血染めの月
1.
豚一頭、丸ごと火にかけていた。呂信軍の名物料理である。
賊の討伐に出向いていた。ぶつかる前こそ気合十分といった様子だったが、はじまってしまえば二日と持たずに雲散した。こういう時は軍内の不満が溜まるから、こういっためしや酒で発散させるのが一番だった。
数、八百。精強とは名ばかりの、乱暴者と爪弾き者の集まりである。それは呂信自身がそうであることに、きっと起因していた。
一兵卒からのはじまりだった。どの戦場でも一番槍を上げ、将校を任されるようになった。しかし責任だの品性だのを求められるようになり、兵卒だった頃の方がよほどましな毎日を送っていた。
先の紅月寺の出現の時は、ほんとうに心躍る日々だったが、頭首たる薛奇が亡くなってからは、また元通りだった。
「東で民衆の蜂起だ。これを鎮めてほしい。よろしいか」
屯所に戻ると、すぐに鮑担にそう言われた。
「連続の出撃では、兵の疲労が増えます。つまりは不満も溜まります」
「ふん、口は相変わらず達者だな。今の匪賊討伐なぞ、大した仕事にもならなかっただろう」
「これで四連続です。家族に会えないとなれば、やはり兵の不満は溜まりましょう。まして俺の軍勢ともなれば、尚更に」
「賊と民衆は、待ってくれない」
「俺だけでなく、林姜殿などもおられましょう。そもそも、賊も蜂起も多すぎる。政治がよくない証拠です」
「俺にそれを言うな。林姜や韓清にもな」
苦い顔、ひとつ。
「ただ、お前の言うことは正しい。賊や蜂起が多いのは政治がよくない証拠だし、お前でなくても林姜などがいる。ただ前者は俺たちにしてみればどうしようもないし、後者は連中よりお前のほうが適任だということだ」
「適任とは?」
「そのままの意味だ。実績十分。現場での最適な判断を下すことが可能。兵からの信頼も厚い。韓清などの若手を育てねばならんというのは百も承知だが、何しろ民衆蜂起の慰撫などは失敗が許されん。お前に人間を育てることができれば、とまでは求めんよ」
言われて、呂信は素直に頭を下げた。口は悪いが、人を見る目があるのは、鮑担のいいところである。
「豚十頭、屠ってある。持っていけ。帰ってきたら、今度こそ休暇だ」
「かしこまりました」
拝礼し、その場をあとにした。
東の太壁郡までは、急いで二日。規模にも寄るが、人民の慰撫であればそれほどはかからないだろう。征く道も平野で上り下りも少ないから、行軍や兵站も楽である。
どこか、膿んでいた。毎日、同じようなことの繰り返し。兵の鍛錬にはなるだろうが、心の肥やしにはなり得なかった。
呂の旗。これを掲げるだけでよかった。煽動していたものを引き出させて、皆の前で銃殺した。
「これが、かの呂無頼かね。すごいもんだ」
人里から離れたところで、兵に豚を食わせていた。そういうところに、男ひとり現れた。
男は、何良と名乗った。歳の頃は呂信と同じぐらいか。
「豚を焼く、いい匂いがしたのでね」
「商いをするように見えるが」
「香辛料や香草がある。豚の脂は強いだろうから、こういうので味を変えると、箸が進むよ」
ほう、と口に出ていた。
いくらかを買って、兵に配った。色よい反応が返ってきた。呂信も何種類かを試してみたが、普段は感じない旨味を楽しむことができた。
「行商というのも、楽しそうだよな」
「楽しいね。色んなところに行って、色んな人と出会う。そのひとりが、今日はあんただったというわけさ」
「俺も走り回ってはいるが、結局はこの殷州だけだ。この豚と同じように、味気ないものになってきている」
「豚の丸焼きなんて、ご馳走じゃないか。それを味気ないだなんて」
「もともと兵の不満を抑え込むためにやりはじめたのだよ。それが習いとなり、いつの間にか飽きが来てしまった」
「牛や鶏では、駄目なのかね?」
「このあたりでは食わんからなあ。羊では高すぎる。ただでさえ弾薬などで金を使うのだから」
「そういえば、呂無頼といえば銃隊だものな。今回は民衆慰撫という手前、使わなかったのだろうけれど」
豚の皮を齧りながら、何良が笑った。
瑞の国では、銃火器の導入が遅れていた。火薬に必要なものや鉛の産出は十分あるはずだが、肝心の科学技術の発達が遅れており、先ごろようやく燧石式小銃の量産について目処が立ったという有り様である。呂信が兵に与えているものは、西の商人からかき集めた最新のものであった。
「紅月寺がいた頃は、よかったよ」
自然と、それを口に出していた。
「何度も敵と味方をやった。伊韓達の叛乱では、幾度となく功を競ったものさ。李桂将軍なんてなあ素晴らしいおひとで、俺は何度も教えを請うたものだよ」
「あの人も、もとは禁軍だったというよね」
「そうだね。兵の将としても、将の将としても抜群だ。俺の銃隊も、あの人に憧れて作ったものだからさ」
「李桂、袁達。燕業の三段撃ちかい?」
「おお、話せるじゃないか」
嬉しくなって、何良に酌をしていた。燕業の戦いでの、あの名将ふたりの銃撃戦はほんとうに見事なもので、今でも従軍したものの間で語り草になっていた。
豚の肉がひと段落したので、それぞれの豚の腹を割って開けた。粽を詰め込んであるのだ。これにも何良から買った香辛料などを散りばめてみれば、今までとは違う味わいで、美味しく食べることができた。兵たちも満足そうに、めしや酒を楽しんでいた。
