけ安心した。

 怒られると思ってたから……。


 私が、必死に探している鳴海君のお母さんと偶然会ったということには驚いてはいるけど。


「……じゃ。俺、行くから」


 え、もう?


「ちょっと待って」


 私は、立ち上がってこの場を立ち去ろうとする鳴海君を呼び止めた。


「待って。もう少し話そ。ね?」


 戸惑う鳴海君に、もう一度ベンチに座ってほしいと、気持ちを指し示してから、跳ね上がる鼓動を抑え、思いを言葉にした。


「ほんと、ごめんね……。せっかく学校でまた会えたのに、私……ぜんぜん気づくことできなくて」


 あ、いや、違う——


「——ごめん。ではなく、えっと、また会えたじゃなくて……えー。——あれ、あ、そうそう、初めてか。そう、初めて会ったとき」


 言った途端、自分でもどうしてこんなに慌てているのかわからない。言葉はどんどん空回りする。


「あ、いや、私、えっと、全然気づけなかったのが、鳴海君が大変なことになってることに気づけなくてあ、あの……とにかくごめんなさい」

「別に、大変なことじゃないから」


 鳴海君の声が静かに聞こえた。


「そ、そうだよね!」


 無理に笑って返す。けれどその場しのぎの言葉が届くはずもなく、胸の中が焦燥感でいっぱいになっていた。


「なんかごめん」


 反射的に繰り返した謝罪に、自分でも嫌気がさしてくる。


「あ、なんか私、謝ってばっかりだね……えっと、ごめん! あっ、また言っちゃった……」


 でも、そんな私を見て、鳴海君がかすかに笑った。

 ……いつもの鳴海君だ。

 そう思うことで、平静を保てる気がした。


「もう別にいいって」


 そうこぼれた鳴海君の声は、どこか諦めにも似た穏やかさが混ざっているようにも思えた。


「俺自身、どこを覚えていて、何を忘れてるのかわからないし」

「そ……そうなんだ」


 言葉の重みが胸にのしかかってきて、何か返事を返そうにも、私の喉は詰まったように声が出ない。


「何が本当で、何が違うのかも、俺にはわからないからさ」


 見つめることしかできない私の視界に映る横顔は、またどこか知らない遠い世界に行ってしまったように感じてしまった。


「……」


 沈黙の後に声が届いた。


「俺と野々原の関係って?」

「——え?」

「俺たち……同じ中学で、バスケ部だったんだよな?」

「そ、そうなんだけど……」


 何て説明すればいいのだろう。ちゃんと伝わるように話さなきゃ、そう思えば思うほど、脳みそがストップをかける。


 ここで……私は……。

 言わなきゃ——上手に伝えないと。

 私は、ずっと——この場所で……


 何気ないあなたの仕草に、気づけば何気なく心惹(こころひ)かれていた。


 ——でも、今、伝えるべきではないのかもしれない。

 そう思うと、言えなかった。

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