七人目さま
1.
戦況は、一進一退といったところだった。
向こうの将軍は趙垓というらしい。席次は低いが叛徒平定に功績があると、華淳からは聞いていた。
この趙垓が、なかなかやる。野戦築城に心得があるのだろう。立派な陣地ひとつ、こさえてきた。
川向う。橋はすでに落とされている。大砲を並ばせて、連続して射掛けていたが、それでもなかなか崩れない。なんとか渡河したいところだが、向こうも小銃の数は十分に揃えてきていた。
「川の上流。そこなら渡れます」
軍議の場、呂信が地図の一点を指さした。
「しかし深いぞ。それに冷たい」
「竜騎兵なら、多少の無茶は効きます」
「わかった。俺のも連れて行け。待ち伏せされていたら、素直に戻ってこいよ」
李桂の言葉に、呂信は拝礼した。
陣地に出る。お互い、川を挟んでの大砲の撃ち合い。こちらも築城は済んであるので、被害は少ない。
ただただ不毛な消耗戦。これでは何も進まず、人と物だけが減っていく。
「撤退かのう」
隣りにいた胡碩に対して呟いた。胡碩も同じ考えらしく、ただ頷いていた。
「こうなっては千日手です。一度、平野部に出て、立て直したほうがいいでしょうな」
「ここまで上手いやつがいるとは思わなんだ。致し方なし、かな」
李桂は苦々しい顔で、ただ髭を撫でることしかできなかった。
三日して、呂信が戻ってきた。渡河地点で敵が待ち伏せていたらしい。
「桃が戻ってきました」
撤退を強く考えていたあたりで、伝令が声を張り上げてきた。
天幕から出る。ぼろぼろの具足を着込んだ女ひとり、へたり込んでいた。
英から借りていた端女のひとりである。
「おお、桃」
「大大将さま、これを」
紙切れ一枚。息も絶え絶えといった様子だった。
「ようやった。しっかり休めよ」
「ありがたき幸せ」
安心したようで、そこまで言って桃は目を閉じてしまった。
李桂自身の手で、桃を天幕に運んだ。矢は具足で止まっていたが、銃弾で二発ほど貫かれていた。
だが生きていた。生きて、戻ってきてくれた。
「桃が見取り図を持ってきてくれたぞ」
軍議を開いた。皆の顔に、覇気が戻っていた。
「兵糧庫、火薬庫が案外近いな。大砲が届くかもしれん」
「意識を向けるだけで十分でしょう。その間に竜騎兵だけでも渡河しきる」
「しかし、双方とも決死になりますぞ。よろしいのですか?」
「桃が生命を張って持ってきてくれたのだ。男たる俺たちが生命を張らんでどうする」
腹の底から怒鳴った。それで、皆の腹も決まったようだ。
明け方、大砲を前に出した。すべて、北に照準を定める。
「放てい」
怒号が、轟音でかき消される。
三斉射ほどして、向こうがこちらの狙いに気付いたようだった。応射。爆音と、吹き飛ぶ人の肉体。それでも撃つ。
竜騎兵が渡河をはじめた。冷たいが浅瀬。一気に渡りきれるはずだ。
「行ける」
櫓の上で、李桂はまんじりともせずその風景を見ていた。
「行けるぞ」
砲兵。竜騎兵。相当に被害は出ている。
それでも。
爆音。それと、火柱。李桂のいる櫓まで、その衝撃は届くほどだった。
火薬庫に、砲が届いた。
「総員、突撃」
腹からぶっ放した。
思わずで、櫓から飛び降りていた。そして駆け出していた。従者が用意した馬も使わず、徒手のまま川へ飛び込んだ。
浅瀬。冷たいが、流れは緩い。渡りきれる。
矢と銃弾。体をかすめていく。転がっていた銃剣付きの小銃を握りしめ、ただひたすらに駆けた。
「雑兵ども、李桂はここじゃぞ」
渡りきった。塹壕。怯えた顔の敵兵の顔に、銃剣をぶっ刺した。そうやって壕の中に飛び込んで、鞘を払った。
どいつもこいつも怯んでやがる。ならば本領。全員まとめてたたっ斬ってやる。
後続が続いた。胡碩も来ている。剣を掲げて、とにかく走り続けた。矢も銃弾も、逃げるように体を逸れていく。
死ぬと定めた。だから死なない。男とは、そういう生き物だ。
趙の旗。下がっていく。追おうとしたが、足がもつれた。泥濘に顔から突っ込んだ。
誰かが体を支え、持ち上げていた。
「おお、坊主」
呂信だった。具足は傷だらけだった。
「無茶しすぎですよ、大将」
「大将ではない、大大将だ。馬鹿たれ」
そうやってふたり、泥の中で笑った。
二日ほど追ったあたりで、追いつけなくなった。兵站にも限界が来ていたので、ちょうどよかった。
「趙垓は、討ち果たせなんだか」
本陣に戻ったあたりで、大将軍徐勇が下馬して迎えてくれた。こちらも下馬して拝礼する。
「無念にござる」
「なに、十分以上だ。一郡、押し戻した。流石は李桂よ。わしらではどうともならなかった」
「大将軍のお言葉、ありがたく」
「被害は大きかろう。しばらく休まれよ。その間は、わしらが前に出る」
「趙垓とやら、なかなか以上です。近代的な野戦築城でした。あれを毎回続けられれば、こちらはたまったものではない」
「それほどのものを、末席に置いていたのか。我々は」
そこまで言って、徐勇の顔は無念そうに歪んだ。
