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夢に見出したもの

1.


 商船が火を吹いて傾いた。文朗ぶんろうは火矢を番え、次々と放っていた。ほうぼうで悲鳴が上がり、人が川に飛び込んでいく。しかし川にも熱した油を撒いていて、飛び込む側から絶叫が上がっていた。

 青張せいちょうが、手に入れた呂江りょこう中流域を使って、交易や兵站線の構築をやることは目に見えていた。だから二百程度でかく州に侵入し、兵站を切るということをやってみていた。

 今のところ順調である。護衛も少ない。目標の商船も、半数が燃えている。

 しかし。

文哥ぶんにい、次へ行くぞ」

「いや待て。一旦、退却だ」

「何かあったか?」

「勘だ。よくないやつ」

 言ったぐらいだった。

 後ろの船。火柱が上がった。右の船も。爆音と閃光。目が眩む。

 鉄包てつはうか。

 文朗ぶんろうの船は無事だった。いち早く漕ぎはじめていたので、一気に流れに乗れた。

「くそっ。残っているのは?」

「三分の一。これじゃあ何もできん」

「夜通し漕ぐ。けん州まで入れば」

 銃声。それで、船頭が川に落ちた。

 待ち伏せされていたか。

 ためらわず、文朗ぶんろうは川へ飛び込んだ。そうして流れに任されながら、必死で泳いだ。

 ひとつ、腹に痛みを覚えた。だが浅い。肉の半ばぐらいで弾丸が止まっているようだった。

 一刻ほど泳いだところで、船を見つけた。禁軍の船だった。すぐに引き上げてもらった。

「おお、そなたは紅月寺こうげつじの」

「しくじった。医者はいるか?弾丸を摘出できるやつだ」

「なんという。城郭まちに入るまで耐えてくれ」

「すまんが、頼む」

 そこまでで、頭がぐらついた。

 意識だけはあった。夜明けぐらいに城郭まちに運ばれた。そうやって横たえさせられて、いくらか肉を裂いたあと、で弾丸を引き抜かれた。その後は酒を吹き、焼けた鉄の棒で傷を塞がれた。

