第40話 胸の高鳴り
千成は息を詰まらせたまま、じっと衿華の温もりを感じていた。
衿華が彼の肩にそっと身を寄せた、そのわずかな接触だけで、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
心臓の鼓動がやけにうるさい。鼓膜のすぐそばで鳴っているように、大きく響いていた。
───衿華、本当になんで、そんな顔をするんだ……
衿華の表情は、さっきまでのふざけた雰囲気とはまるで違っていた。
揶揄い半分の微笑みも、彼を試すような視線もない。ただ、静かに千成を見上げていた。
「……千成」
名前を呼ばれただけなのに、千成の背筋に熱が走る。
彼は衿華の顔をまともに見られなくて、目を伏せた。けれど、それでも彼女の視線が焼き付くように感じられて、胸の辺りが少しだけ暖かくなる。
「衿華……お前さ」
視線を戻してどうにか口を開く。
けれど、次の言葉はなかなか続かない。
言いたいことは沢山あるはずだ。
それなのに、全部喉の奥で引っかかって、うまく言葉にならなかった。
───オレ、衿華のことを……どう思ってるんだろうか?
それを認めるのが怖かった。
「……千成?」
衿華が小さく首を傾げる。その仕草すら、やけに可愛く見えてしまう自分に、千成は密かに焦った。
「……なんでもねぇ」
それだけ絞り出して、視線を逸らす。
「またそれ?」
「うるせぇよ」
衿華はちょっとだけ頬を膨らませた。
千成は苦笑しながら、誤魔化すように頭を掻く。
けれど、衿華はふと真剣な顔になり、そっと千成のシャツの袖をつまんだ。
「……ねぇ、千成」
「……なんだよ」
「今、ドキドキしてる?」
突然の問いに、千成は思わず息を呑んだ。
「は?」
「だって、私……すごくしてるから」
衿華はそっと、自分の胸のあたりを押さえた。
「なんか、苦しいくらい……」
ほんのりと頬を染め、伏し目がちに呟くその姿を見てしまったら、もう誤魔化せなかった。
「……っ」
千成は拳を握りしめる。
───バカ、そんなこと言うなよ。
そんなこと言われたら、余計に意識してしまうだろ。
呼吸が浅くなる。視線をそらしても、衿華の存在がやけに近くて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「千成は?」
再び、衿華の問いが零れた。
───もう、逃げられそうにない。
千成は、喉を鳴らしながらゆっくりと衿華を見つめた。
そして、しばらくの沈黙のあと、ぽつりと呟く。
「……してるよ」
衿華が、驚いたように目を見開いた。
「……してるに決まってんだろ。こんな状況で、何も思わねぇ訳がない」
千成はそう言って、ぎゅっと拳を握ったまま、視線を逸らす。
けれど、それ以上は言えなかった。
言葉にしたら、自分の中にある何かが決定的に変わってしまいそうだったから。
衿華が何か言いかけた気がした。けれど、結局、彼女も黙り込んだまま、そっと袖を握る手に力を込めただけだった。
静かな時間が流れる。
けれど、お互いの心臓の音だけは、やけに大きく響いていた。
が───突然、スマホの振動が静寂を破った。
衿華の肩にかかる千成の体温。互いの呼吸が混ざるほどの距離。
そんな心地よい余韻に浸っていた最中、不意に千成のポケットの中でスマホが震えたのだ。
「……っ」
千成は軽く息を呑み、しぶしぶスマホを取り出す。
その瞬間に、彼の肩にあった温もりが消えてしまった。
スマホの画面には「健明」の名前が表示されている。
───何の用だよ……
内心で悪態をつきながらも、無視するわけにもいかず通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『あっ、千成!? いま大丈夫か!?』
健明の声はいつも通りだが、どこか焦りが滲んでいた。
「……まぁ、ギリギリな」
『ギリギリ!?何が!?いや、それより助けてくれ!