「腐ったなあ、李桂よ。こうはなるまいとばかり思っていたのだが」
「どこかでやつれ、衰えるものです。それに気付くだけ、ましだと思いましょう」
「いや、我らの至らなさだ。貴公に見限られ、取り上げるべき功を取り上げず、それでも何もしてこなかった。禁軍、まこと旧くなり申した」
その声は、静かに震えていた。
もとは、禁軍の将軍だった。近衛を任されるほどに評価されていた。それでもどこかで淀んだものがあり続けた。
紅月寺と敵と味方をやりながら、薛奇と出会った。それがきっかけだろう。身ひとつで出奔し、紅月寺に加わった。
世を正す。その志が、きっと大きい。世を正すということではなく、志を持って生きるということが。
桃が意識を取り戻したと聞いて、李桂は天幕に飛び込んでいた。寝台の上の桃は、柔らかな笑顔で迎え入れてくれた。
「ようやった、ようやったぞ、桃。お前のお陰で、此度の戦、勝ち申した」
「伺っております。勝ちに逸って、櫓から飛び降りたとも」
「大事ない。体ばかりを鍛えておったからな」
そうやって笑った。それでもどこか、桃の笑顔はぎこちなかった。
「でも私は、ここまで」
それだけ、言った。そうやって桃は、寂しげに両の足をさすった。
「動かぬのです。銃弾が当たったところが、よくなかったのでしょう」
「なんと、それは」
「これでは旦那さまのためにも、大大将さまのためにも、そして紅月寺のためにも働けませぬ」
「何を申す」
自然と、言葉に出ていた。両手は、桃の手を取っていた。
「この李桂。お前のことを貰い受ける」
「なんと、大大将さま」
「それだけの働きをしてくれた。だからこれからは、俺のために働いておくれ」
「しかして、足萎えの女など」
「足は萎えておろうと、人には変わりないだろうて」
そうして、桃の股に手をおいた。それで桃の顔は真っ赤になった。それが面白くて、李桂は呵々と笑った。
いい女ひとり、幸せにするぐらいの甲斐性は、持っているつもりだった。
2.
小楓に、何かがあった。
鏡の中に、何か得体のしれないものを見たという。たまたま立ち会っていた王高越が、必死に引き剥がしたそうだ。
七人目さま。小楓はそれを、そう呼んでいたらしい。
楊漢としては、それについて予感があった。話にだけ聞いていた、原初の存在。記されざるもの。たどり着いたならば、この世のすべてを律する力を得るという存在。
もしかしたら、それなのかもしれない。
ひとり会えないか、聞いてみた。難しい顔をされたが、それでも了承してくれた。
鏡の間。姿見の前の小楓。すでに、顎から滴り落ちるほどだった。
「曹夫人。あるいは曹歌釉という名だ」
「わかった。探してみる」
こくりと、頷いた。
あれ以来、小楓は鏡の前に立つことをこわがっていた。今も、楊三嬢や成秋、王高越を立ち会わせてようやく、というぐらいだった。
「それほどまでに、恐ろしいものなのかね」
「あんたは見てないから言えるだろうけどね。あれほどのものは見たことがないわよ」
王高越は苦い顔でこぼしていた。
「あれに会うというなら、私はあんたのことを見限った」
「だろうと思った。だから今回は、別のものだ」
「曹夫人といったけれど?」
「歴史としては、武敬皇后として知られている」
その言葉に、王高越の顔が険しくなった。
「北曹瑞朝の開祖だ。その七人目さまとやらに、会っている可能性がある」
北曹の時代。“生まれ変わり”が帝位に着いた、紅月寺の絶頂期。
「見つけた」
二刻ほどで、小楓が声を上げた。
楊漢は姿見の前に移動した。跪き、拝礼する。小楓も、それに倣うようにして拝礼した。
「皇后陛下のご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ奉りまする」
「苦しゅうない。面を上げよ」
典雅な声。鏡の中から。
豪奢な格好の、妙齢の夫人だった。ほお、と声が漏れるほどに美しかった。
これがおそらく、曹歌釉。
「形式はそれぐらいで結構じゃ。妾に何用ぞ?」
「七人目さまと呼ばれるものについて、何かご存知でしょうか?」
「ほう」
「当代の頭首たる、この小楓殿が、それらしき人物と遭遇しましたがゆえ」
鏡の中の曹歌釉は、楊漢の言葉に、長い袖で口元を隠した。
「あの方に見えたか、小楓とやら」
「おそらくは」
「朱い目をしておっただろう?」
「はい、陛下。私の姿で、そしてその瞳は、鮮やかな朱でした」
「ならば、それじゃ。妾も見えし原初の存在。それこそが七人目さまじゃ」
曹歌釉の顔は、険しかった。
「陛下。何故に貴女がたは、それを記されてこなかったのですか?」
「残してはいけぬ。あのお方を外に出してはいけぬからじゃ」
「陛下のように、それに出会えた“生まれ変わり”は、覇者になるとも伺っておりましたが」
楊漢の声に、曹歌釉はただ静かに目を伏せるだけにした。
「人即龍也」
