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血染めの月

1.


 豚一頭、丸ごと火にかけていた。呂信りょしん軍の名物料理である。

 賊の討伐に出向いていた。ぶつかる前こそ気合十分といった様子だったが、はじまってしまえば二日と持たずに雲散した。こういう時は軍内の不満が溜まるから、こういっためしや酒で発散させるのが一番だった。

 数、八百。精強とは名ばかりの、乱暴者と爪弾き者の集まりである。それは呂信りょしん自身がそうであることに、きっと起因していた。

 一兵卒からのはじまりだった。どの戦場でも一番槍を上げ、将校を任されるようになった。しかし責任だの品性だのを求められるようになり、兵卒だった頃の方がよほどましな毎日を送っていた。

 先の紅月寺こうげつじの出現の時は、ほんとうに心躍る日々だったが、頭首たる薛奇せつきが亡くなってからは、また元通りだった。

「東で民衆の蜂起だ。これを鎮めてほしい。よろしいか」

 屯所に戻ると、すぐに鮑担ほうたんにそう言われた。

「連続の出撃では、兵の疲労が増えます。つまりは不満も溜まります」

「ふん、口は相変わらず達者だな。今の匪賊討伐なぞ、大した仕事にもならなかっただろう」

「これで四連続です。家族に会えないとなれば、やはり兵の不満は溜まりましょう。まして俺の軍勢ともなれば、尚更に」

「賊と民衆は、待ってくれない」

「俺だけでなく、林姜りんきょう殿などもおられましょう。そもそも、賊も蜂起も多すぎる。政治がよくない証拠です」

「俺にそれを言うな。林姜りんきょう韓清かんせいにもな」

 苦い顔、ひとつ。

「ただ、お前の言うことは正しい。賊や蜂起が多いのは政治がよくない証拠だし、お前でなくても林姜りんきょうなどがいる。ただ前者は俺たちにしてみればどうしようもないし、後者は連中よりお前のほうが適任だということだ」

「適任とは?」

「そのままの意味だ。実績十分。現場での最適な判断を下すことが可能。兵からの信頼も厚い。韓清かんせいなどの若手を育てねばならんというのは百も承知だが、何しろ民衆蜂起の慰撫などは失敗が許されん。お前に人間を育てることができれば、とまでは求めんよ」

