1話
+
……また、いつもと変わらない今日が始まる。
あと何回、寝れば……
本当の明日が来るのだろうか。
自分って、何なんだ?
スマホのアラームを解除して、閉じた窓のカーテンはそのままに、部屋の引戸を開け、
「おはよう、ばーちゃん」
と、優しく声をかけると、ダイニングキッチンで朝食の準備をしている祖母は、ゆっくりと振り向いた。
「純君おはよう」
そのか細い声は、まるで風に乗るように、かすかで優しい響きで、陽炎がかかった俺のちぐはぐな感情を、少しだけ癒した。
電車に揺られながら窓の外を眺め、ただ右から左に流れていく、都内の密集した建物の景色にも慣れてきた。
……それと、吊り革が額に当たって意気消沈することにも。
何んで俺の身長はこうも無駄に高いのだ、と俺は自分を嘆く。
「お、いいね、いいね! 今日はここで食べようぜっ。純っ」
不意に声をかけられ、別に……俺は一人で過ごしてもいいんだがな、と思わず言いかけたが、口を閉じ、同じクラスの滝本の隣に腰を下ろすことにした。残暑のせいか、全面ガラスで覆われた廊下が向かい合う中庭のベンチは、まだ熱い。
滝本は何故か、無愛想な俺の側にいつもいた。
二週間前に、俺がこの祐天寺高校に転校してきた初日から、こんな感じだった。馴れ馴れしいのは玉に瑕だと思うこともあるが、底抜けの明るさと人懐っこさは、長所なのだろう。
それと、お互いの身辺について、根掘り葉掘り話さないせいか、俺も居心地が良かったりもしていた。
この、異様な女子への執着心は、どうかとは思うところがあるが。
「かあーっ、バドミントン部の内海先輩は、やっぱ可愛いなァー。あれで彼氏がいなければな~」
滝本の脳内には、この学校の女子の詳細なデータが、膨大に保存されているという。ここへやって来たのも、その情報をアップデートするためだ。
購買で買ってきた惣菜パンを片手に、好みの女子を物色する滝本に辟易とする俺の姿も、周りから見ればだいぶ馴染んできてしまっているのかもしれないと思うと、少しばかり悲しくもある。
「お、純っ。あれ見ろよ。隣のクラスの柿田洋子。金山中学出身、帰宅部、彼氏なし、今ハマってるものは韓国ドラマで、身長159センチ、Cカップ、ヒップ86センチってとこだな」
「……滝本。ほんとキモいからやめた方がいいぞ」
女子をチラ見するだけで痴漢認定される時代だ、本当に気をつけろ、と切実な思いを込めて俺は言い放った。
まあ、チラ見被害なら滝本も受けてはいるだろうが。高身長者は、やたらと注目されていることに、電車通学を始めてから気づかされた。
そんな思いをよそにして、滝本がさらなる情報を提供してくる。
「それに、柿田洋子は来週のお祭りに行くみたいだぞ」
「滝本、それはどうやって知ったんだ?」
「いや、ただの偶然だけど、俺も柿田洋子のSNSフォローしてっからさ」
「…………」
平然と語る滝本の言葉を聞いて、少し怖くなった。
行動が不気味に感じられる。でも、単なる興味本位で情報を集めているのだと、俺は切実に願う。そして、焼きそばパンを口に運ぶ。
そのときだ。突然、声をかけられたのは。
そいつは、ボールが地面につく音に背中を押されたのかもしれない。目の前では、中庭にあるバスケットゴールに向かって、男子生徒たちが3対3で勝負をしていた。
「——あのっ……青幸中学の鳴海純さんですよね⁈ おれ、中学んときに、あなたに憧れてバスケ始めたんです! うちの学校に試合に来てて」
だけど、俺には全く身に覚えのない話だった。適当にあしらうことにした。
「あー、人違いだな。俺、バスケやったことないし」
冷たく聞こえるかもしれないが、俺から言える言葉は、これだけだった。相手は、見るまでもなく残念そうな表情と驚きを隠せない顔をしているが。
