表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

挑むこととは

1.


 大砲おおづつ三列、並べられていた。

 城郭まちのあちこちから悲鳴が上がっていた。無断で白旗を上げようとするものを、候晃こうこうは躊躇いもなく斬り伏せていた。

 味方の血であれ、浴びれば昂ぶるものはある。

 深山しんざん紅賊こうぞくの本隊が動いた。

 三万。大軍といっていい。大してこちらは千二百。城郭まちの城壁には鉄骨を仕込んではいたが、性能の向上した大砲おおづつの前に、どれだけ耐えられるものか。

 ここに敵本隊が来たということは、毒が効いたということだ。

 深山しんざん派の人間が帝の身辺に潜り込み、帝に行幸を勧めていた。それを捉えたえい喬倫志きょうりんしの策である。それに乗るかたちで、深山しんざん派を釣り出す算段だったのだ。

 ここには帝はいない。歳の頃同じぐらいのわらべを入れて、それも数日前に難民に化かして逃していた。

 ここで耐えて耐えて、李桂りけいたちをなるべく多くとう州に入れたい。禁軍二万も、運河上流からとう州に乗り込むとも聞いている。

 こういう囮だとか殿軍だとか、損な役回りは得意だった。

 汚れた袍を着替えた。めしを食う。ものは兵たちと同じである。いく州の本営からは不足なく物資は届いているし、温かいものを食わせてやることもできていた。

 寝室に入る。ひょうはすでに、寝台の上で待っていた。

 襦袢だけのひょう。綺麗だった。自分には不釣り合いだと思うぐらいに。

 抱きしめていた。いや、抱きついていた。ひょうの肌にすがりつき、乳房に顔を埋め、その肉を揉みしだいていた。

 死ぬ覚悟はしたつもりだった。それでも、恐ろしさは強かった。何度言葉にしても、人にそれを強いたとしても。

 ひょう。下女のひとり。候晃こうこうより背も高く、手も足も長い。その肌の白さと、儚げな美貌に、一目で心を奪われた。

 力を振りかざしてにした。それでも、ひょうは何も言わなかった。

 いつからか、ひょうの前だけでは、すべてをさらけ出していた。上のものに対する不満を撒き散らし、下のものに対する愚痴をこぼしていた。そうするたび、それでもひょうは、何も言わずに微笑んでいた。

 今日も、ひょうの手の中で果てた。女陰に放つことは滅多にない。ひょうの声で、耳元で囁かれながら、あるいは耳を吸われ、齧られながら、ひょうの薄い手のひらに包まれて果てる。

 そのたびひょうは、候晃こうこうの出した白いものを、その舌で舐めあげるのである。その妖しげな瞳で、こちらをじっと見つめながら。

 男として劣っていた。不細工で不格好で、声にも幾らかどもりがあった。人を見返す一心で努力をし、軍人になった。たとえ人から嘲られようと、才覚を磨くことを怠らなかった。

