あなたは、なぜ
1.
治州、朴州は動かず。
士気は完全に地に落ちていた。北側の防衛戦も崩れかけている。賈州、琢州など、国境の異民族も侵入してきており、戦線だけでなく、領地の維持すら困窮してきた。
楊喜は死んだ。治州の裏切りが堪えたのだろう。敵陣に吶喊して散った。
もはや、これまで。張駿は腹を括った。
「投降しよう」
皆の前で、それだけ告げた。
「逃がせるだけの人数を逃がす。もとより俺がはじめた話だ。殿は俺が務める」
しばらく誰も、何も言わなかった。それでも誰も彼もが震えていた。
「同じく、ここで死ぬ」
孔飛だった。震えて泣きながら、声を張った。
「箔塔郡に来てから、俺は皆の足を引っ張ることしかできていない。だからせめて、楊喜殿のように死なせてくれ」
「孔飛殿」
張駿はつとめて落ち着いて、その両手を取った。
「ありがとう」
ふたり、わなわなと震えながら。
「だが、死んではいけない。俺ももとより、死ぬつもりはない。皆を生きて降らせるために、精一杯、生きる。だから孔飛殿にも生きて欲しい」
「張駿殿。それは、どういう意味か?」
「皆を頼む。そうして董楽殿とふたり、民を安んじさせてくれ」
そこまで言って、孔飛は顔を覆ってかがみ込んでしまった。
「皆、ほんとうにありがとう」
涙をこらえながら、ひとりひとりと抱き交わした。ひとり残らず、声を上げながら泣いていた。
「俺は、いやですよ」
ひとりだけ、違った。邱虎だった。不敵に笑っている。
「十五万を相手に、舞をひとさし、ご覧に入れましょうぞ」
「流石は、それでこそ邱虎よ。この天下旅、俺とお前、ふたりからはじまったものな」
「裸一貫で臨んだ天下、最後まで味わい尽くしてこそにござる」
そうやってふたり、力強く拝礼した。
四千、残した。それももうすぐ、五百になる。
「俺の旗は、紅くない」
心の底から吠え上げた。おお、と声が続いた。
張の青旗。空に翻った。皆、がむしゃらに声を張り上げていた。
「いやあ。改めて見ると、やはりすごいな」
「これが十五万。ほんとうに、人の山です」
「大将軍閣下は」
指さした。ひとつの櫓。
「あそこだな」
「砲に銃に柵もある。回り込むのも大変でしょう」
「真っ直ぐ行くぞ。どうか正面まで届けてくれよ」
「お安い御用」
邱虎が笑った。よく見る顔だった。
「砲兵、銃兵。あの櫓だ。よく狙えよ」
馬の腹を蹴った。五百が続く。
飛んでくるもの、向かってくるものの量はすごかった。ただそれよりも、晴れやかな気持ちでいることに、張駿は驚いていた。
槍を掲げる。それで敵からも味方からも喚声が上がった。
槍と馬。それだけでここまで来た。それだけで人を借り、三州を借り、天下を目指せた。
それだけで、ひとつの国とやり合うことができた。
櫓まで三里。そこで、前をゆく邱虎の体が、ぐらついた。
「邱虎」
「まだまだっ」
声には、覇気が漲っていた。
邱虎の馬が、足を折った。だが邱虎は放り出されることなく、むしろ自分から飛び上がって大地に降り立った。
そうして襲いかかる雑兵相手に、槍をぶん回して立ち向かっていった。
「舞を、ひとさし」
血と傷に塗れながら。
ひとしきりをなぎ倒したあと、邱虎はその場に崩折れた。倒れることなく、座したまま動かなくなった。
「美事、美事ぞ」
叫んで、流して、それでも振り返りはしなかった。
体はもはや、炎のようになっていた。何がぶつかろうと、何をもらおうと止まることはなかった。
それでも五百は三百になり、二百になり、五十になっていった。
馬の額に、矢が突き立った。振り落とされるか。いや、足が遅くなっただけだ。死力を振り絞って、倒れまいとしている。
張駿は自ら馬を降りた。そうして、馬の首を抱いた。戦陣の真ん中だったが、どうしてか静かだった。
「ここまで、ありがとうな」
それで、馬の体からも力が抜けていった。
櫓まで、一里。ここまで来た。俺の、俺たちの天下旅。