 その間ずっと、痛みに叫んでいたと思う。

 ふた月ほど、その城郭まちで寝て過ごした。歩けるようになったころには、体はすっかり細くなっていた。

 頭痛がするようになり、めしはほとんど食えなくなっていた。それでも無理をして、腹の中に流し込んだ。

「悪い鉛にあたったのかもしれないね」

 やってきた陳籍ちんせきに診てもらったところ、そういうことだった。

「砕けた弾丸の一部が、まだ腹の中にあるかもしれない。それで鉛が体に溶け出している」

「確かめるには?」

「傷を開けてみるしか」

「仕方ねえやな」

「やるのかいね?」

「それしか方法がないのだろう?どうか、頼みます」

 そうやって、頭を下げた。陳籍ちんせきは呆れたように額を押さえていた。

麻沸散まふつさんというものがある。最初のときよりは、ずっと楽だろうさ」

 持ってきた薬湯。金属のような、変な味がした。このごろ口にするものは、大体がそういう味だった。

「ぼうっとしているうちに終わる。動かないことだ」

 言葉に任せた。

 夢うつつの中にいた。そこには薛奇せつきがいて、白朗はくろうがいた。ふたりともに、無茶をするなと叱られた。

 無茶ばかりをして生きてきた。体にはその都度、傷を負ってきた。

 喉の乾きで目が醒めた。どこかの医務室のようだった。

文朗ぶんろうさま」

 傍らには、らんが座っていた。端女はしためのひとりで、どうしてか慕ってくれていた。

「お腹の中に、砕けた銃の弾が残っておりました」

「やはりか。陳籍ちんせき先生は?」

「今、別の患者さまを」

「忙しいこったな」

「今少し、お体は動かせないかと思います。喉が乾いたでしょう?今、お水をお持ちいたしますので」

 そうやって、微笑んだようだった。

 少しして、らんが湿った布を持ってきてくれた。それで唇を拭う。それだけでも随分、乾きは少なくなった。

 その後に、唇に感触があった。

 唇だった。らんの、女の唇。冷たい水が、流れ込んでくる。

文朗ぶんろうさまのためですもの」

 そう言って、蘭は赤い頬で微笑んだ。だからきっと、つとめて微笑んでみせた。

 日に何回も、らんは顔を見せてくれた。そうして湿った布や唇で、乾きを潤してくれた。そのうちめしも、匙で食べられるようになった。

 ただずっと、体は動かないままだった。

 その日の夕方も、らんはやってきた。

文朗ぶんろうさま。お加減は?」

「大事ない。体は動かんがな」

「きっともうじき、動けるようになるはずですわ。気を強くもって」

「ありがとう、らん。それと」

 ふと、思いついたことを口にした。

陳籍ちんせき先生、どこ行ったい?」

 らんの表情は、変わらなかった。

 湿った布。唇にあてがわれた。そのまま、離れずに。

「どうしたんでしょうかね」

 息が、苦しくなった。

 口と鼻を、塞がれている。

「そのまま」

 らん。微笑んでいた。それでも、布で口を塞ぐ手の力は、万力のようだった。

「鉛の毒も花の毒も、あなたを弱らせることぐらいしかできなかった。強いおひと。でも、でもね?あなたはここで死ぬの。私が愛したあなたは、ここで死ぬ」

 らん。もしや、あの時の勘は。

曽丁秀そていしゅう。覚えている?」

 名前に、聞き覚えはなかった。

「私の兄。そして」

 らんの瞳。そこから、こぼれはじめた。滝のように。

「あなたが、殺した」

 ひねり出すようなひとことだった。

「あなたが殺したの。文二児ぶんじじだったころのあなたが。私の愛した、たったひとりのお兄ちゃん。あなたが、殺した」

 口元を押さえる手が震えはじめた。体は未だ動かない。ただ苦しさにもがいていた。

 俺の業が、俺の過去が、俺を殺しに来たか。

「だから、私が殺すね?私が愛したあなたを、私が」

 両手で、力いっぱいに塞ぎにきた。歯が折れそうになるぐらいに。

 動かない。俺の体。俺の両腕。俺の両足。どこも、どこもかしこも。

「死ぬのね?死んじゃうのよね?文朗ぶんろうさま。私の手で死んでくれるのよね?お兄ちゃんの仇、これで取れるのよね?ようやく、死んでくれるのよね?」

 らん。泣きながら、うわ言のように叫び狂っていた。

 視界が、揺らぐ。白が、広がる。

 すまねえ、せつ大哥あにき白朗はくろうあにい

「ごめんなさい」

 ひとこと、聞こえた。

 途端に、のしかかるものが軽くなった。そうして次に、唇に感触があった。

 空気。入ってくる。肺腑がそれを押し戻そうと躍起になっている。

 咳き込んだ。大きく、空気が巡る。体も跳ね上がっていた。

文朗ぶんろうさま」

 掴みかかられた。朦朧とした視界。それでもわかる。

えいさん?」

「そうです、えいです。ああ、よくお戻りで」

「何がどうなった?らんは?」

 言いながら、何度か自分で自分の頬を張った。体に血の漲りを感じる。動く。

 生きている。

らんは、どうしました?」

 見渡した。ぜえと鳴る音だけ、聞こえた。

 らん。血の池の中で、仰向けになっていた。

えいさん」

 光るものを握っていたえいに、文朗ぶんろうはひとことだけ掛けた。察したように、えいはそれを渡してくれた。

らん

 立ち上がることができていた。そうして倒れたらんの側に寄り、握ったものを、その細い首にあてがった。

「兄ちゃんに伝えてくれ。もうじき詫びに行くって」

 それだけ、言った。

 動かなくなったらんを寝台に横たえ、できる限りにその身を清めた。

 らんの体。本当に柔らかく、綺麗だった。

陳籍ちんせきさまは亡くなられました。おそらくは、らんが」

「そうですか。きっと、そうだと思っていましたから」

 椅子に腰を下ろした。体は思った以上に軽かった。

「俺はここにいます。このざまだ。しばらくは動けねえ。もしくはそれこそ、そのうちに死ぬかもしれねえ」

「なりません。ここも危険です。青張せいちょうの五千、川を下ってきています。もうじき囲まれます」

「それでいい。それで死ぬなら、そこまでだ」

文朗ぶんろうさま」

 ぱしん、と鳴った。頬の音だった。

「生きるのです。らんの分も、らんの兄の分も」

 覗き込んできたえいの頬は、濡れていた。

 何人かの端女はしために支えられ、外に出た。荷馬車ひとつ、用意されていて、文朗ぶんろうはそこに投げ込まれた。

 城郭まちの外。騒がしかった。兵が走り回っていた。混乱に紛れて、荷馬車は城郭まちを離れていった。

 四日ほどで、伏龍塞ふくりゅうさいにたどりついた。

「まさか、らんがな」

 出迎えた華淳かじゅんは、沈痛な面持ちだった。

「まずは誠意よりお詫びいたそう。文朗ぶんろう殿と小楓しょうふう殿の判断にすべて従う」

「誰も罰しないだろうよ。もう、死んだ人間だけの話だ」

「だが貴公はまだ生きている」

「此度の動乱においては、もう死んだようなものだよ」

 それだけ、答えるぐらいにした。

 えいが粥を持ってきてくれた。味はちゃんと感じられた。薬膳だろうか、香りも幾分に強い。それで生きていることを実感できた。

 三杯ほどをおかわりして、ようやく腹が満ち足りた。

「こんな時でも、腹は減るものだな」

「そんなものさ。随分と痩せ細ってしまって。最初、誰かわからんかったぞ。髭と髪を整えれば、さぞだろうよ」

「女の話は、しばらくはやめておくれ。かみさんと息子にも悪いしな」

 そう答えると、華淳かじゅんは吹き出すようにして笑った。

「それこそ家族とは会っているのかね?」

紅月寺こうげつじが再興してからは、一度も」

「ならば療養がてらに会うといい。えいに連れてこさせよう。小楓しょうふう殿には、俺から言っておく」

「手間を掛ける。ああ、それと」

 部屋を出ようとした華淳かじゅんに、文朗ぶんろうは声をかけていた。

「墓ふたつ、建てさせてくれ」

 それだけ言うと、やはり華淳かじゅんはその瞼を深く閉じ、頷くだけだった。

 弔うこともまたきっと、愛のかたちだろうから。


2.


 思わぬ一団と旅路をともにすることとなった。楊喜ようきたちである。

 州が青張せいちょうへの参加を画策しているという話だった。王高越おうこうえつの頼みもあり、喬倫志きょうりんしは数少ない供回りとともに、州牧夏侯業かこうぎょうのところに説得へ赴くところだった。

 その道中で、ばったりと会ったのである。

「丞相閣下は」

 丸い顔を脂で滾らせながら、楊喜ようきはこちらを伺うようにしてきた。

如何いかがなさるおつもりですか?」

「どうもこうもない。夏侯業かこうぎょう殿と話をする。駄目なら引き下がる」

「そのためだけに、わざわざここまで来られたのですか?」

「それは貴公も同じだろう。州、ほう州。青張せいちょうに傾きかけている。その最後のひと押しのため、ここまで来た」

「それは、そうですが」

「勝負といこう。外交もまた、戦のひとつだからな」

 目も合わせずに、それだけ言った。それで向こうも、腹を括ったようだった。

 国家の最高責任者たる自身がここに来る。それだけで意味がある。たとえ交渉が決裂し、州が青張せいちょうに付くとなっても、すぐに動くということはできない。たとえ都に強襲できる位置にあろうとだ。

