挑むこととは
1.
大砲三列、並べられていた。
城郭のあちこちから悲鳴が上がっていた。無断で白旗を上げようとするものを、候晃は躊躇いもなく斬り伏せていた。
味方の血であれ、浴びれば昂ぶるものはある。
深山派紅賊の本隊が動いた。
三万。大軍といっていい。大してこちらは千二百。城郭の城壁には鉄骨を仕込んではいたが、性能の向上した大砲の前に、どれだけ耐えられるものか。
ここに敵本隊が来たということは、毒が効いたということだ。
深山派の人間が帝の身辺に潜り込み、帝に行幸を勧めていた。それを捉えた英と喬倫志の策である。それに乗るかたちで、深山派を釣り出す算段だったのだ。
ここには帝はいない。歳の頃同じぐらいの童を入れて、それも数日前に難民に化かして逃していた。
ここで耐えて耐えて、李桂たちをなるべく多く陶州に入れたい。禁軍二万も、運河上流から陶州に乗り込むとも聞いている。
こういう囮だとか殿軍だとか、損な役回りは得意だった。
汚れた袍を着替えた。めしを食う。ものは兵たちと同じである。郁州の本営からは不足なく物資は届いているし、温かいものを食わせてやることもできていた。
寝室に入る。冰はすでに、寝台の上で待っていた。
襦袢だけの冰。綺麗だった。自分には不釣り合いだと思うぐらいに。
抱きしめていた。いや、抱きついていた。冰の肌にすがりつき、乳房に顔を埋め、その肉を揉みしだいていた。
死ぬ覚悟はしたつもりだった。それでも、恐ろしさは強かった。何度言葉にしても、人にそれを強いたとしても。
冰。下女のひとり。候晃より背も高く、手も足も長い。その肌の白さと、儚げな美貌に、一目で心を奪われた。
力を振りかざしてものにした。それでも、冰は何も言わなかった。
いつからか、冰の前だけでは、すべてをさらけ出していた。上のものに対する不満を撒き散らし、下のものに対する愚痴をこぼしていた。そうするたび、それでも冰は、何も言わずに微笑んでいた。
今日も、冰の手の中で果てた。女陰に放つことは滅多にない。冰の声で、耳元で囁かれながら、あるいは耳を吸われ、齧られながら、冰の薄い手のひらに包まれて果てる。
そのたび冰は、候晃の出した白いものを、その舌で舐めあげるのである。その妖しげな瞳で、こちらをじっと見つめながら。
男として劣っていた。不細工で不格好で、声にも幾らか吃りがあった。人を見返す一心で努力をし、軍人になった。たとえ人から嘲られようと、才覚を磨くことを怠らなかった。
紅月寺に参加したのも、そういった反発からだろう。
「殿は、賊軍を恐れていらっしゃる」
「こわい、こわい。ほんとうに、心の底から」
「他の方々には、恐れずに死ねと言いながら」
「そうだ。私は最低な人間だ。自分にできないことを、人に強いている」
「それをお認めになられております。殿は素直なおひとです」
耳元で囁かれた。それでまた、男のものは勃ち上がった。それを見て、冰は仕方なさそうに、くすりと笑った。
「殿の素直さに、私は心惹かれた」
男のものに、冰の手が伸びる。ねぶるような手つきに、候晃は思わず身悶えた。
「殿は、私の何に惹かれたのですか?」
「私は、お前の清らかさに」
「嘘つき」
微笑んだ。魔物のような、それでいて、魅入られるもので。
「殿はいつだって、それについてはほんとうのことを仰らない」
「しかして、それは」
「言って?ほんとうのこと」
「お前の姿に」
腰が浮いた。天井を眺めながら、それでも視界の端で、冰は微笑んでいた。
「お前が美しいと思った。綺麗だと思った。どんなことをしても、手にしたい。手籠めにしたい」
「嘘つき」
「私より背が高くて。私より、ずっと細くて。ああ、冰」
「ほんとうは?」
もう片方の手が、乳首をつねった。それで、耐えられなかった。
「今日も、仰って下さらなかった」
手についたものを、舐めていた。見てはいけないもののようだった。
「殿の、嘘つき」
そうやって、冰は笑った。
冰に嬲られること。侮蔑され、嘲笑れ、辱められること。快感だった。それが日々の活力になるほどに。
城壁に並べた大砲は、三分の一が壊されていた。謝堅が苦い顔をしていたが、候晃はつとめて気にしなかった。
「ご頭首殿は救援を寄越すと言っておりましたが、一向に来る気配がない」
「他の紅賊の対応にもあたっている。そう簡単には出せないのだろう」
「我らを見殺しにする気ではないでしょうか?」
「もとより囮だ。私たちがここで敵を引き付けることそのものに、意味がある」
「候晃殿は、それでよろしいのですか?」
謝堅が声を荒げた。胸ぐらを掴んできすらきた。
興奮し、震える瞳孔。それでも候晃は、それをじっと見返すことができた。
「命令に従え。それができないならば、ここを去れ。他のものがそれを許すかは知らないが、私はそれを許そう」
それだけ言うと、謝堅は手を離した。
軽騎二百を引き連れて、敵陣の中を駆け回った。向こうは士気がまばらで、少数でもかき乱すことはできた。
本営からは、あと七日持ちこたえろとだけ、伝えられていた。
頭首である小楓。会ったことは少ない。それでも惹かれた。幼さと凛々しさに。
跪き、頭を垂れた。心は踊りに踊っていた。
女に傅くこと。痛めつけられること。きっと、そういうことがたまらなかった。仄暗い欲望として、そういうものがある。
人にはそういうものを出さなかった。冰以外には。
冰の足。舐めていた。寝室で這いつくばり、むしゃぶりついていた。
「冰、冰。ああ、寒いのだ」