「卓喜郡太守、毛貂殿に不穏の動きあり」
「ほう」
「あんたのあることないことをでっちあげ、仕留めようとしている」
「毛貂殿といえば、うちの鮑担殿や州牧殿とは特別に折り合いが悪いな。そこの都合かね」
「帰り道には気をつけたほうがいい」
「何良さんよ」
「なんだい?」
「火薬と鉛玉はあるかね?」
呂信の問に、何良は勿論、といった顔をした。
卓喜郡に入ったあたりで、黒煙が上がっているのがすぐに見えた。見やれば、呂の旗を掲げた一群が、領民を襲っていた。
吐き気と怒りが込み上げてきたのを、呂信はつとめて堪えた。
「竜騎兵、鮑の旗で行けい」
腹からぶっ放した。
百五十の騎馬。馬上で使うのに適した、切り詰めた小銃を装備していた。強行偵察や撹乱に特化した部隊である。
敵側は、すぐに混乱に陥った。銃は装備しておらず、ほとんどが歩行である。
「散兵、行くぞ」
馬の腹を蹴った。
施条銃を抱えた兵たち。散開しながら進んでいく。陣形を取ることは少ない。軽装で、機動力を活かして入り込んでいく。
市街地での銃は、取り扱いが難しい。まして民衆と敵が入り交じる今のような状況では、一発でも誤射になれば大変なことになる。呂信はこのような事態は何度も経験しており、そのための訓練を兵に施していた。弾丸は人間に当たったとき、人体に留まるように工夫をしているし、兵たちは銃剣の取り扱いについても熟達していた。
首魁と思われる何人かを捕縛したあたりで、毛の旗が近づいてきた。呂信は鮑の旗を掲げたまま、それを出迎えた。
「それなるは呂信殿か。これは如何したことか」
肥った男。顔色は悪かった。縄を打たれた首魁を目の前に転がしてやると、その顔はもっと白くなった。
「濡れ衣じゃ。こは、謀られしは、わしの方ぞ。この賊ばらが勝手にやったことじゃ」
「旦那、そりゃねえだろうがよ」
「賊ばらめを放置していたのは、わしの落ち度じゃ。なあ、呂信殿。ここはひとつ、このわしの顔に免じて」
「毛貂さんよ」
そこまでで、ようやく呂信は口を開いた。
「俺はまだ、何も喋っちゃあいない」
合図。銃列が、毛貂に向かって並んだ。それで、毛貂の体から力が抜けた。
領民たちに、縛り上げた毛貂と、何丁かの小銃とを渡して、その場をあとにした。
隴南郡に戻ったのち、兵を解散した。ようやくの休みである。それぞれに家族がおり、日常がある。それに戻ることは、何よりの心の癒やしになるだろう。
呂信は、ひとりだった。老いた両親は一昨年、立て続けに旅立った。
「賊は、俺の旗を掲げていました」
ひとり、鮑担に会っていた。言葉に、鮑担は驚きもなく聞いていた。
「毛貂殿だけには留まりますまい。俺はこれ以上、ここにいることはできない。迷惑になる」
「そうか」
「兵は、お返しいたす。俺は、どこか遠くへ行きます」
「あてはあるのか?」
「特に、何も」
「ならひとり、会っていけ。ちょうど、お前に会いたいと言ってきた御仁がおってだな」
ほう、と思わず言っていた。
それは鮑担の屋敷で待っていた。白い長袍に身を包んだ若い娘だった。
「これが呂無頼か、鮑担殿」
挑むような目つき。可憐だが、どこか生意気そうな表情だった。
「へえ、お嬢ちゃん。俺を知っているのかい?」
「知っている。呂無頼。数奇者の乱暴者の、爪弾き者だ」
「言うじゃないか、お嬢ちゃん。大人の男をからかっちゃあいけないって、親御さんからは習わなかったのかしらね」
ちょっと脅かしてやろう。そう思って、無造作に手を伸ばしたぐらいだった。
軽く、叩かれたのか。いや、何かを投げて寄越されて、それを反射的に受け取った。それの衝撃か。
眼を落とす。小銃。娘に対して、構えていた。撃鉄も起きていた。
娘。笑み。舌を出している。
撃鉄。戻した。銃床を振り抜く。感覚はない。二歩退いて、小銃を捨てた。徒手で構える。娘の体。すっと、三歩先。
崩拳。受け止められていた。
「紅き月に見る夢は」
肩に、感覚。
「甘く、儚く」
正面。何か、来る。
重いもの。防いでいた。防ぎきれず、ぶつかり、倒れ込んでいた。
「呂無頼だぞ」
立ち上がりながら、顔を拭った。鼻から血が垂れていた。
「そうだな、呂無頼」
声だけ、聞こえた。
正面。突きつけられていた。ひと振りの剣。
それで、構えを解いた。
「紅月寺頭首、杜小楓」
声のあと、眼前の娘は剣を収めた。
呆然としていた。紅月寺。それが、目の前に。でも、若い娘。
そして、それよりも何より、心は躍っていた。
「我ら紅月寺、貴公の望む席次を与えたく」
言われた言葉に、呂信は力強く拝礼した。
「一兵卒にて」
小楓が、声を上げて笑った。腹を抱えて。ほんとうに、年頃の娘のそれだった。
「李桂が言ったとおりだ。私が直接来てよかった」
「なんと、李将軍が」
「褒めていたよ、呂無頼のこと。面白いやつだから、絶対欲しいって」
嬉しさがあった。あの憧れの李桂に、そう思われていたとは。
差し伸べられた。細く白い、娘の手。
「さあ、呂無頼。私たちと楽しいことをしよう」
楽しいこと。その言葉で、心は更に揺れた。