一歩を踏み出すところで、膝に力が入らないことに気付いた。肩にも腹にも銃弾を貰い、具足は矢で針鼠になっていた。
具足をほどく。血と土埃でぼろぼろになっている。
胸甲。華淳につけられた傷。生かされた恥辱を忘れまいと思ってそのままにしていたが、かの華将軍と戦えたと思い直してからは、むしろ誇らしいものになった。
青い袍も、自分の血と汗で真っ黒になっていた。この青が今まで、自分自身だった。それも、脱ぎ捨てた。
襦袢、一枚。それと槍。それだけでいい。
「癸州牧、張伯雲」
咆哮。それだけで、その一里の間にいた兵は道を開けた。
きっと、足を引きずりながら、槍をつきながら歩いていた。息が荒い。視界もぼやけている。
そしてそのうち、歩けなくなった。
ああ、なんとだらしのない。ここまで来たのに。ここまで昇ってきたのに。俺としたことが。
「大将軍、徐勇閣下にお頼み申す」
槍を捨て、その場に座り込んだ。
「天下万民、この首で安んじていただきたく候」
声は、魂から出したようなものだった。
少しもしないうちに、何人か近づいてきた。中心にいるのは徐勇と李桂だろうか。
「後世には、貴公のことを、愚者とも、梟雄とも残さぬ」
老いた声。正面で、同じように座してくれた。
「ただ青張とのみ、残そうぞ」
手を取られた。
見やった。徐勇の頬は、濡れていた。
「ありがたき、幸せ」
きっと、笑えていた。
「つろうござる。そろそろ」
「うむ」
徐勇の体が離れた。誰かが後ろに立つ。
俯く前に、少しだけ空を眺めた。
「ああ」
晴れていた。俺の旗の色。
これが天下。俺の天下だ。
2.
伏龍塞に戻る道中、駆けてきたのは、成秋と小楓のふたりだった。どちらも大汗をかいて、顔を青くしていた。
ひとまずその場で天幕を張り、ふたりとも休ませることにした。特に小楓が成秋との子を授かったというのは、英から聞いていたことでもある。
「まったく信じがたい話ではある」
ひとしきりを聞き終えて、やはり華淳は額をおさえることしかできなかった。
紅月寺本営、謀反。
およそ三千程度の兵数で、近隣の城郭を荒らし回っているという。小楓と成秋も奮戦したが、どうにもならず、ということだった。
そして、その謀反の首魁である。
「話に聞いた、七人目さまとやらか」
端女たちに、成秋の傷の手当をさせながら、華淳は話を聞いていた。ここまでよくもった、というほどに、無数の傷を負っていた。
「はい。小楓の中にいた、俺と小楓の子を依代として、お見えになられました」
「理解が追いつかんな。しかし、信じるしかあるまい」
「とにかく人の多いところを狙います。兵も民も関係なく、ひとり残らずです」
「となれば、都が危ないか」
指を鳴らす。それでひとり、端女が天幕を出ていった。
「まずは、ふたりとも休めよ。俺がなんとかしてみよう」
「かたじけのうございます、華将軍」
そう言うと、成秋は静かに瞼を閉じた。
天幕の外に出た。英と呼盛が待っていた。
「小楓殿の様子は?」
「心身とも憔悴しきっています。このまま息を引き取るのではないかと思うぐらいに」
「如何する?華淳殿」
「まずは敵の位置の把握。それから迎撃できる場所を決めよう。喬丞相には、ひとり走らせた」
「禁軍と伏龍塞の二万。兵力で言えば圧倒的に有利だが」
「ひとごろしの軍勢だ。災害のようなものだと捉えたほうがいいだろう」
「ふむ。大砲を多めに持ってきて正解だったな。今はこのまま、ここで待機だ」
呼盛が腕を組んだ。
斥候は四日ほどで戻ってきた。確かに紅月の旗を掲げた軍勢が、暴虐に走っているそうだ。数は五千ほどに膨れているという。
そしてそれは確実に、都の方に向かっているとも。
「援軍要請。禁軍の主戦力は青張討伐で出払っているが、佳境だろう。紅月寺とあわせて三万程度は寄越せるはずだ。都はとにかく防備を固めるようにとだけ」