 青張せいちょうには、それだけの大義名分がない。それが何よりだった。それは楊喜ようきにもわかっているだろう。

 雲楼うんろう郡に入ると、すぐに使いのものが迎えに来てくれた。城郭まちの中で、夏侯業かこうぎょうは最大の礼をもって喬倫志きょうりんし楊喜ようきを迎え入れた。

「交渉は」

「ふたり同時でいいだろう。夏侯業かこうぎょう殿としても、その方が値踏みもしやすかろう」

 喬倫志きょうりんしの言葉に、夏侯業かこうぎょうの顔もいくらか青が差した。

「率直な意見を聞こう。青張せいちょうに与する理由だ」

ずいという国。長く在りすぎました。生まれ変わる時です」

「そのきっかけが、青張せいちょうだというか?」

青張せいちょうであれ、紅月寺こうげつじであれ」

「陛下は、皇室は如何いかがする?廃するだけの名目があるか?二百年続いた血を、如何いかに絶やす?」

「君主制と民主共和制は両立し得ます」

 楊喜ようきの声だった。震えてはいなかった。

「皇室であるそう家には、国家の象徴として永らえていただきたく存じます。その威光のもと、我ら青い旗の頭首たる張駿ちょうしゅん殿が社稷しゃしょくを為す」

「あの男に、十八州を永らえさせるだけの器量と才覚があるかどうかだが」

「地方分権、それをまとめる中央政府というかたちであれば、可能にござる」

ちょうの青旗は、まさしく御旗か」

「然り。我らはただ、天下てんがをお借りするだけに過ぎ申さん。覇業の後、然るべきものを然るべき人にお返しいたす」

「私にとって、それは州となるかね?」

「まさしく」

 夏侯業かこうぎょうは、深く瞼を閉じた。

 おそらく腹の中はすでに決まっているだろう。これをひっくり返すのは至難だ。

「いい話だと思うよ、夏侯業かこうぎょう殿」

「なんと、丞相」

「私にとってもな。陛下と皇室、そしてこの十八州が守られるならば、それでいい」

「ならば丞相は、何をもって私を説き伏せるおつもりでおられたか?」

「禁軍、十万。そして紅月寺こうげつじの五万。かなうはずがない。民草につらい思いをさせることになる。ただそれだけだ」

 その言葉に、夏侯業かこうぎょう楊喜ようきも口をつぐんだ。

「夢を見るのは勝手だ。だが夢を現実にするには、ひとりではうまくいかぬものだ。特に民を従えさせる身の上ならば、尚更のことだろう」

「しかして、天下てんがという壮大な夢を前に、臆するわけにはいかない」

「屍山血河の上にしか楽土はひらかれぬよ。それだけは、ゆめゆめ忘れてくれるな」

 腹の底から言ってのけた。きっと本心だと思う。

「丞相閣下」

 楊喜ようきだった。席を立ち、床にひれ伏している。

「何卒、お許しを賜りたい。我らが夢見ることだけは、どうかお許しを」

「見る分には構わん。ただ叶えるには、それなりの努力と苦労が必要だということだけだ」

「我らは州牧として、丞相のまつりごとをお支え申してきた。それだけでは足らぬと仰せですか」

「足らぬ、まこと足らぬ」

 席を立ち、平伏する楊喜ようきの手を取った。

 震えが伝わる。それでも悲しみだけが、いや、虚しさだけが心にあった。

「よいか、楊喜ようき殿。かまえて忘れてくれるな」

「はい、丞相」

「夢だけでは、めしを食わせてやることはできぬ。伴うものがなければ、飢えて奪われるだけなのだ」

「伴うものとは、一体」

「犠牲だ。民草の生命だ。今こうやっている一分一秒のすべて。我ら為政者は、万民からそれを貪っている身なのだ。それを必ず、忘れてはならぬ」

 楊喜ようきの目。何か恐ろしいものを見るように、わなわなと震えていた。

「私がひらいてきたのは王道でも覇道でもない。血路だ。業にまみれ、欲に蝕まれ、毒に溺れた。そうやって歩んだ冥府魔道だ。だから私は、夢をただの夢と言える」

「丞相。あなたは、夢を捨てたのですね?」

「ああ、ここに至るために捨てた。夢も、志も。恥も矜持すらも」

「だからこそ、人の上に立つものになれた」

「そう言っていいだろう。私は私に殉じた。あるいはそれを夢や志と呼んでもいいだろうが、そこまで美しいものではなかろう」

「まこと、まことにござる。わしは丞相が恐ろしゅうございます。そして、我らが夢見る天下てんがもが」

天下てんがとはな、見渡す大地のすべてだよ。とても抱えきれぬほどの人の海だ。それを欲するのならば、そうするがいい」

 手を離した。楊喜ようきがへたり込む。夏侯業かこうぎょうもまた、呆然と立ち尽くしていた。

「私はそれを成し、それを保ち、そしてそれに飽いた」

 それだけ言い残し、喬倫志きょうりんしは部屋をあとにした。

 馬車の前に馬勲ばくんがひとり、跪いていた。

「私が楊喜ようきと会ったということだけ、流せよ」

「丞相、それは」

「よいのだ」

 そうやって馬車に乗り込み、目を瞑った。

 天下てんがとはつまり、こういうことなのだ、楊喜ようき

 州から前線の州までは、八日の道のりだった。

 戦線は南北に伸び切っていた。主だった拠点では熾烈な戦いが繰り広げられているが、全体を見れば、だらけた空気が漂っていた。

 げい城。どうやら張駿ちょうしゅん自身が入っているようで、他より数倍強固だった。大将軍徐勇じょゆう紅月寺こうげつじ李桂りけいをもってしても攻略できていない様子だった。

 もうすぐ着く、というところで、妙な一群に出くわした。ほふった豚だろうか。吊るしたそれを担いでいる五百程度である。

「祭りでもやるのかね?」

 思い返して、自分でも素っ頓狂なことを聞いたものである。

呂無頼りょぶらい名物、豚の丸焼きでさあ。こうも戦況が硬直しちまうと、兵が鈍ってしまっていけない。こういう景気付けでほぐしていかないとね」

「となれば、貴公が呂信りょしん殿かね」

「おお、その通りよ。爺さん、格好からは、随分とお偉い方とお見受けしたが?」

「これはこれは、名乗りが遅れ申した。喬倫志きょうりんしと申す」

 返答に、その壮年は目を丸くした。その様子がおかしくて、喬倫志きょうりんしはつい笑ってしまった。

 そこからは馬車を降りて、呂信りょしんたちと歩いて本陣へ向かった。兵に混じって豚を担いでいったので、やはり小楓しょうふう徐勇じょゆうなどは驚いていた。

 こうやって、人と触れ合うことも久しぶりである。

「交渉決裂。州、ほう州は、青張せいちょうに付くだろう」

 軍議の場で、ひとまずそれを伝えた。皆一様に、険しい表情になった。

「となれば、州、かく州を手放すでしょうな」

 徐勇じょゆうが地図に点を打った。それで、場は騒がしくなった。

 箔塔はくとう郡。州とたく州の境。盆地であり、こちらから攻めれば巨大な隘路あいろになる。向こうからすれば最終防衛線だが、州、ほう州が味方につくとなれば、禁軍と紅月寺こうげつじを囲い込める。