鮑担を見た。呆れた顔で笑っていた。
「お前の八百も連れて行け」
「それは、鮑担殿」
「どうせ俺たちでは持て余す。あとのことは心配しなくていい。それぐらいの世話は、俺も焼いてやりたい」
手は自然と、拝礼のかたちをとっていた。
「かたじけのうござる」
頬はきっと、濡れていた。
ひと月かけて、兵たちと語り合った。五百ほどが残った。鮑担の計らいもあって、ある程度の兵糧と物資も手に入った。
それらを用意したのは、何良だった。
「やはりあんた、紅月寺だったね」
「そういうことさ。案内するよ、呂無頼殿」
何良も楽しげだった。
兵たちの顔。引き締まり、頼もしげだった。少なくはなったが、俺の兵だ。俺の銃兵、俺の竜騎兵。
「呂無頼。今こそ、紅月寺に加われり」
おう、と声が揃った。
楽しいことをする。そのことだけが、呂信の心を踊らせていた。
2.
郁州雷亜郡に来ていた。
城郭の中は活気に溢れていて、明るい。売っているものも都より安く新鮮で、何より種類も豊富だった。他の城郭からも行商人が訪れて、至るところで仕事を募る声が聞こえていた。
ふた月ほど前までは、誰も寄り付かないほどの荒城だった。紅月寺が入っただけで、それがこうなった。
英は主だった端女を引き連れて、ここへ来ていた。使っている密偵の中でも、潜入、情報収集、そして暗殺に長けた女たち。英同様、皆一様に、この様子には驚いているようだった。
華淳の命で、紅月寺と接触していた。
「後将軍、華淳さまのお考えとあらば、謹んで」
ひとりとは、会えた。女のような格好をした男だが、奇妙だとは感じなかった。その佇まいは気品だけでなく、気高さすら覚えた。
名を聞いて、ああ、これがかの、となった。噂には、よく聞いていたから。
「今、お茶を用意いたしますので。お気を楽になさって下さいまし」
「ありがとうございます。お綺麗な方ですので、緊張いたしましたわ」
「あら、お上手」
王高越は、微笑んだ口元を袖で隠した。
「それにしても、これこそが紅月寺でございますか。寂れた城郭ひとつ、あっという間に立て直してみせた」
「基本の政は朝廷のそれと変わりはありません。それを正しく行い、維持すること。それだけで、民は住みやすくなる」
「既に、紅月寺でない民まで入ってきている」
「噂というものは風よりも速い。また、そういった人々をも、我々は庇護し、制御し、機能させる」
控えていたものが差し出した茶に、王高越は見事な所作で口を付けた。
「為政者ですもの。当然のことですわ」
最後のひとことは、ほんとうに、自信たっぷりに言ってみせてきた。英は対して、静かに座礼した。
聡明なひとだった。役割としては兵站など、後方支援だろう。それでも、人を呼ぶ仕組みや人を育てる仕組みなども、王高越はよく考えていた。疑問には回答や提案を示し、あるいは反証すらをも唱えてみせる。
こういう人間が、頭首たる小楓のそばに仕えている。
「それでも、英さんが来て下さると聞いて、安心しましたわ」
「やはり、白朗というお方の損失は、そこまで大きいですか」
「それもありますが」
くすりと、王高越が笑った。
「小楓の我儘に付き合えそうな人が、またひとり増えたのだから」
「我儘?」
「ええ、ほんとうに我儘。好きな男を振り向かせたいんですって。向こうも気にはなってるみたいだけど、頭首と従者だからって、遠慮しちゃって。それで余計、躍起になってねえ」
笑いながらの言葉に、英の頬も、思わずで緩んでいた。
「恋をなさっているのですね、小楓さまは」
「成秋っていう、今時のって感じの。でも、あぷろおちが下手くそなのよねえ。ぐいぐい行き過ぎちゃうものだから、成秋が引いちゃって」
「あらあら、微笑ましいですわね。我ら端女。男を誑かす術は心得ております。それは女として、いえ、人としての美しさを保つ術でもありますれば、小楓さまだけでなく、王高越さまにもお気に召していただけるかと」
おだて言葉に、やはりそのひとは上品に笑った。もう朱夏には入っているだろうか。それでも男としても女としても、まったく不自然さのない美しさがあった。
小楓には、その二日後には会えた。面識はあり、事情も予め頭に入れていてくれたのか、問題なく受け入れてくれた。
諜報のまとめ役を任されることとなった。魏賢や何良をはじめとした、それに携わる人間たちとも顔を合わせた。
席次を認めさせるには、連れてきた端女たちの働きを見せるだけでよかった。
「英のお陰で、密偵のことを心配する必要がなくなった」
「それと着るもののことも。英さまはお裁縫もお上手なのですね」
「嗜みとして。女子ならば、やはりお洒落で綺麗でありたいものですもの」
英に髪を梳かれながら、小楓は上機嫌だった。
小楓。女だが、紅月寺頭首としての体裁からか、長袍をよく好む。女の服については、身の回りの世話をしている楊三嬢などが色々用意するのだが、好んで着ることは少ないようだ。
反物屋から可愛らしい色や柄のものを取り寄せて、長袍を何着か作ってみた。女の服は、それとは反対に、色合いや膨らみをおさえたものを。そうやって作ってみたものは、大いに気に入ってもらえた。