「いやです。そうやって震えていてください」
「抱かせておくれ、冰。私は、お前の中に」
「駄目」
男のもの。はち切れんばかりになっている。冰はそれを見るだけに留め、触ってもくれない。
「ああ、冰。許しておくれ」
「何を、許すというのですか?」
「私の弱さを。私の、このような姿を」
「駄目」
言葉が耳に入るたび、快楽が押し寄せてくる。背筋が震える。
「私は、殿の弱さも、そのようなお姿も愛おしいから」
「それでも、許しておくれ。お前で私を、温めておくれ」
「殿は、私の何に惹かれたのですか?」
「それは」
「言って?」
「お前の、冰。ああ、お前の」
そこまでで、耐えられなくなった。
床にぶちまけていた。触られてもいないのに。そうやって腹ばいにへばりついて、すすり泣いていた。
「今日も、仰って下さらなかった」
「冰、ああ、冰」
「意気地なし」
耳元で、囁かれた。それでまた、達した。
朦朧とする意識の中、冰を見上げた。着物を羽織りながら、冰はずっと微笑みながら、その瞳で見下してきた。
ああ、冰。私の、冰。いや、もはや、お前の私なのか。
明くる日、謝堅の姿は見えなかった。ひとりだけで逃げ出したという話だった。
城壁に梯子や雲梯が架けられはじめた。銃や鉄包で対応していく。
「程方烈殿の一万。明日にも到着」
伝令の言葉に、城内の空気が一気に燃え盛った。
「死守、死守じゃ。死ぬ気で生きれば、永らえられるぞ」
叫んだ。そうして城壁の上から、ありったけのものを投げつけていた。
「陛下の御旗と、紅月の旗を」
城壁のあちこちに掲げられた。それで熱狂は天を突くほどになった。
突如、轟音。衝撃。足元が揺らぐほどに。
「北東の城壁、崩されました」
報告より先に、体は動いていた。
「土嚢、積めい」
「侯晃殿、危のうございます」
「百も承知」
そうやって、駆けていた。
崩れた城壁。敵兵どもが濠を越えて、中に入りかけていた。戟ひとつ引っ掴んで、候晃はその前に立ちはだかった。
戟を振るうたび、悲鳴と喚声が上がった。
「侯晃殿、そろそろ中に」
周玄の声だった。それで、振り返ったはずだった。
何かがぶち当たった。思わず、横たわっていた。そうして少しもしないうちに、何人かに担がれていた。
「おい、何が起きた?」
聞いたが、答えはなかった。
しばらく、騒がしさの中にいた。言葉はすべて聞こえるが、聞き取れないか、理解ができなかった。
ただとにかく、痛みのようなものは感じていた。
「殿。ああ、殿」
冰だった。見たことがないぐらい、狼狽えた表情だった。
見渡す。どうやら寝室のようだ。
「冰、顔を、見せておくれ」
「はい、殿。ここに」
頬に触れようと、右手を伸ばした。肘から先がないことに、そこで気付いた。
「冰。私は、どうなっている?」
「ぼろぼろでございます、殿。生きているのが不思議なぐらいに」
「そうか。周玄は、どうした?」
「同じく城壁の崩落に巻き込まれ、亡くなられました」
「なるほどな」
思わずで、笑っていた。
金栄を呼んだ。見るなりはっとした表情になり、そうして神妙になって近づいてきた。
「あと一日だけ、持たせてくれ」
「はっ」
「死ぬるは今ぞ。死ぬ気で生きよ。そうして他のものを生かせ。ひとりでも多く。紅月寺のためではなく、人として生きる我々のために残してくれよ」
「必ずや」
「無茶と無理ばかりを申し付けた。至らぬ限りだ」
「それでも、我らは応えてきました」
「そうだったな。ありがとう」
つとめて笑ってみせた。それで金栄は俯いてしまった。
金栄が外に出た。冰とふたりきりになった。
冰はただ、俯いていた。
「こっちへ、冰」
「いやです」
「泣いているのか?冰」
「はい。殿が、かような姿になってしまったのですから」
「どんな姿かがわからぬが、それでも泣いてくれているのだな」
抱きとめたかったが、体は動いてくれそうもなかった。
「殿の、嘘つき」
ぼそりと、呟いた。
「嘘つきで弱虫で、意気地なし。それなのに敵の中に突っ込んでいって」
「そうだな。きっと、こわかったんだ」
「こわいと、そうなさるのですか?」
「ああ。頭が真っ白になって、がむしゃらになるのだ。きっとそうだ」
そうやって、笑ったつもりだった。
「本当のことを言う」
「えっ」
「お前のすべてに惹かれた。それ以上に、お前に屈したかった。心も、体も」
言葉に、冰は自然と寄り添ってきた。頬を濡らしつつも、微笑みながら。
「お前に打ち負かされたい。なじられ、踏みにじられ、弄ばれたい。ああ、今もそうだ」
「いけないひと。それでも、それ以上に、素直なひと」
「このまま傷に負け、血を失って死ぬよりは、お前に殺されたい」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
つとめて微笑んでみせた。それに、冰も応えてくれた。
「じゃあ、殿のこと、私が殺してあげる」
そう言って、その細い指が、候晃の首に伸びてきた。
冰。震えていた。それが伝わって、愛おしさが膨れ上がってきた。それでも冰は、きっと必死に力を込めたかったのだろう。そうやってそのうち、子供のように泣きじゃくって、手を離してしまった。
ああ、冰。泣かせてしまった。私が至らないばかりに。私がちゃんとしていれば、お前をもっと喜ばせてやれたものを。
寄り添ってきた。泣きながら、震えながら。候晃はそれを、ある分の体で抱き寄せ、抱きしめた。
温かかった。それだけできっと、十分だった。
2.