「俺たちは、ここからなら雁眉郡か?」
「それがいいだろう。眉城なら設備も整っている。野戦でも籠城でもやれる」
「わかった。禁軍だけでも先に入れる。貴公らは、ご頭首殿たちの調子を見ながら来てくれ」
「相分かった。すまぬが、頼む。呼盛殿」
「ようやくの出番だ。働いてみせるよ」
そうやってふたり、拝礼した。
それでも急がなければならない。馬車で小楓と成秋を寝かせながら、華淳は東へと向かうことにした。
眉城。兵站線さえ構築できれば、三年は戦えるだろう。それほどに堅牢な城郭である。
向かう途中で、五百ほどと合流した。伏龍塞にいた文朗である。逃げてきた兵たちから話を聞いて飛んできたらしい。
「小楓は、どうなんだ?」
「ようやくめしが食えるようになった程度だ。可哀想に、髪も真っ白になるぐらいに疲れ果てているよ」
華淳はそう言って、重くなった瞼を閉じた。
小楓。ほんとうに、変わってしまった。痩せこけ、髪は白くなり、そして、ものを話せなくなった。そうして起きている間は、ずっと泣いているのだ。
紅月寺が壊れてしまった。そして、自身の腹の中にいた子どもも。それが精神を蝕んでしまったか。
成秋もまた、まったく油断ならない状況だった。小楓を懸命に守ったのだろう。臓腑にまで届く傷がいくつかあった。なんとか塞いだが、血を失いすぎていた。今でも意識が薄い。ほんとうに、気力だけでたどり着いてくれたようなものだった。
陳籍がいればいくらかましだったのだろう。それも、蘭が復讐に走った際に殺されていた。
はたして眉城にたどり着く頃には、城郭の防備は完成していた。都にも援軍を要請したらしく、五日待てば五万にはなるだろうと呼盛は鼻を鳴らしていた。
「紅月の旗、来ました」
臨戦態勢の中、斥候が飛び込んできた。青い顔をしている。
「首魁は、小楓殿と瓜ふたつの女。あいつら、ほんとうに、ただ人を殺し続けています」
「おう、それが七人目さまとかいうやつだな?」
「それと、旗には文字が」
そこまで言って、斥候はがたがたと震えだした。
「人即龍也」
その言葉に、誰もが沈黙した。
「龍とはすなわち、川均しの繆沢伝説にある、暴虐の龍のことか?」
「わからん。しかし、人に対する憎悪と敵意はこれでわかった。退かぬ軍勢だということも」
「ただ殺し合うだけの戦になるか」
「最後にする戦がこれか。これが、紅月寺と瑞の国のための」
歯が軋む音だけ、聞こえた。自分のそれの。
「砲兵、銃兵を中央にして雁行。西の丘に二千隠すぞ」
伏兵は文朗に、後詰は呼盛に任せた。
「英たちは、小楓殿と民たちを逃がせ」
「そんな。旦那さま、私たちも」
「なにより小楓殿と成秋殿だ。それはお前たちにしかできないことなのだ」
そうして、英の体を抱きしめた。その震えが収まるまで、華淳はそうしていた。
「今生の別れではない。きっと、そして、ずっと」
「かしこまりました、旦那さま。それでは」
「ああ、頼む」
そうして、唇を重ねた。
陣営に移った。眼前、五千が見えた。
ぼろぼろの紅い旗。そして、刻まれた文字。
人即龍也。
「謀反人討伐だ。気負う必要はない。派手にやれ」
そうやって、砲兵に合図ひとつ、くれるところだった。
人の気配。後ろだった。振り向く。
小さな影だった。とぼとぼと頼りなく、こちらに近づいてきた。
白い髪の女。俯いていた。
「小楓殿」
思わず、声に出ていた。
「何をしている。英たちとともに逃げろ」
「おれは、のこる」
小楓ではない、誰かの声。たどたどしい、子どものような口調で。
「たたかうを、する。ごめんなさいを、するために」
俯いた顔を上げた。それで、はっとした。
「貴公、誰だ?」
問うていた。しかし、答えはなかった。
それは確かに小楓の顔と姿だった。しかし白だと思っていた髪は金に近く、またその瞳も、見たことのない色だった。
まるで、虹。心奪われるほどに、美しい色だった。
3.