 安全策は取らないだろう。夢を掴むためなら、すべてが捨て身だ。

たく州は動けない」

 水を打ったのは王高越おうこうえつだった。病を得たらしく、はっとするほどに痩せこけたが、目の輝きは尋常ではなかった。

「私や廿礼はつれいちゃんが走り回った地ですもの。庭も庭。孔飛こうひ閣下には悪いけど、郡太守の過半数は懐柔済みよ」

「なんと、王高越おうこうえつ殿。となれば、早速手筈を」

「そのためにも、戦況をいくらか有利に持っていきたいな。しっかりと藁にすがってもらわねばならん」

 李桂りけいが髭を撫でた。

「あのげい城をどう落とすかだ」

「壁が崩れれば土嚢を積む。雨が降れば筵を敷く。となれば、とにかく物量だ。相手をうんざりさせなければ、あの城は落ちない」

佳水かすいを切ろう。それで水浸しにできる」

 言って、小楓しょうふうが地図に点を打った。それで皆、納得したように頷いた。

「決死になる。だからこそ私が行く。こういうときに働かなければ、頭首としての面目が立たない。矢面に立って、皆を導かないと」

「よし来た。相手も看板を出してくるだろうから、程方烈ていほうれつめもつけるぞ。工兵と合わせて四千だ。これなら不安もなかろう。正面も攻め手を強めるぞ」

李桂りけい、ありがとう」

 はにかんだ小楓しょうふう。そろそろ二十が見える頃か。それでも幼いが、それ以上に頼もしさを感じた。

 そのあたりで、外からは肉の焼けるいい匂いがした。皆で外に出ると、大砲おおづつが届くかどうかという距離で、何頭もの豚を吊るしていた。

「どうせなら敵さんにも、気分だけでも味わってもらおうとね」

「まこと、呂無頼りょぶらいよ」

 喬倫志きょうりんしは腹を抱えて笑っていた。

 切り分けたものが、喬倫志きょうりんし徐勇じょゆうたちにも配られた。香辛料などで味付けしているのだろう。戦場で食うめしとは思えないほどに美味しかった。

「こういうことが必要なのはわかるけど」

 肉を食いながらも、小楓しょうふうはどこか、浮かない表情をしていた。

王高越おうこうえつに、無理をさせることになる」

「これぐらいなら仕事のうちにも入らないわよ、小楓しょうふう。心配してくれてありがとう」

「働きすぎだよ、王高越おうこうえつは。兵站だけじゃない。あれこれと走り回って」

「他のものには任せられんか、王高越おうこうえつ殿」

「ええ。なんたって、このこのためですもの」

 そう言って、王高越おうこうえつは微笑んだ。母親のようなものを感じた。

 めしを摂らせているあいだ、敵陣からは罵声が飛んでいた。そうして痩せた牛馬を引っ張ってきて、こちらと同じようなことをはじめだした。

 男ひとり、顔を真っ赤にして乗り込んできた。整えられた口髭の中年である。

 その顔に、喬倫志きょうりんしはどこか、見覚えがあった。

「やい、お前ら。勝手をやりやがって。温かいめしぐらいなら、俺たちだって食わせられるぞ」

「おう。誰だか知らないが、怒るのはこれを食ってからにしろ。こんなにうまいものを、お前は兵に食わせられるか?」

 呂信りょしんが焼いた豚の肉を差し出した。男はがっつくようにしてそれを食い、いくらか口元を綻ばせた。それもすぐに思い直したようにして、口をの字に曲げて怒りだした。

「何をしておるか、青張せいちょう

 呆れたようにして現れたのは、徐勇じょゆうだった。こちらも口元を豚の脂でぎらつかせていた。

「大将軍閣下。こは新手の侮辱にござるか?我ら青張せいちょう、これほどの辱めを受けるほどの所業をした覚えはござらん」

「だからといって単身乗り込んでくる馬鹿がおるか。捕らえられたらなんとする?」

天下てんが天下てんがだ。そのために連れてきたのだ。俺の我儘に付き合っている可愛そうな連中を馬鹿にされて、黙っていろとでも仰るのですか」

「ならば兵らにうまいものを食わせてみせろ。腐っても州牧であろう。そちらには孔飛こうひ殿もおられるのだから」

「おう、張駿ちょうしゅん殿。久しいな。どうせだ。こちらに来て、もそっと召し上がりたまえよ」

 喬倫志きょうりんしが声を掛けると、張駿ちょうしゅんも予想外だったのか、ぎょっとした表情を見せた。

 ふたり、土の上に腰を掛けた。そうしていくらかの肉を食い、少ないながらも供された酒を飲み交わした。

 すべて、兵たちが口にしているものと同じである。

州で楊喜ようき殿に会ったよ」

 それを言った。流したものが伝わっていたようで、張駿ちょうしゅんは驚きもなくそれを受け入れていた。

「今更、楊喜ようき殿を疑うつもりは毛頭ござらん。しかし、何を話されたのかだけは、聞いておきたい」

天下てんがの話を、少しな」

「丞相閣下はまことの天下人にござる。閣下にとってのそれと、我らが思い描くそれでは、違いはござろう」

「少なくとも、憧れを抱くようなものではないよ」

州含め四州、借り申した。それでも思い知らされている。楊喜ようき殿、孔飛こうひ殿、そして董楽とうらく殿がいなければやっていけないほどです。それが十八州。とても想像もできません」

「それでも貴公は、天下てんがに思いを馳せるかね?」

「寝ても覚めても」

 目は、真剣だった。頼もしいぐらいだった。

「最後に残ったのが貴公でよかった。紅賊こうぞくどもにこの国をくれてやるつもりはないが、貴公になら、よしんば負けようとも悔いはない」

「俺も、丞相閣下と相対することができて光栄です。禁軍、十万。全部出してくれた。そして紅月寺こうげつじも」

「死ぬなよ、張駿ちょうしゅん殿。ここまで来たら、貫いて死せ。誰もが夢を見、そして諦めた夢に」

「叶え、そして殉じてみせます」

 そうして張駿ちょうしゅんは、力強く拝礼した。

 純粋な男。子どものような男。それでいい。上に立つものは、そうでなくてはならない。

 私のように、老いて疲れて、空っぽな男では駄目なのだ。

「丞相は、夢の話をされた」

 帰りの馬車の中、馬勲ばくんは俯きながら、そう言ってきた。ひねり出すようなひと言だった。

「お前たちも夢を見た。しかしそれは、間違った夢だった」

「我らの何が、間違えていたのでしょうか?」

紅月こうげつの夢。それは、まことの紅月寺こうげつじのみが見ることを許された夢。お前ではなく、他人の夢だ。他人の夢を語ることほど、つまらぬ話はなかろうよ」

紅月寺こうげつじになろうとした。それがいけなかったのですか?」

「加わればよかったのだ。あるいはあの青張せいちょうと同じように、紅くない旗を掲げれば」

 目を見た。未だ淀んでいた。

「お前は、お前の夢を見るべきだったのだ」

 そこで、馬勲ばくんの顔がはっとしたようになった。

 何かが閃いた。体に感じたものは、浅かった。

 飛ぶようにして馬車から降りた。馬勲ばくんも続く。勢いで土の上を転げ回っても、すぐに立ち上がることができた。

「殺したとて、何も変わらんよ」

 やはり手の甲を浅く斬られた程度だった。

「後継はすでに決めた。陛下に伝えてもいる。三公さんこうだ。司馬、周達しゅうたつ。司徒、糜厳びげん。司空、王磧おうせき。それぞれにも通達している」

「五月蝿い。それでも、紅き月が覇を為すのだ。我らが夢見た、紅き月が」

小楓しょうふう殿はそれをせぬよ。ことを成した後、陛下の御前で紅月寺こうげつじを解散する。世の中そのものが、紅月寺こうげつじのような自浄作用を備えるために」

「それでも、それでもだ。我らの紅き月は」

「紅き月に見る夢は」

 合図、ひとつ。

「甘く、儚く」

 さらば。そう、心のなかで告げた。

 馬勲ばくんの体には、何本もの槍が突き立っていた。


3.