その声は、小楓でも、曹歌釉のものでもなかった。
見る。曹歌釉の姿。瞼は閉じている。
それが、開く。ゆっくりと。
煌々とした、朱。
喝。小楓だった。それに圧されるように、楊漢は飛び退っていた。
「よう耐えた、小楓。よく鍛えておるのう」
「陛下。もしや、今のが」
「少しでも隙を晒せば、七人目さまはお見えになられる。心も体も、たちまちに奪われてしまう」
そこで、姿見の中の曹歌釉のかたちが揺らいだ。
小楓。大汗をかき、息が乱れていた。
「一度、場を崩す。そこな小楓が万全になったら、また呼んでたもれ。妾の知りうる限りと、為すべき限りを伝えよう」
「お気遣い、感謝いたします。陛下」
楊漢は静かに頭を下げた。それで、曹歌釉の姿は消えていった。
どさりと、小楓が倒れ込んだ。成秋と楊三嬢が駆け寄る。時間としては短かったが、かなり憔悴している様子だった。
楊漢は王高越とともに、部屋の外に出ることにした。
「七人目さまは、人を龍と言った」
「龍といえば、いにしえの繆沢伝説に出てきた、暴虐の龍王を指すのかな?」
「そもそも、何に対しての七人目なのかしら?」
「六人の王」
思いつきを言ってみた。それに対し、王高越は表情を崩した。
「覇王、繆沢を弑した六人。その場に、もうひとりいた?」
「それもきっと、繆沢に近しい存在だ。繆沢を殺され、人を龍と定めるほどに強い怒りと憎しみを抱いた」
「そもそも神話の話じゃない、それ」
「つまりは、それが実話かもしれないのだよ」
言って、背中が冷たくなっていることに、ようやく気付いた。
川均しの繆沢。神代の時代の話。単なる言い伝えが、実際の出来事だとすれば。
「楊漢とやら。そちの推測は、おおかた正しい」
日を改め、再度、小楓に鏡を見てもらうよう頼んだ。そうして再び、曹歌釉と話をすることができた。
「七人目さまは、人を、そして世のすべてを憎んでおられる。小楓や妾、そして他の“生まれ変わり”でも制御できないほどに」
「ならば、紅月寺とは?」
「世を永久に平らかにすることにより、七人目さまの怒りを鎮め、外に出さぬための仕組みよの」
ふう、とため息ひとつ。
「そのためならば、妾は帝のお子をも授かった」
その顔は、ひどく寂しげですらあった。
「とにかく、気を強く保つことじゃ。一度見えたが最後、七人目さまはそなたを通じ、世にお見えになろうとする」
「それでも、人の心には限度がある」
「そうじゃ。なれば紅月寺頭首としての本懐を早う遂げよ。その後で、“生まれ変わり”としての資格を捨てればよい」
「何か、手段があるのですね?」
「おそらくは。妾もそこについては、定かではないがの」
曹歌釉は静かに微笑んだ。
「紅月寺を解散する。薛奇からそう聞いておる」
「はい、陛下。紅月寺のいらない世を。世の中そのものが、悪を自浄できるようにするために」
「叶うとよいな。そしてそちも、ひとりの女子に戻れると」
「ありがたき幸せに存じ奉りまする」
小楓が礼をした。
では。そういって、姿見の中の曹歌釉は消えていった。
「六人が王の、七人目」
ひとりきりになったところで、楊漢はそれを繰り返していた。
そもそもが神話の話。だが実際に、“生まれ変わり”として紡がれてきた、実在したもの。歴史書を読み漁ったとして、どこにも記されていないもの。
誰かが、七人目さまに生まれ変わったというのも、不思議だった。偶然か、あるいは必然からか。そしてそれは誰なのか。
「七人目さまと同様、それに生まれ変わった、最初の“生まれ変わり”には、ほとんどのものがたどり着けていないし、また記されてもいない」
小楓にそれを問いただした。暗い顔だった。
「誰かが七人目さまを見出した。それもまた、紅月寺のはじまりのかたちだ。七人目さまの怒りを用いて、世に覇を唱えた。小楓殿、それに会うことは叶わぬかね?」
「正直に、やりたくない。私は今、鏡に怯えている。それほどまでに、七人目さまが恐ろしい」
「父上、おやめ下さい。小楓さまはお疲れになられております。それに気も弱っておいでで」
「小楓殿が覇者になるためだ」
燻っていたものが、口から出ていた。その両手は、小楓の肩を掴んですらいた。
「“生まれ変わり”の謎を解き、七人目さまを御しきる。そうすれば君という存在が、そして紅月寺が覇者になれる」
「楊漢、それは、それだけは」
「もうたくさんだ。世が民を虐げるのを見続けることなど。世に覇を唱え、王たる道を行くものこそが必要だ。小楓殿、君がそれになれるかもしれんのだ」
「楊漢、楊漢」
震える声。手に伝わってくるものも、それだった。
「それだけは、やりたくない」
小楓の目には、涙すら浮かんでいた。
「私は、紅月寺のいらない世界を作りたい。紅月寺ではなく、世の中そのものが悪いところに気付き、直していける世界を作りたい」
「小楓殿、それはわかる。そのうえで」
「私は、私のおとうさんやおかあさんのような人々を、作りたくない」
