34話
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——いかん、いかん。
気づけば足が速くなっていた。
祐天寺の駅前で、女バスと男バスの友達が何人か集まっていて、結局あれこれ話し込んでしまった。
話題は『究極の二択』で、——奢りだけど貯金がない恋人と、毎回割り勘だけど貯金がある恋人。どっちがいい?
私は、うん、うん、と頷くことしかできなかったけど、皆んなが思いのほか彼氏に奢ってほしいと思っていることが透けて見えて、ちょっとびっくりした。
途中、キラリ君が顔を出して、皆んなに面白がってイジられた。そのあと登場したのは糸田君。でも、二択の回答がくそ真面目すぎて、おかしな空気になったため解散となった。
「え、もうこんな時間⁈」
時計を見ると、予想以上に時間が経っていた。今日は、鳴海君に借りたカーディガンを返しに行ってから、家でゆっくりするつもりだったのに。
けれども、そう思いつつ、喉の渇きに気づく。電車に乗る前に、コンビニで飲み物を買っていこう。
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……何だ、コイツも?
頭の中に疑問符が散らばる。
さっきまで猫に感じていた違和感が、そのまま制服を着たこの男にすり替わったようだ。いきなり声をかけてきてから、ずっと親しげに話しかけてくる。
言葉が耳を通り過ぎるたび、記憶の引き出しを片っ端から開けてみるけれど、それらしい手がかりは見つからない。
……たしか、コイツは。以前、野々原と一緒にいたときにも話しかけてきたよな?
適当に相づちを打つものの、会話はまるで一方通行で、言っていることがさっぱりわからなかった。
俺がコイツと同じ中学に?
ありえない。鎌倉にいたはずの自分と、この男が同じ中学だったなんて。それともコイツも鎌倉の中学校に?
——いや、コイツは野々原と同じ中学だ。
また、ただの人違いか……?
考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがっていき、じゃあ、またな、と適当にその場を立ち去ろうとした、そのときだ。
「おっ待たせっー」
突然、明るい女子の声が飛び込んできた。
男と同じ制服を着ている。女子は俺の顔を見るなり、息を弾ませながら駆け寄ってくる。
「えっー! 鳴海君じゃーん! ほんとに戻ってきてたんだねー!」
俺はコイツも知らない。
言葉の意味を掴みかける前に、男が口を挟んできた。
「でもさ、純のやつ、なんかかしこまっちゃって変なんだよ」
「そうなの?」
女子が首を傾げると、男は軽く笑って不思議そうな表情を浮かべる。
「どーしたんだよ純っ。まさか、俺のこと忘れちまったのか? 同じバスケ部だったってのに」
——俺が? バスケ部だって?
思わず視線が彷徨う。遠くで何かが引っかかる。その記憶の糸は、たぐればたぐっただけ、解けていくようだ。
だけど、そのとき一つ引っかかった。
バスケ部だと聞かれたのは、これで三回目だ。
一度目は、男子バスケ部の十二番。それと二度目は、鈴木。
俺は恐る恐る口を開いた。
「……何か証拠、ある?」
男は一瞬、目を丸くして「証拠?」と、引きつった笑みを浮かべながら、俺の顔をじっと見つめている。
「純、大丈夫か……?」
そう言いつつも男は「ちょっと待ってろよ」と言いながらスマホを手に取って、画面を何度も指で滑らせる。
すると、「……お、あった。ほら、これ」と、写真をこちらに向け、指先で画面を軽く叩く。
目に飛び込んできたのは、体育館で撮られた集合写真だった。弾けるような笑顔とユニフォーム姿の男女がポーズをとって並んでいる。
そして——そこには、俺がいた。
少し離れたところには野々原の姿もあった。真っ直ぐで、曇りのない笑顔を浮かべている。
頭の奥がジンと痺れる。
これは紛れもなく、俺だ。なのに——どうして、何も思い出せない?
