夢に見出したもの
1.
商船が火を吹いて傾いた。文朗は火矢を番え、次々と放っていた。ほうぼうで悲鳴が上がり、人が川に飛び込んでいく。しかし川にも熱した油を撒いていて、飛び込む側から絶叫が上がっていた。
青張が、手に入れた呂江中流域を使って、交易や兵站線の構築をやることは目に見えていた。だから二百程度で郭州に侵入し、兵站を切るということをやってみていた。
今のところ順調である。護衛も少ない。目標の商船も、半数が燃えている。
しかし。
「文哥、次へ行くぞ」
「いや待て。一旦、退却だ」
「何かあったか?」
「勘だ。よくないやつ」
言ったぐらいだった。
後ろの船。火柱が上がった。右の船も。爆音と閃光。目が眩む。
鉄包か。
文朗の船は無事だった。いち早く漕ぎはじめていたので、一気に流れに乗れた。
「くそっ。残っているのは?」
「三分の一。これじゃあ何もできん」
「夜通し漕ぐ。謙州まで入れば」
銃声。それで、船頭が川に落ちた。
待ち伏せされていたか。
ためらわず、文朗は川へ飛び込んだ。そうして流れに任されながら、必死で泳いだ。
ひとつ、腹に痛みを覚えた。だが浅い。肉の半ばぐらいで弾丸が止まっているようだった。
一刻ほど泳いだところで、船を見つけた。禁軍の船だった。すぐに引き上げてもらった。
「おお、そなたは紅月寺の」
「しくじった。医者はいるか?弾丸を摘出できるやつだ」
「なんという。城郭に入るまで耐えてくれ」
「すまんが、頼む」
そこまでで、頭がぐらついた。
意識だけはあった。夜明けぐらいに城郭に運ばれた。そうやって横たえさせられて、いくらか肉を裂いたあと、やっとこで弾丸を引き抜かれた。その後は酒を吹き、焼けた鉄の棒で傷を塞がれた。
その間ずっと、痛みに叫んでいたと思う。
ふた月ほど、その城郭で寝て過ごした。歩けるようになったころには、体はすっかり細くなっていた。
頭痛がするようになり、めしはほとんど食えなくなっていた。それでも無理をして、腹の中に流し込んだ。
「悪い鉛にあたったのかもしれないね」
やってきた陳籍に診てもらったところ、そういうことだった。
「砕けた弾丸の一部が、まだ腹の中にあるかもしれない。それで鉛が体に溶け出している」
「確かめるには?」
「傷を開けてみるしか」
「仕方ねえやな」
「やるのかいね?」
「それしか方法がないのだろう?どうか、頼みます」
そうやって、頭を下げた。陳籍は呆れたように額を押さえていた。
「麻沸散というものがある。最初のときよりは、ずっと楽だろうさ」
持ってきた薬湯。金属のような、変な味がした。このごろ口にするものは、大体がそういう味だった。
「ぼうっとしているうちに終わる。動かないことだ」
言葉に任せた。
夢うつつの中にいた。そこには薛奇がいて、白朗がいた。ふたりともに、無茶をするなと叱られた。
無茶ばかりをして生きてきた。体にはその都度、傷を負ってきた。
喉の乾きで目が醒めた。どこかの医務室のようだった。
「文朗さま」
傍らには、蘭が座っていた。端女のひとりで、どうしてか慕ってくれていた。
「お腹の中に、砕けた銃の弾が残っておりました」
「やはりか。陳籍先生は?」
「今、別の患者さまを」
「忙しいこったな」
「今少し、お体は動かせないかと思います。喉が乾いたでしょう?今、お水をお持ちいたしますので」
そうやって、微笑んだようだった。
少しして、蘭が湿った布を持ってきてくれた。それで唇を拭う。それだけでも随分、乾きは少なくなった。
その後に、唇に感触があった。
唇だった。蘭の、女の唇。冷たい水が、流れ込んでくる。
「文朗さまのためですもの」
そう言って、蘭は赤い頬で微笑んだ。だからきっと、つとめて微笑んでみせた。
日に何回も、蘭は顔を見せてくれた。そうして湿った布や唇で、乾きを潤してくれた。そのうちめしも、匙で食べられるようになった。
ただずっと、体は動かないままだった。
その日の夕方も、蘭はやってきた。
「文朗さま。お加減は?」
「大事ない。体は動かんがな」
「きっともうじき、動けるようになるはずですわ。気を強くもって」
「ありがとう、蘭。それと」
ふと、思いついたことを口にした。
「陳籍先生、どこ行ったい?」
蘭の表情は、変わらなかった。
湿った布。唇にあてがわれた。そのまま、離れずに。
「どうしたんでしょうかね」
息が、苦しくなった。
口と鼻を、塞がれている。
「そのまま」
蘭。微笑んでいた。それでも、布で口を塞ぐ手の力は、万力のようだった。
「鉛の毒も花の毒も、あなたを弱らせることぐらいしかできなかった。強いおひと。でも、でもね?あなたはここで死ぬの。私が愛したあなたは、ここで死ぬ」
蘭。もしや、あの時の勘は。
「曽丁秀。覚えている?」
名前に、聞き覚えはなかった。
「私の兄。そして」
蘭の瞳。そこから、こぼれはじめた。滝のように。
「あなたが、殺した」
ひねり出すようなひとことだった。
「あなたが殺したの。文二児だったころのあなたが。私の愛した、たったひとりのお兄ちゃん。あなたが、殺した」
口元を押さえる手が震えはじめた。体は未だ動かない。ただ苦しさにもがいていた。
俺の業が、俺の過去が、俺を殺しに来たか。
「だから、私が殺すね?私が愛したあなたを、私が」
両手で、力いっぱいに塞ぎにきた。歯が折れそうになるぐらいに。
動かない。俺の体。俺の両腕。俺の両足。どこも、どこもかしこも。
「死ぬのね?死んじゃうのよね?文朗さま。私の手で死んでくれるのよね?お兄ちゃんの仇、これで取れるのよね?ようやく、死んでくれるのよね?」
蘭。泣きながら、うわ言のように叫び狂っていた。
視界が、揺らぐ。白が、広がる。
すまねえ、薛の大哥。白朗哥。
「ごめんなさい」
ひとこと、聞こえた。