今まで小楓としての意識や記憶が強くなく、他の“生まれ変わり”のそれに引っ張られることが多かったことから、そういう服選びをしていたそうだ。動くことも多いし、女としての言動を求められることも少ないので、気に留めていなかったとも。
諜報員ではあるが、華淳という、名の知れた将軍の妾である。見た目には気を使っていた。着るもの、香るもの、化粧に仕草まで。そういうものは、部下である端女たちにも教え込んでいった。まずは女として、殿方の隣りにいて恥ずかしくないようにと。
そういうところでいえば、王高越というのは、ほんとうに瀟洒で嫌味がない。男の体に女の心を宿した人間。声を聞いて、はじめて男なのだなと気付く人も多いのではないのだろうか。
小楓の身支度が終わったので、本日の活動開始である。小楓や楊漢は人員の勧誘、徴募。英は文朗たちと情報の収集と分析だった。
屋敷をひとつ、貰っていた。端女や、もともとの密偵たちは、そこに集まれるようにしていた。
「楊漢殿の握っていた情報について、裏が取れた。後宮に安蓉という美人(側室)がいること。それと陛下との間にお子がいること。そして」
文朗が些か訝しげな表情で髭を撫でていた。
「喬丞相が、それらの情報を流していたことも」
「やはりですか」
「俺たちを敵としたい喬丞相としても、俺たちにはちゃんと決起してもらわなきゃ困るってわけだ。中途半端に起こすだけにして、また水面下で行動されるのが一番に不安だろうしさ」
魏賢。塩の密売人だったそうだ。各地の賊や悪党とは繋がりがあり、密偵の中でも席次は高い。
「そもそもの、喬丞相がそこまで紅月寺、いや、“生まれ変わり”にこだわる理由です」
「それだよな。今、英さんが調べているんだろう?」
「はい。宮廷に何人かを入れています。それについても、あたりはつけておりました」
竹簡、ふたつ。
「前王朝の血筋を使った後継者争いをさせたがっている。つまりは、現在の後継者に何らかの不備、不足があるということ。そして現在、帝には後継者が必要な状態であるということ」
英の言葉に、王高越が、ほう、という顔を見せた。
「陛下が病を患われている。そして、ふたりのお子の血に問題がある、ね?」
それで、場がざわついた。
「そして、それで誰が得をするか」
「あるいは皇弟、鎮峡王殿下。陛下に対して、明らかな不満を表しています」
「鎮峡王殿下と喬丞相が接触する可能性があると?」
「私たちと、深山派とかいう連中が争うのにあたって、漁夫の利を狙うには、ちょうどいい玉にはなるわよね」
「そういうところで、喬丞相として、今、一番に困ることと言えば?」
「皇帝陛下、崩御」
ためらわずに発言した。それで、場は凍りついた。
「姐さん、おっかねえことを言ってくれる」
しばらくして、何良が額をおさえた。
「俺たちに、陛下暗殺をやらせようってわけじゃあないよね?」
「それをこちらが認識している、という情報だけで十分でしょう。盤面が整う前に陛下がお隠れあそばされる。それは喬丞相だけでなく、我々、紅月寺にとっても危険な状況になりえますから。だからこれは、使えない手札です」
「みすみす賊に成り下がるだけだものね」
「ですので、今、倒すべきは陛下ではなく、喬丞相でしょう。招安(反政府組織を帰順させること)を成し、陛下の威光をもってして、喬丞相とその玉と戦う」
「それが最短最速の策だな。時間をかけるとなれば、その逆か?」
「はい。喬丞相が玉とともに立ち上がったとき、紅月寺はそれを支え、陛下を打ち倒す」
「どっちにしろ朝廷か。こりゃまた難しい話だな」
文朗が苦い顔をした。
「待てよ?そうなれば、深山派とやらと、安美人のお子を取り合うっていうのは、真面目にやらなくたっていいってわけだな?向こうには華将軍も潜り込んでいるわけだし」
「はい。向こう側はそれしか取り得る玉がないのでそうせざるを得ませんが、我々は玉を選べる立場にいます。むしろわざと握らせて、陛下の詔勅をもって相対する、ということもできます」
「なるほど、自由度が高くて参っちまうね」
魏賢が鼻を鳴らした。楽しそうな顔をしている。
「ところで、その深山派。資金繰りはどうしてるのかしらい?聞いたところ、どこまでいっても禁軍の少数派閥でしかないわけだが」
「今のところ情報がありません。旦那さまも、そこは懸念としておりました」
「徒に玉を手にしたところで、決起までとは簡単にいくはずもないわ。魏賢と何良には、そっちを洗ってもらおうかしら」
王高越の言葉に、ふたり、頷いた。
ここが、一番に引っかかっていた。深山派。その後援者が見えてこない。
紅月寺は、それ自体がひとつの国家といってもよかった。自身で行動する分を生産し、流通させる仕組みを用意できるのである。このあたりは、王高越が兵站に強い理解を持っていることに起因していた。
たかが軍部のいち派閥である深山派。後援者がいないのならば、手に入る物資や資金は、国から捻出される程度のものを出ないはずである。
三日ほど経った。端女ひとり、戻ってきた。
「陛下が行幸をお考え遊ばされております」
「まことか?」
「接触する機会ではあるわね」
「私めが、小楓さまに化けて行きましょう」
英はそれだけ告げて、さっと立ち上がった。