眼前におよそ二万。もはや数など、どうでもよかった。
ここまで、城郭という城郭を焼き滅ぼしてきた。連れてきた兵どもはただ衝動に駆られ、襲い、殺し、悪逆非道の限りを尽くした。
あるいは女ども。裸に剥いて兵どもの前に放ってやった。悲鳴を上げ続け、そのうちに狂を発し、そして骸同然に成り果ててから殺されるさまは、見ていて痛快だった。
朱い瞳の人ならざるもの。私と目を合わせるだけで、大抵のものはそうなった。
「七人目さまにお尋ねいたす」
付いてきた将のひとり。南垓とか言ったか。
「これ以上は兵站が持ちません。通った城郭のものは、すべて焼いて捨てましたがゆえに」
「ふうん」
「このままでは兵が飢えます。飢えればたとえ我らとて本領を発揮できず。どうか、ご勘案のほどを」
南垓が不安そうな顔で拝礼してきた。私の隣りにいた楊漢は、不思議そうな顔をしていた。
「飢えるのは困るな。将とあっては、そういうことも考えねばなるまいか」
「左様でございます、楊漢殿。これから、かの華淳とぶつかるにあたり、ひとまずの休養と補給を」
「人を食えばいい」
私の答えに、南垓は聞き返すこともなく、唖然としていた。
「人には肉があり、血もある。腹を満たし、喉を潤すこともできよう」
続けた言葉に、南垓は口元をおさえ、楊漢は喜色をたたえた。
「なんと素晴らしい。ああ、七人目さま。ああ、炎よ。そうだ、我らは我らのために食みあえばいいのだ。そう、このように」
そうして楊漢は、自身の首に剣を突き立てた。そうして馬から転げ落ちた楊漢の骸に、いくつもの兵馬が群がった。
「もはや、ついていけぬ」
南垓。剣を抜いた。
「従わぬかね?南垓」
「俺があんたに従ったのは、ただ紅月寺のやり方に不満があったからだ。これではただのけだもの、いや、それ以下だ」
「それで構わぬだろう。人、すなわち龍なりせば」
「龍とてここまでは堕ちんだろうがよ」
迫ってきた。大きな体。ただ、それだけだった。
その腕ごと、私はためらいもなく叩き伏せた。そこにまた、兵たちは狂ったように群がり、奪い合うように歯や爪を立てていた。
これが人の姿だ。人の本質だ。醜く貪り合い、傷つけ合う。それを眺めながら、私は笑っていた。
見渡す限りが炎だった。赤、紅、朱、緋。
美しい。素晴らしい。
人はやはり龍だった。あの朱き瞳の龍と同じく、美しき暴虐なのだ。爆ぜ、火を吹き、血を滴らせるものども。
それを討つべきは、あの方そのものである私でなければならないのだ。
「攻めよ」
告げたのは、それだけだった。
大地が揺らぐ。馬蹄、嘶き。そして放たれ、人の群れを巻き込みながら爆ぜる砲弾。散らばる手や足を咥えながら、兵どもはただ単純に、真っ直ぐに走っていく。
何かが横合いから突っ込んできた。熊のような咆哮を上げ、飛びかかってくる。
見えた。剃髪した、髭面の大男。
「下郎めが」
特に何もする必要はなかった。ただ剣を振るだけで、その男は胴からふたつになった。
「殊勝よな。自ら死にに来たか」
最後に一瞥だけ、くれてやった。
進んでいく。銃弾が肉を裂き、砲弾の熱が肌を焼いてくる。それがいっそ心地よかった。
兵どもはただひた走り、死んでいった。あるいは敵陣に到達し、剣を交えるものもいれば、夢中で骸を貪るだけのものもいた。顔に槍の穂先が突き立っても倒れず、しかし徒手のまま歩き続けるものもいた。
そのすべてが悪夢のように美しく、そして滑稽だった。
「そうだ、死ね。死に尽くすまで、死ぬことを許さぬぞ」
そうやって笑った。そうすれば、倒れた兵どもはまた起き上がる。敵だったものも含めて、そうやって減っては増えてを繰り返した。