物理がマジで理解出来ないんだ!』
「は……?」
突然の勉強相談の連絡に、千成は思わず眉を顰めた。
『明日までに宿題を提出しないとヤバいんだけど、まず殆ど手を付けてない。あと……どうしても解けない問題があって……頼む、千成!お前しかいない!』
「いやいや、知らねぇよ……課題を溜め込んだお前が悪いんだろうが」
千成は溜息をつきながら、ちらりと衿華を見る。
彼女はまだ千成の隣に座っていて、スマホを持つ彼をじっと見つめていた。
さっきまでの雰囲気が一気に冷めたことに、彼女も少し不満げな顔をしている。
「お前、いい加減にサボり癖を直せよ……」
『そんなこと言うなって!俺の未来がかかってんだぞ!』
「大袈裟だな……」
『マジで助けてくれ!5分でいい!』
健明の切実な声に、千成はしばらく沈黙したあと、渋々了承する。
「しゃーねぇな。画像送っとけよ」
『サンキュー!!お前マジで神!』
健明の喜びように、千成は適当に相槌を打ち、通話を切った。
「……はぁ」
スマホをテーブルに置き、千成は肩を回す。
この時になって彼は、衿華とのせっかくの空気が台無しになったのを、悔しいと思い始めていることに気付く。
「鏑木くんから?」
衿華が小さく呟く。
「ああ。物理で解らない問題があるとかで、教えてくれってさ」
「ふーん……」
衿華はどこか拗ねたような表情を浮かべている。
「……何だよ」
「別に?」
彼女はプイッと横を向いた。
「お前、判りやすすぎんだろ……」
「判りやすくないし」
「いや、判りやすい」
言い合いながらも、どこか和やかな空気が流れる。
千成は苦笑しながら、スマホを手に取った。
「とりあえず、ちょっとだけ健明の面倒見てくるわ」
「……うん」
衿華は少しだけ残念そうにしながらも、頷いた。
彼女のその表情を見た千成は、ふと、さっきの距離感を思い出す。
───警告したつもりだったのに……寧ろもっと近付かれてしまった……
でも……衿華と触れ合ってると安心出来るんだよな……
そう思いながら、千成はスマホを開き、健明から送られてくる問題を待った。
………………
…………
……
千成は溜息をつきながらスマホを置いた。
───健明の野郎……
物理の問題を解説し終えるのに、思ったより時間がかかった。
とはいえ、健明の「解った!」という声を聞くと、まぁ無駄じゃなかったかなとも思う。
スマホを閉じ、ふとソファに視線を移す。
「……寝てるし」
衿華は静かな寝息を立てて、千成の家のソファで丸くなっていた。
片方の腕を枕代わりにして、無防備な表情を浮かべている。
───いつの間に寝たんだよ。
さっきまで拗ねた顔をしていたのに、今はすっかり無防備だ。
頬にかかった髪を風が揺らし、寝息に合わせてわずかに肩が上下する。
「……おい、起きろ」
千成はソファの前で身を屈めると、軽く肩を揺すった。
「おーい、衿華」
軽く肩を揺するが、衿華は小さく唸っただけで起きる気配がない。
もう少し強めに揺すってみるが、眉を寄せて静かに寝息を立てているだけだった。
───マジか……
時計を見ると、すでに深夜に差しかかっている。
このままソファで寝かせるわけにもいかないが、彼女のマンションに送ろうにも、鍵の場所を千成は知らない。
───どうするべきか……
千成が採れる選択肢は2つだった。
このままソファで寝かせるか、彼のベッドに運ぶかである。
父親の旭の寝室を使わせるのも、朝まで狭いソファ寝かせるのも気が引ける。ソファで寝ると変な姿勢になって身体が痛くなってしまいそうだ。
かといって、ベッドに運ぶのも恥ずかしい。
───いやいや、何を考えてるんだ、オレは……
衿華には、日頃から世話になりっぱなし。だから寝心地の良いベッドに運ぶのが正解。それだけの話だ。
───なのに、なんでこんなに躊躇ってんだ?
自分でもよく解らないまま、千成はそっと衿華の肩に手をかけた。
彼女の体温が指先に伝わる。