こいつは、おそらく良いやつなのだろう。ぶっきらぼうな俺とは違って。
おかげで、この無垢な少年のような瞳をもったバスケ君と俺との間に、何ともいえない微妙な空気が漂うことになってしまい、それを察した滝本が間を持つことになる。
「……まー、そういうことだ、バスケ君。いわゆる、よくあるあれだ……」
経緯から想像するに、バスケ君は俺たちより一つ下の一年生だろう。
滝本は何か考えを巡らせるかのように頭をかき、思いついたまま得意げに口を開いた。
「同姓同名ってやつだっ」
全然、よくあるあれ、ではないと思ったが、バスケ君は「そうでしたかっ」と妙に納得した様子を見せた。滝本が「残念だったな~、バスケ君っ」と声をかけると、「すみませんでしたっ」と頭を下げ、そのまま「失礼しますっ」と言って去っていった。
滝本は遠ざかるバスケ君の背中を目で追いながら、自分が口にした言葉を反芻する。
「さすが鳴海純だね~。さすがイケメンは違うわ。男も寄せ付けちゃうのね~」
「……茶化すな、滝本よ」
たしかにいくつか異性の視線を感じるが、この現象は、単に俺と滝本の背が高く目立っているためだ。
注目されるのが極度に苦手な俺にとっては、視線が一本、一本突き刺さってくるような感じがして、まるで針千本飲まされる刑を受けているようなのだが。
全くもって迷惑な話だ。こいつら皆んな痴漢罪で取り締まればいい、そう思ったままの勢いで、口に入れたパンを牛乳で流し込んだ。
すると、滝本と目が合った。
「……で、バスケやんねーの?」
何となく、静寂の中で、ボールが一つ、ゆっくりと地面に落ちたような、そんな雰囲気だった。
「やらん」
前の学校でも何度も聞かれたことだった。高身長ゆえに。
滝本もきっと同じ経験を何度もしているはずだ。笑い飛ばすように納得しているように見える。
「だよなー! んなことやってらんねーよなー。恋愛しねーとなっ」
理由はわからないが、ボールをつく音を聞くと、胸の奥が騒つくのだ。混沌とした心の奥底で、身を抉られていくような、そんな感覚すら覚える。
「でもさー」
滝本は肩を寄せてきた。「バスケやってるやつってモテるんだよな~」
再び滝本と視線が合った。
「バスケやってみる?」
「やらん」
予想通りの答えだったと思うが、滝本は呆れるように言い放った。
「かあーっ、きっついねー、純~。おまえそんなんじゃいつまで経っても童貞だぞ~」
俺は心配されているようだ。周囲でヒソヒソ話している女子たちにも。
正直、童貞に差別的な感情はないし、どうでもよかったが、女子たちの視線が、何となく恥じらいながら秘め事を話しているような気がして、少しだけ恥ずかしい気持ちが沸いた。
そして、俺がこの極刑を受けている最中、大馬鹿ヤローは現れた。ボールが地面につく音に吸い寄せられたかのように。
俺の顔面は、びしょ濡れとなったのだ。
一瞬のことで、混乱しているが、状況を整理すると、俺の目の前で立ち止まった女が、突然、飛び上がるように驚き、口に含んでいたものをもの凄い勢いで吹きかけてきた。
周囲の者たちも騒ついている。
一体、何だったんだ? 一応、謝罪は受けたが、ハンドタオルで形だけ拭いて、逃げるように去っていった。
そんなに俺の童貞に衝撃を受けたのか?
前髪から水が滴り、滝本から要らぬ情報が耳に入る。
「2年A組、野々原桃子、バスケ部、彼氏は不明、性格は天然おっちょこちょい、身長164センチ、Bカップ、ヒップ92センチ」
……また、バスケか。
思わず、ため息が漏れた。
まるで、球つきオールスターズだな。俺の心を抉りゆく紛い者たちめ。
何だか、俺の顔を伝って、滴り落ちる無味無臭の水が、汚されていくような気がした。
辟易とする間も与えず、お祭り気分の滝本が茶化してくる。
「ひょ~! ラッキーだなー、純~」
「黙れ。変態……」