骸の軍勢が万を超えたあたりで、五百ほどが突っ込んできた。後ろに華の旗が揺らめいている。
これが、華淳だろう。
槍の穂先が飛んできた。躱す。剣を振り下ろしたが、受け止められた。そうやって四回ほど馳せ違った。
「いかれめがっ」
怒りに染まった声だけ、聞こえた。
振り上げた剣。腕ふたつ、宙を舞った。そうして華淳の体は馬から放り出された。
「無様だな、華淳。そうやって自ら死を選べぬまま、野垂れ死ぬがいい」
笑い声に、華淳はただ叫んでいた。
「進め、進め。そして死ね。殺して死ね。すべてが滅び、すべてを滅ぼすその日まで」
襲いかかるものども、造作もなかった。剣を振るうまでもなく、目を合わせるだけで悲鳴を上げて倒れた。そうしてしばらくして、喜色をたたえて起き上がるのだ。あるいは自ら首に剣をあてがい、あるいはそれをも抵抗して斬り掛かってくるが、瞬きの間に三つ、四つに砕けていた。
そうだ、焼かれよ。我が瞳の色に。己らが成した罪の色に。
布陣していた軍勢が四散するころには、空は赤黒く染まっていた。そこから冷たい雨が静かに降り注いでいた。
城郭の二里ほど前まで進んだところで、何かひとつ、立ち尽くしていた。遠目からでもわかるほどに。
「あれは」
女。剣を抜き、しかし構えもしていない。ぽつねんと寂しそうに俯いていた。
髪の色は、白。いや、違う。
「小楓か?」
答えは、なかった。
俯いた顔が、上がる。
「あなたは」
きっと、唇はそのひとの名を綴ったのだと思う。
馬を降りていた。そうして、震え出す体のまま、それの前まで歩いていった。
小楓ではない。姿はそれだが、髪は白金。
そして、七色の瞳。
「どうして」
はっとした。戦慄すら。
そして、込み上げてきた。怒り。悲しみ。そして、涙。それらはすべて、込み上げてくる側から熱せられ、蒸発していった。
叫んでいた。そして、斬り掛かっていた。
受け止められた。瞳と同じ、七色の刀身。やはり。でも。
「あなたは、なぜ」
口に出ていた。何度も、何度も。そうやってぶっつけ続けていた。剣も、言葉も。
そうやって闇と雨の中、火花だけが爆ぜ、消えていった。涙と、言葉とともに。
お答えください。なぜですか。
あなたは、なぜ、そこにおられるのですか。
あなたは、なぜ、小楓の中におられたのですか。
あなたは、なぜ、私の前に立ちはだかるのですか。
あなたは、なぜ、人をお許しになるのですか。
そして、なぜ。
あなたは、なぜ、泣いておられるのですか。
「どうして」
刹那、胸に感覚があった。ずきりと。
刀身が根本まで突き立っていた。そうしてそのひとは、私を抱きとめ、抱きしめ、そしてやはり泣いていた。
そうしてずっと、伝えてきた。ごめんなさいを。何度も何度も、あなたがそうしてきたように。ずっと、ずっと。ごめんなさい、ごめんなさいと。
それで、わかった。
ずっといたのだ。私の中に。私の記憶の中で、ずっと泣き続けていたのだ。だから今、小楓を通じて生まれ変わり、私の前に現れたのだ。
「それを言うべきは、きっと」
体の力が抜けていく。怒りも、悲しみも。すべて、すべて。
横たえられた。そうして、目を合わせてくれた。ずっと泣きじゃくり、悲しみに歪んだ顔で。その七色の瞳で。
「私の方なのですから」
ありがとう。そして、ごめんなさい。
ああ、やっと言えた。心のなかにわだかまっていたものを。こうやって、伝えることができる。
そのために、きっとお互い、小楓を通じて生まれ変わったのかもしれませんね。
ああ、ごめんなさい。
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4.