 紅月寺こうげつじに参加したのも、そういった反発からだろう。

「殿は、賊軍を恐れていらっしゃる」

「こわい、こわい。ほんとうに、心の底から」

「他の方々には、恐れずに死ねと言いながら」

「そうだ。私は最低な人間だ。自分にできないことを、人に強いている」

「それをお認めになられております。殿は素直なおひとです」

 耳元で囁かれた。それでまた、男のものは勃ち上がった。それを見て、ひょうは仕方なさそうに、くすりと笑った。

「殿の素直さに、私は心惹かれた」

 男のものに、ひょうの手が伸びる。ねぶるような手つきに、候晃こうこうは思わず身悶えた。

「殿は、私の何に惹かれたのですか?」

「私は、お前の清らかさに」

「嘘つき」

 微笑んだ。魔物のような、それでいて、魅入られるもので。

「殿はいつだって、それについてはほんとうのことを仰らない」

「しかして、それは」

「言って?ほんとうのこと」

「お前の姿に」

 腰が浮いた。天井を眺めながら、それでも視界の端で、ひょうは微笑んでいた。

「お前が美しいと思った。綺麗だと思った。どんなことをしても、手にしたい。手籠めにしたい」

「嘘つき」

「私より背が高くて。私より、ずっと細くて。ああ、ひょう

「ほんとうは?」

 もう片方の手が、乳首をつねった。それで、耐えられなかった。

「今日も、仰って下さらなかった」

 手についたものを、舐めていた。見てはいけないもののようだった。

「殿の、嘘つき」

 そうやって、ひょうは笑った。

 ひょうに嬲られること。侮蔑され、嘲笑わらわれ、辱められること。快感だった。それが日々の活力になるほどに。

 城壁に並べた大砲おおづつは、三分の一が壊されていた。謝堅しゃけんが苦い顔をしていたが、候晃こうこうはつとめて気にしなかった。

「ご頭首殿は救援を寄越すと言っておりましたが、一向に来る気配がない」

「他の紅賊こうぞくの対応にもあたっている。そう簡単には出せないのだろう」

「我らを見殺しにする気ではないでしょうか?」

「もとより囮だ。私たちがここで敵を引き付けることそのものに、意味がある」

候晃こうこう殿は、それでよろしいのですか?」

 謝堅しゃけんが声を荒げた。胸ぐらを掴んできすらきた。

 興奮し、震える瞳孔。それでも候晃こうこうは、それをじっと見返すことができた。

「命令に従え。それができないならば、ここを去れ。他のものがそれを許すかは知らないが、私はそれを許そう」

 それだけ言うと、謝堅しゃけんは手を離した。

 軽騎二百を引き連れて、敵陣の中を駆け回った。向こうは士気がまばらで、少数でもかき乱すことはできた。

 本営からは、あと七日持ちこたえろとだけ、伝えられていた。

 頭首である小楓しょうふう。会ったことは少ない。それでも惹かれた。幼さと凛々しさに。

 跪き、こうべを垂れた。心は踊りに踊っていた。

 女にかしずくこと。痛めつけられること。きっと、そういうことがたまらなかった。仄暗い欲望として、そういうものがある。

 人にはそういうものを出さなかった。ひょう以外には。

 ひょうの足。舐めていた。寝室で這いつくばり、むしゃぶりついていた。

ひょうひょう。ああ、寒いのだ」

「いやです。そうやって震えていてください」

「抱かせておくれ、ひょう。私は、お前の中に」

「駄目」

 男のもの。はち切れんばかりになっている。ひょうはそれを見るだけに留め、触ってもくれない。

「ああ、ひょう。許しておくれ」

「何を、許すというのですか?」

「私の弱さを。私の、このような姿を」

「駄目」

 言葉が耳に入るたび、快楽が押し寄せてくる。背筋が震える。

「私は、殿の弱さも、そのようなお姿も愛おしいから」

「それでも、許しておくれ。お前で私を、温めておくれ」

「殿は、私の何に惹かれたのですか?」

「それは」

「言って?」

「お前の、ひょう。ああ、お前の」

 そこまでで、耐えられなくなった。

 床にぶちまけていた。触られてもいないのに。そうやって腹ばいにへばりついて、すすり泣いていた。

「今日も、仰って下さらなかった」

ひょう、ああ、ひょう

「意気地なし」

 耳元で、囁かれた。それでまた、達した。

 朦朧とする意識の中、ひょうを見上げた。着物を羽織りながら、ひょうはずっと微笑みながら、その瞳で見下してきた。

 ああ、ひょう。私の、ひょう。いや、もはや、お前の私なのか。

 明くる日、謝堅しゃけんの姿は見えなかった。ひとりだけで逃げ出したという話だった。

 城壁に梯子や雲梯が架けられはじめた。銃や鉄包てつはうで対応していく。

程方烈ていほうれつ殿の一万。明日にも到着」

 伝令の言葉に、城内の空気が一気に燃え盛った。

「死守、死守じゃ。死ぬ気で生きれば、永らえられるぞ」

 叫んだ。そうして城壁の上から、ありったけのものを投げつけていた。

「陛下の御旗と、紅月の旗を」

 城壁のあちこちに掲げられた。それで熱狂は天を突くほどになった。

 突如、轟音。衝撃。足元が揺らぐほどに。

「北東の城壁、崩されました」

 報告より先に、体は動いていた。

「土嚢、積めい」

侯晃こうこう殿、危のうございます」

「百も承知」

 そうやって、駆けていた。

 崩れた城壁。敵兵どもが濠を越えて、中に入りかけていた。戟ひとつ引っ掴んで、候晃こうこうはその前に立ちはだかった。

 戟を振るうたび、悲鳴と喚声が上がった。

侯晃こうこう殿、そろそろ中に」

 周玄しゅうげんの声だった。それで、振り返ったはずだった。

 何かがぶち当たった。思わず、横たわっていた。そうして少しもしないうちに、何人かに担がれていた。

「おい、何が起きた?」

 聞いたが、答えはなかった。

 しばらく、騒がしさの中にいた。言葉はすべて聞こえるが、聞き取れないか、理解ができなかった。

 ただとにかく、痛みのようなものは感じていた。

「殿。ああ、殿」

 ひょうだった。見たことがないぐらい、狼狽えた表情だった。

 見渡す。どうやら寝室のようだ。

ひょう、顔を、見せておくれ」

「はい、殿。ここに」

 頬に触れようと、右手を伸ばした。肘から先がないことに、そこで気付いた。

ひょう。私は、どうなっている?」

「ぼろぼろでございます、殿。生きているのが不思議なぐらいに」

「そうか。周玄しゅうげんは、どうした?」

「同じく城壁の崩落に巻き込まれ、亡くなられました」

「なるほどな」

 思わずで、笑っていた。

 金栄きんえいを呼んだ。見るなりはっとした表情になり、そうして神妙になって近づいてきた。

「あと一日だけ、持たせてくれ」

「はっ」

「死ぬるは今ぞ。死ぬ気で生きよ。そうして他のものを生かせ。ひとりでも多く。紅月寺こうげつじのためではなく、人として生きる我々のために残してくれよ」

「必ずや」

「無茶と無理ばかりを申し付けた。至らぬ限りだ」

「それでも、我らは応えてきました」

「そうだったな。ありがとう」

 つとめて笑ってみせた。それで金栄きんえいは俯いてしまった。

 金栄きんえいが外に出た。ひょうとふたりきりになった。

 ひょうはただ、俯いていた。

「こっちへ、ひょう

「いやです」

「泣いているのか?ひょう

「はい。殿が、かような姿になってしまったのですから」

「どんな姿かがわからぬが、それでも泣いてくれているのだな」

 抱きとめたかったが、体は動いてくれそうもなかった。

「殿の、嘘つき」

 ぼそりと、呟いた。

「嘘つきで弱虫で、意気地なし。それなのに敵の中に突っ込んでいって」

「そうだな。きっと、こわかったんだ」

「こわいと、そうなさるのですか?」

「ああ。頭が真っ白になって、がむしゃらになるのだ。きっとそうだ」

 そうやって、笑ったつもりだった。

「本当のことを言う」

「えっ」

「お前のすべてに惹かれた。それ以上に、お前に屈したかった。心も、体も」

 言葉に、ひょうは自然と寄り添ってきた。頬を濡らしつつも、微笑みながら。

「お前に打ち負かされたい。なじられ、踏みにじられ、弄ばれたい。ああ、今もそうだ」

「いけないひと。それでも、それ以上に、素直なひと」

「このまま傷に負け、血を失って死ぬよりは、お前に殺されたい」

「ほんとう?」

「ほんとうだよ」

 つとめて微笑んでみせた。それに、ひょうも応えてくれた。

「じゃあ、殿のこと、私が殺してあげる」

 そう言って、その細い指が、候晃こうこうの首に伸びてきた。

 ひょう。震えていた。それが伝わって、愛おしさが膨れ上がってきた。それでもひょうは、きっと必死に力を込めたかったのだろう。そうやってそのうち、子供のように泣きじゃくって、手を離してしまった。

 ああ、ひょう。泣かせてしまった。私が至らないばかりに。私がちゃんとしていれば、お前をもっと喜ばせてやれたものを。

 寄り添ってきた。泣きながら、震えながら。候晃こうこうはそれを、ある分の体で抱き寄せ、抱きしめた。

 温かかった。それだけできっと、十分だった。


2.