 言われて、呂信りょしんは素直に頭を下げた。口は悪いが、人を見る目があるのは、鮑担ほうたんのいいところである。

「豚十頭、屠ってある。持っていけ。帰ってきたら、今度こそ休暇だ」

「かしこまりました」

 拝礼し、その場をあとにした。

 東の太壁たいへき郡までは、急いで二日。規模にも寄るが、人民の慰撫であればそれほどはかからないだろう。征く道も平野で上り下りも少ないから、行軍や兵站も楽である。

 どこか、膿んでいた。毎日、同じようなことの繰り返し。兵の鍛錬にはなるだろうが、心の肥やしにはなり得なかった。

 りょの旗。これを掲げるだけでよかった。煽動していたものを引き出させて、皆の前で銃殺した。

「これが、かの呂無頼りょぶらいかね。すごいもんだ」

 人里から離れたところで、兵に豚を食わせていた。そういうところに、男ひとり現れた。

 男は、何良かりょうと名乗った。歳の頃は呂信りょしんと同じぐらいか。

「豚を焼く、いい匂いがしたのでね」

「商いをするように見えるが」

「香辛料や香草がある。豚の脂は強いだろうから、こういうので味を変えると、箸が進むよ」

 ほう、と口に出ていた。

 いくらかを買って、兵に配った。色よい反応が返ってきた。呂信りょしんも何種類かを試してみたが、普段は感じない旨味を楽しむことができた。

「行商というのも、楽しそうだよな」

「楽しいね。色んなところに行って、色んな人と出会う。そのひとりが、今日はあんただったというわけさ」

「俺も走り回ってはいるが、結局はこのいん州だけだ。この豚と同じように、味気ないものになってきている」

「豚の丸焼きなんて、ご馳走じゃないか。それを味気ないだなんて」

「もともと兵の不満を抑え込むためにやりはじめたのだよ。それが習いとなり、いつの間にか飽きが来てしまった」

「牛や鶏では、駄目なのかね?」

「このあたりでは食わんからなあ。羊では高すぎる。ただでさえ弾薬などで金を使うのだから」

「そういえば、呂無頼りょぶらいといえば銃隊だものな。今回は民衆慰撫という手前、使わなかったのだろうけれど」

 豚の皮を齧りながら、何良かりょうが笑った。

 ずいの国では、銃火器の導入が遅れていた。火薬に必要なものや鉛の産出は十分あるはずだが、肝心の科学技術の発達が遅れており、先ごろようやく燧石フリントロック式小銃の量産について目処が立ったという有り様である。呂信りょしんが兵に与えているものは、西の商人からかき集めた最新のものであった。

紅月寺こうげつじがいた頃は、よかったよ」

 自然と、それを口に出していた。

「何度も敵と味方をやった。伊韓達いかんたつの叛乱では、幾度となく功を競ったものさ。李桂りけい将軍なんてなあ素晴らしいおひとで、俺は何度も教えを請うたものだよ」

「あの人も、もとは禁軍だったというよね」

「そうだね。兵の将としても、将の将としても抜群だ。俺の銃隊も、あの人に憧れて作ったものだからさ」

李桂りけい袁達えんたつ燕業えんぎょうの三段撃ちかい?」

「おお、話せるじゃないか」

 嬉しくなって、何良かりょうに酌をしていた。燕業えんぎょうの戦いでの、あの名将ふたりの銃撃戦はほんとうに見事なもので、今でも従軍したものの間で語り草になっていた。

 豚の肉がひと段落したので、それぞれの豚の腹を割って開けた。ちまきを詰め込んであるのだ。これにも何良かりょうから買った香辛料などを散りばめてみれば、今までとは違う味わいで、美味しく食べることができた。兵たちも満足そうに、めしや酒を楽しんでいた。

卓喜たっき郡太守、毛貂もうてん殿に不穏の動きあり」

「ほう」

「あんたのあることないことをでっちあげ、仕留めようとしている」

毛貂もうてん殿といえば、うちの鮑担ほうたん殿や州牧殿とは特別に折り合いが悪いな。そこの都合かね」

「帰り道には気をつけたほうがいい」

何良かりょうさんよ」

「なんだい?」

「火薬と鉛玉はあるかね?」

 呂信りょしんの問に、何良かりょうは勿論、といった顔をした。

 卓喜たっき郡に入ったあたりで、黒煙が上がっているのがすぐに見えた。見やれば、りょの旗を掲げた一群が、領民を襲っていた。

 吐き気と怒りが込み上げてきたのを、呂信りょしんはつとめて堪えた。

竜騎兵ドラグーンほうの旗で行けい」

 腹からぶっ放した。

 百五十の騎馬。馬上で使うのに適した、切り詰めた小銃を装備していた。強行偵察や撹乱に特化した部隊である。

 敵側は、すぐに混乱に陥った。銃は装備しておらず、ほとんどが歩行かちである。

「散兵、行くぞ」

 馬の腹を蹴った。

 施条銃ライフルを抱えた兵たち。散開しながら進んでいく。陣形を取ることは少ない。軽装で、機動力を活かして入り込んでいく。

 市街地での銃は、取り扱いが難しい。まして民衆と敵が入り交じる今のような状況では、一発でも誤射になれば大変なことになる。呂信りょしんはこのような事態は何度も経験しており、そのための訓練を兵に施していた。弾丸は人間に当たったとき、人体に留まるように工夫をしているし、兵たちは銃剣の取り扱いについても熟達していた。