その日も、同じようにはじまった。座を組み、心を整え、体を培う。
神さびた寺のなか、そうしていた。
志があった。国を正し、世を平らかにするというもの。そのために心技体を養った。
けれど加わるべき紅月寺は、すでになくなっていた。
およそ五十年ほど前である。紅月寺を騙る賊が国内に跋扈し、暴虐の限りを尽くした。城郭という城郭は荒らされ、田畑は大いに荒れた。
ほんとうの紅月寺もまた、暴虐に走った。頭首であった小楓という女は捕らえられ、帝の前で首を刎ねられたという。
かつての紅月寺に代わるもの。幾人も現れた。しかしいずれも上手くいかなかった。いずれもが欲望にかられ、暴虐に走り、そして首を刎ねられた。
もはや紅き月は、世を正す象徴ではなくなった。
望月山。紅月寺の、はじまりの地。老婆ひとり、暮らしていた。そこに劉均は訪いを入れ、功夫を師事していた。
その功夫は護王拳といって、既に廃れたものである。神代に、川均しの繆沢とかいう覇者がいて、それを弑した六人の王が修めていたものだとかいう伝説がくっついているが、真偽は定かでないし、気にしてはいない。
ただこれが強力なものであり、かつての紅月寺頭首が修め、語り継いできたものだということは知っていた。
どこかしらか、そしてどうしてか、劉均は、ここに住む望月という老いた女がそれを修めていたことを知っていた。だからここに通い詰め、望月を説き伏せ、護王拳の真髄について教えを請うていた。
望月。随分昔からここに住んでいたようだ。夫がいたようだが、何年か前に亡くなったと聞いた。寡黙で、自分のことはあまり語ろうとしなかった。
寺の裏には、小さな墓が三つ、あるだけだった。
二年ほど通ったあたりで、望月は何も教えてはくれなくなった。あとは己の中から見い出せとだけ、言われた。
そうして、ひとつの部屋に通された。煤けた姿見がひとつあるだけの、そっけない広間だった。
「いつの日か、自分以外の姿が見える日が来る。それこそが、護王拳の真髄だよ」
望月はそればかりを言うようになった。
来る日も来る日も、姿見の前に座し続けた。そして姿見に映る自分に語りかけ、あるいは見つめ合い、気を練りあった。それは時たま諦めかけ、姿見から目を逸らそうとすると、鏡の中の自分が叱りつけてくるように感じるほどだった。
この鏡の中に、世を正すための力が、ほんとうにあるのだろうか。
「疑っているうちは、何も映りはしないよ」
やはり望月の言葉は、少なかった。
そうやって姿見に向かい続けて、一年が経った頃だろうか。外が暗がりに飲まれはじめ、姿見が自身の姿を映さなくなるほどのときだったと思う。
ふと姿見から目を逸らしたあたり、何かに気付いた。
「誰か、いるのか?」
劉均の言葉に、しばらく答えはなかった。
見渡す。暗がりの中、やはりひとりだった。
なんだか不安になり、灯りを持ってきて、再度、姿見の前に座した。今、映っているのは、確かに劉均の姿である。
「よう、劉均」
不意に、誰かの声が聞こえた。
はっとして見やる。姿見。いない。いや、姿見がない。見渡す。持ってきた灯りも。
どこにも、何もない。
「おい、劉均。ここだよ」
正面から。
視線を落とした。誰かがいる。
「ようやく、見えたようだね」
年頃の、若い娘。声も、それだった。
「望月さま?」
「まあ、それでいいよ。それで、ようやく見れたようだね」
「これが、鏡の中の姿なのですか?」
「そういうこと」
娘は、楽しそうに笑った。
「ちょっとした問答をしよう。王とは、なんぞや?」
ちらと、娘がこちらを見る。やはり楽しそうに。
「紅き月を望み、天道を征くもの」
それこそが、護王拳が護るべき王の姿。
「ならばそれを守るは護王の士。支えるは救世の志」
娘が構えた。青眼。緩やかに、しかし力強く。
倣うように、劉均もそれに続いた。
「そのためには、削がなければならない。顔も名も、ただ輪郭になるまで」
すう、と息を吐く。そして、瞼を閉じた。
「死してなお死せず、生あれど生きず。ただ王に。王の志に尽くすために」
意識の中で、そうしはじめた。輪郭だけになるために。
鼻と耳を削ぎはじめた。それが終わったら、瞼と唇。そこまでいって、まだ足りないと思い、皮を剥ぎ、肉を削いだ。
胸元から腹の下まで切れ目を入れる。そうして肉と輪郭の間に、ゆっくりと刃を入れていく。はらわたを傷つけないように気をつけながら。そうやって、服のように肉を脱いだ。
いらないものは都度、取り払っていった。髪や男のもの。爪や歯など。
そうして、脳髄と眼球、はらわたぐらいが残った。その状態でも、手足や皮膚があるような感覚はあった。
透き通っている。これが、輪郭だけになるということなのだろうか。
「望月さま?」
ふと、不安になって目を開いた。そうして自分の姿を見た。
