第38話 お風呂
夕食を終えると、衿華は着替えを持って戻ってきた。
「衿華が先に風呂入ってよ。オレは問題を未だ解いてるから……」
千成はそう言って、赤チート数学IIBに視線を戻す。
「じゃあ、お言葉に甘えて。先にお風呂に入ってくるね」
衿華はにっこりと笑いながら、千成に言った。
彼は少し顔を赤らめ、ぎこちなく頷く。
「うん、わかった」
衿華がバスルームに向かうと、千成は勉強を再開しようとした。
しかし、薄い壁を隔てているだけだと分かると、どうしても気が散ってしまう。
衿華が風呂に入っているという事実だけで、集中できなくなっていた。
───衿華、今は裸なんだよな……
壁越しに聞こえる水音。
彼女の存在が、心の中でぐるぐると渦巻く。
自分が勉強に集中しなければならないと解っていても、その思考が止まることはない。
───やっべぇ、集中出来ない……
計算式を少し進めて止まり、また十数秒ノートに書くもペンを置いて考え込んでしまう。
無意識に溜息をつきながら、何度も何度もノートに目を落としたが、頭の中はどうしても別のことを考えてしまっていた。
暫くして、浴室のドアが静かに開く音がする。
「……お借りしました」
衿華の声がして、千成が振り向く。
彼女はパジャマ姿になっていた。
七分丈のパンツスタイルで、肌の露出は殆どない。
それでも、いつもの制服やおしゃれなコーデの彼女とは違う、少し力の抜けた雰囲気が妙に新鮮だった。
更に、千成の意識を強く引いたのは、彼女の髪だった。まだ少し湿っていて、浴室の蒸気を纏ったように艶やかに光っている。
ふわりと漂ったシャンプーの匂いは、彼が使っているものと全く同じだった。
───そりゃそうだよな、オレの家の風呂を使ったんだから。
そう頭では理解しながらも、衿華が自分と同じシャンプーの香りを纏っていることが、妙に落ち着かない。
「ごめんね!急いでたから色々忘れちゃって!シャンプーは千成のを使っちゃった」
そんな様子を察してか、衿華はそう言ってきた。
「いや……いいんだ。無印名品の男女兼用なシャンプーだから、衿華の髪に合ってたかは解らないけど……」
「ううん。私、特にシャンプーは意識してないんだ。
それよりも……千成の使ってるシャンプーの匂い、前々から気になってたから……同じの買おうかなって思っちゃってたりした」
「え……そうなの?」
変なことを言い出す衿華に、千成はそれ以外の言葉が出なかった。
「うん。無印名品だったんだ! ちょうど船橋駅前のショッピングセンターにあるもんね?」
千成は何とも言えない気持ちで、手元のペンをくるくると回した。
───オレのシャンプーの匂い、そんなに気になってたのか?
普段使いのシャンプーは別に特別なものではない。どこにでもある、極めてシンプルなものである。
けれど、衿華がそれを「同じの買おうかな」と言い出した事実に、妙にこそばゆくなる。
「じゃあ、決まりね! 今度買いに行こ!」
衿華は満足そうに微笑むと、ふと何かを思い出したようにパチンと指を鳴らした。
「あ、そうだ。洗濯機、千成のと一緒に私のも洗っていい?」
千成が風呂に入ろうと立ち上がった瞬間、衿華が何気なく言う。
彼の足はピタッと止まる。
「……は?」
衿華はそんな彼の反応に気付かないのか、無邪気に続けた。
「だって、別々に洗うの勿体なくない? 一緒に回した方が水道代も浮くし、時間も節約できるでしょ?」
確かに、合理的な考えではある。
だが、千成には受け入れることが難しかった。
─── いやいやいや、待て……! 衿華の服とオレの服が同じ洗濯機の中に……?