 佳水かすいの防衛に行った呼延設こえんせつの三千が戻ってこない。となれば、じきに水が迫ってくると見ていいか。

「ひと月かけて、防衛戦を下げる」

「どこかで、大きくぶつかるかね?」

州、ほう州が味方につく。大きく囲い込める」

 地図に点を打った。州とたく州の境である。

箔塔はくとう郡か。考えたな、張駿ちょうしゅん殿」

「ここなら十万だろうと十五万だろうとやりあえる。だから一兵でも多く、ここまで下げる必要がある」

 言いながら、呼延設こえんせつの顔が浮かんだ。そして悔しさも。

藩銀令はんぎんれい

 董楽とうらくが声を上げた。さっと、藩銀令はんぎんれいが前に出る。

かく州を捨てる。うまくくだれよ」

 それで、藩銀令はんぎんれいが驚いたような顔になった。それでもしばらくして深く瞑目し、拝礼した。

「残された民は、必ず安んじさせます」

「まこと、かたじけない。うちは朱漣しゅれんだ。徐勇じょゆう閣下と小楓しょうふう殿がいるから大丈夫だろうが、しっかりと睨んでおくれ」

「かしこまりました、殿。ご武運を」

 朱漣しゅれんは目に涙を浮かべていた。

「果報者ですな、張駿ちょうしゅん殿は。配下から閣下ではなく、殿と呼ばれている。心から慕われているのですね」

「それだけが、そしてあなたがたこそが、俺の無二の宝です」

 そう答えると、董楽とうらくは優しく微笑んだ。

 佳水かすいの流れが変わったという知らせとともに、棺ひとつ届いた。眠っていたのは呼延設こえんせつだった。

「討ったのは先代頭首薛奇せつきが子、薛成秋せつせいしゅうとのこと」

「流石は薛奇せつき殿のお子よの」

 言いながら、呼延設こえんせつの頬を撫でた。

 涙は流れなかった。さらば、と心のなかで呟くだけだった。

ちょうの青旗。そして、喪章を」

 馬に乗り、号令した。

青張せいちょう殿しんがりをお勤めいたす。孔飛こうひ殿、董楽とうらく殿は先に」

「相分かった。死ぬなよ、張駿ちょうしゅん殿」

 そうやって、孔飛こうひたちは馬の腹を蹴った。

 げい城には朱漣しゅれんと千五百を残した。

 六里ほど駆けたところで、一度、防備の陣を組んだ。東から三千、来ているという。

諸葛しょかつの旗か」

 諸葛健しょかつけんという、紅月寺こうげつじの将軍。紅賊こうぞく討伐では、よくその名を聞いていた。

「ここに八百、残す。連中が通り過ぎる頃、小突いてやれ。うまく逃げろよ」

 鄧武とうぶにそう伝えた。機転が利くので、細かく指示しなくとも上手に動ける男だった。

 その日の夕刻には、その三千は現れた。騎馬の割合が多い。

「銃列、二斉射。放て」

 間合いはまだ遠かった。それでも号令を下した。

 倒れるものは少ない。むしろ勢いが強まったとも思えるぐらいだった。

 二斉射目が終わる頃合いで、敵陣がぐらついた。呼延こえんの旗が一気に突っ込み、通り抜けていった。それが二度ほどあって、その軍勢はぱらぱらと散っていった。

「よし、退却」

 叫んで、馬に跨った。鄧武とうぶも泣けることをしてくれるものである。

 伝令から都度、連絡は受けていた。朱漣しゅれんは水浸しになったげい城でも二十日を持ちこたえ、飢える頃になって遂に降伏し、自らの首を差し出した。ただ小楓しょうふうたちは、その首を刎ねることはしなかったという。

 藩銀令はんぎんれい呂江りょこうで未だ奮戦している。片足を吹き飛ばされたと聞いたが、それでも死んだとは入っていない。

 誰もが夢のために戦ってくれている。俺の馬鹿げた夢のために。俺は必ずや、それに応えなければならない。

 ひと月と半分を費やして、箔塔はくとう郡に入った。そこから防衛戦を築くのに、また半月を使った。

 その頃には、州、ほう州に出していた楊喜ようきも戻ってきていた。

「都への進出は、あとひと月を要するとのことだ」

 内容に反し、楊喜ようきの顔は暗かった。

「丞相に会ったという話を聞いている。天下てんがについて語り合ったとも」

張駿ちょうしゅん殿、わしは」

「疑ってはいない。しかし、もはや戻れんことだけは言っておく。かつてあんたが俺をけしかけたように、俺もあんたにそうするだけだ」

 がしと、その両肩を掴んだ。どうしてか、ひとまわり小さく感じた。

天下てんが天下てんがだ。それ以外も、それ以上をも、俺は望まん」

 噛みしめるような表情だった。

「やはり、それでこそ青張せいちょうだよ」

「すまぬ。俺はそれしか語れぬからな」

「それでよかった。ああ、すっきりした。ほんとうに、丞相閣下は恐ろしいおひとだったから」

 そうやって楊喜ようきは胸をなでおろした。

「めしを食おう。孔飛こうひ殿に頼んで、羊を山盛り調達してもらったのだよ」

「何をする気かね?」

「敵の目の前でどんちゃん騒ぎだ。げい城では、眼の前で豚を焼かれて、腹を立てたものだよ」

 そうして、ほうぼうで羊が吊るされていった。布陣した敵陣からは罵声が上がり、そのうちに向こうもまた豚を吊るしはじめた。

 美味いめしの自慢合戦。その様子は痛快だった。


4.