途端に、のしかかるものが軽くなった。そうして次に、唇に感触があった。
空気。入ってくる。肺腑がそれを押し戻そうと躍起になっている。
咳き込んだ。大きく、空気が巡る。体も跳ね上がっていた。
「文朗さま」
掴みかかられた。朦朧とした視界。それでもわかる。
「英さん?」
「そうです、英です。ああ、よくお戻りで」
「何がどうなった?蘭は?」
言いながら、何度か自分で自分の頬を張った。体に血の漲りを感じる。動く。
生きている。
「蘭は、どうしました?」
見渡した。ぜえと鳴る音だけ、聞こえた。
蘭。血の池の中で、仰向けになっていた。
「英さん」
光るものを握っていた英に、文朗はひとことだけ掛けた。察したように、英はそれを渡してくれた。
「蘭」
立ち上がることができていた。そうして倒れた蘭の側に寄り、握ったものを、その細い首にあてがった。
「兄ちゃんに伝えてくれ。もうじき詫びに行くって」
それだけ、言った。
動かなくなった蘭を寝台に横たえ、できる限りにその身を清めた。
蘭の体。本当に柔らかく、綺麗だった。
「陳籍さまは亡くなられました。おそらくは、蘭が」
「そうですか。きっと、そうだと思っていましたから」
椅子に腰を下ろした。体は思った以上に軽かった。
「俺はここにいます。このざまだ。しばらくは動けねえ。もしくはそれこそ、そのうちに死ぬかもしれねえ」
「なりません。ここも危険です。青張の五千、川を下ってきています。もうじき囲まれます」
「それでいい。それで死ぬなら、そこまでだ」
「文朗さま」
ぱしん、と鳴った。頬の音だった。
「生きるのです。蘭の分も、蘭の兄の分も」
覗き込んできた英の頬は、濡れていた。
何人かの端女に支えられ、外に出た。荷馬車ひとつ、用意されていて、文朗はそこに投げ込まれた。
城郭の外。騒がしかった。兵が走り回っていた。混乱に紛れて、荷馬車は城郭を離れていった。
四日ほどで、伏龍塞にたどりついた。
「まさか、蘭がな」
出迎えた華淳は、沈痛な面持ちだった。
「まずは誠意よりお詫びいたそう。文朗殿と小楓殿の判断にすべて従う」
「誰も罰しないだろうよ。もう、死んだ人間だけの話だ」
「だが貴公はまだ生きている」
「此度の動乱においては、もう死んだようなものだよ」
それだけ、答えるぐらいにした。
英が粥を持ってきてくれた。味はちゃんと感じられた。薬膳だろうか、香りも幾分に強い。それで生きていることを実感できた。
三杯ほどをおかわりして、ようやく腹が満ち足りた。
「こんな時でも、腹は減るものだな」
「そんなものさ。随分と痩せ細ってしまって。最初、誰かわからんかったぞ。髭と髪を整えれば、さぞもてるだろうよ」
「女の話は、しばらくはやめておくれ。かみさんと息子にも悪いしな」
そう答えると、華淳は吹き出すようにして笑った。
「それこそ家族とは会っているのかね?」
「紅月寺が再興してからは、一度も」
「ならば療養がてらに会うといい。英に連れてこさせよう。小楓殿には、俺から言っておく」
「手間を掛ける。ああ、それと」
部屋を出ようとした華淳に、文朗は声をかけていた。
「墓ふたつ、建てさせてくれ」
それだけ言うと、やはり華淳はその瞼を深く閉じ、頷くだけだった。
弔うこともまたきっと、愛のかたちだろうから。
2.
思わぬ一団と旅路をともにすることとなった。楊喜たちである。
治州が青張への参加を画策しているという話だった。王高越の頼みもあり、喬倫志は数少ない供回りとともに、治州牧夏侯業のところに説得へ赴くところだった。
その道中で、ばったりと会ったのである。
「丞相閣下は」
丸い顔を脂で滾らせながら、楊喜はこちらを伺うようにしてきた。
「如何なさるおつもりですか?」
「どうもこうもない。夏侯業殿と話をする。駄目なら引き下がる」
「そのためだけに、わざわざここまで来られたのですか?」
「それは貴公も同じだろう。治州、朴州。青張に傾きかけている。その最後のひと押しのため、ここまで来た」
「それは、そうですが」
「勝負といこう。外交もまた、戦のひとつだからな」
目も合わせずに、それだけ言った。それで向こうも、腹を括ったようだった。
国家の最高責任者たる自身がここに来る。それだけで意味がある。たとえ交渉が決裂し、治州が青張に付くとなっても、すぐに動くということはできない。たとえ都に強襲できる位置にあろうとだ。
青張には、それだけの大義名分がない。それが何よりだった。それは楊喜にもわかっているだろう。
雲楼郡に入ると、すぐに使いのものが迎えに来てくれた。城郭の中で、夏侯業は最大の礼をもって喬倫志と楊喜を迎え入れた。
「交渉は」
「ふたり同時でいいだろう。夏侯業殿としても、その方が値踏みもしやすかろう」
喬倫志の言葉に、夏侯業の顔もいくらか青が差した。
「率直な意見を聞こう。青張に与する理由だ」
「瑞という国。長く在りすぎました。生まれ変わる時です」
「そのきっかけが、青張だというか?」
「青張であれ、紅月寺であれ」
「陛下は、皇室は如何する?廃するだけの名目があるか?二百年続いた血を、如何に絶やす?」
「君主制と民主共和制は両立し得ます」
楊喜の声だった。震えてはいなかった。
「皇室である宋家には、国家の象徴として永らえていただきたく存じます。その威光のもと、我ら青い旗の頭首たる張駿殿が社稷を為す」
「あの男に、十八州を永らえさせるだけの器量と才覚があるかどうかだが」
「地方分権、それをまとめる中央政府というかたちであれば、可能にござる」
「張の青旗は、まさしく御旗か」
「然り。我らはただ、天下をお借りするだけに過ぎ申さん。覇業の後、然るべきものを然るべき人にお返しいたす」
「私にとって、それは治州となるかね?」
「まさしく」
夏侯業は、深く瞼を閉じた。
