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第39話 忠告

 風呂を出た千成は、タオルでざっと髪を拭きながら洗面所へ向かった。


 いつも通りドライヤーを手に取り、温風を当てる。適当に乾かしていくうちに、自然と前髪が上がった。


 ───まぁ、これでいいか。


 普段は前髪を下ろしているが、こういう時は気にしない。面倒だったし、そのままリビングへ戻った。


「ふー……」


 軽く息をつきながらソファに腰を下ろした瞬間、衿華がぴくっと反応した。


「えっ……」


 声が震えている。


 千成が怪訝に思って顔を上げると、衿華は驚いたように目を見開いて、明らかに動揺していた。


「ど、どうした?」


「ち、千成……前髪、上がってる……!」


 衿華は頬を紅潮させながら、千成を凝視していた。


「は? ……ああ、乾かしたからな」


「ちょ、ちょっと待って……え、やば……」


 衿華はそわそわと体を揺らし、目を泳がせながら口元を押さえた。


「……なにが?」


「え、いや、その……千成、さっきまで前髪下ろしてたじゃん? 風呂上がりかもだけど……なんか……色っぽいよ……」


 最後の方は小声になったが、千成にはしっかり聞こえていた。


「……っ」


 一瞬、心臓が跳ねた。


 けれど、それを悟られまいと、千成は何でもないふりをして髪をくしゃっとかき上げた。


「別に、ただ乾かしただけだって」


「いやでも……反則じゃない……? 本当にやばい……」


「あのなぁ……」


 千成は呆れたように溜息をついたが、衿華の視線は未だに熱を帯びていて、彼の顔をじっと見つめたままだった。


「そんなに言うことか?」


「言うよ……だって、いつもと違う千成が見られたんだもん……」


 衿華はぽつりと呟き、目をそらすどころか、むしろ千成の顔をじっくり観察するように見つめ続ける。


 ───おいおい……そんな顔すんなよ。


 千成は内心で焦りながらも、平静を装おうとする。

 けれど、衿華の頬が僅かに紅潮して、瞳が揺れているのを見てしまったら、流石に動揺せずにはいられなかった。


「お前の表情だって反則だろ……」


「え?」


 千成がぽつりと漏らした言葉に、衿華がきょとんとした顔をして───「うそうそうそ……」と呟き始めた。

 彼女の顔は触れれば火傷しそうなほどに熱を帯び、視線もままならない。


 けれども。


「……いや、やっぱりなんでもねぇ」


 千成は誤魔化すように視線を逸らし、ソファの肘掛けに肘をついてしまっていた。

 その言葉で、衿華は我に返った。

 真っ赤になった頬は段々と元の色を取り戻しつつある。納得がいかないのか、彼女はじっと千成の顔を覗き込んできた。


「ねぇ、今なんて言ったの?」


「……言ってねぇ」


「言ったじゃん!」


「言ってねぇ」


「絶対言った!私の表情が反則だって……」


 嬉しそうに詰め寄ってくる衿華に、千成はじわじわと居心地の悪さを感じ始める。


 ───くそ、余計なこと言った……!


「な、なんでもねぇって言ってんだろ」


「ふふっ、千成が照れてる……可愛い」


「……風呂上がりで体が熱いだけだ」


「ほんとに?」


 衿華は揶揄うように千成を見つめている。

 彼女は微笑んでいて、そして耳だけは朱の色が残っていた。


 ───なんでオレが、こんなに翻弄されてるんだ……


 千成は視線を逸らすのだが───彼女は彼を離そうとはしない。

 衿華は千成をじっと見つめたまま、にじり寄るようにソファの隣へ移動した。


 ───え? 何だ、この圧……


 千成が警戒する間もなく、ふわりと柔らかいクッションが沈む感触と共に、衿華がすぐ隣に腰掛ける。肩が触れ合うくらい、ぴたりと近付いて。


「……な、何だよ」


「別に? 座っただけ」


 そう言いながら、衿華は微笑を浮かべた。


 ───いやいや、ただ座っただけの距離感じゃねぇだろ。


 千成は思わず身じろぎするが、それに合わせるように衿華も微妙に動き、ぴたりと距離を詰めてくる。

 肩と肩が触れるか触れないかのギリギリの間合いにまで、彼は追い詰められてしまっていた。


 千成は僅かに喉を鳴らす。


「お前……なんか……近くね?」


「そうかな?」


 衿華はすっと首を傾げる。

 すぐ横で、湿り気の残る髪が揺れ、シャンプーの香りがふわりと漂った。


 ───無理だ……!