学者を何人か募って、話をした。結論はどれも、憶測の域を出ないものばかりだった。
瑞のはじまり。川均しの繆沢の伝説。その繆沢に付き従い、そして繆沢が暴虐に走ってからは、それを諌め、遂には弑した六人の王。
そこに七人目なる人物がいたかどうか。
海より現れた龍王。川を遡り、山を目指した。川は溢れ、原は大いに荒れた。そこに立ちはだかったのが繆二郎、ないしは繆沢。龍王に相対し、それを斃した。その血肉を天に捧げたことにより、この地は大いに栄えた。これこそが瑞国のはじまりである。
ここまでが、伝説上の話である。
それでも語られていないことは多い。繆沢がなぜ暴虐に走ったのか。暴虐の謗りを受けるほどの行為とは何か。高家をはじめとする、かつて実在した六人が王の末裔たちは何をしたのか。
そこに何かがある。七人目さまの正体。そして七人目さまが人を憎むに至った理由。
楊漢がいない以上、こういうことも王高越がやっていかなければならない。
そのうち、何良がひとり連れてきた。西の人で、老人だった。
名乗りはしなかった。どうやら拝陽教の僧侶のようだった。
「繆沢さまのことを、我々は御使と呼びます。太陽の化身。我らが生ける大地となり、永久に横たわる神たる父の使いと」
思わず、ほう、と声を上げていた。
「御使さまは朱き瞳の龍を討ち、天に至りて太陽へと姿を変えた。その陽光に照らされた地こそが、黄金都市繆沢園」
「川均しの繆沢の伝説と、見事に一致するわね」
「繆沢伝説における六人が王。それに該当するのが、繆沢の六人たる庇護者たち」
「天に至って太陽へと姿を変えた。つまりは死んだとも捉えていい。六人の庇護者が、それを殺したと?」
「そこまでは、伝わっておりません」
瞑目しながら、僧侶は答えた。
「しかしながら、その六人とそれに近しいものたちが、これまでの歴史を改竄してきたことは残っています」
強い語気だった。気圧されるほどに。
「六人たちは自身にとって都合の悪いことを焼き滅ぼし、塗り潰してきた。それでも残っていたものがある。その中にあるいは、この瑞の国に伝わる繆沢伝説と、拝陽教の経典との差異の部分が含まれているかもしれません」
「繆沢が晩年、暴君になった。そしてそれを、六人の王が弑したこと」
「何らかの欲望をもって、御使さまを弑し、そして暴君として貶めた。そう考えることは可能でしょうな」
「ことを成した英雄を排除するというのは、よくある話ではあるものね」
となれば、七人目さまもまた、六人の王たちによって塗りつぶされた存在と考えることもできる。
繆沢に仕え、六人の王の暴虐を防ぎきれず、繆沢を守りきれなかった存在。
その怨念を、代々の“生まれ変わり”は繋いできた。それがどこかで、紅月寺というかたちに変質したのか。
「孟城の様子は?」
執務室に入った。軍議。廿礼たちが卓に集まっていた。
「程方烈殿の軍勢が到着したようですが、ぎりぎりの様子です。ご頭首殿の軍勢も、もうじき届くかと」
「陶州には、李桂のおっさんと徐勇大将軍が入れた。これで深山派は動けなくなるはず」
地図に点を打ちまくっていた。もはや見えないぐらいになっていた。廿礼が新しい地図を持ってくる。
「青張、青張、青張。ああくそ。あいつら、呂江に手が届いた」
「下流は呼盛将軍の水軍で食い止められます。殊国、誒国と繋がるにも、日が必要です」
「華淳将軍以外の駒が欲しい。文朗が一万以上を率いることができたら」
「人間が少なすぎます。兵も将も。まずは深山派を制圧してから話を進めましょう」
「時間を与えれば、向こうも有利になるわ」
「それはこちらも同じ話です」
「あちらは州単位、こちらは郡単位よ」
廿礼の胸ぐらを掴んでいた。そこではっとして、手を離した。
「少し、お休みください。何日もこうやっておられる」
「ええ。お言葉に甘えることにするわ」
よろよろと、その場をあとにした。
三日ほど、仕事から離れた。身を清め、書に親しみ、花を愛でる。そういうことをした。
そうしているうちに、訪いがあった。英だった。
「少し、台所をお借りしますわ」
そう言って、微笑んだ。
ぼうっと、英の姿を眺めていた。華淳の妾ということもあって、家のことも得意なのだろう、実にてきぱきと働く。下女たちの助けもいらないぐらいだった。
何品か出てきた。特に美味しかったのは、蒸し鶏の湯だった。辛さはないのに、口に入れるたびに滝のような汗が出る。体が芯から温まり、目も頭もすっきりとした。
一度、着るものを変えてから、茶をいただいた。