おそらく腹の中はすでに決まっているだろう。これをひっくり返すのは至難だ。
「いい話だと思うよ、夏侯業殿」
「なんと、丞相」
「私にとってもな。陛下と皇室、そしてこの十八州が守られるならば、それでいい」
「ならば丞相は、何をもって私を説き伏せるおつもりでおられたか?」
「禁軍、十万。そして紅月寺の五万。敵うはずがない。民草につらい思いをさせることになる。ただそれだけだ」
その言葉に、夏侯業も楊喜も口をつぐんだ。
「夢を見るのは勝手だ。だが夢を現実にするには、ひとりではうまくいかぬものだ。特に民を従えさせる身の上ならば、尚更のことだろう」
「しかして、天下という壮大な夢を前に、臆するわけにはいかない」
「屍山血河の上にしか楽土は拓かれぬよ。それだけは、ゆめゆめ忘れてくれるな」
腹の底から言ってのけた。きっと本心だと思う。
「丞相閣下」
楊喜だった。席を立ち、床にひれ伏している。
「何卒、お許しを賜りたい。我らが夢見ることだけは、どうかお許しを」
「見る分には構わん。ただ叶えるには、それなりの努力と苦労が必要だということだけだ」
「我らは州牧として、丞相の政をお支え申してきた。それだけでは足らぬと仰せですか」
「足らぬ、まこと足らぬ」
席を立ち、平伏する楊喜の手を取った。
震えが伝わる。それでも悲しみだけが、いや、虚しさだけが心にあった。
「よいか、楊喜殿。かまえて忘れてくれるな」
「はい、丞相」
「夢だけでは、めしを食わせてやることはできぬ。伴うものがなければ、飢えて奪われるだけなのだ」
「伴うものとは、一体」
「犠牲だ。民草の生命だ。今こうやっている一分一秒のすべて。我ら為政者は、万民からそれを貪っている身なのだ。それを必ず、忘れてはならぬ」
楊喜の目。何か恐ろしいものを見るように、わなわなと震えていた。
「私が拓いてきたのは王道でも覇道でもない。血路だ。業に塗れ、欲に蝕まれ、毒に溺れた。そうやって歩んだ冥府魔道だ。だから私は、夢をただの夢と言える」
「丞相。あなたは、夢を捨てたのですね?」
「ああ、ここに至るために捨てた。夢も、志も。恥も矜持すらも」
「だからこそ、人の上に立つものになれた」
「そう言っていいだろう。私は私に殉じた。あるいはそれを夢や志と呼んでもいいだろうが、そこまで美しいものではなかろう」
「まこと、まことにござる。わしは丞相が恐ろしゅうございます。そして、我らが夢見る天下もが」
「天下とはな、見渡す大地のすべてだよ。とても抱えきれぬほどの人の海だ。それを欲するのならば、そうするがいい」
手を離した。楊喜がへたり込む。夏侯業もまた、呆然と立ち尽くしていた。
「私はそれを成し、それを保ち、そしてそれに飽いた」
それだけ言い残し、喬倫志は部屋をあとにした。
馬車の前に馬勲がひとり、跪いていた。
「私が楊喜と会ったということだけ、流せよ」
「丞相、それは」
「よいのだ」
そうやって馬車に乗り込み、目を瞑った。
天下とはつまり、こういうことなのだ、楊喜。
治州から前線の癸州までは、八日の道のりだった。
戦線は南北に伸び切っていた。主だった拠点では熾烈な戦いが繰り広げられているが、全体を見れば、だらけた空気が漂っていた。
鯨城。どうやら張駿自身が入っているようで、他より数倍強固だった。大将軍徐勇や紅月寺の李桂をもってしても攻略できていない様子だった。
もうすぐ着く、というところで、妙な一群に出くわした。屠った豚だろうか。吊るしたそれを担いでいる五百程度である。
「祭りでもやるのかね?」
思い返して、自分でも素っ頓狂なことを聞いたものである。
「呂無頼名物、豚の丸焼きでさあ。こうも戦況が硬直しちまうと、兵が鈍ってしまっていけない。こういう景気付けでほぐしていかないとね」
「となれば、貴公が呂信殿かね」
「おお、その通りよ。爺さん、格好からは、随分とお偉い方とお見受けしたが?」
「これはこれは、名乗りが遅れ申した。喬倫志と申す」
返答に、その壮年は目を丸くした。その様子がおかしくて、喬倫志はつい笑ってしまった。
そこからは馬車を降りて、呂信たちと歩いて本陣へ向かった。兵に混じって豚を担いでいったので、やはり小楓や徐勇などは驚いていた。
こうやって、人と触れ合うことも久しぶりである。
「交渉決裂。治州、朴州は、青張に付くだろう」
軍議の場で、ひとまずそれを伝えた。皆一様に、険しい表情になった。
「となれば、癸州、郭州を手放すでしょうな」
徐勇が地図に点を打った。それで、場は騒がしくなった。
箔塔郡。賈州と琢州の境。盆地であり、こちらから攻めれば巨大な隘路になる。向こうからすれば最終防衛線だが、治州、朴州が味方につくとなれば、禁軍と紅月寺を囲い込める。
安全策は取らないだろう。夢を掴むためなら、すべてが捨て身だ。
「琢州は動けない」
水を打ったのは王高越だった。病を得たらしく、はっとするほどに痩せこけたが、目の輝きは尋常ではなかった。
「私や廿礼ちゃんが走り回った地ですもの。庭も庭。孔飛閣下には悪いけど、郡太守の過半数は懐柔済みよ」
「なんと、王高越殿。となれば、早速手筈を」
「そのためにも、戦況をいくらか有利に持っていきたいな。しっかりと藁にすがってもらわねばならん」
李桂が髭を撫でた。
「あの鯨城をどう落とすかだ」
「壁が崩れれば土嚢を積む。雨が降れば筵を敷く。となれば、とにかく物量だ。相手をうんざりさせなければ、あの城は落ちない」
「佳水を切ろう。それで水浸しにできる」
言って、小楓が地図に点を打った。それで皆、納得したように頷いた。
「決死になる。だからこそ私が行く。こういうときに働かなければ、頭首としての面目が立たない。矢面に立って、皆を導かないと」
「よし来た。相手も看板を出してくるだろうから、程方烈めもつけるぞ。工兵と合わせて四千だ。これなら不安もなかろう。正面も攻め手を強めるぞ」