 学者を何人か募って、話をした。結論はどれも、憶測の域を出ないものばかりだった。

 ずいのはじまり。川均しの繆沢きゅうたくの伝説。その繆沢きゅうたくに付き従い、そして繆沢きゅうたくが暴虐に走ってからは、それを諌め、遂には弑した六人の王。

 そこに七人目しちにんめなる人物がいたかどうか。

 海より現れた龍王。川を遡り、山を目指した。川は溢れ、原は大いに荒れた。そこに立ちはだかったのが繆二郎きゅうじろう、ないしは繆沢きゅうたく。龍王に相対し、それをたおした。その血肉を天に捧げたことにより、この地は大いに栄えた。これこそがずい国のはじまりである。

 ここまでが、伝説上の話である。

 それでも語られていないことは多い。繆沢きゅうたくがなぜ暴虐に走ったのか。暴虐のそしりを受けるほどの行為とは何か。こう家をはじめとする、かつて実在した六人が王の末裔たちは何をしたのか。

 そこに何かがある。七人目しちにんめさまの正体。そして七人目しちにんめさまが人を憎むに至った理由。

 楊漢ようかんがいない以上、こういうことも王高越おうこうえつがやっていかなければならない。

 そのうち、何良かりょうがひとり連れてきた。西の人で、老人だった。

 名乗りはしなかった。どうやら拝陽ヴァーヌ教の僧侶のようだった。

繆沢ミュザさまのことを、我々は御使みつかいと呼びます。太陽の化身。我らが生ける大地となり、永久とこしえに横たわる神たる父の使いと」

 思わず、ほう、と声を上げていた。

御使みつかいさまはあかき瞳の龍を討ち、天に至りて太陽へと姿を変えた。その陽光に照らされた地こそが、黄金都市繆沢園ミュザリア

「川均しの繆沢きゅうたくの伝説と、見事に一致するわね」

繆沢きゅうたく伝説における六人が王。それに該当するのが、繆沢ミュザの六人たる庇護者たち」

「天に至って太陽へと姿を変えた。つまりは死んだとも捉えていい。六人の庇護者が、それを殺したと?」

「そこまでは、伝わっておりません」

 瞑目しながら、僧侶は答えた。

「しかしながら、その六人とそれに近しいものたちが、これまでの歴史を改竄してきたことは残っています」

 強い語気だった。気圧けおされるほどに。

「六人たちは自身にとって都合の悪いことを焼き滅ぼし、塗り潰してきた。それでも残っていたものがある。その中にあるいは、このずいの国に伝わる繆沢きゅうたく伝説と、拝陽ヴァーヌ教の経典との差異の部分が含まれているかもしれません」