「英さんはほんとうに、何でもできるのね」
「端女とは、つまりは側女。殿方の側に仕えるための術を備えてこそですから」
「私は何にもできない。立場を手に入れてからは、人に任せっぱなし」
「役割がありますもの。私は王高越さまのように、知恵を使ったことはできませんわ」
そうやってふたり、くすくすと笑った。
他愛もない話をした。生まれのこと。今までの紅月寺のこと。華淳との生活。そういった、なんでもないようなこと。
「私には、紅月寺しかない」
語りながら、そう思った。
「紅月寺。それがすべて。そのために生きてきた。そのために、生きていた。それ以外のすべてをなおざりにして」
「王高越さまにとって、理想の環境だった。そうなるのも仕方ありませんわ」
「単なる人として生きることが叶うのならば、見聞を広め、世に親しむことができたはず。それが選べなかった。今になって、悔しい思いがある」
「小楓さまがきっと、それをもたらしてくれる」
英。茶を啜りながら。
「紅月寺を解散する。紅月寺のいらない世界を作る。紅月寺のなくなったあと、そうなさるとよろしいかと」
「小楓が、私を紅月寺から解き放ってくれるのかしら?」
「ええ、きっと。そこにあるのは、自由という、膨大な選択肢。そのなかで、取りこぼしたものを拾いに行くというのは、ひとつ、いいことかもしれませんわ」
「英さんは、どうしたい?」
「私も、お暇をいただこうかしら」
「あら。どうして?」
「奥さまからすれば、きっと生意気な妾でしたでしょうから」
言われた言葉に、思わず笑っていたと思う。
「ここへきて、朝廷内の虫の量が増えてきた。今のところ、すべて深山派の連中だ」
職務に戻った。まずは文朗と話をした。各地の情勢を把握することを任せている。
「喬丞相がすべて抑えてくれている。あのひとはすごいな。守りにとんでもなく強い」
「身ひとつで丞相まで昇った傑物よ。毒も汚れも、知り尽くしている」
「深山派。まとまりを欠きはじめたようだ。それぞれの虫で、思惑が異なる。陛下を弑そうとするものもいれば、阿り、これまでのことを水に流してもらおうとしているものもいる」
「やはり、楊漢の」
言って、口の中が苦くなった。
「後ろ盾がなくなった。それが大きいのね」
「孟城と陶州の二方面作戦が成功すれば、立ち直れないだろう。各地の紅賊も、次々帰順、降伏しはじめている」
「青張は?」
「今のところ順調。やはり外交面が強い。ただ朝廷と正面切ってやるつもりは少ないだろう。それだけの大義名分が向こうにはない」
「こちらも外交で勝負するか」
「それについては、尚書令孫保閣下が動いてくれている。向こうの楊喜殿とともに、動乱の着地点を模索しているようだ」
「いっそ、独立自治を認めさせるのも手よね」
そこまでで、胸のどこかがむず痒くなった。それが小さな咳として出てきた。
痰に、血が混じっていた。
「おい、王高越殿」
「大事ないわ。それより」
「そんなわけないだろう。いつからだ?」
「ひと月ほど前から。陳籍先生には診てもらっている」
「ちゃんと休んでくれよ。あんたがいなくなったら、いよいよ紅月寺は立ち行かなくなる」
「英さんがいる。廿礼ちゃんがいる。あんたもいる。そして何より、小楓が。私はそれを支えるだけ」
「それがなにより大変なことだろう」
呆れたように言われた。
文朗が陳籍を連れてきた。やはり肺腑に何かがあるらしい。
「渡した薬、飲んでないだろう?」
「あれ、ちょっと苦くて」
「そうじゃない」
陳籍もまた、呆れたように言ってきた。
「薬を飲み、体を休める時間すらもったいない。そう思っている顔だ」
言われて、内心でそれを恥じた。確かにそうだった。
「とにかく休みなさい。しっかり食べて、しっかり眠る。それだけでも病に打ち勝つ体はできあがる」
「わかりました。ごめんなさい」
黙って、頭を下げるだけにした。
それでもしばらくは、政務に追われていた。紅賊、青張、そして紅月寺自体の運営。やることは山ほどにある。人に任せたとしても、やはり最後の最後は自分が確認したかった。
そうやっているうちに、咳の量は増えた。吐く血の量も。
姿見の前に立った。映るのは、自分の姿だけだった。
やせ細り、頬の痩けた、王高越の。
「薛哥」
不意に、声が出ていた。
「私、いま、綺麗かなあ」
姿見の自分にすがっていた。涙を流しながら。
ああ、薛哥。会いたい。私が“生まれ変わり”だったら、ここで会えたのに。
そうやってずっと、鏡の前で泣き崩れていた。
3.