「李桂、ありがとう」
はにかんだ小楓。そろそろ二十が見える頃か。それでも幼いが、それ以上に頼もしさを感じた。
そのあたりで、外からは肉の焼けるいい匂いがした。皆で外に出ると、大砲が届くかどうかという距離で、何頭もの豚を吊るしていた。
「どうせなら敵さんにも、気分だけでも味わってもらおうとね」
「まこと、呂無頼よ」
喬倫志は腹を抱えて笑っていた。
切り分けたものが、喬倫志や徐勇たちにも配られた。香辛料などで味付けしているのだろう。戦場で食うめしとは思えないほどに美味しかった。
「こういうことが必要なのはわかるけど」
肉を食いながらも、小楓はどこか、浮かない表情をしていた。
「王高越に、無理をさせることになる」
「これぐらいなら仕事のうちにも入らないわよ、小楓。心配してくれてありがとう」
「働きすぎだよ、王高越は。兵站だけじゃない。あれこれと走り回って」
「他のものには任せられんか、王高越殿」
「ええ。なんたって、このこのためですもの」
そう言って、王高越は微笑んだ。母親のようなものを感じた。
めしを摂らせているあいだ、敵陣からは罵声が飛んでいた。そうして痩せた牛馬を引っ張ってきて、こちらと同じようなことをはじめだした。
男ひとり、顔を真っ赤にして乗り込んできた。整えられた口髭の中年である。
その顔に、喬倫志はどこか、見覚えがあった。
「やい、お前ら。勝手をやりやがって。温かいめしぐらいなら、俺たちだって食わせられるぞ」
「おう。誰だか知らないが、怒るのはこれを食ってからにしろ。こんなにうまいものを、お前は兵に食わせられるか?」
呂信が焼いた豚の肉を差し出した。男はがっつくようにしてそれを食い、いくらか口元を綻ばせた。それもすぐに思い直したようにして、口をへの字に曲げて怒りだした。
「何をしておるか、青張」
呆れたようにして現れたのは、徐勇だった。こちらも口元を豚の脂でぎらつかせていた。
「大将軍閣下。こは新手の侮辱にござるか?我ら青張、これほどの辱めを受けるほどの所業をした覚えはござらん」
「だからといって単身乗り込んでくる馬鹿がおるか。捕らえられたらなんとする?」
「天下、天下だ。そのために連れてきたのだ。俺の我儘に付き合っている可愛そうな連中を馬鹿にされて、黙っていろとでも仰るのですか」
「ならば兵らにうまいものを食わせてみせろ。腐っても州牧であろう。そちらには孔飛殿もおられるのだから」
「おう、張駿殿。久しいな。どうせだ。こちらに来て、もそっと召し上がりたまえよ」
喬倫志が声を掛けると、張駿も予想外だったのか、ぎょっとした表情を見せた。
ふたり、土の上に腰を掛けた。そうしていくらかの肉を食い、少ないながらも供された酒を飲み交わした。
すべて、兵たちが口にしているものと同じである。
「治州で楊喜殿に会ったよ」
それを言った。流したものが伝わっていたようで、張駿は驚きもなくそれを受け入れていた。
「今更、楊喜殿を疑うつもりは毛頭ござらん。しかし、何を話されたのかだけは、聞いておきたい」
「天下の話を、少しな」
「丞相閣下はまことの天下人にござる。閣下にとってのそれと、我らが思い描くそれでは、違いはござろう」
「少なくとも、憧れを抱くようなものではないよ」
「癸州含め四州、借り申した。それでも思い知らされている。楊喜殿、孔飛殿、そして董楽殿がいなければやっていけないほどです。それが十八州。とても想像もできません」
「それでも貴公は、天下に思いを馳せるかね?」
「寝ても覚めても」
目は、真剣だった。頼もしいぐらいだった。
「最後に残ったのが貴公でよかった。紅賊どもにこの国をくれてやるつもりはないが、貴公になら、よしんば負けようとも悔いはない」
「俺も、丞相閣下と相対することができて光栄です。禁軍、十万。全部出してくれた。そして紅月寺も」
「死ぬなよ、張駿殿。ここまで来たら、貫いて死せ。誰もが夢を見、そして諦めた夢に」
「叶え、そして殉じてみせます」
そうして張駿は、力強く拝礼した。
純粋な男。子どものような男。それでいい。上に立つものは、そうでなくてはならない。
私のように、老いて疲れて、空っぽな男では駄目なのだ。
「丞相は、夢の話をされた」
帰りの馬車の中、馬勲は俯きながら、そう言ってきた。ひねり出すようなひと言だった。
「お前たちも夢を見た。しかしそれは、間違った夢だった」
「我らの何が、間違えていたのでしょうか?」
「紅月の夢。それは、まことの紅月寺のみが見ることを許された夢。お前ではなく、他人の夢だ。他人の夢を語ることほど、つまらぬ話はなかろうよ」
「紅月寺になろうとした。それがいけなかったのですか?」
「加わればよかったのだ。あるいはあの青張と同じように、紅くない旗を掲げれば」
目を見た。未だ淀んでいた。
「お前は、お前の夢を見るべきだったのだ」
そこで、馬勲の顔がはっとしたようになった。
何かが閃いた。体に感じたものは、浅かった。
飛ぶようにして馬車から降りた。馬勲も続く。勢いで土の上を転げ回っても、すぐに立ち上がることができた。
「殺したとて、何も変わらんよ」
やはり手の甲を浅く斬られた程度だった。
「後継はすでに決めた。陛下に伝えてもいる。三公だ。司馬、周達。司徒、糜厳。司空、王磧。それぞれにも通達している」
「五月蝿い。それでも、紅き月が覇を為すのだ。我らが夢見た、紅き月が」
「小楓殿はそれをせぬよ。ことを成した後、陛下の御前で紅月寺を解散する。世の中そのものが、紅月寺のような自浄作用を備えるために」
「それでも、それでもだ。我らの紅き月は」
「紅き月に見る夢は」
合図、ひとつ。
「甘く、儚く」
さらば。そう、心のなかで告げた。
馬勲の体には、何本もの槍が突き立っていた。
3.