繆沢きゅうたくが晩年、暴君になった。そしてそれを、六人の王がしいしたこと」

「何らかの欲望をもって、御使みつかいさまをしいし、そして暴君として貶めた。そう考えることは可能でしょうな」

「ことを成した英雄を排除するというのは、よくある話ではあるものね」

 となれば、七人目しちにんめさまもまた、六人の王たちによって塗りつぶされた存在と考えることもできる。

 繆沢きゅうたくに仕え、六人の王の暴虐を防ぎきれず、繆沢きゅうたくを守りきれなかった存在。

 その怨念を、代々の“生まれ変わり”は繋いできた。それがどこかで、紅月寺こうげつじというかたちに変質したのか。

もう城の様子は?」

 執務室に入った。軍議。廿礼はつれいたちが卓に集まっていた。

程方烈ていほうれつ殿の軍勢が到着したようですが、ぎりぎりの様子です。ご頭首殿の軍勢も、もうじき届くかと」

とう州には、李桂りけいのおっさんと徐勇じょゆう大将軍が入れた。これで深山しんざん派は動けなくなるはず」

 地図に点を打ちまくっていた。もはや見えないぐらいになっていた。廿礼はつれいが新しい地図を持ってくる。

青張せいちょう青張せいちょう青張せいちょう。ああくそ。あいつら、呂江りょこうに手が届いた」

「下流は呼盛こせい将軍の水軍で食い止められます。殊国シュリニヴァーサ誒国エルトゥールルと繋がるにも、日が必要です」

華淳かじゅん将軍以外の駒が欲しい。文朗ぶんろうが一万以上を率いることができたら」

「人間が少なすぎます。兵も将も。まずは深山しんざん派を制圧してから話を進めましょう」

「時間を与えれば、向こうも有利になるわ」

「それはこちらも同じ話です」

「あちらは州単位、こちらは郡単位よ」

 廿礼はつれいの胸ぐらを掴んでいた。そこではっとして、手を離した。

「少し、お休みください。何日もこうやっておられる」

「ええ。お言葉に甘えることにするわ」

 よろよろと、その場をあとにした。

 三日ほど、仕事から離れた。身を清め、書に親しみ、花を愛でる。そういうことをした。

 そうしているうちに、訪いがあった。えいだった。

「少し、台所をお借りしますわ」

 そう言って、微笑んだ。

 ぼうっと、えいの姿を眺めていた。華淳かじゅんの妾ということもあって、家のことも得意なのだろう、実にてきぱきと働く。下女たちの助けもいらないぐらいだった。

 何品か出てきた。特に美味しかったのは、蒸し鶏のたんだった。辛さはないのに、口に入れるたびに滝のような汗が出る。体が芯から温まり、目も頭もすっきりとした。

 一度、着るものを変えてから、茶をいただいた。

えいさんはほんとうに、何でもできるのね」

端女はしためとは、つまりは側女そばめ。殿方の側に仕えるためのすべを備えてこそですから」

「私は何にもできない。立場を手に入れてからは、人に任せっぱなし」

「役割がありますもの。私は王高越おうこうえつさまのように、知恵を使ったことはできませんわ」

 そうやってふたり、くすくすと笑った。

 他愛もない話をした。生まれのこと。今までの紅月寺こうげつじのこと。華淳かじゅんとの生活。そういった、なんでもないようなこと。

「私には、紅月寺こうげつじしかない」

 語りながら、そう思った。

紅月寺こうげつじ。それがすべて。そのために生きてきた。そのために、生きていた。それ以外のすべてをなおざりにして」

王高越おうこうえつさまにとって、理想の環境だった。そうなるのも仕方ありませんわ」

「単なる人として生きることが叶うのならば、見聞を広め、世に親しむことができたはず。それが選べなかった。今になって、悔しい思いがある」

小楓しょうふうさまがきっと、それをもたらしてくれる」

 えい。茶を啜りながら。

紅月寺こうげつじを解散する。紅月寺こうげつじのいらない世界を作る。紅月寺こうげつじのなくなったあと、そうなさるとよろしいかと」

小楓しょうふうが、私を紅月寺こうげつじから解き放ってくれるのかしら?」

「ええ、きっと。そこにあるのは、自由という、膨大な選択肢。そのなかで、取りこぼしたものを拾いに行くというのは、ひとつ、いいことかもしれませんわ」

えいさんは、どうしたい?」

「私も、おいとまをいただこうかしら」

「あら。どうして?」

「奥さまからすれば、きっと生意気な妾でしたでしょうから」

 言われた言葉に、思わず笑っていたと思う。

「ここへきて、朝廷内の虫の量が増えてきた。今のところ、すべて深山しんざん派の連中だ」

 職務に戻った。まずは文朗ぶんろうと話をした。各地の情勢を把握することを任せている。

きょう丞相がすべて抑えてくれている。あのひとはすごいな。守りにとんでもなく強い」

「身ひとつで丞相まで昇った傑物よ。毒も汚れも、知り尽くしている」

深山しんざん派。まとまりを欠きはじめたようだ。それぞれの虫で、思惑が異なる。陛下をしいそうとするものもいれば、おもねり、これまでのことを水に流してもらおうとしているものもいる」

「やはり、楊漢ようかんの」

 言って、口の中が苦くなった。

「後ろ盾がなくなった。それが大きいのね」

もう城ととう州の二方面作戦が成功すれば、立ち直れないだろう。各地の紅賊こうぞくも、次々帰順、降伏しはじめている」

青張せいちょうは?」

「今のところ順調。やはり外交面が強い。ただ朝廷と正面切ってやるつもりは少ないだろう。それだけの大義名分が向こうにはない」

「こちらも外交で勝負するか」

「それについては、尚書令しょうしょれい孫保そんほ閣下が動いてくれている。向こうの楊喜ようき殿とともに、動乱の着地点を模索しているようだ」

「いっそ、独立自治を認めさせるのも手よね」

 そこまでで、胸のどこかがむず痒くなった。それが小さな咳として出てきた。

 痰に、血が混じっていた。

「おい、王高越おうこうえつ殿」

「大事ないわ。それより」

「そんなわけないだろう。いつからだ?」

「ひと月ほど前から。陳籍ちんせき先生には診てもらっている」

「ちゃんと休んでくれよ。あんたがいなくなったら、いよいよ紅月寺こうげつじは立ち行かなくなる」

えいさんがいる。廿礼はつれいちゃんがいる。あんたもいる。そして何より、小楓しょうふうが。私はそれを支えるだけ」

「それがなにより大変なことだろう」

 呆れたように言われた。

 文朗ぶんろう陳籍ちんせきを連れてきた。やはり肺腑に何かがあるらしい。

「渡した薬、飲んでないだろう?」

「あれ、ちょっと苦くて」

「そうじゃない」

 陳籍ちんせきもまた、呆れたように言ってきた。

「薬を飲み、体を休める時間すらもったいない。そう思っている顔だ」

 言われて、内心でそれを恥じた。確かにそうだった。

「とにかく休みなさい。しっかり食べて、しっかり眠る。それだけでも病に打ち勝つ体はできあがる」

「わかりました。ごめんなさい」

 黙って、頭を下げるだけにした。

 それでもしばらくは、政務に追われていた。紅賊こうぞく青張せいちょう、そして紅月寺こうげつじ自体の運営。やることは山ほどにある。人に任せたとしても、やはり最後の最後は自分が確認したかった。

 そうやっているうちに、咳の量は増えた。吐く血の量も。

 姿見の前に立った。映るのは、自分の姿だけだった。

 やせ細り、頬の痩けた、王高越おうこうえつの。

薛哥せつにい

 不意に、声が出ていた。

「私、いま、綺麗かなあ」

 姿見の自分にすがっていた。涙を流しながら。

 ああ、薛哥せつにい。会いたい。私が“生まれ変わり”だったら、ここで会えたのに。

 そうやってずっと、鏡の前で泣き崩れていた。


3.