 首魁と思われる何人かを捕縛したあたりで、もうの旗が近づいてきた。呂信りょしんほうの旗を掲げたまま、それを出迎えた。

「それなるは呂信りょしん殿か。これは如何いかがしたことか」

 肥った男。顔色は悪かった。縄を打たれた首魁を目の前に転がしてやると、その顔はもっと白くなった。

「濡れ衣じゃ。こは、たばかられしは、わしの方ぞ。この賊ばらが勝手にやったことじゃ」

「旦那、そりゃねえだろうがよ」

「賊ばらめを放置していたのは、わしの落ち度じゃ。なあ、呂信りょしん殿。ここはひとつ、このわしの顔に免じて」

毛貂もうてんさんよ」

 そこまでで、ようやく呂信りょしんは口を開いた。

「俺はまだ、何も喋っちゃあいない」

 合図。銃列が、毛貂もうてんに向かって並んだ。それで、毛貂もうてんの体から力が抜けた。

 領民たちに、縛り上げた毛貂もうてんと、何丁かの小銃とを渡して、その場をあとにした。

 隴南ろうなん郡に戻ったのち、兵を解散した。ようやくの休みである。それぞれに家族がおり、日常がある。それに戻ることは、何よりの心の癒やしになるだろう。

 呂信りょしんは、ひとりだった。老いた両親は一昨年、立て続けに旅立った。

「賊は、俺の旗を掲げていました」

 ひとり、鮑担ほうたんに会っていた。言葉に、鮑担ほうたんは驚きもなく聞いていた。

毛貂もうてん殿だけには留まりますまい。俺はこれ以上、ここにいることはできない。迷惑になる」

「そうか」

「兵は、お返しいたす。俺は、どこか遠くへ行きます」

「あてはあるのか?」

「特に、何も」

「ならひとり、会っていけ。ちょうど、お前に会いたいと言ってきた御仁がおってだな」

 ほう、と思わず言っていた。

 それは鮑担ほうたんの屋敷で待っていた。白い長袍に身を包んだ若い娘だった。

「これが呂無頼りょぶらいか、鮑担ほうたん殿」

 挑むような目つき。可憐だが、どこか生意気そうな表情だった。

「へえ、お嬢ちゃん。俺を知っているのかい?」

「知っている。呂無頼りょぶらい。数奇者の乱暴者の、爪弾き者だ」

「言うじゃないか、お嬢ちゃん。大人の男をからかっちゃあいけないって、親御さんからは習わなかったのかしらね」

 ちょっと脅かしてやろう。そう思って、無造作に手を伸ばしたぐらいだった。

 軽く、はたかれたのか。いや、何かを投げて寄越されて、それを反射的に受け取った。それの衝撃か。

 眼を落とす。小銃。娘に対して、構えていた。撃鉄も起きていた。

 娘。笑み。舌を出している。

 撃鉄。戻した。銃床を振り抜く。感覚はない。二歩退いて、小銃を捨てた。徒手で構える。娘の体。すっと、三歩先。

 崩拳。受け止められていた。

「紅き月に見る夢は」

 肩に、感覚。

「甘く、儚く」

 正面。何か、来る。

 重いもの。防いでいた。防ぎきれず、ぶつかり、倒れ込んでいた。

呂無頼りょぶらいだぞ」

 立ち上がりながら、顔を拭った。鼻から血が垂れていた。

「そうだな、呂無頼りょぶらい

 声だけ、聞こえた。

 正面。突きつけられていた。ひと振りの剣。

 それで、構えを解いた。

紅月寺こうげつじ頭首、杜小楓としょうふう

 声のあと、眼前の娘は剣を収めた。

 呆然としていた。紅月寺こうげつじ。それが、目の前に。でも、若い娘。

 そして、それよりも何より、心は躍っていた。

「我ら紅月寺こうげつじ、貴公の望む席次を与えたく」

 言われた言葉に、呂信りょしんは力強く拝礼した。

「一兵卒にて」

 小楓しょうふうが、声を上げて笑った。腹を抱えて。ほんとうに、年頃の娘のそれだった。

李桂りけいが言ったとおりだ。私が直接来てよかった」

「なんと、将軍が」

「褒めていたよ、呂無頼りょぶらいのこと。面白いやつだから、絶対欲しいって」

 嬉しさがあった。あの憧れの李桂りけいに、そう思われていたとは。

 差し伸べられた。細く白い、娘の手。