 王高越おうこうえつは陣営の中を駆け続けていた。そうして必要なものを、必要なところに配置していく。それだけで一日が終わってしまうこともあった。

 孔飛こうひたちがたく州各地から兵を徴募しているが、結果は芳しくないようだ。ほとんどの郡太守が青張せいちょうに対して不同意を表しはじめたのである。

 廿礼とふたりで地方再生のために駆けずり回り、人脈を築いてきた成果が出はじめていた。

 州内が駄目なら州の外とばかりに、氏、へい族などの異民族から兵を募りはじめたそうだ。こちらはおそらく、楊喜ようきの考えだろう。ただこれも、いくつかの異民族は懐柔済みであり、頃合いを見て後ろから襲わせる手筈でいた。

 そのうち、えいたち端女はしため箔塔はくとう郡に入った。早速、たく州で民衆を蜂起させることを何度か試してみた。最初のうちはかなりの効果が出たが、董楽とうらくたく州に専念してからは思うように行かなくなった。

 それでもたく州、そして孔飛こうひは死に体にできた。今や向こうの兵站線は州の一本頼みになった。そして松稜しょうりょうの五千が、執拗にこれを攻撃しているところである。

 それよりも、州、ほう州である。今のところ、まったく動きが見えない。

 青張せいちょうへの参加は表明している。位置としては都を狙えるが、喬倫志きょうりんしが睨みを効かせたこともあり、それも叶いそうにない。それでも兵を寄越すなり、物資で支援するなどはできるだろうが、それもない。

 あるいはもう一度つつけば、傾けさせることもできるか。

 夏侯業かこうぎょう宛に、何度か文を送った。文面としては断固抗戦を貫いているが、州内が大いに揉めていることは、端女はしためを通じて耳に入ってきた。

伏龍塞ふくりゅうさい将軍の手が空いている」

 まずは徐勇じょゆうにそういうことを言ってみた。徐勇じょゆうは腕を組み、瞑目していた。

「引き込めなくても、吐いた唾を飲ませることはできるかもしれません」

「やってみるか。時間としては、どれぐらいだ?」

「およそ、半月」

「その間に向こうが動けば、こちらの負けだな」

 徐勇じょゆうの瞼が開いた。勇ましい炎が灯っていた。

 えいを呼び、華淳かじゅん州へ攻め入るように伝えることを頼んだ。それでえいはすぐに支度を整えた。

文朗ぶんろうは、元気?」

「ええ。鉛の毒も、花の毒も消え、体もしっかりと戻ってきております。ごはんもたくさん食べるようになりましたし」

らんさんについては」

「いいのです」

 それだけ、つらそうに目を閉じていた。

「見抜けなかった我々の、そして私の落ち度です。らんにも気の毒なことをさせてしまった」

「早く終わらせましょう。そうして、いなくなったひとたちを弔い、思いを馳せる日々を」

「ええ。それがなによりですわ」

 えい。にこりと。綺麗な笑みだった。

 文朗ぶんろうはしばらく、紅月寺こうげつじから離れていた。剃髪ていはつし、寺に籠もっているという。

 産まれながらの紅月寺こうげつじ。あれもまた、業にまみれた道を歩んできた。

 そのうち、小楓しょうふうから呼ばれた。戦場から少し離れた城郭まちを本拠とし、そこで生活していた。

 最近、体調を崩していた。食べたものを戻すのだという。

「ようやく、わかったよ」

 寝台の上の小楓しょうふう。とびきりの笑顔で、腹を擦っていた。

成秋せいしゅうとの子だ」

 言われて、ぽかんとしていた。

「まさか、あんた」

「三ヶ月だって」

「ほんとうなの?」

「うん。今までのはきっと、悪阻つわりだったんだ」

 そのあたりで、自分の頬が緩んでいることに気付いた。

 抱きついていた。そして、抱きしめていた。小楓しょうふう。優しく抱き返してくれた。

「おめでとう、小楓しょうふう。あんた、母親になるのね?羨ましいわ。私は、体はどこまでいったって男だから」

「私と成秋せいしゅうと、そして紅月寺こうげつじ皆の子どもだ」

「女の子がいいわね。きっとあんたににて、可愛くて、生意気で」

「気が早いですよ、王高越おうこうえつさま」

 隣りにいた成秋せいしゅう。頬が赤いが、いつの間にかすっかり大人の男になっていた。

「それとね」

 言いながら、小楓しょうふうは手鏡を手に取った。小さな銅鏡である。

「鏡に、人が映らなくなった」

 言われて、はっとした。

「それって、まさか。あんた」

曹歌釉そうかゆうさまが言っていた、“生まれ変わり”としての資格を捨てる方法。これかもしれない」

「子を成し、子を育んでいる間は、“生まれ変わり”としての力が衰えるということ?」

 言葉に対し、小楓しょうふうはこくりと頷いた。

「くわえて私は、私の記憶を意図的に封じることができる。かつては無意識にそれをしていたけれど、薛父せつふやおとうさんとのやり取りの中で、それができるようになった」

望月山ぼうげつざんで習得した、護王拳ごおうけんの真髄とかいうやつよね?」

「これで、七人目しちにんめさまを封じることができる」

 目には、強いものを感じた。

紅月寺こうげつじと“生まれ変わり”。そして七人目しちにんめさまとの因果。そのすべてを、私は今、終わらせることができる」

 それはつまり、世のすべての乱れの終わり。

 心が高鳴っていた。もう少しで、すべてを終わらせることができるかもしれない。

「でも、ちょっと残念なんだ」

 くすりと、小楓しょうふうが。

成秋せいしゅうと、しばらく交わることができない。がっついてくるの、好きなんだ。これまでの“生まれ変わり”の女の人たちとも話してたけど、一番すごいんだって。けだものみたいだって」