 松稜しょうりょうの五千が、敵軍に切り込んでいった。それだけで、いくつかの首が槍の穂先に掲げられた。

 もう城からは、すでに火が上がっていた。それでも中にいるものは元気だった。もといた千二百に諸葛健しょかつけんの三千を追加したところ、さらに走り回るようになった。

 守将候晃こうこうは死んだようだった。事切れた下女に抱きかかえられるかたちで、燃えて崩れた部屋の片隅で見つかったという。

「逆境に強い男だった」

 脂の浮いた顔で、小楓しょうふうが呟いた。

「いつだって危険な場所にいた。それを耐え、跳ね除けるだけの力があった」

「だからこそ今も、もう城は生きている」

「あの城郭まちこそ、候晃こうこうだ」

 そう言って、小楓しょうふうは瞼を閉じた。

 程方烈ていほうれつの軍勢が、着実に敵軍を削いでいる。大砲おおづつと重騎の突撃を組み合わせて、どんどんと突破していく。

 小楓しょうふうが側のものに、具足を用意させた。胸甲と兜だけだが、その小柄な体が引き締まるほどになった。

「行こう、成秋せいしゅう

「うん、小楓しょうふう

 そう言ってふたり、それぞれの馬に跨った。

 親衛隊八百。露出した敵本陣に向かって、丘から一気に駆け下りた。先頭の竜騎兵ドラグーンが放つ騎兵銃が、防備を切り開いていく。

紅月寺こうげつじ頭首、杜小楓としょうふう。見参」

 小楓しょうふうが抜刀し、吠えた。雑兵を次々と斬り伏せていく。成秋せいしゅうもその後ろから、矢を番えては放つことを繰り返した。

 旗が揺らめく。帝の旗と、紅月の旗。

厘橋りんきょう郡太守、胡彭俊こほうしゅん。我こそは紅月寺こうげつじなり」

 轟砲。騎馬ひとつ、正面から突っ込んでくる。

 薙刀。小楓しょうふうの剣が、それを弾いた。三合、打ち合う。

「死にぞこないの小娘めがっ」

 胡彭俊こほうしゅんが言えたのは、それぐらいだった。薙刀を持つ腕が宙を舞い、その次に首が飛んだ。

 その日の夕刻には、賊軍は散り散りになった。

 ひとり、連れてこられた。応才おうざいというらしい。

「これで、紅き月はひとつになった」

「私は覇者にはならない。陛下の御旗のもと、ずいは永らえる」

「それでいい。それもまた、ひとつのかたち」

 応才おうざいの細い目が、炎をたたえていた。

「我らは次代の礎。そのために生き、そのために死ぬ。それこそが我らの志」

 言葉に、小楓しょうふうの顔が歪んだ。怒りのそれだった。

「志だと?」

 抜刀した。思わず、成秋せいしゅうはその手を掴んでいた。

「放せ、成秋せいしゅう

「駄目だ、小楓しょうふう

「志という言葉のために、何人が死んだ?何人が家を失い、何人が苦しんだ?もうたくさんだ。死ぬならひとりで死ねばいいものを」

小楓しょうふう、落ち着くんだ」

「志とは病だ。不治にして致死の病だ。他者を顧みず、大勢を巻き込み、そうやって吹き荒れて消える。馬鹿馬鹿しい。田畑のひとつにも値しない、下らない狂気だ」

「それでも、生命を賭するに値する」

「私の父母ちちはははそうやって死んだ」

 応才おうざいの言葉に対し、ひときわの叫びだった。

「もう、帰ってはこない」

 唇を、噛んでいた。血が滲むほどに。

 対して応才おうざい。静かに瞑目し、首を差し出してきた。成秋せいしゅうはそれを、連れて行くようにだけ、側のものに命じた。

 その場に残ったのは、小楓しょうふう成秋せいしゅうだけだった。

七人目しちにんめさまの言うとおりだ」

 ぼそりと、小楓しょうふう

「人なんて、龍とおんなじだ」

 上げた顔。悲痛に歪んでいた。

 そしてその瞳は、わずかにあかかった。

 頬をはたいていた。小楓しょうふうはそのまま横を向き、俯いていた。

「ごめん、小楓しょうふう

「ううん。私も悪かった。ごめん、成秋せいしゅう

「とにかく、落ち着こう。もう城に入ろう」

「わかった、ありがとう」

 そうして、終わった。

 もう城は、城壁のあちこちが崩れていた。連れてきた職人たちが早速、壊れた箇所に飛びついていた。兵站線は途切れていなかったので、飢えたものはいなかった。

 活気がある。帝の旗と紅月の旗。そしてこうの旗のもとに、それがある。

 違和感、ひとつ。城壁の片隅にひとり、ぶら下がっていた。

謝堅しゃけんとかいう、候晃こうこうさまの側近だったやつ。ひとりだけで逃げようとした臆病者だよ」

 城郭まちの人たちはそう言いながら、石を投げていた。

「名を、こう城に改める」

 死んだものたちの亡骸を埋めながら、小楓しょうふうがそう言った。

 しばらく、軍の再編に時間を使った。諸葛健しょかつけんを残し、程方烈ていほうれつ松稜しょうりょうは、青張せいちょう方面に向かわせることにした。

 李桂りけいたちのとう州攻略部隊も、本拠までたどり着いたようだ。あとは時間をかければ片付くだろう。

 小楓しょうふうはまた少し、眠れなくなっていた。応才おうざいとのやりとりで起こった心のざわつきが、そうさせているのかもしれない。

小楓しょうふうが家族のことを語ったのを、はじめて聞いたと思う」

 小楓しょうふうと交わったあと、そういうことを聞いてみた。小楓しょうふうは静かに瞼を閉じた。

「いやなら、言わなくていい」

「私は、紅月寺こうげつじのために産まれ、紅月寺こうげつじのために育てられた。おとうさんは薛父せつふと志を違えて出奔し、おかあさんは心を壊し、私が“生まれ変わり”に選ばれたあたりで亡くなった」

 抱きついてきた。小さく震えていた。

「私には、紅月寺こうげつじしかない」

「それでも小楓しょうふうは、紅月寺こうげつじをなくすんだよね?」

「うん。紅月寺こうげつじを都合のいい存在にしないために。おとうさんやおかあさんのような人を産まないために」

「つらいことを選んだんだね、小楓しょうふうは」

「つらかった。今だってつらい」

 ひとすじ、流れた。

 本営に戻る前に、一度、鏡を見ることをするようだった。すぐに部屋ひとつもらって、支度を整えた。

 雰囲気がいつもと違った。姿見の前に座し、気を練るところからして、物々しさがあった。

ちこう」

 ぼそりと、聞こえた。

「もそっと、ちこう」

 体は、姿見の前に動いていた。

 姿見の前の小楓しょうふうの瞳が、あかい。

 姿見の中。立ち、俯いた小楓しょうふう。その周りは、血に塗れている。

 七人目しちにんめさまだ。

「あえて私を呼んだね?」

「はい、七人目しちにんめさま。あなたさまに呼ばれたがゆえに」

「お前も見ただろう?あれが人の姿だ。欲望に醜く肥え太り、何も顧みない。あれのために大勢が死ぬ」

「巻き込まれ、死ぬのもまた、人です」

「そうだ。同じぐらいに醜い人どもだ」

 姿見の中の小楓しょうふう。笑っている。口角が目の端に届くほどに。

ひとすなわちりゅうなり。滅ぼさねばならぬ。かつて繆沢きゅうたくさまがそうしたように、暴虐の権化たる人を、我々は排さなければならない」

「やはり、その場におられたのですね?」

「そう。私は見てきた。繆沢きゅうたくさまが龍をたおし、人を救い、そしてしいされるさまを。あの六人どもが繆沢きゅうたくさまを貶め、しいし、自らの罪を塗り潰したさまを」