 千成は無意識にソファの端へずれようとするが、それを察したように衿華は少し身を寄せる。


「おい、ちょっと待てって」


 変に声が上擦ってしまうが、衿華は続けた。


「えー、いいじゃん。千成、さっき私のこと反則って言ったし、もう一回よく見てみて?」


 冗談めかした声なのに、その瞳はじんわりと色づいている。


 ───こいつ、絶対楽しんでるだろ……!


 千成は困惑しながらも、顔が熱くなるのを感じた。


 ───マズい……こうなったら……


 そして、意を決すると───彼はいきなり衿華の肩を掴んだ。


「……え!?」


 衿華の声が、短く聞こえた。


 怪我をしないように優しく、しかし勢いをつけて。

 衿華の体勢を崩させるように押して、そのまま彼女に覆い被さる。


 衿華の髪がふわりと、流れるように散らばった。

 白いソファを滑らかな光沢を持つ濡れ羽色が染め上げていく姿は形容し難い美しさがあった。


 突然押し倒され、衿華は何が何だか解らず呆気にとられている。


「衿華。オレは……男だ。ヘタレだろうさ。だけど……オオカミなんだぞ」


 顔を近付けながら、低い声で、脅すように彼は続ける。


「性欲は……間違いなくあるんだ。お前がこんな風に煽って来たら……意識せずには居られなくなる」


 千成の股の辺りは、確りと膨らんでいた。

 普段は全く、そういった欲望を衿華に見せていなかった。

 この前彼女に振られた男と同じような気がして、嫌われたくないと思ったからだ。


 吐息が当たるほど近くまで、千成は顔を寄せる。


「今度からは……気を付けてくれ」


 衿華は視線を右往左往させていた。

 けれども遂に、羞恥から直視出来なくなったらしくぎゅっと目を閉じて、頬を赤く染めて震え出した。


 怖がらせてしまったかと思い、千成はゆっくりと身体を離していく。


「オレは……衿華を大切にしたい。お前に嫌われたくないってのもあるけど……そう思った一番の理由は、お前が嫌な思いをして欲しくないからだ」


 千成は深く息を吐き、衿華の肩からそっと手を離した。


 ───言い過ぎたたかもしれない。


 衿華が怯えた顔をしたらどうしよう。

 そんな不安が頭を過り、千成は恐る恐る衿華の表情を窺った。


「……ごめん」


 自分でも驚くほど、弱々しい声が零れる。


 だが、衿華は千成が思っていたような怯えた表情をしていなかった。


 驚きと、戸惑いと、そして───どこか熱を帯びた瞳。

 胸の前でぎゅっと拳を握りしめ、小さく息を呑んで、唇を噛みしめる。


 その仕草すら、やけに色っぽく見えてしまう。


「……」


 千成は視線を逸らし、ぐっと拳を握り込んだ。

 心臓は、踊っているかのように高鳴っている。


 ───やばい、冷静になれ。


 衿華はまだ何も言わない。

 それが余計に千成を焦らせた。


「オレは……」


 言いかけていた。けれど、次の言葉が出てこない。

 これ以上何を言えばいいのか、自分でも解らなかった。


 ふと、衿華がぎゅっと目を閉じる。

 そして、震える声でぽつりと呟いた。


「……ずるい」


「え?」


「そんなの……ずるいよ、千成」


 衿華は手で顔を隠したまま、ぽつりぽつりと続ける。


「だって……今まで千成は、私にそういう顔を見せたことなかったのに……」


 小さな声だったけれど、はっきりと千成の耳に届いた。


 衿華はゆっくりと顔を上げた。

 瞳は揺れていて、まるで言葉を探しているようだった。


 頬は熱を帯び、唇は微かに震えている。

 視線を彷徨わせたかと思うと、まるで決意するように千成をじっと見つめた。


 ───やめろ、そんな顔すんな。


 千成は心の中でそう呟いたが、目を逸らすことができなかった。


 衿華の指が、ぎゅっとソファのクッションを握りしめる。

 彼女の胸が小さく上下し、息を整えようとしているのが判った。


 そして、躊躇いがちに千成へ───彼の肩に身を寄せた。

 ほんの少しだけ。

 それだけなのに、やけに心臓が跳ねる。


 言葉はない。

 けれど、その仕草が雄弁に語っていた。


 ───こいつ……オレのこと……


 瞬間、千成は喉が詰まるような感覚に襲われた。


 動揺を悟られたくなくて、けれど、どうしたらいいのかも解らない。


「……っ」


 千成はただ、無意識に拳を握りしめた。

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