「これは、旦那さまの字でございますがゆえ」
微笑んで、小楓のそばに控えていた成秋の手を取った。
顔を見やる。あどけないが、整った顔立ち。頬を赤くして、目を逸らしている。
「えすこおと、よろしくね」
その頬に、軽くだけ唇を乗せた。そうすると、成秋の体が面白いぐらいに跳ね上がった。小楓は視界の隅で、頬を膨らませていた。ついおかしくなって、口元を抑えながらで笑っていた。
巡幸の一群が郁州に入った連絡を受けてから、動いた。ちょうど城郭の近くを通るようだった。
数、およそ一千。薄暗がりの中、思った以上に豪華な軍容だった。
「俺さまと呂信めの竜騎兵で前後を塞ぐ。そのうちに、文朗たちと一緒に、陛下に拝謁することだ」
李桂が悪どい笑みで言ってきた。英は、微笑みと拝礼を返すだけにした。
物陰に潜んだ。馬群。整然と近づいてくる。
「成秋さま。中央の馬車です。傘の色が見えたら、教えて下さいまし」
「承知いたした」
言葉とともに、成秋は矢を番えた。顎から既に滴り落ちている。文朗の額にも、脂が浮いていた。
どよめき。馬の嘶きが聞こえる。銃声もいくつか。
はじまったか。
「成秋、うまく外せよ」
「わかってます、文哥。見えてきた。でかい馬車。色は、白か?ああくそ、まだ薄い」
鏃の先の馬車。そこに、近衛がわっと集まっている。
「傘は、黄」
それで文朗とふたり、飛び出していた。
文朗。徒手空拳。熊のような咆哮と巨体が、近衛たちにぶつかっていった。弾き飛ばし、ぶん投げる。そのたびに、狂ったような雄叫びが上がる。
背から、矢の雨。ほぼすべて、地面に突き立っていく。それでも近衛たちは、それに怯えて動けなくなっている。
ふたり、斬り伏せた。急所は外しているはず。それで、開けた。正面、馬車。黄色い傘。
それは、帝の印。
「我ら、紅月寺」
そこに、飛び込んだ。かがみ込み、拝礼する。
「我が名こそ、杜小楓」
見上げた。男の影だけ、見えた。
それと、瞬き。
火花。なんとか受け止めることができた。本気の剣閃。二合、三合と続く。防ぐことしかできない。
「よく来てくれた、英。偉いこだ」
六合打ち合って、鍔迫り合いのかたちになった。華淳の顔。目の前にあった。
「陛下は病を患われている。禁軍全体に、それが漏れた」
「やはりですか。それも深山派だけでなく、全体とは」
「それと、もうひとつ」
圧される。本気の力。耐えるのが難しいほどに。
「ふたりのお子は、陛下のほんとうのお子ではない。これは琳が掴んだ。あとで向かわせるから、褒めておやり」
そこまでで、力の向きが変わった。
剣。弾き飛ばされた。体はへたり込んでいた。
華淳の手。結い上げた髪に感触があった。それと、首筋にも。
「少し、痛むぞ」
なにも、感じなかった。ただ、何かが軽くなった。
うめき声。それで、顔を上げた。
「紅月寺前頭首、薛奇が長子、薛成秋」
男ひとり、華淳の前に立ちはだかっていた。華淳の肩甲には、矢が突き立っていた。
成秋の体。震えていた。
「それまでじゃ」
それだけ、聞こえた。
視界がぐらついていた。馬蹄。誰かに、抱えられている。
「肝が太くて腕が立つ。いい女だ。華淳めのものでなければ、俺がもらっておったわ」
呵々とした声。見やれば、李桂だった。思わずで、こちらも笑っていた。
合流地点。成秋は、呂信が回収したようだ。文朗も戻ってきた。体に無数の浅手があったが、平気そうだった。
「英、ごめん。その髪」
小楓が待っていた。顔が悲痛に歪んでいた。
「生命がありますもの。髪は自ずと戻りますわ」
「それでも、やらせてしまった」
「自ら望んだことです。どうか、お気に病まず」
そうやってうなだれ、唇を噛む小楓を、英はつとめて微笑みながら抱きしめた。その震えが収まるまで、しばらくそうした。
体を離したとき、小楓は笑ってくれていた。
「それと、成秋さま」
「はい」
「ありがとう。かっこよかったわ」
こちらも、抱きしめた。腕の中で、成秋の体がびくりと跳ねたのがわかった。
やはり視界の隅。小楓の可憐な顔が、驚きと怒りに歪んだのをみとめてから、英はその体を離した。
「この、ばか成秋」
間髪入れず、甲高い音がなった。成秋が頬を押さえていた。そうして小楓は離れたところまで駆けていって、しゃがみ込んでしまった。それをみとめて、成秋は慌てたように、その背中を追って走り出していた。
「あらあら、仲睦まじいこと」
「英さん、あまりからかわないでやって下せえ。ふたりとも、まだ子どもなんですから」
「でもまあ、やるじゃねえか、あの小僧も。英さんをかばって、あの華将軍の前に立ちはだかるとはね」
「おう、呂信。人を小僧扱いとは、お前も大きくなったものだな。それこそお前もいい年なのだから、いい女のひとりやふたり、とっ捕まえてこいっていう話だよ」
「やめて下さい、大将。俺はまだ、そういうことについては」
「大将じゃない、大大将だ、馬鹿者」
李桂が呂信の頭に拳骨を食らわせていた。それで兵たちも笑い出した。
「まったく、どいつもこいつも」
文朗だけ、呆れたようにため息を入れていた。その様子もなんだかおかしくて、英はただ静かに笑っていた。
これが紅月寺。数多の人々が夢を馳せた、紅き月の麓。
3.