松稜の五千が、敵軍に切り込んでいった。それだけで、いくつかの首が槍の穂先に掲げられた。
孟城からは、すでに火が上がっていた。それでも中にいるものは元気だった。もといた千二百に諸葛健の三千を追加したところ、さらに走り回るようになった。
守将候晃は死んだようだった。事切れた下女に抱きかかえられるかたちで、燃えて崩れた部屋の片隅で見つかったという。
「逆境に強い男だった」
脂の浮いた顔で、小楓が呟いた。
「いつだって危険な場所にいた。それを耐え、跳ね除けるだけの力があった」
「だからこそ今も、孟城は生きている」
「あの城郭こそ、候晃だ」
そう言って、小楓は瞼を閉じた。
程方烈の軍勢が、着実に敵軍を削いでいる。大砲と重騎の突撃を組み合わせて、どんどんと突破していく。
小楓が側のものに、具足を用意させた。胸甲と兜だけだが、その小柄な体が引き締まるほどになった。
「行こう、成秋」
「うん、小楓」
そう言ってふたり、それぞれの馬に跨った。
親衛隊八百。露出した敵本陣に向かって、丘から一気に駆け下りた。先頭の竜騎兵が放つ騎兵銃が、防備を切り開いていく。
「紅月寺頭首、杜小楓。見参」
小楓が抜刀し、吠えた。雑兵を次々と斬り伏せていく。成秋もその後ろから、矢を番えては放つことを繰り返した。
旗が揺らめく。帝の旗と、紅月の旗。
「厘橋郡太守、胡彭俊。我こそは紅月寺なり」
轟砲。騎馬ひとつ、正面から突っ込んでくる。
薙刀。小楓の剣が、それを弾いた。三合、打ち合う。
「死にぞこないの小娘めがっ」
胡彭俊が言えたのは、それぐらいだった。薙刀を持つ腕が宙を舞い、その次に首が飛んだ。
その日の夕刻には、賊軍は散り散りになった。
ひとり、連れてこられた。応才というらしい。
「これで、紅き月はひとつになった」
「私は覇者にはならない。陛下の御旗のもと、瑞は永らえる」
「それでいい。それもまた、ひとつのかたち」
応才の細い目が、炎をたたえていた。
「我らは次代の礎。そのために生き、そのために死ぬ。それこそが我らの志」
言葉に、小楓の顔が歪んだ。怒りのそれだった。
「志だと?」
抜刀した。思わず、成秋はその手を掴んでいた。
「放せ、成秋」
「駄目だ、小楓」
「志という言葉のために、何人が死んだ?何人が家を失い、何人が苦しんだ?もうたくさんだ。死ぬならひとりで死ねばいいものを」
「小楓、落ち着くんだ」
「志とは病だ。不治にして致死の病だ。他者を顧みず、大勢を巻き込み、そうやって吹き荒れて消える。馬鹿馬鹿しい。田畑のひとつにも値しない、下らない狂気だ」
「それでも、生命を賭するに値する」
「私の父母はそうやって死んだ」
応才の言葉に対し、ひときわの叫びだった。
「もう、帰ってはこない」
唇を、噛んでいた。血が滲むほどに。
対して応才。静かに瞑目し、首を差し出してきた。成秋はそれを、連れて行くようにだけ、側のものに命じた。
その場に残ったのは、小楓と成秋だけだった。
「七人目さまの言うとおりだ」
ぼそりと、小楓。
「人なんて、龍とおんなじだ」
上げた顔。悲痛に歪んでいた。
そしてその瞳は、わずかに朱かった。
頬を叩いていた。小楓はそのまま横を向き、俯いていた。
「ごめん、小楓」
「ううん。私も悪かった。ごめん、成秋」
「とにかく、落ち着こう。孟城に入ろう」
「わかった、ありがとう」
そうして、終わった。
孟城は、城壁のあちこちが崩れていた。連れてきた職人たちが早速、壊れた箇所に飛びついていた。兵站線は途切れていなかったので、飢えたものはいなかった。
活気がある。帝の旗と紅月の旗。そして候の旗のもとに、それがある。
違和感、ひとつ。城壁の片隅にひとり、ぶら下がっていた。
「謝堅とかいう、候晃さまの側近だったやつ。ひとりだけで逃げようとした臆病者だよ」
城郭の人たちはそう言いながら、石を投げていた。
「名を、候城に改める」
死んだものたちの亡骸を埋めながら、小楓がそう言った。
しばらく、軍の再編に時間を使った。諸葛健を残し、程方烈と松稜は、青張方面に向かわせることにした。
李桂たちの陶州攻略部隊も、本拠までたどり着いたようだ。あとは時間をかければ片付くだろう。
小楓はまた少し、眠れなくなっていた。応才とのやりとりで起こった心のざわつきが、そうさせているのかもしれない。
「小楓が家族のことを語ったのを、はじめて聞いたと思う」
小楓と交わったあと、そういうことを聞いてみた。小楓は静かに瞼を閉じた。
「いやなら、言わなくていい」
「私は、紅月寺のために産まれ、紅月寺のために育てられた。おとうさんは薛父と志を違えて出奔し、おかあさんは心を壊し、私が“生まれ変わり”に選ばれたあたりで亡くなった」
抱きついてきた。小さく震えていた。