「何千年も、あるいは何万年もの過去の話です。我々はそれを忘れなければならない。乗り越え、次に行かねばならない」

「己が罪を忘れるためにか?」

 突如、小楓しょうふうが呻いた。その手が、自身の首を絞め上げている。

「そういうところだ。贖罪といいつつ、都合よく己の罪を塗り潰し、なかったことにする」

「違う。私たちは、罪を贖うために」

「ならば死せ。繆沢きゅうたくさまの墓前で死せ。その墓も、どこに作ったかも覚えていないだろうに」

「あのお方は、泣いておられた」

 小楓しょうふうの言葉に、姿見の中の小楓しょうふうは、はっとしたような表情を見せた。

「きっと、あのお方です。悲しみに、泣いておりました」

まみえたのか?何故なにゆえに?」

「わかりません。ただ私はまみえました。あのお方は何も言わず、泣いておりました」

 姿見の中の小楓しょうふう戦慄わなないていた。

 小楓しょうふうの手が、首から離れる。跡が残るぐらいだった。

「私は、許さぬ」

 怒気に震える声で、姿見の中の小楓しょうふうが呻いた。

「絶対に許さぬ。あのお方が許しても、私だけは許さぬ」

「その怒りを、私たちは外には出さない。私たちの中で潰えていただきます」

「やってみるがいい、小楓しょうふう。私はそれをも許さぬ。お前を通じ、現世うつよに顕現してみせよう。龍たる人をみなごろしにするために」

紅月寺こうげつじすべてを。“生き残り”のすべてを。私は閉じます。私で、閉じてみせます」

 決意の言葉だった。

 揺らいだ。鏡の中の小楓しょうふうが、消えた。そうして、ごとりという音が鳴った。

小楓しょうふう

 抱きかかえていた。汗塗れで、息を切らした小楓しょうふう

「言ってやった」

 笑っていた。勝ち誇ったように。

「言ってやったよ、成秋せいしゅう。私は七人目しちにんめさまに打ち勝つんだ」

「すごいよ、小楓しょうふう。あの恐ろしいお方に、小楓しょうふうは挑むんだから」

「やってやる。紅月寺こうげつじも、七人目しちにんめさまも、私が葬ってやる」

 そうして小楓しょうふうは、自分の首元に手を伸ばした。

「これ、成秋せいしゅうがつけたことにするね」

 そう言って、はにかんだ。成秋せいしゅうはぎょっとしていた。

「ちょっと。やめてくれ、小楓しょうふう

「でも成秋せいしゅう、そういうことするじゃん?」

「そこまではしないよ。絶対にやめてくれよ?悪い噂がついて回るんだから」

 そこで、視界がぶれた。背中に感覚。正面に、小楓しょうふうの顔。汗だくの、小楓しょうふう

 押し倒された。

曹歌釉そうかゆうさまがね」

 首筋に痛み。噛みつかれた。背筋に何かが走るぐらいに。

「気に入っているんだ、成秋せいしゅうのこと」

「なんで?」

「けだものみたいだって」

 くすくすと笑いながら、妖しげな瞳を向けてきた。

 あかくはない。それでも、怖気が走った。

「吸って、叩いて、噛みついて。がつがつ求めてきて。そんなことする男なんてはじめてで、たまらないって」

「そんな、そこまでは」

「するじゃん、成秋せいしゅう

 汗塗れの顔で、首筋を嗅いできた。その手は男のものの方に伸びてきていた。

「だから今日は、私がする」

「そんな、小楓しょうふう

紅月寺こうげつじ頭首として命じる。抵抗するな、成秋せいしゅう

 そうして、唇を奪われた。舌が入ってくる。貪られる。

 理性が、付いていかなくなる。

小楓しょうふう

 下から抱きしめた。そうして持ち上げ、床に押し付けていた。

小楓しょうふう

 着ているものを剥ぎ取ろうとしたところで、気付いた。

 小楓しょうふう。瞼を閉じていた。すうすうと寝息を立てていた。

「ずるいよ」

 思わず、ひとりごちていた。


4.


 水軍、三千。ひとまずで整えた。それでも足りない。

 そもそも水軍を率いることのできる将官がいない。あるいは船を使える商人も。三州いずれも交易は陸路のため、水運には明るくないのだ。孔飛こうひを中心に、商船を揃えるところからはじめて、ようやくここまで、というところだったが、実際に見ると物足りなさのほうが強かった。

 それでも、呂江りょこうに手が届いた。

 ほぼすべて、楊喜ようきの手柄といっていい。実際、論功行賞では楊喜ようきを功績第一としていた。楊喜ようきの交渉能力がなければ、ここまで来れなかった。

 ここからだ。俺たちの青い旗は。

 そういうときに、楊喜ようきから呼ばれた。真剣な顔つきだった。

「あんたは天下てんがに挑むと言った」

「そうだ、楊喜ようき殿。俺は天下てんがに覇を唱えるのだ」

「現実問題、どこまでやるかね?」

 目を見て、そう言われた。その目つきに、思わず怯んだ。

「各地の紅賊こうぞくは鎮火方向。深山しんざん派はもはや虫の息。そうなれば朝廷との真っ向勝負になる。それでもあんたは天下てんがと言うかね?」

 楊喜ようきの丸い顔が、恐ろしいぐらいだった。

尚書令しょうしょれい閣下から話が来た。たくにくわえてかくの四州。条件付きの自治独立で手を打てると」

「それが、俺たちの天下てんがになるか」

「向こうには、真なる紅月寺こうげつじが付いている。将軍であれだけ苦戦したのだ。これからは将軍だけでなく、大将軍徐勇じょゆう閣下も出てくるぞ」

 みしりと、肺腑が押しつぶされるほどだった。

 対朝廷、対紅月寺こうげつじ。それが本格的にはじまる。それにこの三州と三人は、どこまで耐えられるか。

 そして拡大する領土。それをどこまで維持できるか。孔飛こうひという後方支援のとっておきがいるとしても、司法と行政については州単位の域を出ない。紅賊こうぞく以外の反乱が起きていないのが奇跡なほどである。時が立つにつれ、統治の難しさというのは浮き彫りになるだろう。