佳水の防衛に行った呼延設の三千が戻ってこない。となれば、じきに水が迫ってくると見ていいか。
「ひと月かけて、防衛戦を下げる」
「どこかで、大きくぶつかるかね?」
「治州、朴州が味方につく。大きく囲い込める」
地図に点を打った。賈州と琢州の境である。
「箔塔郡か。考えたな、張駿殿」
「ここなら十万だろうと十五万だろうとやりあえる。だから一兵でも多く、ここまで下げる必要がある」
言いながら、呼延設の顔が浮かんだ。そして悔しさも。
「藩銀令」
董楽が声を上げた。さっと、藩銀令が前に出る。
「郭州を捨てる。うまく降れよ」
それで、藩銀令が驚いたような顔になった。それでもしばらくして深く瞑目し、拝礼した。
「残された民は、必ず安んじさせます」
「まこと、かたじけない。うちは朱漣だ。徐勇閣下と小楓殿がいるから大丈夫だろうが、しっかりと睨んでおくれ」
「かしこまりました、殿。ご武運を」
朱漣は目に涙を浮かべていた。
「果報者ですな、張駿殿は。配下から閣下ではなく、殿と呼ばれている。心から慕われているのですね」
「それだけが、そしてあなたがたこそが、俺の無二の宝です」
そう答えると、董楽は優しく微笑んだ。
佳水の流れが変わったという知らせとともに、棺ひとつ届いた。眠っていたのは呼延設だった。
「討ったのは先代頭首薛奇が子、薛成秋とのこと」
「流石は薛奇殿のお子よの」
言いながら、呼延設の頬を撫でた。
涙は流れなかった。さらば、と心のなかで呟くだけだった。
「張の青旗。そして、喪章を」
馬に乗り、号令した。
「青張が殿をお勤めいたす。孔飛殿、董楽殿は先に」
「相分かった。死ぬなよ、張駿殿」
そうやって、孔飛たちは馬の腹を蹴った。
鯨城には朱漣と千五百を残した。
六里ほど駆けたところで、一度、防備の陣を組んだ。東から三千、来ているという。
「諸葛の旗か」
諸葛健という、紅月寺の将軍。紅賊討伐では、よくその名を聞いていた。
「ここに八百、残す。連中が通り過ぎる頃、小突いてやれ。うまく逃げろよ」
鄧武にそう伝えた。機転が利くので、細かく指示しなくとも上手に動ける男だった。
その日の夕刻には、その三千は現れた。騎馬の割合が多い。
「銃列、二斉射。放て」
間合いはまだ遠かった。それでも号令を下した。
倒れるものは少ない。むしろ勢いが強まったとも思えるぐらいだった。
二斉射目が終わる頃合いで、敵陣がぐらついた。呼延の旗が一気に突っ込み、通り抜けていった。それが二度ほどあって、その軍勢はぱらぱらと散っていった。
「よし、退却」
叫んで、馬に跨った。鄧武も泣けることをしてくれるものである。
伝令から都度、連絡は受けていた。朱漣は水浸しになった鯨城でも二十日を持ちこたえ、飢える頃になって遂に降伏し、自らの首を差し出した。ただ小楓たちは、その首を刎ねることはしなかったという。
藩銀令も呂江で未だ奮戦している。片足を吹き飛ばされたと聞いたが、それでも死んだとは入っていない。
誰もが夢のために戦ってくれている。俺の馬鹿げた夢のために。俺は必ずや、それに応えなければならない。
ひと月と半分を費やして、箔塔郡に入った。そこから防衛戦を築くのに、また半月を使った。
その頃には、治州、朴州に出していた楊喜も戻ってきていた。
「都への進出は、あとひと月を要するとのことだ」
内容に反し、楊喜の顔は暗かった。
「丞相に会ったという話を聞いている。天下について語り合ったとも」
「張駿殿、わしは」
「疑ってはいない。しかし、もはや戻れんことだけは言っておく。かつてあんたが俺をけしかけたように、俺もあんたにそうするだけだ」
がしと、その両肩を掴んだ。どうしてか、ひとまわり小さく感じた。
「天下、天下だ。それ以外も、それ以上をも、俺は望まん」
噛みしめるような表情だった。
「やはり、それでこそ青張だよ」
「すまぬ。俺はそれしか語れぬからな」
「それでよかった。ああ、すっきりした。ほんとうに、丞相閣下は恐ろしいおひとだったから」
そうやって楊喜は胸をなでおろした。
「めしを食おう。孔飛殿に頼んで、羊を山盛り調達してもらったのだよ」
「何をする気かね?」
「敵の目の前でどんちゃん騒ぎだ。鯨城では、眼の前で豚を焼かれて、腹を立てたものだよ」
そうして、ほうぼうで羊が吊るされていった。布陣した敵陣からは罵声が上がり、そのうちに向こうもまた豚を吊るしはじめた。
美味いめしの自慢合戦。その様子は痛快だった。
4.