「ちょっと、小楓しょうふう

「あらあら、羨ましいわね。でもまあ、私は殿方には優しくあってほしいかしら?」

「すみません。ほんとうに、気をつけます」

 赤い顔のまま、成秋せいしゅうがうなだれた。

 これからのことを話した。体にさわるのはよくないので、戦場は李桂りけいに任せ、小楓しょうふう王高越おうこうえついく州に戻ることになった。

「ほんとうに、おめでとう」

 再度、本心から、それをふたりに伝えた。

 そうして部屋を出たあたりで、大きく咳き込んだ。口元をおさえた袖のすべてが真っ赤に染まるほど、血を吐いていた。

 もって頂戴。ふたりのため、そして紅月寺こうげつじのこれからのため、もうちょっとだけの我慢なんだから。

 本陣で李桂りけいと業務の引き継ぎをしているころ、とう宛に文一通、届いた。端女はしためのひとりで、足を悪くしてしまったが、李桂りけいが引き取って面倒を見ていた。

州、ほう州とも、青張せいちょうへの不参加を正式に表明」

 それで、立ち上がっていたと思う。ただ視界は、横たわったときのそれだった。

王高越おうこうえつ、動くなよ」

「おっさん、私は?」

「血を多く吐いた。今、起こす」

「お願い。もう少し、もう少しで終われる」

「そうだな。もうちょっとだ」

 きっと、つとめて優しい声だった。

 汚れた着るものを替えたころ、医者が天幕に飛び込んできた。肺腑のできものが大きく破れたとのことだった。

 もって数日。それだけ言われた。

「それでもいい」

 櫓の上から戦場を眺めながら、呟いていた。呼吸はずっと、浅いままだった。

「それでも、すべてが終わるなら」

 途端だった。

「我らの旗は、紅くない」

 三千ほど。敵陣から出てきた。ものすごい勢いである。

「銃列、騎馬。食い止めろ」

 隣りにいた徐勇じょゆうが叫んでいた。

 先頭の騎馬。剣を手に、押し寄せるものを次々となぎ倒していく。心得はないと見えたが、それでも鬼気迫るものがあった。気迫だけで倒し続けているといっていい。

 顔が見えた。丸い顔。

 楊喜ようき

「我らの旗は、紅くない」

 何度も、叫んでいた。銃弾に撃たれ、馬の脚が折れ、他のものがたおれ、ひとりだけになっても。

「我らの旗は」

 そうして、戦場の中心で倒れ込んでしまっても。

「そうよね」

 目を瞑ることなど、許されなかった。ただ皆、一様に、そのさまを眺めながら、静かに涙していた。

 ただ寂しさだけが、胸の中にあった。


5.


 訪いひとつ、あった。それで屋敷の門が久しぶりに開いた。

 小楓しょうふうたちが久しぶりに会いたいとのことだった。楊漢ようかんはただ静かに頷き、楊三嬢ようさんじょうとともに外に出た。

 深山しんざん派が鎮圧されたことも、馬勲ばくん応才おうざいが死んだということも、すべて幽閉中に伝わってきていた。特に馬勲ばくんには、深山しんざん派がたおれてからも、州などが青張せいちょうへ肩入れすることを含めた妨害工作を任せていた。

 数多あまた昇った紅き月、そして何処いずこからはためいた青い旗は、ほんとうの紅月寺こうげつじを残してすべてなくなった。

「父上は何故なにゆえ紅月寺こうげつじに背いたのですか?」

 馬車の中、楊三嬢ようさんじょうは静かに訪ねてきた。

「かたちなど、どれでもよかった。どれでもよくなった。ただ世が平らかでありさえすれば、それでよかった」

紅月寺こうげつじは、世を正すという志のもと、多くの人々が集う場所でした」

「そうであるべきだった。そして朝廷も。そして、そうではなくなってしまった」

「世に諦観ていかんし、絶望したのですね」

「そうかもしれないな。あるいは義憤に駆られたのやもしれん。今となっては、もはやわからんよ」

 楊三嬢ようさんじょう。瞑目し、静かに涙していた。

 年経てから妾に産ませた子だった。長男、次男とも朝廷に入ったが、その惨状に絶望し、世捨て人になっていた。

 ふたりと疎遠になり、きっと寂しかったのだろう。目に入れても痛くないほどに可愛い娘だった。

紅月寺こうげつじがなければ、お前も普通の暮らしができたのかもしれない。いいところに嫁に出せてやれたのかもしれない。それだけは謝らせておくれ」

「私にとっては、紅月寺こうげつじこそが普通の暮らしです。私はここで暮らし、ここで恋をし、ここで死ぬと定めました」

「そうか。そうであったか」

 答えに、外を眺めた。

 親子の会話は、それぐらいだった。

 本営。鏡の間で小楓しょうふうたちは待っていると聞いていたが、その前に一室、寄るという。

 寝台ひとつ。そこにひとり、静かに眠っていた。

王高越おうこうえつ

 すでに、溢れていた。

青張せいちょうとの戦から離れ、こちらに戻って来る途中で亡くなられました。病を押して、ずっと戦いの場におられました」

「おお、おお、王高越おうこうえつ。君が逝くのか。この老いぼれより先に、君が旅立ったか」

 横たわった王高越おうこうえつの体にすがりつき、ただ泣いた。喉をひくつかせ、ただずっと、その名を呼び続けた。

「可哀想に、王高越おうこうえつ小楓しょうふう殿は君のために戦い続けたというのに。君のこれからのために、戦ってきたというのに」

「まことにございます。無念でなりません」

三嬢さんじょう、私はしばし泣くぞ。私はこれ以上の悲しみを知らない。おお、おお、王高越おうこうえつよ」

 楊漢ようかんはただずっと、そうしていた。

 涙も声も枯れ、疲れ果てたあたり、ようやく動けるようになった。楊三嬢ようさんじょうの手を借り、よろよろと立ち上がった。

 さらば、王高越おうこうえつ紅月寺こうげつじに救われ、紅月寺こうげつじの先を夢見たものよ。

 鏡の間。その女はすでに鏡の前に座し、静かに気を練っていた。楊漢ようかんはその後ろ、少し離れたところで足を止めた。

七人目しちにんめさまにお会いする」

何故なにゆえにだ?」

「すべてが終わることを告げる。世はもうじき平らかになること。私が“生まれ変わり”としての力を保つことが難しくなったこと。そして、私は今までのすべてを忘れることができるということ」

 そこまで言って、小楓しょうふうは鏡越しに、真剣な眼差しを向けてきた。

「私は、薛成秋せつせいしゅうの子を成した」

 言われて、驚きだけがあった。

「それが、“生まれ変わり”の資格を捨てる方法だと?」

七人目しちにんめさまにお会いするためには条件があると薛父せつふは言っていた。子を成していない女。きっとそうだ。子を育むために、女は“生まれ変わり”としての力をも消費する」

「君はその条件に合致していた。そして今、その条件に当てはまらなくなった」

薛父せつふが子、成秋せいしゅうとともに、紅月寺こうげつじと“生まれ変わり”のすべてを終わらせる。立ち会え、楊漢ようかん。かつて紅月寺こうげつじのすべてを支えたものとして」

