2話
*
え、何で⁈
見間違い?
何でこの学校に?
だめだ。考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。
私は全速力で、校舎の玄関口へと飛び込んだ。
「大丈夫? 桃っ。突然どうした?」
せっかく心配をして追いかけて来てくれた、結衣の言葉が上手く聞き取れない。自分の心臓と荒ぶる呼吸の音だけが耳の奥の方で鳴り響く。
昇降口から廊下に足を踏み込んだとき、もう一度、声がして立ち止まった。
「桃! 待ち、待ち! 靴、靴っ」
私は慌てて内履きに履き替える。そして、そのまま教室へ向かおうと足を進めると、再び呼び止められる。
「桃! ちょっと待ってよっ。急に走り出すから喉乾いちゃった」
結衣はすぐに私を追い越し、自販機で買ったミネラルウォーターを、ほれ、と言って手渡してくれた。
気づけば最初に手で持っていたペットボトルの中身は空になっていた。キャップ閉めずに全速力で駆けたせいだ。
「ほんと、桃はバスケ以外はおっちょこちょいだよねー。制服、平気? めっちゃ濡れてるけど」
スカートがびしょ濡れなのも、指摘されて気づいた。私はしょんぼりと項垂れて答えた。
「あー、あとで体操服に着替えてくる……」
結衣の、どんまい的な笑い声が、私の羞恥心をより傷つけ情けなく思う。悪気はないのは百も承知だけど。
そのまま二人で教室へと向かった。
結衣とは、一年生の頃から同じクラスとバスケ部というのもあってか一番仲良くしていて、昼食もいつも二人で食べていた。
「少しは落ち着いた?」
結衣の澄んだ瞳には、いつも吸い込まれそうになる。何というか、前向きな光を宿していると思う。それに加えて、笑顔は春の陽だまりのように温かく、誰もが彼女の周りに集まってくる。バスケでは、ボールを手にすると、その瞬間に全てが輝き出すのだ。
「結衣、ありがと」
少しだけ弾ませるように口にした。これ以上、心配をかけさせないよう配慮をした。……ドッドッドと、私の期待と不安が入り混じった心臓の鼓動は、今もなお不恰好に時を刻むばかりだけれども。
中庭でくつろいでいた彼の面影が、頭の中を走り去って、思った。
ああ、やっとこの日が来たのだと。私はずっと待っていたんだと。一日たりとも忘れることができなかった私の記憶。何か霧かかった暗闇の中に、一筋の光明が差したような気がしたと言っても過言ではない。
このあとの結衣の問いかけで、それは確信めいたものとなる。
「転校生の鳴海君のこと知ってるの?」
何て答えるべきか。結衣には正直に話したい気持ちもあるけど、不確定な要素が多すぎて私は返答に困った。
「転校生?」
「そうだよ。二学期から来てるよ」
聞いて初めて知った。世間知らずの私に、結衣は穏やかに笑って続けた。
「あの二人、バスケやらないのかな。いつも一緒だから目立つよね」
「……二人?」
いまいちピンときていない私に気づいて、結衣は、ああ、と明るい声を上げてから、申し訳なさそうな表情をして、会話を補足をしてくれた。「隣にいたのは滝本君ねっ」
滝本君に関してはさほど気に留めていなかった。たしかに、隣に座っていたような記憶は、私の頭の中にぼんやりと残っている気はするけど。
ただ、私が目にしたものは、人違いではないことは確定した。すると再び彼の面影が脳裏をかすめ、そんなことよりも、と重大なことを思い出す。
「てか、びっくりしたよ。桃、いきなり水吹き出すんだもんっ」
そうなのだ。私は事もあろうに吹きかけてしまったのだ。顔面に。しかも豪快に。かつ口に含んでいたものをだ。
とんでもないことをしでかしてしまった。私は一体なにをしてるんだ、といまさらながら心配になってきた。
そんな血の気が引いて、おそらく蒼白な面持ちをしてしまっている私に、結衣の言葉が追い打ちをかける。
結衣は、あれ何だっけ? と口ずさんでから、「プロレスラーが使う技っ」と、私に訊くとすぐに、あー、と何かを思い出したのか、その言葉を発する。笑いを堪えるようにして。
「毒霧だ」
何て衝撃的な言葉なのだろうか。この技は、たしか相手レスラーの顔めがけて噴射して相手の視界を遮る反則技だ。私はそんな必殺技を繰り出してしまったのか。
絶対に怒ってるだろうな、と頭を抱えて項垂れる私に、結衣は更なる技を繰り出してきた。笑いながら話しかけてくる。
「ほんとすごかったねっ。毒霧っ」
——毒霧。
その、日常とは程遠い二文字は、せっかく私の中の暗闇に差したはずの一筋の光明を消し、感情を整理できずに混乱する私を、その場でノックダウンさせるのだった。
「ただいまー」
何とか無事に帰宅した。
部活の練習では、雑念に打ち勝つことができず、ズタボロだったけど。全くシュートが安定しなかった。
とにかく疲れた、ひとまず頭の思考を整理したい。
「おかえり。遅かったじゃない?」
大学生のお姉ちゃんだ。今は一人暮らしをしているけど、たまにちょこちょこ実家のマンションに帰ってくる。
リビングにはお母さんもいる。おかえり、と声がした。
「何? 祐天寺はこんなに遅くまで練習? ウィンターカップはレギュラー取れそう? インターハイは残念だったね」
「わかったから、ありがと」
たたみかけるように質問攻めする姉をよそにして、私は自分の部屋へと向かった。
ドアを閉めた音と重なるようにして、一瞬ほんの少しだけ、過去の思い出が浮かんだ。お姉ちゃんは、小、中、高、と花形選手で、私にとっての憧れの存在。私がバスケを始めたきっかけでもある。今はボールをつくことさえしなくなってしまったけど。
私は電気をつけてから、ベッドの上に小さく座り、今日あったことを振り返った。
そして、彼を思う。
中学二年生の頃、私がバスケで思うような結果が出ずに悩んでいたときに、今のプレースタイルへ導いてくれたのは彼だ。彼のアドバイスなしでは、今の私はないだろう。
……明日、どんな顔をして会えばいいのだろう。
とにかく、まずはきちんと謝らなくては。
どうやって?
考えれば考えるほど、これからどうすればいいのかわからなくなってくる。明日からの学校生活を想像しただけで、期待と不安と、恥じらいみたいな感情が湧いてきて、鏡を見なくとも、顔がほてって赤くなっているのがわかる。
……ああ、どうする?
両手で顔を軽くパシンと挟んでから、自分に言い聞かせる。
頑張れ、私っ。
翌日の放課後。
「あっれー? 体育館の扉、閉まってるー。せっかく一番乗りで来たのにぃ~」
「珍しいね。鍵、私取ってくるよっ」
私がそう言うと、結衣はスマホを鞄から取り出して、「あー、他の人に今、メールで持ってきてくれるように頼んだから平気、平気っ」と、にこり笑ってから指でOKサインを出した。
私もそれに同意し、部活にやってくる皆んなを待つことにした。二人で、扉の手前の三段ある階段に腰を下ろす。
すると結衣は立ち上がり、突如大きな声を上げた。
「滝本くーん! 鳴海くーん!」
——え、何で?
下校中の二人に手を振る結衣の姿を見て、パニックになった私は、足元を滑らせ階段を転げ落ちてしまった。