「さあ、呂無頼りょぶらい。私たちと楽しいことをしよう」

 楽しいこと。その言葉で、心は更に揺れた。

 鮑担ほうたんを見た。呆れた顔で笑っていた。

「お前の八百も連れて行け」

「それは、鮑担ほうたん殿」

「どうせ俺たちでは持て余す。あとのことは心配しなくていい。それぐらいの世話は、俺も焼いてやりたい」

 手は自然と、拝礼のかたちをとっていた。

「かたじけのうござる」

 頬はきっと、濡れていた。

 ひと月かけて、兵たちと語り合った。五百ほどが残った。鮑担ほうたんの計らいもあって、ある程度の兵糧と物資も手に入った。

 それらを用意したのは、何良かりょうだった。

「やはりあんた、紅月寺こうげつじだったね」

「そういうことさ。案内するよ、呂無頼りょぶらい殿」

 何良かりょうも楽しげだった。

 兵たちの顔。引き締まり、頼もしげだった。少なくはなったが、俺の兵だ。俺の銃兵、俺の竜騎兵ドラグーン

呂無頼りょぶらい。今こそ、紅月寺こうげつじに加われり」

 おう、と声が揃った。

 楽しいことをする。そのことだけが、呂信りょしんの心を踊らせていた。


2.


 いく雷亜らいあ郡に来ていた。

 城郭まちの中は活気に溢れていて、明るい。売っているものも都より安く新鮮で、何より種類も豊富だった。他の城郭まちからも行商人が訪れて、至るところで仕事を募る声が聞こえていた。

 ふた月ほど前までは、誰も寄り付かないほどの荒城だった。紅月寺こうげつじが入っただけで、それがこうなった。

 えいは主だった端女はしためを引き連れて、ここへ来ていた。使っている密偵いぬの中でも、潜入、情報収集、そして暗殺に長けた女たち。えい同様、皆一様に、この様子には驚いているようだった。

 華淳かじゅんの命で、紅月寺こうげつじと接触していた。

「後将軍、華淳かじゅんさまのお考えとあらば、謹んで」

 ひとりとは、会えた。女のような格好をした男だが、奇妙だとは感じなかった。その佇まいは気品だけでなく、気高さすら覚えた。

 名を聞いて、ああ、これがかの、となった。噂には、よく聞いていたから。

「今、お茶を用意いたしますので。お気を楽になさって下さいまし」

「ありがとうございます。お綺麗な方ですので、緊張いたしましたわ」

「あら、お上手」

 王高越おうこうえつは、微笑んだ口元を袖で隠した。

「それにしても、これこそが紅月寺こうげつじでございますか。寂れた城郭まちひとつ、あっという間に立て直してみせた」

「基本のまつりごとは朝廷のそれと変わりはありません。それを正しく行い、維持すること。それだけで、民は住みやすくなる」

「既に、紅月寺こうげつじでない民まで入ってきている」

「噂というものは風よりも速い。また、そういった人々をも、我々は庇護し、制御し、機能させる」

 控えていたものが差し出した茶に、王高越おうこうえつは見事な所作で口を付けた。

「為政者ですもの。当然のことですわ」

 最後のひとことは、ほんとうに、自信たっぷりに言ってみせてきた。えいは対して、静かに座礼した。

 聡明なひとだった。役割としては兵站など、後方支援だろう。それでも、人を呼ぶ仕組みや人を育てる仕組みなども、王高越おうこうえつはよく考えていた。疑問には回答や提案を示し、あるいは反証すらをも唱えてみせる。

 こういう人間が、頭首たる小楓しょうふうのそばに仕えている。

「それでも、えいさんが来て下さると聞いて、安心しましたわ」

「やはり、白朗はくろうというお方の損失は、そこまで大きいですか」

「それもありますが」

 くすりと、王高越おうこうえつが笑った。

小楓しょうふうの我儘に付き合えそうな人が、またひとり増えたのだから」

「我儘?」

「ええ、ほんとうに我儘。好きな男を振り向かせたいんですって。向こうも気にはなってるみたいだけど、頭首と従者だからって、遠慮しちゃって。それで余計、躍起になってねえ」