それを言われて、楊漢は口籠ってしまった。
卜仙。そして、小香。
それ以上は、何も言えなかった。
「少し、お時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
小楓の部屋をあとにしてからしばらくして、英に呼ばれた。その表情はだいぶんに険しかった。
英の屋敷。いたのは何人かの端女と、王高越だった。
卓の上には、何かの密書と思しきものがいくつか置かれていた。
「あえて、多くは言わないわ」
王高越。沈んだ表情だった。
密書。どれもこれも、見覚えがあった。すべて自分が綴ったものだった。
「それで」
状況に動じていない自分がいた。それが自分自身、ちょっとした驚きでもあった。
「切り捨てるか?それとも、小楓殿に突き出すかね?」
「今となっては何の意味もない。あんたの野望は、あらかた成就してしまっているからね」
「そうだな。紅き月は、すでに数多昇れり。残った最後のひとつが、ほんとうの紅月寺になる。ただそれだけだ」
「小楓は覇者にはならない。最後のひとつになったあと、紅月寺を解散するのだから」
「もうひとり、覇者たりうるものはいる」
指さした。それは、少し離れたところで弓を引き絞っていた。
「薛奇殿が子、薛成秋。君だ」
成秋。油の浮いた、険しい顔つき。
「いっそ紅月寺ではなく、別のかたちでも構わない。君にはそれだけの資格と素質がある」
「人を利用するだけ利用して、あんたは何もしないのね」
「我に王才なし。それは生まれ持ったものがゆえに」
「楊漢先生。ひとつだけ、申し上げます」
弦の音。足元に、矢が突き立っていた。
「俺は小楓さまとともにあります。たとえ紅月寺がなくなっても、この生命が尽きるときまで」
凛々しい顔だった。それを見て、楊漢はただ静かに目を伏せた。
そのまま、屋敷に連れて行かれた。すでに、すべての窓には板が打たれていた。
「病が篤い。そういうことにしておく」
「生かしておくだけ、害になるやもしれんぞ?」
「王才なくとも、王佐の才はある」
「利用するだけ利用する。君も変わらんではないか」
「小楓をこれ以上、悲しませたくない」
そう言って、王高越は屋敷の門を閉めた。
ひとりになった。書斎に行き、筆を執った。
文一通、綴った。それ以上はしないと定めながら。
「これを、馬勲へ」
虚空に言葉を放り投げると、誰かがそれを受け取った。
紅き月は数多昇れり。そしてまことの紅月寺だけが残る。しかし覇者は生まれいでず、それでも世と民は安んじられることだろう。
一応の目的は果たした。そう思うことにした。
あとは、次代のために死ぬだけだ。
3.
琢州は、平和裏に抑えることができた。
楊喜の人望や、平原の異民族という後ろ盾も大きいのだろう。琢州牧、孔飛とは、楊喜とふたりで訪うだけでよかった。
そうすると、次は郭州だろうか。呂江流れる、基盤のしっかりした穀倉地帯である。
兵数、三万。異民族からも徴発して、五万余になる。それも養えていけている。もとの産業にも影響はない。つまらないものとばかり思ってやっていた日々の政の成果でもあるのだろう。これには張駿もひとり、胸を撫で下ろしていた。
ただ、騎兵である。銃兵は少ない。銃兵自慢の呂無頼こと呂信や、あの李桂などがこちらに向けば、敗北は必至である。
「銃の調達は、やはり難しいですかな?」
「今、商人たちを走らせておりますが、国産のは難しいです。となれば陸路で意国となる。三年、四年の話になります」
「ううむ。となればやはり海。そのためにはやはり、郭州ですな」
「呂江に届けば、海に出られる。夷波唐府、殊国、誒国と繋がることもでき申す」
「このあたりは、やはり孔飛殿ですな。わしや張駿殿より、ずっといい」
「役割分担ですよ。兵站の俺、外交の楊喜殿、そして軍隊はもちろん、あの青張がいる」
「そう言っていただけると、気が楽になります」
三人、そうして笑った。
まずは交渉。それでもやはり、上手くはいかない。こちらにあるのは夢ばかりで、大義名分などない。どこに駆け寄っても、静観か、あるいは首を横に振られるばかりである。それでも楊喜が粘り強く対応してくれる。州牧から太守、村長のひとりひとりに至るまで、説き伏せてくれている。
そのうちに、兵一万、郭州方面から出てきた。郡ふたつをようやく懐柔できたあたりである。
「まずは互角という感じでぶつかって、講和といたしましょう。こちらが攻め入ることも辞さないことを見せつける」
「相分かった。ここはこの青張にお任せあれ」
「おうともよ。我らの旗は、紅くない」
そうやって、楊喜は笑った。勇猛さすら感じるほどだった。
平野でぶつかれそうだった。斥候を何度も放ち、相手の陣容を確認した。
「華の旗だと?」
思わず目を剥いていた。
「華淳将軍ですか?」
「本気で当たらねば負けるどころか、死ぬ相手だ」
「覚悟はできております」