「何だ、これ……?」
自分の声が震えているのがわかった。心臓がどくん、と大きく跳ねているのも。目を凝らしても、どれだけ瞬きをしても、写真は変わらない。そこにいるのは、たしかに俺だ。
でも、俺の記憶にはない。
きっと悲壮感が全開だったのだろう。重苦しい雰囲気に耐えかねたのか女子は心配そうに眉を寄せて、男に話しかけ始めた。
「ねえ、ちょっと……ヤバいんじゃない? そういえば、噂で聞いたよ」
「何が?」
「ひょっとして鳴海君、記憶喪失なんじゃない?」
「はあっ⁈」
裏返った男の声を遮るようにして、俺の声が響いた。
「——ちょっと待って! 記憶喪失? 俺が?」
息が詰まったようで胸が苦しい。自分の声が遠くに聞こえる。信じられなかった。
「俺はほんとに同じ中学でバスケをやってたんだよなっ?」
必死に問いかけるが、二人からは何も返事はない。そして少しだけ間を置き、気まずそうに目を逸らした男の声が届く。
「ああ、間違いないよ。悪かったな。純も、大変だな」
言葉が終わると同時に、二人は「じゃあ、またな」「またね」と、足早に去っていった。まるで逃げるように。
残された俺は、静かに息を吐く。
心がひどく、空っぽだった。
*
駅のホームに立ち、スマホを見つめていると、ふう、と息が小さく漏れた。ゆるい風が髪を揺らして、どこか遠くから電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。
……鳴海君のバイトが休みということは、さっき友達が言っていた。
おばあちゃんの家には、中学の頃に一度だけ行ったことがある。
贈る誕生日プレゼントを二人で考えて、『一緒に選んでほしい』と頼まれたため鳴海君とお店まで行った。売り場で真剣な顔をして色や素材を悩んでいた姿が、今でも懐かしく思う。
二人で選んだのは淡いベージュの手袋だった。
そのあとは家へと向かい、おばあちゃんの物腰柔らかい微笑みが鳴海君によく似ていると思った。
細い指で手袋を撫でながら、優しく「ありがとうね」と言った声が耳に残っている。
元気にしているかな——。胸の中でそう呟いていた。
手袋の時期も、そろそろ近いな、とも思う。
ウィンターカップの開催は、十二月二十三日からだ。
それともう一つ。
……今も鳴海君。好きでいてくれてるといいな。
私は、ついコンビニで買ってしまったお菓子を思い浮かべながら、にやにやとしてしまう。
今日は——十一月十一日。
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家への道を急ぐ足が、まるで焦りを引きずっているようだった。絡まった感情を落ち着かせようとすればするほど、気持ちがもつれて、余計にちぐはぐしていく。胸の奥にわだかまる不安が、重く、冷たい。
——記憶を失っている? 本当に、俺が?
まだ、信じられない。
まだ、人違いであってほしい、と思っている自分もいる。
考えただけ心の中の黒い靄は広がる。
滝本に十二番。野々原に斎名と鈴木も。もしかして、山田もか?
次々と浮かぶ名前と顔が、どこか遠くで手招きしているようで、近づこうとするたびに霧の中へ消えていく。
ボールをつく音が不気味に迫り、頭の中でぐるぐる回って、足元が揺れると吐き気が込み上げてきた。
——皆んな、俺を何だと思っているんだ……。
ドアノブを握る手が震えていた。迷いを振り払うように、勢いよくドアを開ける。
玄関には、見慣れた靴。
母さんの靴だ。
その小さな現実だけが、唯一の確かなもののように感じられて思わず息をつく。
扉を開けると、すぐに声が耳に届いた。
「おかえり、純。元気にしてた?」
その明るい声が耳障りだ。口元に笑みが浮かんでいたはずの母さんが、俺の顔を見た瞬間、表情が凍りついた。まるで、戦場から傷だらけで帰ってきた兵士を見るみたいに。
「どうしたのっ? 純っ! 何があったの⁈」
その声が胸に鋭く突き刺さった。
目の前にいるのは、離れて暮らすようになった以前の、何をするにも『大丈夫?』『平気だった?』『何もなかった?』と、必要以上に繰り返す過保護な母親の姿だった。