文一通、返した。もとから貰っていたものである。返事が遅くなった旨を詫びるぐらいの気は利かせておいた。
深山派というのは、外部からの呼び名である。仲間内では同志とか、そういう呼び方をしているようだった。そこから、華淳は幾度となく誘われていた。
世を平らかにする。そのための運動だという。
後将軍となった今、政治から離れつつ、不穏なものを嗅ぎ取るには、いい隠れ蓑だと思い、喬倫志の言うことに従った。
宮廷よりなら、軍部のほうがまだましである。どちらもろくでもないことを除けば、だが。
「音に聞こえた華将軍を迎え入れることができた。これほど嬉しいことは他にはござらん」
会ったのは虞同という将軍だった。叛徒平定で何度か沓を並べた男である。功績十分だが反骨心が強く、朝廷としては些か使いづらい人材だろう。
「ほんとうであれば、手土産ひとつ、お持ちできたものを」
「滅相もござらん。小楓とやらめ。華将軍の力量と度量とを思い知り、今頃は恥じ入っておることでしょうよ」
持ち込んだ女の髪を眺めながら、虞同は満足げな声を上げた。
名簿を見せてもらった。正直に、曲者揃いといった感じではある。ただ、それぞれ能力はある。それを活かせる場所がない、といったところだろうか。
ひとり、引っかかる人物がいた。先の執金吾(警視総監)、簡旺である。
「簡旺殿もおられるとは」
「いかにも。我らが同志の中枢にござる。簡旺殿のお声で、我らは立ち上がり申した」
「なるほど。お会いすることはできるだろうか?」
「華将軍とあらば、喜んで」
虞同が顔を綻ばせた。
日取りは一週間後と相成った。屋敷に戻り、早速、英のもとにひとり、走らせた。
確か簡旺は、喬倫志と親しいはずである。政治的方針も、喬倫志に近いものがあったはずだった。
帝の不興を買い、志を違えたか。あるいは別の思惑か。
「流石は英だ。少しの間に、小楓殿だけでなく、他のご歴々からも厚い信頼を得ている様子だったよ」
蘭を寝室に呼んだ。端女のひとりであるが政治に明るく、英に次ぐ参謀のような役回りであった。
「呼盛殿につけたふたりも、着実に成果を上げています。紅月寺。深山派。そして朝廷と、三勢力の情報を網羅、駆使できる状況です」
「まさしく」
「それで、旦那さまはどうなさるおつもりで?」
「しばらくは様子見だな」
蘭の膝に頭を乗せながら、そう嘯いた。
喬倫志が、皇弟、鎮峡王こと宋子学と接触していた。つまりは帝の後継者。それが喬倫志の最大の懸念事項ということになる。そこから、帝のふたりのお子がほんとうのお子ではないということを推測し、裏を取ることもできていた。
帝の病については、喬倫志は必死に隠していたようだが、どこかからか軍部に漏れ出たそうだ。ただし不治であっても致死の病ではないらしいから、こちらはそれほど考える必要はないだろう。
これから誰が、どれだけ騒ぐか。華淳が動くのは、それからでも遅くはない。あるいは紅月寺も同じく、そう考えているだろう。
今のところは、深山派という勢力を明らかにする。それだけに注力することでいいかもしれない。
基本的には、政治の中枢に昇りきれなかった軍官僚や末端の将校で構成されている。その代表格が虞同だったり、もと執金吾の簡旺だったりするだけで。それでも組織としては円滑に、そして順調に機能しつつある。
それだけの金を、誰がどこから出しているか、だ。
現状、紅月寺と違い、金を生み出す仕組みもないまま、中央で活動を続けている。中枢にいるという簡旺は名族だが、現状は左遷されたいち役人でしかないから、あれひとりだけで、あの分の人数を制御し切るのは幾らか難しい。軍内の急進派となれば、商人たちも表立って寄り付きにくいだろう。
となれば、すでに支持基盤の完成された別の組織か。
紅月寺に次ぐ勢力となれば、よく名前が上がるところでいえば鳴翁山あたりになるが、あれは地方自治を目論む豪族どもの寄合世帯と言えるものだ。思想がまるで異なるだろう。伊韓達の残党とあらば資金力はあるだろうが、既に灰になっているようなものだ。諸外国については、現状で瑞と対立する必要性はまったくない。
ともあれ、動き方としては決めていた。誰に王才ありか、である。
まずは紅月寺と深山派の戦いになるだろう。深山派は、組織としての力は未知数だが、腐っても禁軍である。簡旺に不足ありとなれば、次から次へと神輿が湧いて出てくるはずだ。ああいう類は、草の根まで叩き潰さなければ潰えない。
紅月寺の小楓はどうか。英からもたらされる情報としては不足なし。また、先代頭首、薛奇の息子がいるというのも大きい。“生まれ変わり”が潰えたとしても、組織としては成秋を神輿として立ち直せる。最高幹部も楊漢、李桂、王高越と傑物揃いで、まったく隙がない。今回に限って言えば、行動原理が定まりきっていないところが難点なので、それを用意しきれないと、兵の間では厭戦感情が広がりやすくなる。
そして、そこふたつの漁夫の利を取るかたちで、喬倫志が出てくる。