「すまんが、頑張ってもらうぞ。邱虎、そして呼延設」
ふたり、頷いた。
相手から先に動かせたかった。邱虎。軽騎で釣り出せるか。
「うち三千、動きました」
「右翼五千の方に誘導しろ。矢と銃弾で足止めするんだ」
言いながら、張駿は左翼側に移動した。
音に聞こえた華淳。とびきりの大物が一番に出てきたわけだ。さあ、どう動く。
三千。右翼にぶつかるが、かたちだけだ。むしろその後ろから大砲の姿が見える。すり潰すつもりだろう。
右翼を下がらせた。左翼から騎兵を出していく。一度敵陣を突っ切って、布陣しようとしている砲兵の後ろを取って混乱させたい。
「張の青旗」
吠えた。槍を掲げ、馬の腹を蹴る。
ぱらぱらと矢が飛んできた。すべてはたき落とせる。
このまま、進める。
敵陣。飛び込んで、なぎ倒していく。青張の四百。それを戦闘に、一枚目を崩していく。
轟音。銃列が待ち受けていた。一度足を止める。
その後ろには、騎兵の姿も見えていた。
「退却。中央を前に出せ」
思わず、歯噛みしていた。
中央の押し合いの間、本陣に戻ってこれた。
「騎兵、八百。追ってきました」
「槍と矢で押し戻せ」
馬に秣と水を取らせながら、張駿は地図を眺めていた。
一度、楽陽関まで下がるか。
「七割、楽陽関に入れるぞ」
「残りは?」
「進行する敵と交差して、後ろを取る。兵站を切るように見せかける」
「相手の足を止めますか」
「呼延設に任せる。あえて急いていけ。本隊は、俺が反転させる」
「おうさ。行って参る」
そうやって、呼延設は馬の腹を蹴った。
じりじりと戦線を下げた。華の旗は、先頭にあり続けた。
五日使って、楽陽関の前に布陣した。あえて中にはひとりも入れなかった。
「空城の計ですか」
邱虎がにやりと笑った。
「呼延設に後ろを取られ、躍起になるだろう。そうしたら入れてやれ。お前の合図で、火を上げる」
「ぼや程度でも、相手は騒ぎましょうな」
「勝つ必要はない。こわがってもらえれば、それまででいいのだから」
馬止めの柵と弓兵。それとある分の銃兵を前に出した。
華の旗。三里先で止まったままだった。
「俺の四百で釣り出すか」
そうやって、馬の準備をしているあたりだった。
傷だらけの具足の斥候ひとり、飛び込んできた。
「呼延将軍、敗走」
「なんと」
「敵陣最後尾に、呂の旗あり。反転した敵銃兵に応戦されました」
「呂無頼だと」
思わず、叫んでいた。
銃兵自慢の、殷州で名を馳せていた勇将である。ただ確か、李桂とともに、深山派の対応に向かっていたはずだ。
ここにいるはずがない。
「救援に向かう」
「殿、危のうございます」
「今、危ないのは、呼延設だ」
そうやって、大慌てで馬に鞭をくれた。
敵左翼がいくらか薄い。それでも槍衾を出してきた。異民族の弓馬兵で表面を削ぎつつ、飛び込んでいく。
それでも敵陣が固い。まったく入っていけない。
「反転。二千増やして、もう一度当たるぞ」
「殿。あれを」
「今度は何だ?」
指さした方角。楽陽関。
「何だと」
楽陽関が、燃えていた。そして、旗が立っていた。
紅い月の旗。何本も。
ぐらついた。後ろから突っかけられたか。再度反転し、吶喊する。矢と弾丸。それでも、進む。
華の旗。近づいてくる。華淳。
とどめを刺しに来たか。
「華将軍は何処ぞっ」
吠えた。そうやって、雑兵の中を駆け回った。そのうちに槍が折れ、剣も脂が巻いて斬れなくなった。
旗。何度も馳せ違ったが、華淳らしい姿はない。
もしや、欺いたか。華淳。
「おお、殿」
一騎、近づいてきた。呼延設だった。針鼠のようになっている。
「呼延設、無事だったか」
「生命だけは、なんとか」
「よし。敵陣を突っ切って逃げるぞ。お前は先に行け。俺は邱虎とともに殿じゃ」
呼延設がそれで、馬首を返した。
四百だけで、楽陽関まで戻った。邱虎の軍は、三重に囲まれていた。
ぼろぼろの剣を、叩きつけまくった。
「邱虎」
落馬し、雑兵に追い詰められていた。それを馬で蹴っ飛ばし、邱虎の体を抱きかかえた。
「殿。華淳です。華将軍が」
「俺が相手をする。お前は逃げろ」
「殿、なんと」
「皆のもの」
馬に邱虎を残し、飛び降りた。転がっていた槍。拾って、叫んだ。
「青張はここぞ」
それで、穂先が四つ飛んできた。すべて、はたき落とした。
馬ひとつ分捕って飛び乗る。楽陽関の熱が、ここまで届くほどだった。
紅い旗。見えた。堂々たる体躯。こちらを向いた。
「癸州牧、張駿閣下とお見受けした」
「いかにも」
「紅月寺、華淳と申す。いざ、尋常に」
それでお互い、馬の腹を蹴った。
雄叫び。掲げた槍を、投げつけるようにして前に出した。向こうの槍がぶつかる。馳せ違い、振り返る。
腕がしびれていた。それで、突き出すのが遅れた。
「うおっ」
視界が回る。体中に痛み。それでも、反射的に立ち上がっていた。
胸甲には、大きく傷が入っていた。
「来いや、華淳」
叫び、見渡したが、紅い旗は見えなくなっていた。