「私には、紅月寺しかない」
「それでも小楓は、紅月寺をなくすんだよね?」
「うん。紅月寺を都合のいい存在にしないために。おとうさんやおかあさんのような人を産まないために」
「つらいことを選んだんだね、小楓は」
「つらかった。今だってつらい」
ひとすじ、流れた。
本営に戻る前に、一度、鏡を見ることをするようだった。すぐに部屋ひとつもらって、支度を整えた。
雰囲気がいつもと違った。姿見の前に座し、気を練るところからして、物々しさがあった。
「近う」
ぼそりと、聞こえた。
「もそっと、近う」
体は、姿見の前に動いていた。
姿見の前の小楓の瞳が、朱い。
姿見の中。立ち、俯いた小楓。その周りは、血に塗れている。
七人目さまだ。
「あえて私を呼んだね?」
「はい、七人目さま。あなたさまに呼ばれたがゆえに」
「お前も見ただろう?あれが人の姿だ。欲望に醜く肥え太り、何も顧みない。あれのために大勢が死ぬ」
「巻き込まれ、死ぬのもまた、人です」
「そうだ。同じぐらいに醜い人どもだ」
姿見の中の小楓。笑っている。口角が目の端に届くほどに。
「人即龍也。滅ぼさねばならぬ。かつて繆沢さまがそうしたように、暴虐の権化たる人を、我々は排さなければならない」
「やはり、その場におられたのですね?」
「そう。私は見てきた。繆沢さまが龍を斃し、人を救い、そして弑されるさまを。あの六人どもが繆沢さまを貶め、弑し、自らの罪を塗り潰したさまを」
「何千年も、あるいは何万年もの過去の話です。我々はそれを忘れなければならない。乗り越え、次に行かねばならない」
「己が罪を忘れるためにか?」
突如、小楓が呻いた。その手が、自身の首を絞め上げている。
「そういうところだ。贖罪といいつつ、都合よく己の罪を塗り潰し、なかったことにする」
「違う。私たちは、罪を贖うために」
「ならば死せ。繆沢さまの墓前で死せ。その墓も、どこに作ったかも覚えていないだろうに」
「あのお方は、泣いておられた」
小楓の言葉に、姿見の中の小楓は、はっとしたような表情を見せた。
「きっと、あのお方です。悲しみに、泣いておりました」
「見えたのか?何故に?」
「わかりません。ただ私は見えました。あのお方は何も言わず、泣いておりました」
姿見の中の小楓。戦慄いていた。
小楓の手が、首から離れる。跡が残るぐらいだった。
「私は、許さぬ」
怒気に震える声で、姿見の中の小楓が呻いた。
「絶対に許さぬ。あのお方が許しても、私だけは許さぬ」
「その怒りを、私たちは外には出さない。私たちの中で潰えていただきます」
「やってみるがいい、小楓。私はそれをも許さぬ。お前を通じ、現世に顕現してみせよう。龍たる人を鏖にするために」
「紅月寺すべてを。“生き残り”のすべてを。私は閉じます。私で、閉じてみせます」
決意の言葉だった。
揺らいだ。鏡の中の小楓が、消えた。そうして、ごとりという音が鳴った。
「小楓」
抱きかかえていた。汗塗れで、息を切らした小楓。
「言ってやった」
笑っていた。勝ち誇ったように。
「言ってやったよ、成秋。私は七人目さまに打ち勝つんだ」
「すごいよ、小楓。あの恐ろしいお方に、小楓は挑むんだから」
「やってやる。紅月寺も、七人目さまも、私が葬ってやる」
そうして小楓は、自分の首元に手を伸ばした。
「これ、成秋がつけたことにするね」
そう言って、はにかんだ。成秋はぎょっとしていた。
「ちょっと。やめてくれ、小楓」
「でも成秋、そういうことするじゃん?」
「そこまではしないよ。絶対にやめてくれよ?悪い噂がついて回るんだから」
そこで、視界がぶれた。背中に感覚。正面に、小楓の顔。汗だくの、小楓。
押し倒された。
「曹歌釉さまがね」
首筋に痛み。噛みつかれた。背筋に何かが走るぐらいに。
「気に入っているんだ、成秋のこと」
「なんで?」
「けだものみたいだって」
くすくすと笑いながら、妖しげな瞳を向けてきた。
朱くはない。それでも、怖気が走った。
「吸って、叩いて、噛みついて。がつがつ求めてきて。そんなことする男なんてはじめてで、たまらないって」
「そんな、そこまでは」
「するじゃん、成秋」
汗塗れの顔で、首筋を嗅いできた。その手は男のものの方に伸びてきていた。
「だから今日は、私がする」
「そんな、小楓」
「紅月寺頭首として命じる。抵抗するな、成秋」
そうして、唇を奪われた。舌が入ってくる。貪られる。
理性が、付いていかなくなる。
「小楓」
下から抱きしめた。そうして持ち上げ、床に押し付けていた。
「小楓」
着ているものを剥ぎ取ろうとしたところで、気付いた。
小楓。瞼を閉じていた。すうすうと寝息を立てていた。
「ずるいよ」
思わず、ひとりごちていた。
4.