あれは忠臣だ。帝ではなく、瑞という国に忠誠を捧げた国家の臣だ。玉がどんなものであれ、その行動には理念と道理を必ず伴わせてくる。確固たる行動原理には確実な資金源が必要になるが、これについては国庫というものがそれにあたるので、何を心配する必要もない。たとえそれで国が傾いたとしても、すべてを後進に委ね、自身は刑場の露となる、という極端な動きも可能だ。
どれを味方にするにも、どれを敵にするにも、華淳個人としては問題はない。肩書が変わるだけで、動乱を収めるという、やるべきことは変わらないのだから。
使いが来た。案内されたのは、簡旺の館だった。
一番奥の、客間と思われる部屋に案内された。そこにいたのは簡旺と、見知らぬ少年だった。
着座を促された。供された酒には、まだ口を付けなかった。
「簡旺殿は、喬丞相とは近しい思想の方だと思っておりましたが」
「喬倫志殿には恨みはない。ただ、帝だ」
「やはりですか」
「時節を弁えぬ放蕩享楽ぶり。あれのせいで、民は貧しい思いをしている。これを正さねばならない」
「廃帝し、誰を立てますか?」
「誰も、立てぬ」
眼は、燃え盛っていた。だがどこか、濁りを感じた。
「瑞の在り方を変える。民の力によって、国を成す」
「その代表としての存在が必要でしょう。王、ないしは玉が」
「無論。それもまた、用意しておる」
そうして簡旺は、ちらと少年を見た。つまりはこれが玉だというか。
茫洋とした少年。十を過ぎたぐらいか、いくらか背が高い。しかし。
「これなる男子は?」
「志明、我らが玉だ」
違和感があった。安美人のお子としたら、大きすぎる。
「我々のための、“生まれ変わり”だ」
その言葉に、華淳は思わず、簡旺の顔を見ていた。
「聞き間違いですかな?」
「いいや、これは“生まれ変わり”だ。我々、紅月寺の頭首だ」
「お戯れを。紅月寺は、杜小楓という娘を頭首として、既に立ち上がっております」
「そう。それとは別のかたちの、紅月寺だ」
にやついた。邪悪な笑みだった。
「秘密結社。反政府組織。義賊。武侠。言い方は何とでもできる。それよりも紅月寺、紅月寺だ。その名に意味がある」
「自ら、虎の威を借る狐に成り下がるか」
「人聞きの悪い。我らが本物なのだ。紅月寺を騙り、人心を惑わす不心得共を、我ら真なる紅月寺が打ち倒すのだ。紅月寺。そう、それこそが世の乱れ」
「矛盾を孕んでいる。どうかしているぞ、簡旺殿。俺はそれを許容することはできない」
「そうだ、華淳。貴公の言う通りだ。紅月寺。それは世を乱し、正すもの。大いなる自己矛盾だ。我らは乱し、正し、均すのだ。すべて、すべて、すべて」
熱に浮かされたような言葉。聞きたくもなかった。
剣。抜いていた。そして、深く突き刺していた。簡旺。笑った顔のまま。
そうして、崩折れた。笑ったまま、事切れていた。
「おい、坊主。大事ないか?」
志明の方に向き直った。変わらず、ぼうっとしていた。
近寄り、肩を揺さぶる。志明は困惑した表情で、何かを発しようとしているが、できないでいた。
まさかこの坊主、聾唖か。
「簡旺殿」
入ってきた。男たち。虞同もいた。
「華将軍。血迷うたか」
「血迷っているのは貴公らだ。何が紅月寺だ。俺は降りるぞ、馬鹿馬鹿しい」
「頭首閣下をお守りせよ。簡旺殿の仇じゃ」
憤怒の表情で、虞同が剣を抜いた。
「我ら、紅月寺」
そうやって、襲いかかってきた。
剣を投げつけた。虞同がそれを払う。それだけでよかった。眼前まで歩が進んでいる。顎に一撃。倒れ込む虞同から剣を奪い取り、斬り進む。
混沌。誰も、何が起きているかを捉えきれていない。好機。
少しもしないうちに、建物の入口まで出てこれた。正面の水路に、蘭たちが船を用意していた。
それに、飛び乗った。
銃声。いくつかの矢。それでも既に遠い。端女たちが見を盾にして守ってくれているが、大丈夫なようだった。
そのままの格好で、喬倫志の館まで向かうことにした。
「突然の訪い、まずはお許しあれ。喬丞相」
「これは、華将軍。いかがした?それは誰の血ぞ?」
「時間がないので、簡潔に申し上げます。深山派、紅月寺を騙って決起せり」
その言葉に、喬倫志は絶句していた。
「この先どうなるか、まったくわからん。まずはどうか、陛下と御身を安んじられませ」
「相分かった。将軍はいかがする?」
「俺も追われています。どこかに身を隠す」
「ならば、紅月寺じゃ」
「なんですと?」
思わずで聞いていた。喬倫志の顔は、決死だった。
「紅月寺ご頭首殿、いや、薛奇殿にお伝えあれ。世に乱れあり。紅き月、今こそ昇るべしと」
「それで、よろしいのですな?」
「こちらは大将軍、徐勇殿を動かす」
「かたじけない。生命ひとつ、頂戴いたしました」
「武運長久を」
そうして、喬倫志は屋敷の扉を閉じた。
向き直る。追っ手はまだ来ていない。
「妻子には、死んだとだけ伝えてくれ」
端女のひとりに、そう伝えた。
蘭を見る。決意の表情。その肩を、軽く叩いた。
行こう。混迷のとき。紅き月に、儚い夢を見るために。
4.