震えていた。そうして兜を脱ぎ、地面に叩きつけていた。
青張、むざむざ生かされたか。
残った兵をまとめた。伝令がいくつか来て、他のものは西に逃げたと聞かされた。そうして馬を走らせた。
呼延設と邱虎。二日追って、追いつけた。そのままなんとか癸州に戻ってこれた。
出陣、二万。戻ってこれたのは、一万二千。将は守れたが、兵は守れなかった。
「あの場に、呂信はいなかった」
放った間者の動きで、そういうこともわかってきた。地図を前に、張駿はただ、頭を抱えていた。
「土俵にすら、立てていなかった」
「張駿殿、気を確かに」
「八千、死なせた。呼延設は、未だ腕が上がらん。俺はその責を追わねばならん」
「何を申されるか、青張よ」
楊喜。肩を掴まれた。そうして、揺さぶられた。
「ここからじゃ。わしらは、ここからじゃぞ」
「そうとも、楊喜殿の言う通りじゃ。八千が何だ。一万、集めよう。それで足しだ、青張」
孔飛も真剣な顔で詰め寄ってきた。
張駿はただ、頭を下げることしかできなかった。
「戦場で死ねぬ。責めも負えぬ。俺はただ、生きねばならない」
涙をこらえながら、邱虎たちの前に立った。誰も彼も、立派な顔をしていた。
「それは、殿こそが御旗だからです」
邱虎。雄々しい顔だった。羨ましいぐらいに。
「殿亡き後、誰がこれを率いましょうか。楊喜閣下?孔飛閣下?違いましょう。殿こそが生きてもらわねば。殿こそが、我らが青き旗がゆえに」
「邱虎の言やよし。我らが旗は、未だ青いぞ」
呼延設。腕を吊りながらも、笑顔だった。
「俺たちの旗は、紅くない。それを、あの華淳に見せつけ申したぞ」
片腕を上げた。呼延設。それで皆、おう、と続いた。
皆、いいのだな。こんな俺で、いいのだな。
見渡した。喚声と熱狂。それで、涙は収まった。
「俺たちの旗は、紅くない」
叫んだ。続いて、誰も彼もが続いた。
「まとまり申したぞ。公孫郡、我らが手中じゃ」
ひと月して、楊喜が喜色をたたえて飛び込んできた。その声に、張駿は飛び上がっていた。
「なんと、負けたのにか?」
「紅月寺に立ち向かう。その姿勢に感服したとのことだ。根性を見せた甲斐があり申したぞ」
「やったな、張駿殿。ここから二郡、手に入れれば、呂江に届くぞ」
「戦った甲斐があった。生命を使った甲斐が」
感極まっていた。顔を覆って、泣きじゃくっていた。
青き旗。その下に、集おうというものがいる。それが何よりうれしかった。
4.
雨に降られていた。成秋は内心、がっかりしていた。
一日、暇を貰って、気晴らしに兎狩りにでも、と小楓を誘っていた。城郭を出るあたりまでは天気がよかったのだが、一刻もしないうちに強い雨に降られてしまった。
そうやって、ひとまずで見つけたあばら屋にふたり、飛び込んでいた。
小楓。火にあたりながら、ぼんやりとしていた。最近、よく眠れていないのか、時折うつらうつらと首を動かしてすらいた。
「眠ってしまっても構いませんよ、小楓さま」
「ううん、大丈夫」
「眠るの、こわいのですか?」
「うん。起きているほうが、きっといい」
それでも小楓は、成秋の肩に頭を預けてきた。成秋は自然と、その肩に手を回していた。
小楓にとって、大変なことが続いていた。
紅賊。紅月寺を騙る賊たち。小楓は紅月寺のあり方に疑問を持っていた。紅月寺のいらない世を作ろうとしていた。その小楓にとっては、紅賊の存在は、最悪なものだろう。
その紅賊に、楊漢が関与していた。資金面や活動面で大いに援助をしていた。覇者を生むため。それもまた、小楓の望むものではない紅月寺のかたち。病を得たことにしたが、小楓はすぐに気付いた。楊漢を処断しようとしたが、今までの功績もあって、それはできなかった。
そして、七人目さま。“生まれ変わり”の、原初の存在。
小楓は弱っていた。こうやって眠れもせず、食も細くなっていた。鏡を見ることにも、ひとりでいることにも怯えるようになっていた。
なんとか、支えになってあげたかった。
ふと、肩に感じる重みが、より大きくなった。
「成秋」
「なんですか?」
「成秋は、いなくならないよね?」
見やった。覗き込むように、見上げてきていた。不安そうな瞳で。
「大丈夫ですよ」
「ほんとう?」
「俺は小楓さまのお側にいます。ずっとずっと。紅月寺がなくなったあとでも、ずっと」
本心を、伝えたつもりだった。
小楓。はにかんだ。頬に少し、赤いものが差していた。それが可愛かった。
「ぷろぽおず、だ」
「なんですか?それ」
「求婚ってこと」
言われて、どきりとした。小楓はずっと、くすくすと笑っていた。
「ずっとずっと、お願いしたい。私のこと、全部」
「ちょっと、乗っからないで下さいよ」
「私は、成秋のこと、好きだから」
「駄目です。俺だって、男なんですよ?そんなこと言われたら」
「私だって、女だよ」
笑っていた。でも、目は真剣だった。
「前に、言ったじゃん」