王高越は陣営の中を駆け続けていた。そうして必要なものを、必要なところに配置していく。それだけで一日が終わってしまうこともあった。
孔飛たちが琢州各地から兵を徴募しているが、結果は芳しくないようだ。ほとんどの郡太守が青張に対して不同意を表しはじめたのである。
廿礼とふたりで地方再生のために駆けずり回り、人脈を築いてきた成果が出はじめていた。
州内が駄目なら州の外とばかりに、夏氏、平族などの異民族から兵を募りはじめたそうだ。こちらはおそらく、楊喜の考えだろう。ただこれも、いくつかの異民族は懐柔済みであり、頃合いを見て後ろから襲わせる手筈でいた。
そのうち、英たち端女も箔塔郡に入った。早速、琢州で民衆を蜂起させることを何度か試してみた。最初のうちはかなりの効果が出たが、董楽が琢州に専念してからは思うように行かなくなった。
それでも琢州、そして孔飛は死に体にできた。今や向こうの兵站線は賈州の一本頼みになった。そして松稜の五千が、執拗にこれを攻撃しているところである。
それよりも、治州、朴州である。今のところ、まったく動きが見えない。
青張への参加は表明している。位置としては都を狙えるが、喬倫志が睨みを効かせたこともあり、それも叶いそうにない。それでも兵を寄越すなり、物資で支援するなどはできるだろうが、それもない。
あるいはもう一度つつけば、傾けさせることもできるか。
夏侯業宛に、何度か文を送った。文面としては断固抗戦を貫いているが、州内が大いに揉めていることは、端女を通じて耳に入ってきた。
「伏龍塞。華将軍の手が空いている」
まずは徐勇にそういうことを言ってみた。徐勇は腕を組み、瞑目していた。
「引き込めなくても、吐いた唾を飲ませることはできるかもしれません」
「やってみるか。時間としては、どれぐらいだ?」
「およそ、半月」
「その間に向こうが動けば、こちらの負けだな」
徐勇の瞼が開いた。勇ましい炎が灯っていた。
英を呼び、華淳へ治州へ攻め入るように伝えることを頼んだ。それで英はすぐに支度を整えた。
「文朗は、元気?」
「ええ。鉛の毒も、花の毒も消え、体もしっかりと戻ってきております。ごはんもたくさん食べるようになりましたし」
「蘭さんについては」
「いいのです」
それだけ、つらそうに目を閉じていた。
「見抜けなかった我々の、そして私の落ち度です。蘭にも気の毒なことをさせてしまった」
「早く終わらせましょう。そうして、いなくなったひとたちを弔い、思いを馳せる日々を」
「ええ。それがなによりですわ」
英。にこりと。綺麗な笑みだった。
文朗はしばらく、紅月寺から離れていた。剃髪し、寺に籠もっているという。
産まれながらの紅月寺。あれもまた、業に塗れた道を歩んできた。
そのうち、小楓から呼ばれた。戦場から少し離れた城郭を本拠とし、そこで生活していた。
最近、体調を崩していた。食べたものを戻すのだという。
「ようやく、わかったよ」
寝台の上の小楓。とびきりの笑顔で、腹を擦っていた。
「成秋との子だ」
言われて、ぽかんとしていた。
「まさか、あんた」
「三ヶ月だって」
「ほんとうなの?」
「うん。今までのはきっと、悪阻だったんだ」
そのあたりで、自分の頬が緩んでいることに気付いた。
抱きついていた。そして、抱きしめていた。小楓。優しく抱き返してくれた。
「おめでとう、小楓。あんた、母親になるのね?羨ましいわ。私は、体はどこまでいったって男だから」
「私と成秋と、そして紅月寺皆の子どもだ」
「女の子がいいわね。きっとあんたににて、可愛くて、生意気で」
「気が早いですよ、王高越さま」
隣りにいた成秋。頬が赤いが、いつの間にかすっかり大人の男になっていた。
「それとね」
言いながら、小楓は手鏡を手に取った。小さな銅鏡である。
「鏡に、人が映らなくなった」
言われて、はっとした。
「それって、まさか。あんた」
「曹歌釉さまが言っていた、“生まれ変わり”としての資格を捨てる方法。これかもしれない」
「子を成し、子を育んでいる間は、“生まれ変わり”としての力が衰えるということ?」
言葉に対し、小楓はこくりと頷いた。
「くわえて私は、私の記憶を意図的に封じることができる。かつては無意識にそれをしていたけれど、薛父やおとうさんとのやり取りの中で、それができるようになった」
「望月山で習得した、護王拳の真髄とかいうやつよね?」
「これで、七人目さまを封じることができる」
目には、強いものを感じた。
「紅月寺と“生まれ変わり”。そして七人目さまとの因果。そのすべてを、私は今、終わらせることができる」
それはつまり、世のすべての乱れの終わり。
心が高鳴っていた。もう少しで、すべてを終わらせることができるかもしれない。
「でも、ちょっと残念なんだ」
くすりと、小楓が。
「成秋と、しばらく交わることができない。がっついてくるの、好きなんだ。これまでの“生まれ変わり”の女の人たちとも話してたけど、一番すごいんだって。けだものみたいだって」
「ちょっと、小楓」
「あらあら、羨ましいわね。でもまあ、私は殿方には優しくあってほしいかしら?」
「すみません。ほんとうに、気をつけます」
赤い顔のまま、成秋がうなだれた。
これからのことを話した。体に障るのはよくないので、戦場は李桂に任せ、小楓と王高越は郁州に戻ることになった。
「ほんとうに、おめでとう」
再度、本心から、それをふたりに伝えた。
そうして部屋を出たあたりで、大きく咳き込んだ。口元をおさえた袖のすべてが真っ赤に染まるほど、血を吐いていた。
もって頂戴。ふたりのため、そして紅月寺のこれからのため、もうちょっとだけの我慢なんだから。
