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第37話 軌跡

 食べ終わった後、千成と衿華はテーブルを片付けて勉強を始めることになった。

 勿論、今まで通り隣り合って。


「じゃあ、約束通り始めようか。今日は『軌跡』の部分だよな?」


 千成は軽くノートを広げながら言う。衿華は教科書を見つめつつ、少し困った表情を浮かべた。


「うん、でもこの難問レベルの問題がどうしても理解出来なくて……基本の部分は大丈夫なんだけど、どうしても最後のこの部分で躓いちゃう」


 衿華は、問題集を開いて指を差しながら言った。それは北海道のトップ大学、文系学部の過去問だった。それを見て、千成は2分ほど考える。


「なるほどな。これは基本的な公式や考え方をちゃんと使えてても、答えを導出するために条件をどう活かすかがポイントだと思う」


 千成は真剣な表情で、ノートに式をいくつか書きながら説明を始めた。


「こうやって条件を整理していくと、この問題の解き方が見えてくるんだ。ここから導き出す軌跡をしっかりと可視化するのが大事だから、焦らずに一つずつ追っていこう」


 衿華は千成の説明を一生懸命に聞きながら、ノートにメモを取る。時折、彼女の表情が少し曇るが、千成が丁寧に説明するたびに、次第にその顔が明るくなっていく。


「じゃあ、ここでこうすればいいの?」


 衿華は少し顔を寄せて、千成のノートをじっと見つめる。

 肩と肩が軽く触れると、千成は一瞬だけ身体が強ばった。


「そう。で、そう持っていくと円の方程式の形になるだろ? 答えは求まったな」


 千成がそう言うと、衿華は満足そうに頷いた。


「じゃ、問2だね。問1に条件が追加されてるパターンだ」


「行けそうか?」


「説明が欲しいかも」


「……任せろ」


 千成は説明しながら、手の平を少し広げて教えた。

 その手が衿華のノートに近づくと、衿華が自然と手を伸ばし、千成の手の甲に触れる。

 思わず二人の指が僅かに重なり、千成はその温かさを感じてドキッとした。


「あ、あれ?ここで間違ってる?」


 衿華が指を指しながら顔を近付けてきたとき、千成は視線を逸らしてしまった。

 彼女の顔がすぐ近くで、ちょっとした距離感に心臓が早くなっていくのを感じる。


「いや、違う。ここの部分はこうして計算すれば楽にいくはず」


 千成が答えると、衿華はさらに寄ってきてノートを確りと見ようとした。

 その瞬間、肩がまた少し触れ合い、千成は一気に顔が熱くなった。

 衿華が困った顔をしているのに、思わず変な方向へと意識が集中してしまう。


「千成、なんか緊張してる?」


 衿華がふと気付いて問いかけた。

 その表情に、千成は動揺を隠しきれず、少し顔を赤らめて答える。


「えっ? あ、いや……そんなことないだろ」


 彼の挙動不審さに気づき、衿華は少しだけニヤリと笑ってから、また真剣にノートに目を戻す。


「でも、ちょっと顔が赤いよ? 何か変なこと言った?」


「な、何でもねぇよ!」


 千成は焦ったように言いながら、改めて解説に集中しようとする。

 けれども、やはり隣り合っていることで心の中が落ち着かない。

 衿華の存在があまりにも近く、彼の意識をどうしても引き寄せてしまうのだ。









 ………………

 …………

 ……










 今日の晩御飯、明日の朝食と弁当のための買い出しを終えた二人がマンションに向かって歩いていた。

 雨が止んだばかりの空に向けて、衿華が指を差す。


「わぁ、見て! 虹だ!」


 声を上げ、思わず立ち止まる。千成もその美しい光景に目を奪われ、無意識に歩を止めた。


「こんな綺麗な虹、久しぶりに見た」


 千成は暫くその虹に見入ってから、隣の衿華をちらっと見る。衿華も嬉しそうに虹を見つめ、顔が綻んでいた。


「本当にキレイだね……! なんだか幸せな気分になる」


「何かいいことがありそうだな」


 二人は微笑みながらその光景を楽しんでいたが、ふと、衿華が言った。


「虹も……軌跡だね」


「そうだけど、さっきまでの幻想的な雰囲気が崩れるだろ」


「解ってるよ。冗談だってば」


 時刻は17時半だった。

 ちょうどマンションに近付いていたのだが、衿華のところの入口の前に誰か───男が立っている。


「三谷さん!!」


 男は衿華の名前を呼びながら駆け寄ってきた。

 千成は目を見開き、男を見る。服装や雰囲気がどこか不審で、警戒心が一気に高まっていた。


 衿華のすぐ隣に立っていた千成。

 彼は反射的に衿華を少し引き寄せ、一歩前に踏み出して守るように立つ。

 身体が自然と強ばって、目の前の男を警戒した視線で睨んだ。


 けれども。


「千成! この人は大丈夫だから!」


 衿華は直ぐに男に向かって軽く頭を下げる。


「管理人さん、どうしたんですか……?」


「ちょっとしたトラブルが……あってですね」


「トラブル……?」


 衿華は首を傾げた。


「三谷さん、水道の件なんですけど、さっきの雨で水道管に影響があって、急遽調整することになったんです。今、修理の業者を呼んでいるんですが……他にも例があったみたいで水は使えない状態なんですよ。ご不便お掛けしますが、暫くの間はご容赦ください」


 衿華は少し驚いた様子で頷きながら、男の説明を聞いていた。


「雨のせいで……ああ、なるほど。それで水が止まっているんですね」


「はい、そうなんです。だから、もし何か困ったことがあれば、言っていただければと思います。すぐに対応できるようにしておきますので」


 千成はそのやり取りを静かに聞きながら、肩の力を抜く。


「千成……どうしよう」


 千成の方のマンションのロビーに入ると、衿華は口を開いた。

 彼女は困ったように千成を見上げる。


「水道が暫く使えないから……今日はお風呂に入れないんだけど……」


 衿華は俯きながら、少し間を置いてから言った。


「それで……もし、よければ……千成の家のお風呂……使わせてもらえないかな?」


 彼女のお願いに、千成はその姿に思わず動揺してしまう。

 自分の家に、衿華が入る───そのことが急に重く感じられ、顔が少し熱くなるのを感じた。


「え、えっと……」


 千成は一瞬言葉が出てこない。衿華の顔を見ると、恥ずかしそうに伏せた目と赤らんだ頬に、どうしても意識が引き寄せられてしまう。


 ───衿華がオレの家で風呂……?


 頭の中でそのシーンを想像し、胸の奥で何かがざわつく。

 男として、その状況に興奮と戸惑いを持ってしまう自分がいる。


「だ、大丈夫……だ」


 漸く言葉が口から出たものの、声が少し震えていた。自分でもこんなに反応していることに驚きながら、千成は手で頭を弄りながら言葉を続ける。


「別にオレも全然構わないけど、なんか……その、ちょっと恥ずかしいよな」


 千成は顔を逸らしながら言うと、衿華が困ったように小さく笑う。


「そうだよね……やっぱり、こういうの、変だよね」


 衿華は顔を赤くしながら、少し恥ずかしそうに笑った。

 それを見た千成も、苦笑してしまう。


 けれども、衿華は口を開いた。


「変かもしれないけど……私、千成のことは信頼してるから」


 衿華は照れ隠しのように言いながらも、どこか安心したような表情になっていた。

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