手。明らかに白く、細い。女のそれだった。腕の、肉のつき方もそうだった。あるいは乳房もあるし、男のものもついていなかった。
「俺は、女でしたっけか?」
「馬鹿だね。前を見な」
「前?」
正面を向いた。それで、ぎょっとした。
楽しそうに笑っている劉均の姿がそこにあった。
「じゃあん」
「お戯れを、望月さま」
「これが鏡を見るということだ。鏡の中に私を見たならば、鏡の中からお前を見ることもまた、できるということだ」
「仰る意味が、わかりかねます」
「輪郭だけになるということもか?」
そこで、もう一度、自分の姿を見た。確かに劉均の姿だった。
ふと思い立って、気を練り直した。呼吸を内に入れ、溜め込んでいく。
もう一度、自分を見る。体は一回り大きくなり、そして老いていた。
「これがきっと、護王拳の真髄」
「そういうことさ」
「王たるものを護るため、輪郭だけになる。つまりは、誰にでもなれる」
「それでも、自分であることだけは忘れちゃいけないよ」
若い娘の姿の望月は、だん、と拳を突き出した。やはりそれに倣うように、劉均も重心を深く落とした。
「紅き月に見る夢は、甘く、儚く。なればこそ」
震脚。空気が、爆ぜる。
「我らは、征く。天に交わり、地に栄え、人と在るために」
拝礼。お互いに。
「それで?」
にっこりと、望月は笑った。
「これから、どうする?」
「西に行きます。長く、動乱が続いている」
「お前ひとりで、できるのかい?」
「やれるかぎりをやります。生命が続く限り」
「それでこそ、護王拳を継ぐに値する」
その声は、いつもの望月のように、嗄れた老婆のものだった。
「志あるものに、護王拳は継がれるべきだ。強い志を持つものにこそ継がれ、役立ってもらうべき」
姿も次第に、老いた女のそれになった。
それがなんだか、寂しかった。
「小楓というひとは」
不意に、その名を口にしていた。
「何を志していたのでしょうかね?」
「さあてね。あるいは、志なんかなかったんだろうよ」
「志なくして、紅月寺の頭首たりえたと?」
「つまりは、産まれながらの紅月寺だったのかもね」
ぽつりと、悲しそうに。
「そうあることを願われた。だからそう育った。そんなもの、体のどこを探したってありゃあしないのに」
そうして、望月は劉均に背を向けた。
「疲れたろう。行くのなら、ひと眠りしてからにしな」
「ありがとうございます、望月さま」
不思議とそう呼ぶのに、いくらかのためらいを覚えた。
明くる日、朝餉を食べおえたあと、劉均は旅立ちの支度を整えた。身を清め、服を改め、荷物を纏めた。
その間、望月はずっと、鏡の間で姿見を眺めていた。
「長らく、お世話になりました」
「はいよ。達者でね」
「望月さまも、どうかご自愛を」
「もう十分生きたよ。十分すぎるほどにね」
望月はそうやって、はにかんだようだった。
瑞の国。平穏が続いていた。それでもここだけが世界ではない。
だから、世を正す。和を以て世界を為す。そのために、この身を捧げると決めていた。
望月山を下る足取りは軽かった。新緑が美しく、沢は澄み渡っていた。
ずっと見ていたいほどだったが、劉均はそうしなかった。志に急ぎ、突き動かされていた。
麓の山門。古ぼけていた。今にも崩れそうなほどに。
それでもひとつ、旗が翻っていた。日に焼かれ、随分と褪せてしまっても、それは鮮やかなほどに紅かった。
静かに目を伏せ、拝礼した。それがあの人の、そしてあの人々の象徴だったのだから。
誰もがあの旗に、甘い夢を見ていたのだから。
「行ってきます、小楓さま」
(終劇)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・成秋:小楓の側近。薛奇と妾の子。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・楊漢:かつての席次筆頭。七人目さまに付き従う。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・李桂:軍事を担当。
・華淳:後将軍。伏龍塞を率いる。
・英:華淳の妾。紅月寺では諜報を担当。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。紅月寺に協力を依頼。
・徐勇:大将軍。禁軍全体を率いる。
【青張連合】
・張駿:青張とも。癸州牧(行政長官)。
・邱虎:張駿配下の武将。
・楊喜:賈州牧。外交を担当。
・孔飛:琢州牧。兵站を担当。
・董楽:郭州牧。行政、司法を担当。
【その他】
・繆沢:神代の覇者。瑞国を興したが、暴虐を働き弑されたと伝わる。
・七人目さま:謎の存在。“生まれ変わり”の根源とされる。