想像した途端、動揺が彼の身体を駆け巡る。
「……いや、別にいいよ、分けて洗おう」
「え? でも、水道代勿体ないよ」
「いや、その……ほら、分けたほうが衛生的だろ?それにお互いさ、見せたくないものとかもあるし……」
彼は言葉を濁した。
直接的に「下着」というワードを避けたのだが、衿華は「あー……」と何かを察したように小さく頷いた。
「なるほど……千成も見せたくないものがあるんだ?」
「いや、そうじゃねぇ! ……てか! 衿華も見せたくないものがあるんじゃねえか!」
何故か千成が恥ずかしがっている方に話が進みかけて、慌てて否定する。
が、衿華は意に介さず、じっと千成を見つめた。
目が合い、千成は微妙に視線を逸らす。
普段、彼女がどんな服を着ているかは知っている。でも、それを実際に洗濯機に入れて回すとなると、なんというか生々しい。
百歩譲って、体の一番外を覆うものなら一緒に洗ってもいいかもしれない。けれども蒸している梅雨のシーズンである。
彼女の汗が染み込んだ衣類や下着───そういうものもあるのだ。
その旨を上手く濁しながら説明し、なんとか抵抗を試みる千成だったが、衿華はふと彼の目を見て、何故か静かに微笑んだ。
「……別に、千成には安心できるし。そういうのも……見られてもいいから」
やや赤みを帯びた頬。揺れる瞳。
彼女のその一言が、千成の頭に、今までにないほど強烈に響いていた。
「……」
思わず息が詰まる。
───何を言ってるんだ、こいつは。
衿華にとってはただの素直な気持ちなのかもしれない。でも、千成にとっては衝撃が強すぎた。
───見られてもいい、って……それ、オレのことを気に入ってるとしてもぶっ飛びすぎだろ……
そう考え、彼は必死に考えた。
そして。
「……解った。降参だ。だけど、洗濯機を貸してやる代わりに脱水が終わったら衿華が回収してくれ。じゃ、オレは風呂に入るからな」
彼は衿華に背を向けながら言うと、自らの履いていた下着だけ空いたビニール袋の中に入れた。
残りを───衿華に見られていいものだけを洗濯機の中に投入させて、ふぅと一息つく。
───これで、衿華がオレの下着を見ることは無いな。
満足したように一人で頷くと、彼は浴室に入った。
浴室の扉を開けると、ふわりと湯気が残っていて、微かにシャンプーの香りが漂ってくる。
───さっきの衿華の匂いだ。あいつ、さっきまでここにいたんだよな。
そう考えた瞬間、なぜか妙に落ち着かなくなる。
湯船にはまだ温もりが残っている気がして、なんとなく意識してしまう。
───何考えてんだ、オレ。
頭を振って、身体をいつも以上に念入りに洗っていく。
だが、シャワーを浴びながらも、自分のシャンプーを使っていた衿華の姿が脳裏をよぎる。
変に落ち着かなくなって、千成はいつの間にか水量最大で泡を流し落としていた。
皮膚は、少しだけ赤くなってヒリヒリしている。
全然、いつも通りじゃなかった。
やけに心がざわつく。
さっさと風呂を済ませようと、千成はいつもより早めにシャワーを切った。
湯船に浸かると、全身の力がふっと抜ける。
長く深い溜息が、自然と漏れてしまった。
───いつも通り。いつも通りだ。
そう思おうとしたが、駄目だった。
さっきまで、ここには衿華がいた。
その事実が、千成の頭をじわじわと支配していることに変わりはない。
彼は湯の表面を揺らしながら、ぼんやりと浴槽の縁に腕を預ける。
普段は特に何も考えずに入っている風呂なのにも関わらず、心臓が激しく鼓動して落ち着かない。
───衿華がここに座ってた?それとも、こうやって縁に腕をかけて……?
気づけば余計な想像ばかりしてしまい、慌てて頭を振った。
「考えるな……オレ」
久々に独り言を呟いて、目を閉じる。
気が付けば、ずっと衿華と一緒にいた。
けれど、ふと鼻を擽ったのは、自分のシャンプーの匂い───いや、今は衿華と同じ香りだ。
それを意識した瞬間、千成はもう一度深く息を吐き、今度は湯の中へと沈んでいった。
ブクブクと泡を立てながら。