第36話 雨の休日
ファミレスでの話し合いを終えた千成と衿華は、自然と同じ方向へ並んで歩いていた。
さっきまでの議論が頭の中を巡る。バンドの方向性、伝えたいこと、プロデュース……
考えたらキリがない。
そんな中、不意に千成のスマホが震えた。
「……ちょっと、ごめん」
千成はポケットからスマホを取り出す。
2人きりの時にスマホを弄るのは気が引けたが、友達の少ない千成に来る通知の殆どはバンドの関連である。無視して後回しにするわけにもいかない。
「大事な連絡?」
「たぶん、バンド関係……じゃない。正悠から感想が来てる…………あれ?」
そう言った瞬間───彼の足が止まった。
「JAPAN ROCK FESTIVAL オープニングアクト 高校生の部 一次選考突破」
正悠からの感想ラインの下にあった、3時間前のメール通知。
思わず、彼は目を疑った。
「……マジか」
思わず声が漏れる。何度も画面を見直すが、そこには確かに「一次選考突破」の文字があった。
「どうしたの?」
隣で歩いていた衿華が、気になったように千成を覗き込む。
千成は、興奮して頬を上気させながら、画面を彼女に見せた。
「オレたち……受かった。JAPAN ROCK FESTIVAL、一次選考……通った」
その瞬間だった。
「───っ!!!」
衿華は勢いよく千成の手を掴んでいた。
「やった!! 凄い!!」
満面の笑みで、その場でぴょんと跳ねる。
「すごいすごい! 千成、本当に良かったね!」
唐突なスキンシップに、千成の思考が一瞬でフリーズする。
「ちょ、ちょっと待て、衿華……!」
「だって凄いじゃん! これ、大きな一歩だよ!」
無邪気に喜ぶ彼女の姿に、千成はますます動揺した。
街の灯りが彼女の顔を優しく照らし、頬が彼と同じく、僅かに紅潮しているのが判った。
そして、まだ離されない手の感触。
彼は喉が渇いたような気がしてならなかった。
「……う、うん」
掠れた声しか出ない。
「凄い、凄いよ……!」
衿華は興奮気味に千成の手を握り直し、もう一度飛び跳ねる。
それがもう、ダイレクトに千成の心臓に来た。
「……取り敢えずさ……手……離してくんね?」
「あっ……!」
衿華は漸く自分が彼の手を掴みっぱなしだったことに気づき、バッと手を離す。
「ご、ごめん……!」
触ったら火傷しそうなほどに顔を赤くしながら、視線を逸らす衿華。
千成もまた、心臓がうるさいほどドキドキしているのを必死に隠しながら、ポケットに手を突っ込んだ。
「……ま、まぁ、まだ一次選考だし」
とりあえず冷静さを取り戻そうと呟く。
「それでも、大きな前進だよ!」
けれど、衿華が満面の笑みでそう言った瞬間、千成はまた心臓が跳ねるのを感じた。
───心臓に悪い。意識してしまう……
千成は一人、どうしようもなく照れくさい気持ちを噛み締めるのだった。
………………
…………
……
昨日のライブで疲れていたから朝はゆっくりしたいということで、千成と衿華は10時30分に目を覚ました。
梅雨のしっとりとした空気が漂う月曜日。
文化祭の振替休日で、ゆっくりと時間が流れていく。
「おはよう、千成」
玄関で衿華が明るい声で挨拶し、キッチンに向かうとすぐに料理の準備を始める。
千成は少し眠そうに目を擦りながらも挨拶を返した。
「おはよう。今日はオレも何か手伝うから」
申し出ると、衿華は笑って振り返る。
「ありがとう。細かいことお願いするからよろしく!」
「何でも言ってくれ」
衿華はキッチンに立つと、直ぐにブランチの準備を始めた。
パンケーキにベリーのジャムを添え、サラダにオムレツを作る。香ばしい匂いがキッチンを満たし、千成はただ細かい仕事を頼まれるばかり。
食材を並べるのも、洗い物も、彼の仕事だ。
千成はふと彼女の服に目が行った。