水軍、三千。ひとまずで整えた。それでも足りない。
そもそも水軍を率いることのできる将官がいない。あるいは船を使える商人も。三州いずれも交易は陸路のため、水運には明るくないのだ。孔飛を中心に、商船を揃えるところからはじめて、ようやくここまで、というところだったが、実際に見ると物足りなさのほうが強かった。
それでも、呂江に手が届いた。
ほぼすべて、楊喜の手柄といっていい。実際、論功行賞では楊喜を功績第一としていた。楊喜の交渉能力がなければ、ここまで来れなかった。
ここからだ。俺たちの青い旗は。
そういうときに、楊喜から呼ばれた。真剣な顔つきだった。
「あんたは天下に挑むと言った」
「そうだ、楊喜殿。俺は天下に覇を唱えるのだ」
「現実問題、どこまでやるかね?」
目を見て、そう言われた。その目つきに、思わず怯んだ。
「各地の紅賊は鎮火方向。深山派はもはや虫の息。そうなれば朝廷との真っ向勝負になる。それでもあんたは天下と言うかね?」
楊喜の丸い顔が、恐ろしいぐらいだった。
「尚書令閣下から話が来た。癸、賈、琢にくわえて郭の四州。条件付きの自治独立で手を打てると」
「それが、俺たちの天下になるか」
「向こうには、真なる紅月寺が付いている。華将軍であれだけ苦戦したのだ。これからは李将軍だけでなく、大将軍徐勇閣下も出てくるぞ」
みしりと、肺腑が押しつぶされるほどだった。
対朝廷、対紅月寺。それが本格的にはじまる。それにこの三州と三人は、どこまで耐えられるか。
そして拡大する領土。それをどこまで維持できるか。孔飛という後方支援のとっておきがいるとしても、司法と行政については州単位の域を出ない。紅賊以外の反乱が起きていないのが奇跡なほどである。時が立つにつれ、統治の難しさというのは浮き彫りになるだろう。
「わしは、やれるところまでやりたい。それが瑞国十八州のどこまでになるのかはわからんが」
「そう言ってくれるのだな、楊喜殿」
「あんたに惚れ申した。ようやくだが」
がっしと、肩を掴まれた。そうして、そう言われた。
「男として、人として、そしてひとりの馬鹿として、そこまで貫いてみたい。そしてあんたに、そこまで貫いてもらいたい」
それで、湧いてきた。勇気と涙が。
「天下、天下だ。それが実際、どんなものであれ。手に入れるためではなく、挑むために挑むのだ」
「そうだ、青張。そうこなくっちゃな」
「すまぬ、楊喜殿。俺は弱気になっていたようだ」
「構わぬさ。それよりあんた、ほんとうに泣き虫だのう」
「言うなよ。年経てえらく脆くなっちまったのだから」
涙を流しながら、ふたりで笑った。
船に馬を乗せ、陸路に切り替えることにすれば、それなり運用できるかもしれない。呼延設の思い付きだった。
それで一万、動かしてみることにした。
郭州、完全攻略。そのためには、呂江中流域、謙州の境あたりまでは掌握しておきたい。
貨物船を中心にして、砲艦三隻でそれを囲んだ。川幅の広い部分は展開して進んでいける。
「八里先に、藩の旗」
「藩銀令殿だな。まともに相手をすれば負ける相手だ」
「如何いたしますか?」
「当初の予定通りだ。二里先の、川幅が狭まるあたりで切り替える」
このあたりはまだ流れが緩い。風の調子からいっても、反転、遡上することは難しくない。対して敵軍は流れの急になる狭い水路を遡上することになるから、こちらに接近することは難しい。
全隻、片側の岸に寄せた。砲を並べる。騎兵の展開も、不都合なく終わった。
「よし。歩兵と騎兵は苗城まで駆けろ。砲艦と砲兵はここで藩銀令殿を引き付ける」
号令の後、張駿も馬に跨った。
朱漣も連れてきていた。艦砲の射程を都度計算してもらうためだ。文官ではあるが、馬の扱いは見事だった。
「これなら、右翼がちょうど、付かず離れずの距離です」
「もうちょっと色気を出してやろう。半里、近づけい」
このあたりは、張駿の裁量である。
轟音。聞こえた。土煙が上がる。しかし被害はない。馬が怯み、嘶くぐらいだ。これなら各自、抑え込めるだろう。
苗城が見えた。兵の展開はない。大砲と矢が、ぱらぱらと飛んでくるぐらいだ。
「張の青旗」
吠えた。旗を掲げて、城郭の周りを回っていく。それだけで城郭の中からは動揺と悲鳴が上がりはじめた。
三日ほどそうしたところで、楊喜の一団が追いついた。楊の旗を立てたところ、城門が開いた。
白旗が上がったのは、それから十日もいらなかった。
「誰も処断せず、何も変えず、だ。ただ張の青旗を立ててくだされば、それでよろしゅうござる」
「まこと、かたじけない」
それでも藩銀令たちは、忸怩たる表情を変えなかった。
船は十隻ほどが中破していた。それも苗城にいる船大工が直せる程度だった。
「流石は孔飛殿だ。あっという間に交易路を繋いでみせた」
「まずは陸路。次は水運です。それでここも栄えますし、三州にはここの穀物を送ることも可能になりますぞ」
孔飛が細面を綻ばせた。
楊喜の説得により、藩銀令と、その水軍も手に入った。川に慣れた将軍は何人でも欲しい。
河要郡、美楼郡まで攻略したところで、郭州牧董楽の一団が、白旗を掲げて会いに来た。張駿は最大の礼をもって、それを迎え入れた。
「これで四州、四州だ。青い旗を立てただけで、三州借りれたぞ」
「おう、俺たちの旗は、紅くない」
邱虎と呼延設のふたり、酒気で顔を赤らめながら言いふらしていた。
「官民問わず、このあたりで緩みが出ましょう。董楽殿には治安の維持を担当していただきたい」
「相分かった。必ずや、青い旗に応えてみせましょう」