「わしは、やれるところまでやりたい。それがずい国十八州のどこまでになるのかはわからんが」

「そう言ってくれるのだな、楊喜ようき殿」

「あんたに惚れ申した。ようやくだが」

 がっしと、肩を掴まれた。そうして、そう言われた。

「男として、人として、そしてひとりの馬鹿として、そこまで貫いてみたい。そしてあんたに、そこまで貫いてもらいたい」

 それで、湧いてきた。勇気と涙が。

天下てんが天下てんがだ。それが実際、どんなものであれ。手に入れるためではなく、挑むために挑むのだ」

「そうだ、青張せいちょう。そうこなくっちゃな」

「すまぬ、楊喜ようき殿。俺は弱気になっていたようだ」

「構わぬさ。それよりあんた、ほんとうに泣き虫だのう」

「言うなよ。年経てえらく脆くなっちまったのだから」

 涙を流しながら、ふたりで笑った。

 船に馬を乗せ、陸路に切り替えることにすれば、それなり運用できるかもしれない。呼延設こえんせつの思い付きだった。

 それで一万、動かしてみることにした。

 かく州、完全攻略。そのためには、呂江りょこう中流域、けん州の境あたりまでは掌握しておきたい。

 貨物船を中心にして、砲艦三隻でそれを囲んだ。川幅の広い部分は展開して進んでいける。

「八里先に、はんの旗」

藩銀令はんぎんれい殿だな。まともに相手をすれば負ける相手だ」

如何いかがいたしますか?」

「当初の予定通りだ。二里先の、川幅が狭まるあたりで切り替える」

 このあたりはまだ流れが緩い。風の調子からいっても、反転、遡上することは難しくない。対して敵軍は流れの急になる狭い水路を遡上することになるから、こちらに接近することは難しい。

 全隻、片側の岸に寄せた。砲を並べる。騎兵の展開も、不都合なく終わった。

「よし。歩兵と騎兵はびょう城まで駆けろ。砲艦と砲兵はここで藩銀令はんぎんれい殿を引き付ける」

 号令の後、張駿ちょうしゅんも馬に跨った。

 朱漣しゅれんも連れてきていた。艦砲の射程を都度計算してもらうためだ。文官ではあるが、馬の扱いは見事だった。

「これなら、右翼がちょうど、付かず離れずの距離です」

「もうちょっと色気を出してやろう。半里、近づけい」

 このあたりは、張駿ちょうしゅんの裁量である。

 轟音。聞こえた。土煙が上がる。しかし被害はない。馬が怯み、いななくぐらいだ。これなら各自、抑え込めるだろう。

 びょう城が見えた。兵の展開はない。大砲おおづつと矢が、ぱらぱらと飛んでくるぐらいだ。

ちょうの青旗」

 吠えた。旗を掲げて、城郭まちの周りを回っていく。それだけで城郭まちの中からは動揺と悲鳴が上がりはじめた。

 三日ほどそうしたところで、楊喜ようきの一団が追いついた。ようの旗を立てたところ、城門が開いた。

 白旗が上がったのは、それから十日もいらなかった。

「誰も処断せず、何も変えず、だ。ただちょうの青旗を立ててくだされば、それでよろしゅうござる」

「まこと、かたじけない」

 それでも藩銀令はんぎんれいたちは、忸怩たる表情を変えなかった。

 船は十隻ほどが中破していた。それもびょう城にいる船大工が直せる程度だった。

「流石は孔飛こうひ殿だ。あっという間に交易路を繋いでみせた」

「まずは陸路。次は水運です。それでここも栄えますし、三州にはここの穀物を送ることも可能になりますぞ」

 孔飛こうひが細面を綻ばせた。

 楊喜ようきの説得により、藩銀令はんぎんれいと、その水軍も手に入った。川に慣れた将軍は何人でも欲しい。

 河要かよう郡、美楼びろう郡まで攻略したところで、かく州牧董楽とうらくの一団が、白旗を掲げて会いに来た。張駿ちょうしゅんは最大の礼をもって、それを迎え入れた。

「これで四州、四州だ。青い旗を立てただけで、三州借りれたぞ」

「おう、俺たちの旗は、紅くない」

 邱虎きゅうこ呼延設こえんせつのふたり、酒気で顔を赤らめながら言いふらしていた。

「官民問わず、このあたりで緩みが出ましょう。董楽とうらく殿には治安の維持を担当していただきたい」

「相分かった。必ずや、青い旗に応えてみせましょう」

「はは、相変わらず生真面目な方だ」

 かく州は呂江りょこう中流域に広がる穀倉地帯である。その治安を維持し、制御するには、相当な才覚を必要とするだろう。そういった点であれば、董楽とうらくは年若くとも才気煥発であり、また同時に峻厳でもあった。司法、行政にはうってつけだ。

