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プロローグ

* 桃子

+ 純

の視点で描かれていきます。

挿絵(By みてみん)


 私には、ずっと忘れられない人がいる。


 スマホのLINEの画面は、あのときのままで『明日お互い頑張ろう!』と、送った文章を最後に(とき)が止まっている。


 いつまでも既読が付かない液晶に向かって、『何かあったの? 大丈夫?』などと何回も打ち直したメールは、いまだに送れないでいた。

 どことなく、しんみりとしたおぼろげな月を見るたびに、泣きたくなるのもそれが理由だ。



---



 二年前。


「いってきまーすっ」


 練習着に身を包み、リビングにいる家族に声をかけてから、軽快に家を出た。

 まだ眠りから覚めきらない街は静まり返り、マンションの外階段を降りる足音だけが響く。壁に映る自分の影が、何だか昇る太陽と一緒に心まで目覚めていくようで、少し照れくさかった。

 エントランスを一歩出た途端、新緑の香りが漂った。ひんやりとした空気が頬を撫で、思わず足が止まる。爽やかな朝の光の中、深く息を吸い込んだ。

 都会のど真ん中にいるのにもかかわらず、人影はない。遠くから届く鳥のさえずりが、日々の喧騒から解き放ってくれるようだった。

 目黒川沿いの木々の間から渡る風を切りながら、私は駆けていく。



 公園から響くボールをつく音。その小気味よいリズムは、私の足取りを自然と速くさせた。

 バスケットゴールのある広場では、先に来ていた彼がシュートの練習をしていた。リングネットに触れた音がしてから、ボールはアスファルトの地面に落ちる。

 私に気づいた彼が、ボールをつきながら目の前へとやって来る。その笑みは、この世界に争いなど存在しないと思わせるほど眩しくて、ちょっぴりこそばゆくもある。


「おはよ」

「おはよーっ」


 恥ずかしさを隠すために、少しだけ割って入る感じで駆け寄った。急いで背負っていたリュックサックからボールを取り出した。


「いよいよだねっ」

「だねっー」


 優しく言い、軽快な足取りで歩き出した彼の隣を、ボールをつきながら私もついていく。

 彼の放ったボールは、きれいな放物線を描いてネットを揺らす。その引き締まった大きな背中から放たれる教科書のお手本のような美しいシュートフォームに、私はいつも見惚れてしまう。

 手からボールが離れた瞬間、時間が止まる。そしてゴールへと吸い込まれてから、耳の奥の方で乾いた音と、地面に落ちた音が響くと、はっと現実世界に戻ってくるのだ。


「今日も調子良さそうだねっ」


 微笑みかけてから、私もゴールに向かってシュートをしたけど、豪快にリングに弾かれる。すると彼が心配そうに顔を覗き込んでくる。


「力み過ぎ、力み過ぎ、野々原(ののはら)っ。そんなんじゃ入んないよっ」


 私は、はいはい、と受け流してから、ボールを取りにいき、再びシュートをした。

 でも、聞こえたのはリングに弾かれた音だけ。


「大丈夫ー? 試合。今日から地区予選だよ?」


 からかい半分の彼に向かって、おまえがキラキラしてるせいだよ変に力が入って軌道が乱れてるのは、とはもちろん言えず、私は転がったボールを拾いにいく。その間にも、ネットに触れる音が響く。


「もー、プレッシャーかけないでよー。私は鳴海(なるみ)くんと違ってメンタル弱いんだからー」


 ごめんごめん、と笑いながら、鳴海君は私の側にきた。


「ほら、ループ、ループ。もっと意識してっ」


 私は、はいはい、と、ため息をこぼしながら言った。げんなりと。


「わかってますよぉ~」


 ループとは、ボールが描く放物線のことで、バスケの理想的なシュート条件は、すでに世界的に解明済みで、最もゴールに入る角度は四十五度なのだと、耳にタコができるほど彼から聞かされていた。あと、ループをかける意義として、入射角と反射角の問題があることも。物理の苦手な私には、ちんぷんかんぷんな話で、いつも聞いているフリをしている。


「体をリングに対して真っ直ぐに向ける。シュートは全身で。手だけじゃなく下半身も使ってボールに力を伝えるっ」


 ほんと基本的なことだけど、言われて、意識してシュートすると……

 私はもう一度ボールを放つ。


 ほらね。


 不思議と、スパッときれいにゴールに吸い込まれるのだ。


「それ、それっ」


 自分のことのように喜ぶ彼の表情が愛おしい。


「絶対、勝とうね!」


 駆け寄って、私がそう大きく声をかけると、彼は溢れんばかりの興奮を抑えるようにして口を開く。


「勝って、絶対、全国に行こうっ」



---



 ……ん?

 暗い。

 部屋の中。


 ——あ、


 バスケットボールが床に響く音で、一気に中学三年生から高校二年生へと、夢から覚めたのだと気づく。

 まだ朝ではないことはわかった。スマホのアラームは鳴っていない。画面には、バスケの試合の映像が流れている。寝る前に、撮影した自分の学校の試合を見返していたものだ。

 ぼんやりと光る液晶を眺めていると、何だか急に、この世界に独りぼっちのような気がして、孤独感に押しつぶされそうになる。

 ふと、思った。


 最近の悩み。


 それはバスケをする人間にとっては受け入れ難いことだった。


 私は——

 ボールをつく音が嫌いだ。


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