手を取られた。小楓の手に。
「成秋になら、何されても、いいって」
その手を、小楓の胸の上に置かれた。
鼓動が伝わってきた。高鳴っているものが。
それが、最後の堰だった。
「小楓」
押し倒していた。そして、剥ぎ取っていた。すべて、すべて。
「小楓」
女の声。吐息。熱。
「好きだ、小楓」
言いながら、貪っていた。小楓の、すべてを。夢中になって。
ただふたり、お互いの名を呼んでいた。それだけは覚えている。
ただ気が付いたときには、白い肌の小楓が寝そべっていた。ところどころが赤くなり、ぴくりとも動かず。
やってしまった。
成秋は、青くなっていた。そうしてひとまず、羽織っているものをその上にかけ、それでもどうにもならず、頭を抱えていた。
十四くらいの頃、文朗に妓楼に連れて行かれ、操を捨てていた。こういうのは早い方が面倒がないからと言われて。そこでもこうだった。
女に対して乱暴なのだ。泣いて、いやがられるほどに。
何度、何人抱いても、それは直らなかった。それはいつしか、女に対する苦手意識のようなものになりつつあった。
傷つけてしまう。わかっている。それでも、やめられない。女の叫び声が脳を焼いてくる。それが、たまらない。
小楓に、すべてをぶつけてしまった。女の子に、欲望のすべてを。
そうやって頭を抱えているうち、小楓はむくりと起き上がった。そうして、心ここにあらずといった表情で、ぼうっとしていた。
飛び上がっていた。そうして成秋は、小楓の前にひれ伏した。
「小楓。あの、その」
「うん」
「本当に、なんとお詫び申し上げるべきか」
「あのね」
「生命を捧げる覚悟にございます。ですから、その」
「もっかい」
「はい?」
視界がぶれる。きっと、押し倒された。小楓の可憐な、上気した貌。
「もっかい」
そうして、覆い被さってきた。
そこからはやはり、よく覚えていなかった。小楓の赤くなった肌と熱。声。それとなんだろう、鋭い感覚を。
ひとしきりが済んで、ふたり、抱き合って横になっていた。
「小楓って、呼んでくれた」
「はい」
「嬉しい」
「俺もようやく、そう呼べました。嬉しいです」
「ありがとう、成秋」
「ありがとうございます、小楓」
そうやって、小楓は眠った。すやすやと寝息を立てて。
つられるように、成秋も小楓を抱きしめながら、眠った。
起きたときには、雨は上がっていた。
「随分、遅かったじゃない」
戻ったとき、心配した表情で王高越に叱られた。それでも小楓は、にこにこと笑っていた。
いつもの小楓の笑顔だった。
「何してたのよ、こんな時間まで」
「ええと、それは、その」
「えっち」
小楓。とても嬉しそうな声で。
王高越と楊三嬢、それと文朗。視線が、刺さる。
こわい。
最初に動いたのは、楊三嬢だった。無表情だった。
「成秋さま、そちらにお掛け下さい」
「はい」
「どちらからお誘いになったのですか?」
「ええと。多分、あれは小楓から」
ぱん、と鳴った。自分の頬の音だった。
「何回、なされたのですか?」
「たくさん」
「避妊は?」
「できてません」
また、ぱん、と。
「小楓さまの首筋、跡が残っております」
「ちょっと、楊三嬢。そいつは、あの。そろそろ」
「すみません。そういうことを、しちゃいました」
飛んできたのは、拳だった。ほんとうに痛かった。
「小楓さまのことを、小楓と呼ばれている」
「はい」
「いるわよねえ。一度抱いたぐらいで、自分の女だと思っちゃうやつ。男のそういうところ、ほんとうにさあ」
「王高越さま。お静かに」
「はい」
「本心なんです。小楓のこと、好きだから」
言って、むず痒くなった。王高越も小楓も、にやにやと笑っている。
「ぷろぽおずしてくれたんだ。ずっとずっと側にいるって。紅月寺がなくなっても、ずっと、って」
「あら、まあ。成秋ちゃんもやるじゃない。そういうことなら仕方ないわよねえ」
「仕方ないことがあるかよ、まったく。ふたりとも子どもなのだから。こうならないよう、勉強はさせたつもりだったんだが」
「ともかく」
そして、ぱん、と。
「女に恥をかかせた。そして跡を残すようなことをした。これについては教育が必要ですわ」
「教育って、その」
「情操教育です」
「待って下さい。それはその、小楓の手前」
「楊三嬢。大丈夫」
小楓。抱きついてきた。
「これが、私の成秋だから」
そうして、ひときわに微笑んだ。小楓の笑顔で。
それで、楊三嬢も呆れたように笑った。
「致し方ありませんわね」
「やった」
「それでも、ちゃんと注意してくださいね?小楓さまぐらいのお年の女の子というのは、ほんとうにでりけえとなのですから」
「はい、注意いたします」
言われて、頭を下げることぐらいしかできなかった。
それからの日常は、変わらなかった。小楓は、蜂起する紅賊や、乱れた人心に対する対応に追われていた。癸州を中心とした国境三州は、着々と戦力を大きくしていたし、深山派も勢いが衰えない。