本陣で李桂と業務の引き継ぎをしているころ、桃宛に文一通、届いた。端女のひとりで、足を悪くしてしまったが、李桂が引き取って面倒を見ていた。
「治州、朴州とも、青張への不参加を正式に表明」
それで、立ち上がっていたと思う。ただ視界は、横たわったときのそれだった。
「王高越、動くなよ」
「おっさん、私は?」
「血を多く吐いた。今、起こす」
「お願い。もう少し、もう少しで終われる」
「そうだな。もうちょっとだ」
きっと、つとめて優しい声だった。
汚れた着るものを替えたころ、医者が天幕に飛び込んできた。肺腑のできものが大きく破れたとのことだった。
もって数日。それだけ言われた。
「それでもいい」
櫓の上から戦場を眺めながら、呟いていた。呼吸はずっと、浅いままだった。
「それでも、すべてが終わるなら」
途端だった。
「我らの旗は、紅くない」
三千ほど。敵陣から出てきた。ものすごい勢いである。
「銃列、騎馬。食い止めろ」
隣りにいた徐勇が叫んでいた。
先頭の騎馬。剣を手に、押し寄せるものを次々となぎ倒していく。心得はないと見えたが、それでも鬼気迫るものがあった。気迫だけで倒し続けているといっていい。
顔が見えた。丸い顔。
楊喜。
「我らの旗は、紅くない」
何度も、叫んでいた。銃弾に撃たれ、馬の脚が折れ、他のものが斃れ、ひとりだけになっても。
「我らの旗は」
そうして、戦場の中心で倒れ込んでしまっても。
「そうよね」
目を瞑ることなど、許されなかった。ただ皆、一様に、そのさまを眺めながら、静かに涙していた。
ただ寂しさだけが、胸の中にあった。
5.
訪いひとつ、あった。それで屋敷の門が久しぶりに開いた。
小楓たちが久しぶりに会いたいとのことだった。楊漢はただ静かに頷き、楊三嬢とともに外に出た。
深山派が鎮圧されたことも、馬勲や応才が死んだということも、すべて幽閉中に伝わってきていた。特に馬勲には、深山派が斃れてからも、治州などが青張へ肩入れすることを含めた妨害工作を任せていた。
数多昇った紅き月、そして何処からはためいた青い旗は、ほんとうの紅月寺を残してすべてなくなった。
「父上は何故、紅月寺に背いたのですか?」
馬車の中、楊三嬢は静かに訪ねてきた。
「かたちなど、どれでもよかった。どれでもよくなった。ただ世が平らかでありさえすれば、それでよかった」
「紅月寺は、世を正すという志のもと、多くの人々が集う場所でした」
「そうであるべきだった。そして朝廷も。そして、そうではなくなってしまった」
「世に諦観し、絶望したのですね」
「そうかもしれないな。あるいは義憤に駆られたのやもしれん。今となっては、もはやわからんよ」
楊三嬢。瞑目し、静かに涙していた。
年経てから妾に産ませた子だった。長男、次男とも朝廷に入ったが、その惨状に絶望し、世捨て人になっていた。
ふたりと疎遠になり、きっと寂しかったのだろう。目に入れても痛くないほどに可愛い娘だった。
「紅月寺がなければ、お前も普通の暮らしができたのかもしれない。いいところに嫁に出せてやれたのかもしれない。それだけは謝らせておくれ」
「私にとっては、紅月寺こそが普通の暮らしです。私はここで暮らし、ここで恋をし、ここで死ぬと定めました」
「そうか。そうであったか」
答えに、外を眺めた。
親子の会話は、それぐらいだった。
本営。鏡の間で小楓たちは待っていると聞いていたが、その前に一室、寄るという。
寝台ひとつ。そこにひとり、静かに眠っていた。
「王高越」
すでに、溢れていた。
「青張との戦から離れ、こちらに戻って来る途中で亡くなられました。病を押して、ずっと戦いの場におられました」
「おお、おお、王高越。君が逝くのか。この老いぼれより先に、君が旅立ったか」
横たわった王高越の体にすがりつき、ただ泣いた。喉をひくつかせ、ただずっと、その名を呼び続けた。
「可哀想に、王高越。小楓殿は君のために戦い続けたというのに。君のこれからのために、戦ってきたというのに」
「まことにございます。無念でなりません」
「三嬢、私はしばし泣くぞ。私はこれ以上の悲しみを知らない。おお、おお、王高越よ」
楊漢はただずっと、そうしていた。
涙も声も枯れ、疲れ果てたあたり、ようやく動けるようになった。楊三嬢の手を借り、よろよろと立ち上がった。
さらば、王高越。紅月寺に救われ、紅月寺の先を夢見たものよ。
鏡の間。その女はすでに鏡の前に座し、静かに気を練っていた。楊漢はその後ろ、少し離れたところで足を止めた。
「七人目さまにお会いする」
「何故にだ?」
「すべてが終わることを告げる。世はもうじき平らかになること。私が“生まれ変わり”としての力を保つことが難しくなったこと。そして、私は今までのすべてを忘れることができるということ」
そこまで言って、小楓は鏡越しに、真剣な眼差しを向けてきた。
「私は、薛成秋の子を成した」
言われて、驚きだけがあった。
「それが、“生まれ変わり”の資格を捨てる方法だと?」
「七人目さまにお会いするためには条件があると薛父は言っていた。子を成していない女。きっとそうだ。子を育むために、女は“生まれ変わり”としての力をも消費する」
「君はその条件に合致していた。そして今、その条件に当てはまらなくなった」
「薛父が子、成秋とともに、紅月寺と“生まれ変わり”のすべてを終わらせる。立ち会え、楊漢。かつて紅月寺のすべてを支えたものとして」
その言葉には強い覇気を感じた。思わず拝礼するほどに。
しばらくして、姿見がみしりと音を立てた。物々しい雰囲気に包まれる。