「はは、相変わらず生真面目な方だ」
郭州は呂江中流域に広がる穀倉地帯である。その治安を維持し、制御するには、相当な才覚を必要とするだろう。そういった点であれば、董楽は年若くとも才気煥発であり、また同時に峻厳でもあった。司法、行政にはうってつけだ。
必要なものを、行く先々で借りていく。そういう、足元のおぼっつかない天下旅。
癸州に戻ったあたりで訪いがあった。二百ほどの、軍勢ともいえる一団だった。
何より、帝の旗と、紅月の旗を立てていた。
城郭の外で会うことにした。邱虎と楊喜を伴っていた。
「紅月寺頭首、杜小楓」
天幕の中、前に出てきた若い娘が拝礼した。噂には聞いていたが、実際に見ると、やはりぎょっとした。
思った以上に若く、何より覇気に漲っている。
「青張こと、張駿と申す」
負けじと気を張って拝礼した。そうして用意された席に座った。
小楓の隣には、尚書令孫保の姿もあった。面識はある。お互い、軽い挨拶をして話をはじめることにした。
「先ごろ陛下の軍勢が、紅賊跋扈する陶州を平定なされた」
孫保から、まずはそういう話が出た。
「残るは貴公ら四州。単刀直入に、武を以て平定するは我らも本意ならず。和を以てこれを成すべし」
「あいや、しばらく。我ら、あくまで太平の世を維持するため、手を取り合っているだけに過ぎ申さん」
「もはや詭弁にござろう。郭州確保のために軍勢を動かしたのは紛れもない事実」
「郭州牧、董楽閣下は、これをお許しになられており申す。何卒、ご勘案のほどを」
「もうよろしいでしょう。尚書令閣下、ならびに楊閣下」
そこまでで、小楓が話に割って入ってきた。
「単刀直入にと申し上げたとおりです。やるかやらないか。たったそれだけ」
澄んだ瞳が、張駿を突き刺してきた。
やるか、やらないか。天下か、それ以外か。
ならば選ぶべきは、たったひとつ。
「やろう」
なんとか、ひねり出した。手も体も何もかも、震えていた。
「一天万乗の皇帝陛下に弓引くつもりはござらねど、拙者は夢のために戦をせねばなり申さん。お相手いたす」
「なんと、青張。そこまで申すか」
「そこまで申します、閣下。我らが戦う理由など、たったひとつで十分でござる」
「その、ひとつとは」
「俺たちの旗は、紅くない」
心の底から吠え上げた。立ち上がってすらいた。
「心得た」
小楓。あちらも、立ち上がっていた。不敵な笑みを浮かべている。
「最後に翻るは青か紅か。たったそれだけのための戦になる」
「それでいい。天下、天下だ。男が夢を見るには十分な理由だ」
「夢を見続けるがいい。我ら紅き月が、目を醒まさせてやる」
図ったようにふたり、拝礼していた。
「交渉、決裂」
そうやって呵々と笑ったのは、楊喜だった。丸い腹を抱えて、天を仰いでいた。
「わしら天下の大馬鹿者どもに、もとより説得など無用にござる。やってやってやりまくるだけ。お覚悟あれ、尚書令閣下」
「おお、楊喜殿。どうか、血迷われるな」
「今更の話じゃ。わしらはもとより血迷い、気を違え、とち狂うてしもうたのじゃ」
笑いながらも、その声は震えていた。きっと自分もそうだったろう。その笑い声で、ようやく余裕が戻ってきた。
「小楓殿、それでは戦場にて」
「それでは青張。楽しみにしているよ」
やはりふたり、図ったように鼻を鳴らした。
そうやって三人、天幕を出た。途中の怒号が聞こえたようで、外は大賑わいだった。
「殿。俺は、殿の臣でよかったと、今ほどに思ったことはございません。帝の旗の前で、紅月寺の前で、青い旗を翻してみせた」
「頬を拭え、邱虎。もはや泣いている暇もなくなるぞ。相手はあの紅月寺だ。そして禁軍十万だ」
「十万、十万。おお、震えてきた。そうこなくては、目指すべき天下に値しない」
「そうだ、楊喜殿。もとより無茶な話なのだ。それを我ら四州、やってみせると言ってみせた。この俺が、この俺たちが」
三人、肩を組みながら笑っていた。
城郭に入った。騒然としていた。誰もが青張と叫んで、駆け寄ってきた。
天下。どれもこれもが、熱に浮かされている。馬鹿げた夢物語に。手の届くはずもないものに。
それでもやろう。たったひとつ。たったひとつの旗を掲げ、あの連中に見せつけてやろう。俺たちがどこまでできるかを。俺たちが如何に馬鹿げているかを。
ああ、そうだ。何度でも叫んでやろう。
俺たちの旗は、紅くない。
(つづく)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・成秋:小楓の側近。薛奇と妾の子。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・李桂:軍事を担当。
・華淳:後将軍。伏龍塞を率いる。
・英:華淳の妾。紅月寺では諜報を担当。
・呂信:呂無頼とも。銃兵を操る精鋭。
・候晃:紅月寺の守将。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。紅月寺に協力を依頼。
・徐勇:大将軍。禁軍全体を率いる。
・孫保:尚書令。青張連合との和平工作を担当。
【青張連合】
・張駿:青張とも。癸州牧(行政長官)。
・邱虎:張駿配下の武将。
・呼延設:張駿配下の武将。
・楊喜:賈州牧。外交を担当。
・孔飛:琢州牧。兵站を担当。
・董楽:郭州牧。行政、司法を担当。
【その他】
・繆沢:神代の覇者。瑞国を興したが、暴虐を働き弑されたと伝わる。
・七人目さま:謎の存在。“生まれ変わり”の根源とされる。