 必要なものを、行く先々で借りていく。そういう、足元のおぼっつかない天下旅。

 州に戻ったあたりで訪いがあった。二百ほどの、軍勢ともいえる一団だった。

 何より、帝の旗と、紅月の旗を立てていた。

 城郭まちの外で会うことにした。邱虎きゅうこ楊喜ようきを伴っていた。

紅月寺こうげつじ頭首、杜小楓としょうふう

 天幕の中、前に出てきた若い娘が拝礼した。噂には聞いていたが、実際に見ると、やはりぎょっとした。

 思った以上に若く、何より覇気に漲っている。

青張せいちょうこと、張駿ちょうしゅんと申す」

 負けじと気を張って拝礼した。そうして用意された席に座った。

 小楓しょうふうの隣には、尚書令しょうしょれい孫保そんほの姿もあった。面識はある。お互い、軽い挨拶をして話をはじめることにした。

「先ごろ陛下の軍勢が、紅賊こうぞく跋扈するとう州を平定なされた」

 孫保そんほから、まずはそういう話が出た。

「残るは貴公ら四州。単刀直入に、武を以て平定するは我らも本意ならず。和を以てこれを成すべし」

「あいや、しばらく。我ら、あくまで太平の世を維持するため、手を取り合っているだけに過ぎ申さん」

「もはや詭弁にござろう。かく州確保のために軍勢を動かしたのは紛れもない事実」

かく州牧、董楽とうらく閣下は、これをお許しになられており申す。何卒、ご勘案のほどを」

「もうよろしいでしょう。尚書令しょうしょれい閣下、ならびによう閣下」

 そこまでで、小楓しょうふうが話に割って入ってきた。

「単刀直入にと申し上げたとおりです。やるかやらないか。たったそれだけ」

 澄んだ瞳が、張駿ちょうしゅんを突き刺してきた。

 やるか、やらないか。天下てんがか、それ以外か。

 ならば選ぶべきは、たったひとつ。

「やろう」

 なんとか、ひねり出した。手も体も何もかも、震えていた。

「一天万乗の皇帝陛下に弓引くつもりはござらねど、拙者は夢のために戦をせねばなり申さん。お相手いたす」

「なんと、青張せいちょう。そこまで申すか」

「そこまで申します、閣下。我らが戦う理由など、たったひとつで十分でござる」

「その、ひとつとは」

「俺たちの旗は、紅くない」

 心の底から吠え上げた。立ち上がってすらいた。

「心得た」

 小楓しょうふう。あちらも、立ち上がっていた。不敵な笑みを浮かべている。

「最後に翻るは青か紅か。たったそれだけのための戦になる」

「それでいい。天下てんが天下てんがだ。男が夢を見るには十分な理由だ」

「夢を見続けるがいい。我ら紅き月が、目を醒まさせてやる」

 図ったようにふたり、拝礼していた。

「交渉、決裂」

 そうやって呵々と笑ったのは、楊喜ようきだった。丸い腹を抱えて、天を仰いでいた。

「わしら天下てんがの大馬鹿者どもに、もとより説得など無用にござる。やってやってやりまくるだけ。お覚悟あれ、尚書令しょうしょれい閣下」

「おお、楊喜ようき殿。どうか、血迷われるな」

「今更の話じゃ。わしらはもとより血迷い、気を違え、とち狂うてしもうたのじゃ」

 笑いながらも、その声は震えていた。きっと自分もそうだったろう。その笑い声で、ようやく余裕が戻ってきた。

小楓しょうふう殿、それでは戦場にて」

「それでは青張せいちょう。楽しみにしているよ」

 やはりふたり、図ったように鼻を鳴らした。

 そうやって三人、天幕を出た。途中の怒号が聞こえたようで、外は大賑わいだった。

「殿。俺は、殿の臣でよかったと、今ほどに思ったことはございません。帝の旗の前で、紅月寺こうげつじの前で、青い旗を翻してみせた」

「頬を拭え、邱虎きゅうこ。もはや泣いている暇もなくなるぞ。相手はあの紅月寺こうげつじだ。そして禁軍十万だ」

「十万、十万。おお、震えてきた。そうこなくては、目指すべき天下てんがに値しない」

「そうだ、楊喜ようき殿。もとより無茶な話なのだ。それを我ら四州、やってみせると言ってみせた。この俺が、この俺たちが」

 三人、肩を組みながら笑っていた。

 城郭まちに入った。騒然としていた。誰もが青張せいちょうと叫んで、駆け寄ってきた。

 天下てんが。どれもこれもが、熱に浮かされている。馬鹿げた夢物語に。手の届くはずもないものに。

 それでもやろう。たったひとつ。たったひとつの旗を掲げ、あの連中に見せつけてやろう。俺たちがどこまでできるかを。俺たちが如何いかに馬鹿げているかを。

 ああ、そうだ。何度でも叫んでやろう。


 俺たちの旗は、紅くない。


(つづく)

◆登場人物

紅月寺こうげつじ

小楓しょうふう杜小楓としょうふうとも。紅月寺こうげつじ頭首。

薛奇せつき:故人。先代頭首。

成秋せいしゅう小楓しょうふうの側近。薛奇せつきと妾の子。

文朗ぶんろう文二児ぶんじじとも。紅月寺こうげつじの猛将。

王高越おうこうえつ:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。

李桂りけい:軍事を担当。

華淳かじゅん:後将軍。伏龍塞ふくりゅうさいを率いる。

えい華淳かじゅんの妾。紅月寺こうげつじでは諜報を担当。

呂信りょしん呂無頼りょぶらいとも。銃兵を操る精鋭。

候晃こうこう紅月寺こうげつじの守将。

【朝廷】

喬倫志きょうりんし:丞相(総理大臣)。紅月寺こうげつじに協力を依頼。

徐勇じょゆう:大将軍。禁軍全体を率いる。

孫保そんほ:尚書令。青張連合との和平工作を担当。

【青張連合】

張駿ちょうしゅん青張せいちょうとも。州牧(行政長官)。

邱虎きゅうこ張駿ちょうしゅん配下の武将。

呼延設こえんせつ張駿ちょうしゅん配下の武将。

楊喜ようき州牧。外交を担当。

孔飛こうひたく州牧。兵站を担当。

董楽とうらくかく州牧。行政、司法を担当。

【その他】

繆沢きゅうたく:神代の覇者。ずい国を興したが、暴虐を働きしいされたと伝わる。

七人目しちにんめさま:謎の存在。“生まれ変わり”の根源とされる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