「近う」
姿見。見る間に赤黒く染まっていく。そうしてがたがたと震えている。
「もそっと、近う」
ぼんやりと写った。ぼうっと立ち尽くし、俯いた女の姿。小楓の姿。
そうしてそれが、静かに顔を上げた。煌々と光る朱い瞳とともに。
これが、七人目さま。
「紅き月は数多昇れり。そして青き旗は翻る。しかしてそれはすべて過去の話。もうじき世の乱れは正されます」
「そうか。人はまだ、永らえるか」
「はい。そして私は今、英雄たる薛成新が子、成秋の子を授かりました。この子を育むため、すべての力を捧げます」
「ほう」
鏡の中の小楓。小馬鹿にするように笑った。
「紅月寺の役目は終わります。そして我ら“生まれ変わり”の役目も、また。これでお別れにございます」
座した小楓。立ち上がった。隣にぴたりと成秋が寄り添った。
ふたりの紅月寺。それで、すべてが終わる。
「そうか、お前はそうするのか」
「はい。そうします」
「わかった。そうすればいい」
鏡の中の小楓。思ったより穏やかだった。
これですべて、終わり。七人目さまの怒りは外に出ることなく、小楓の中で途絶えていく。
紅き月に見る夢は、甘く、儚く。すべて一夜の夢なれば、まどろみのうち、すべてを忘れる。
「だが私は、そうしない」
鏡の中の小楓が、口元だけで笑った。
突然だった。
小楓。うずくまっていた。腹をおさえている。苦悶の表情。脂汗がにじみ出ている。
「小楓」
「寄るな、成秋。私に、何かが起きている」
苦痛に歪んだ声。その体はずっと、震えていた。
「成秋、楊漢。逃げろ。そして逃がせ。七人目さまが、お見えになられる」
「よくわかったねえ。えらいこだ」
鏡の中から、嘲笑うような声が響く。
「よくやってくれた。私を顕現させるにふさわしくない器となるよう、よく子を成してくれた。全部、逆だよ。お前の子として、私は生まれ変わる。お前ではなく、お前の子を器として」
「七人目さま。あなたは、一体」
「何なんだろうねえ。もう、よくわからないよ。だから私は、私の意のままにことを為すだけだ」
苦悶の叫びが上がった。小楓だった。
床が濡れている。血。あるいは破水か。腹も膨れていないのに、早すぎる。
「もとより私は、あまねく人の血と記憶に刻まれた、過去。燃やされ、塗りつぶされたとて、いずれ誰かが見つけ出す存在。初代の“生まれ変わり”がそうであったように、いずれ然るべきものが見つけ出し、器となる」
「ならば、紅月寺とは」
「知ったことではない。お前たちが勝手に作ったものだ。私の怒りを封じるだとか、世を正すだとか言ってね」
せせら笑う声と悲鳴だけが響く。楊漢たちはただ、どうすることもできず、その場に立ち尽くしていた。
「人即龍也。繆沢さまがそうしたように、龍を滅ぼさねばならぬ。龍たる人をもまた、殺し尽くさねばならぬ」
「それだけは、絶対に」
「するよ?だって、お前がせっかく用意してくれたんだもの」
ひときわの叫びだった。
ぐったりと倒れ込んだ小楓から、何かが這い出てきた。血と肉の、小さな塊。それはゆっくりと這いずりながら、しかし徐々に大きくなり、人のかたちを見出して。
そして、立ち上がった。
「ああ、久しぶりだなあ」
女の姿。小楓と、瓜ふたつの。
「皆、逃げろ。逃げるんだ」
小楓の声。
でも、どうだろう。楊漢はただぼうっと立ち尽くしていた。
いや、魅入られていた。その姿に。その、美しさに。
「父上」
何かが駆け寄ってきた。そうして体を揺すってきた。それだけ、わかった。
「楊三嬢っ」
それが倒れたのも。そして、それの血を浴びたことも。
「小楓殿、ここまでありがとう」
本心だった。ほんとうに、嬉しかった。感謝だけがあった。
今ここに、七人目さまに見えた。それが叶ったのだから。
「従うかね?楊漢」
美しい声。鼓膜が、喜びに震えていた。本能のままに跪き、拝礼した。
「万事、御意のままに」
「よろしい。兵を集めよ」
それはゆっくりと振り向いた。
やはり、小楓。そしてそれよりも美しい、朱い瞳。
「ああ、七人目さま。お名を、そのお名を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「我が、名か」
笑み。穏やかな、そして人では、決して見せてくれないような。
その美しさと朱に、心を奪われていた。
「ただ炎とだけ、呼べばいい」
(つづく)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・成秋:小楓の側近。薛奇と妾の子。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・楊漢:かつての席次筆頭。反乱分子を煽動していたため、幽閉された。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・李桂:軍事を担当。
・華淳:後将軍。伏龍塞を率いる。
・英:華淳の妾。紅月寺では諜報を担当。
・呂信:呂無頼とも。銃兵を操る精鋭。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。紅月寺に協力を依頼。
・徐勇:大将軍。禁軍全体を率いる。
【青張連合】
・張駿:青張とも。癸州牧(行政長官)。
・邱虎:張駿配下の武将。
・呼延設:張駿配下の武将。
・楊喜:賈州牧。外交を担当。
・孔飛:琢州牧。兵站を担当。
・董楽:郭州牧。行政、司法を担当。
【その他】
・繆沢:神代の覇者。瑞国を興したが、暴虐を働き弑されたと伝わる。
・七人目さま:謎の存在。“生まれ変わり”の根源とされる。