深山派、簡旺が死んだようだ。それでも王璧や陳新陽などがすぐに立て直したという。
あれらもまた、紅月寺と名乗るようだった。
いくつかの勢力が、紅月寺の名を騙っていた。小さな賊ばらだけではない。深山派や、かつての緑衣衆など、しっかりとした基盤を持っている組織ですら、そうだった。
そうするように、仕向けていた。
覇者を産む。淀んで流れることのない腐った沼をかき乱し、この瑞を塗り替えることのできるだけの力を持った、大きなものを。
世はもはや、それをこそ、望んでいる。
やってみるまではこわさの方が強かったが、簡旺を崩せたあたりで、思った以上に簡単だということがわかった。そうしてそのあたりから出来損ないを集め、あらゆる勢力の長どもを言いくるめていくということをやってきた。
紅月寺。“生まれ変わり”。なければ作ればいい。簡単なことだった。
喬倫志の側近として、長く働いた。そして、喬倫志より先に、帝のことを見限っていた。ただ朽ち果てるだけの生命に成り下がるよりならばと思い、水面下で動きはじめた。
喬倫志。忠臣だった。ただなにより頑迷だった。国家というものに対し、忠誠が厚すぎた。また立場としても昇りすぎた。丞相。立身出世そのものは素晴らしいが、しがらみが大きく、多くなりすぎる。
「四人、用意できた。これも“生まれ変わり”として使える」
応才が寄ってきた。聾唖の子どもを見繕ってもらっていた。
「琢州に流す。国境付近でも勢力ができあがれば、更に混乱をもたらすことができる」
「解州、朴州にも送る。夷波唐府の介入も期待できよう」
ふたり、頷いた。
「ほんとうの紅月寺については」
「華淳将軍が合流するそうだ。となれば呼盛将軍や、他の禁軍将軍も」
「というより、招安の方向で動くだろうな。玉ひとつ、欲しいだろうし」
「勢力として大きくなりすぎる。少し崩せんか?」
「難しいだろうな。結びつきが強固だ。ならば他勢力を合従させるなどしたほうが現実的だ」
「やはり、ほんとうの“生まれ変わり”には敵わぬか」
「仕方なかろう、馬勲。それよりも、毒の方はどうだ?」
「そろそろ、花咲く。いつでも行けると思ってもらっていい」
「わかった、頼むぞ」
「ああ、我らが紅き月のために」
応才が離れた。ことが成れば、応才は深山派につきっきりになるだろう。
ひとり、入ってきた。顔は隠しているが、身なりで誰かはわかった。馬勲はその男に対し、静かに拝礼した。
「紅き月は、今宵、昇る」
「承知いたしました」
「楽しみだな、馬勲よ。果たして誰が生き残るか。我々は、果たして生き残れるのか」
「着くべき月を、見定めねばなりますまい」
「無論、紅月寺じゃ。ほんとうの紅月寺。“生まれ変わり”をこそ、我らは天に戴くべき」
「万事、御意のままに」
その言葉に、その男は口元だけで笑った。
紅き月。それは血染めの星。屍の上に咲く、暗闇の太陽。そうして産まれた覇者こそが、新しき瑞を作り上げていく。
我らは、その礎として死ぬことでいい。
動きがあったのは、その日の夜だった。喬倫志が飛び込んできた。その顔は、真っ青だった。
呆然とした顔で、ひと言だけを漏らした。
「陛下が、崩御なされた」
(つづく)
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◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・成秋:薛奇と妾の子。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・楊漢:戦略、人材を担当。
・楊三嬢:楊漢の末娘。
・呂信:呂無頼とも。銃兵を操る精鋭。
・英:華淳の妾。紅月寺では諜報を担当。
・何良:諜報を担当。
・魏賢:諜報を担当。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。帝と対立。
・馬勲:喬倫志の側近。
・応才:喬倫志の配下。
・宋爽:征海王。帝の第一子。
・宋哲:帝の第二子。
・宋子学:鎮峡王。帝の弟。
・華淳:後将軍。紅月寺に誼のある将軍。