膝丈のスカートがいつもより少しだけ短めで、軽やかな印象を与えている。
柔らかなブルーのシャツが、その白い肌を引き立てて、千成は見ているだけでも少しだけ恥ずかしくなり視線を逸らした。
「な、なんか……その服、先月一緒に買い物行った時のだよな?」
千成が少し顔を赤らめながら言うと、衿華は微笑む。
「そうそう! あの時に買ったやつだよ! 千成に見て欲しくて、思い切って着てみたんだ! 未だ一番短いのは恥ずかしいけど……」
衿華がちょっとだけ甘えたように言うと、千成は顔を赤らめながらも、その目を何度か泳がせる。
胸の奥が熱くなるような気持ちを押さえつつ、何とか冷静を保とうとする。
「そ、そうなんだ……」
「うん、だから千成がどう思うか、ちょっと気になってたんだ」
衿華は少しだけ意地悪に、でも確信に満ちた表情で千成を見つめる。その目にはどこか悪戯っぽさがあって、千成は一瞬だけ言葉を失った。
「ど、どう思うって……その……」
「千成……今まで一度も言ったことないあの一言が欲しいな」
衿華が求めている一言とは、「似合ってる」という言葉だ。
けれども彼は今まで一度も衿華に対して言えていない。
真っ直ぐに見つめられ、困ったように彼は肩を竦める。
そんな様子に衿華は頬を膨らませ───顔を彼にぐいと近付けた。
「!?」
千成は驚き、思わず後ろに一歩下がる。衿華の顔が一気に近付いてきて、急に心臓がドキドキし出した。
「な、何だよ…急に…!」
「だって、千成が恥ずかしそうにしてるから……言ってくれたら、嬉しいんだもん」
やけに甘い声が、千成の胸に直撃する。
彼はどうしていいか解らず視線を彷徨わせた。
肩が少し震えて、普段の冷静な自分ではいられない気がしてならなかった。
───無理だ……逆らえない……
みるみるうちに、頬が火照ってくる。
そして彼は───遂に観念したのか、とても弱々しく、蚊の鳴くような声でボソリと呟いた。
「……似合ってる」
衿華は暫く千成を見つめ、その顔に浮かぶ羞恥を楽しんでいた。少しだけ嬉しそうに、でもわざとらしく頷いてから、にっこりと笑う。
「本当に?」
「ああ、似合ってるよ……本当に」
その言葉を口にすると、衿華は満足そうに頷いて千成の顔から少し離れた。けれど、その笑顔が消えることはない。
「よかった……千成に褒められちゃったよ……なんだかすごく嬉しい」
衿華はほんの少し顔を赤らめ、言葉の通り嬉しそうに笑う。
千成はその笑顔に、また胸がきゅっと締めつけられる感覚を覚えた。
「あ、あのさ、実はさっきからちょっと気になってたんだけど…」
千成が口を開くと、衿華は少し驚いたように振り返る。
「え?何?」
「スカートさ……」
千成は恥ずかしそうに言葉を続けた。少しだけ目を泳がせながら、視線を下に向ける。
「いつもの私服よりちょっとだけ、膝上ぐらいでさ……オレ、見ててなんか恥ずかしくて……」
衿華はその言葉に少し驚いた表情を浮かべるが、すぐにニヤリと笑う。
「そうなんだ~? 千成、そんなに気になるんだ?」
「ち、違う!ただ、なんか……ちょっと視線が気になって……」
千成は手を振りながら必死に言い訳をするが、衿華はその反応を見てまた少し意地悪そうに微笑んだ。
「制服はもっと丈が短いよ? なのに恥ずかしいんだ?」
「うっせぇ!何でもねぇよ!」
千成は顔を赤くし、照れ隠しに手を振る。けれど、衿華は楽しそうに笑う。
「ふふ、でも千成がそんなに気にしてくれるって、ちょっと嬉しいかも」
「そ、そうかよ……」
千成はまだ心臓がバクバクしているのを感じながら、なんとか答えた。
衿華がキッチンに戻り、料理を仕上げる姿を見守る。普段は気にしないような些細なことが、今は全部特別に感じていた。
静かな時間が流れる中、雨の音だけが心地よく響くのだった。