それでも小楓は、前よりもずっといきいきとしていた。
「久しぶり、というほどでもないはずなのだが」
都。喬倫志に拝謁していた。
「貴公ら、そこまで仲睦まじかったかね?」
不思議そうな顔で、喬倫志に訪ねられた。小楓は、成秋の腕に抱きついて、にこにこしていた。
「まあ、あの、進展がありまして」
「ほう。それはそれは。夫婦にでもなるのかね?」
「全部、終わってからですが」
「なんとなんと。当代の英傑ふたり結ばれるとなれば、薛奇殿もさぞお喜びになられるだろう。この喬倫志も、心から祝福いたしますぞ」
そうやって、喬倫志は顔をほころばせた。成秋はただ、恐縮するよりやることがなかった。
「解州伝いで、夷波唐府が干渉しようとしてきている。これは、こちらの方に任されよ」
「かたじけのうございます。丞相さまにおかれましては、陛下もふくめ、身の安全にもお気をつけていただきまして」
「無論、それは万全じゃ」
喬倫志が指を鳴らした。どこかで、どさり、と音が聞こえた。
男ひとり、天井から落ちてきたようだった。
「このとおり、それは私の本領だからな」
「恐れ入りましてございます」
思わず、拝礼していた。
喬倫志。ただの小物ではない。下級役人からここまで昇り詰めた、ひとりの英傑。
本営に戻り、小楓はしばらく、鏡を見るようにしていた。紅賊への対処もそうだが、七人目さまをどうするか、というのもある。あれ以来、お見えになられてはいないが、いつまた、というのがあるから。
いまだ怯えがあるが、それでも小楓は泰然、毅然としていた。
「やはり、たどり着いているのは少ないか」
朝から四人ほどと会って、小休憩を入れた。小楓の額には汗が滲んでいるが、覇気に漲っていた。
「人を憎む存在。それが紅月寺の根源にあったのですね」
「なにより、神話の存在だった川均しの繆沢が、実在するものだったということが」
「それは、ほんとうに」
「壮大な話になってきた。とても私ひとりでは背負いきれないほどに」
「大丈夫です」
成秋は、小楓の手を取った。そうしてその小さな震えが収まるまで、そうしていた。
「俺が、お側にいます。小楓の側に。ずっと、ずっと」
目を見て、言った。
そのうち、小楓がはにかんだ。
「ありがとう、成秋」
「うん、ありがとうございます。小楓」
「あらあら」
気恥ずかしそうな声。
見やる。英が赤い顔で微笑んでいた。
「ほんとうに、仲良くなられて」
「ああその、すみません。お見苦しいものを」
「いいえ。むしろ、ご馳走さま、ですわ」
笑われた。それでふたり、頬を赤くした。
鏡の間。小楓は姿見の前に座し、気を練りはじめた。成秋はそれを遠巻きに眺めていた。
鏡像との対話。そこになにかの答えがある。答えにならなくとも、きっかけになりうるものが。
「あなたは」
不意に。
はっと、見やる。小楓の姿が、変わる。“生まれ変わり”の特性。いや、違う。
髪だけ、金。いや、白金か。
「あなたは、誰なのですか?」
そうして、小楓の瞳からはこぼれはじめていた。
見る間に、滝のように。
駆け寄った。引き剥がそうとした。それでも小楓は姿見にすがりついて、離れようとしない。
鏡の中。誰かがいる。ひとり。俯いて。
白金の髪。声も出さずに泣いている。
「お答え下さい、どうか。お名前だけでも」
「小楓。危険です。早く」
「どうして、どうしてあなたは泣いておられるのですか?」
叫んでいた。むせび泣き、声を枯らしながら。小楓の声で。
やっとの思いで、姿見から小楓を引き剥がした。そのあたりで、下女に聞いたのだろう。王高越も部屋に飛び込んできた。
「目を見せなさい、小楓」
「王高越。違う。あの方は」
「七人目さま?七人目さまなのね?」
「違う。瞳は朱くなかった。違うんだ、あの方は」
そうやって、小楓はわけもなく、顔をおさえて泣き続けた。
成秋は、ただ呆然と、それを見ることしかできなかった。
「あのお方は、ただ悲しんでおられるんだ」
(つづく)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・成秋:小楓の側近。薛奇と妾の子。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・李桂:軍事を担当。
・楊漢:戦略、人材を担当。
・楊三嬢:楊漢の末娘。
・華淳:後将軍。伏龍塞を率いる。
・英:華淳の妾。紅月寺では諜報を担当。
・呂信:呂無頼とも。銃兵を操る精鋭。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。紅月寺に協力を依頼。
【青張連合】
・張駿:青張とも。癸州牧(行政長官)。
・邱虎:張駿配下の武将。
・呼延設:張駿配下の武将。
・楊喜:賈州牧。
・孔飛:琢州牧。
◆改版履歴
・2025.1.11:初版。
・2025.1.20:加筆修正。