 その言葉には強い覇気を感じた。思わず拝礼するほどに。

 しばらくして、姿見がみしりと音を立てた。物々しい雰囲気に包まれる。

ちこう」

 姿見。見る間に赤黒く染まっていく。そうしてがたがたと震えている。

「もそっと、ちこう」

 ぼんやりと写った。ぼうっと立ち尽くし、俯いた女の姿。小楓しょうふうの姿。

 そうしてそれが、静かに顔を上げた。煌々と光るあかい瞳とともに。

 これが、七人目しちにんめさま。

「紅き月は数多昇れり。そして青き旗は翻る。しかしてそれはすべて過去の話。もうじき世の乱れは正されます」

「そうか。人はまだ、永らえるか」

「はい。そして私は今、英雄たる薛成新せつせいしんが子、成秋せいしゅうの子を授かりました。この子を育むため、すべての力を捧げます」

「ほう」

 鏡の中の小楓しょうふう。小馬鹿にするように笑った。

紅月寺こうげつじの役目は終わります。そして我ら“生まれ変わり”の役目も、また。これでお別れにございます」

 座した小楓しょうふう。立ち上がった。隣にぴたりと成秋せいしゅうが寄り添った。

 ふたりの紅月寺こうげつじ。それで、すべてが終わる。

「そうか、お前はそうするのか」

「はい。そうします」

「わかった。そうすればいい」

 鏡の中の小楓しょうふう。思ったより穏やかだった。

 これですべて、終わり。七人目しちにんめさまの怒りは外に出ることなく、小楓しょうふうの中で途絶えていく。

 紅き月に見る夢は、甘く、儚く。すべて一夜の夢なれば、まどろみのうち、すべてを忘れる。

「だが私は、そうしない」

 鏡の中の小楓しょうふうが、口元だけで笑った。

 突然だった。

 小楓しょうふう。うずくまっていた。腹をおさえている。苦悶の表情。脂汗がにじみ出ている。

小楓しょうふう

「寄るな、成秋せいしゅう。私に、何かが起きている」

 苦痛に歪んだ声。その体はずっと、震えていた。

成秋せいしゅう楊漢ようかん。逃げろ。そして逃がせ。七人目しちにんめさまが、お見えになられる」

「よくわかったねえ。えらいこだ」

 鏡の中から、嘲笑あざわらうような声が響く。

「よくやってくれた。私を顕現させるにふさわしくない器となるよう、よく子を成してくれた。全部、逆だよ。お前の子として、私は生まれ変わる。お前ではなく、お前の子を器として」

七人目しちにんめさま。あなたは、一体」

「何なんだろうねえ。もう、よくわからないよ。だから私は、私の意のままにを為すだけだ」

 苦悶の叫びが上がった。小楓しょうふうだった。

 床が濡れている。血。あるいは破水か。腹も膨れていないのに、早すぎる。

「もとより私は、あまねく人の血と記憶に刻まれた、過去。燃やされ、塗りつぶされたとて、いずれ誰かが見つけ出す存在。初代の“生まれ変わり”がそうであったように、いずれ然るべきものが見つけ出し、器となる」

「ならば、紅月寺こうげつじとは」

「知ったことではない。お前たちが勝手に作ったものだ。私の怒りを封じるだとか、世を正すだとか言ってね」

 せせら笑う声と悲鳴だけが響く。楊漢ようかんたちはただ、どうすることもできず、その場に立ち尽くしていた。

ひとすなわちりゅうなり繆沢きゅうたくさまがそうしたように、りゅうを滅ぼさねばならぬ。りゅうたるひとをもまた、殺し尽くさねばならぬ」

「それだけは、絶対に」

「するよ?だって、お前がせっかく用意してくれたんだもの」

 ひときわの叫びだった。

 ぐったりと倒れ込んだ小楓しょうふうから、何かが這い出てきた。血と肉の、小さな塊。それはゆっくりと這いずりながら、しかし徐々に大きくなり、人のかたちを見出して。

 そして、立ち上がった。

「ああ、久しぶりだなあ」

 女の姿。小楓しょうふうと、瓜ふたつの。

「皆、逃げろ。逃げるんだ」

 小楓しょうふうの声。

 でも、どうだろう。楊漢ようかんはただぼうっと立ち尽くしていた。

 いや、魅入られていた。その姿に。その、美しさに。

「父上」

 何かが駆け寄ってきた。そうして体を揺すってきた。それだけ、わかった。

楊三嬢ようさんじょうっ」

 それが倒れたのも。そして、それの血を浴びたことも。

小楓しょうふう殿、ここまでありがとう」

 本心だった。ほんとうに、嬉しかった。感謝だけがあった。

 今ここに、七人目しちにんめさまにまみえた。それが叶ったのだから。

「従うかね?楊漢ようかん

 美しい声。鼓膜が、喜びに震えていた。本能のままに跪き、拝礼した。

「万事、御意のままに」

「よろしい。兵を集めよ」

 それはゆっくりと振り向いた。

 やはり、小楓しょうふう。そしてそれよりも美しい、あかい瞳。

「ああ、七人目しちにんめさま。お名を、そのお名を頂戴してもよろしいでしょうか?」

「我が、名か」

 笑み。穏やかな、そして人では、決して見せてくれないような。

 その美しさとあかに、心を奪われていた。


「ただほのおとだけ、呼べばいい」


(つづく)

◆登場人物

紅月寺こうげつじ

小楓しょうふう杜小楓としょうふうとも。紅月寺こうげつじ頭首。

薛奇せつき:故人。先代頭首。

成秋せいしゅう小楓しょうふうの側近。薛奇せつきと妾の子。

文朗ぶんろう文二児ぶんじじとも。紅月寺こうげつじの猛将。

楊漢ようかん:かつての席次筆頭。反乱分子を煽動していたため、幽閉された。

王高越おうこうえつ:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。

李桂りけい:軍事を担当。

華淳かじゅん:後将軍。伏龍塞ふくりゅうさいを率いる。

えい華淳かじゅんの妾。紅月寺こうげつじでは諜報を担当。

呂信りょしん呂無頼りょぶらいとも。銃兵を操る精鋭。

【朝廷】

喬倫志きょうりんし:丞相(総理大臣)。紅月寺こうげつじに協力を依頼。

徐勇じょゆう:大将軍。禁軍全体を率いる。

【青張連合】

張駿ちょうしゅん青張せいちょうとも。州牧(行政長官)。

邱虎きゅうこ張駿ちょうしゅん配下の武将。

呼延設こえんせつ張駿ちょうしゅん配下の武将。

楊喜ようき州牧。外交を担当。

孔飛こうひたく州牧。兵站を担当。

董楽とうらくかく州牧。行政、司法を担当。

【その他】

繆沢きゅうたく:神代の覇者。ずい国を興したが、暴虐を働きしいされたと伝わる。

七人目しちにんめさま:謎の存在。“生まれ変わり”の根源とされる。

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