 笑いながらの言葉に、えいの頬も、思わずで緩んでいた。

「恋をなさっているのですね、小楓しょうふうさまは」

成秋せいしゅうっていう、今時のって感じの。でも、が下手くそなのよねえ。ぐいぐい行き過ぎちゃうものだから、成秋せいしゅうが引いちゃって」

「あらあら、微笑ましいですわね。我ら端女はしため。男をたぶらかすすべは心得ております。それは女として、いえ、人としての美しさを保つすべでもありますれば、小楓しょうふうさまだけでなく、王高越おうこうえつさまにもお気に召していただけるかと」

 おだて言葉に、やはりそのひとは上品に笑った。もう朱夏しゅかには入っているだろうか。それでも男としても女としても、まったく不自然さのない美しさがあった。

 小楓しょうふうには、その二日後には会えた。面識はあり、事情もあらかじめ頭に入れていてくれたのか、問題なく受け入れてくれた。

 諜報のまとめ役を任されることとなった。魏賢ぎけん何良かりょうをはじめとした、それに携わる人間たちとも顔を合わせた。

 席次を認めさせるには、連れてきた端女はしためたちの働きを見せるだけでよかった。

えいのお陰で、密偵いぬのことを心配する必要がなくなった」

「それと着るもののことも。えいさまはお裁縫もお上手なのですね」

「嗜みとして。女子おなごならば、やはりお洒落で綺麗でありたいものですもの」

 えいに髪をかれながら、小楓しょうふうは上機嫌だった。

 小楓しょうふう。女だが、紅月寺こうげつじ頭首としての体裁からか、長袍をよく好む。女の服については、身の回りの世話をしている楊三嬢ようさんじょうなどが色々用意するのだが、好んで着ることは少ないようだ。

 反物屋から可愛らしい色や柄のものを取り寄せて、長袍を何着か作ってみた。女の服は、それとは反対に、色合いや膨らみをおさえたものを。そうやって作ってみたものは、大いに気に入ってもらえた。

 今まで小楓しょうふうとしての意識や記憶が強くなく、他の“生まれ変わり”のそれに引っ張られることが多かったことから、そういう服選びをしていたそうだ。動くことも多いし、女としての言動を求められることも少ないので、気に留めていなかったとも。

 諜報員ではあるが、華淳かじゅんという、名の知れた将軍の妾である。見た目には気を使っていた。着るもの、香るもの、化粧に仕草まで。そういうものは、部下である端女はしためたちにも教え込んでいった。まずは女として、殿方の隣りにいて恥ずかしくないようにと。

 そういうところでいえば、王高越おうこうえつというのは、ほんとうに瀟洒で嫌味がない。男の体に女の心を宿した人間。声を聞いて、はじめて男なのだなと気付く人も多いのではないのだろうか。

 小楓しょうふうの身支度が終わったので、本日の活動開始である。小楓しょうふう楊漢ようかんは人員の勧誘、徴募。えい文朗ぶんろうたちと情報の収集と分析だった。

 屋敷をひとつ、貰っていた。端女はしためや、もともとの密偵いぬたちは、そこに集まれるようにしていた。

楊漢ようかん殿の握っていた情報について、裏が取れた。後宮に安蓉あんようという美人(側室)がいること。それと陛下との間にお子がいること。そして」

 文朗ぶんろうが些か訝しげな表情で髭を撫でていた。

きょう丞相が、それらの情報を流していたことも」

「やはりですか」

「俺たちを敵としたいきょう丞相としても、俺たちにはちゃんと決起してもらわなきゃ困るってわけだ。中途半端に起こすだけにして、また水面下で行動されるのが一番に不安だろうしさ」

 魏賢ぎけん。塩の密売人だったそうだ。各地の賊や悪党とは繋がりがあり、密偵いぬの中でも席次は高い。

「そもそもの、きょう丞相がそこまで紅月寺こうげつじ、いや、“生まれ変わり”にこだわる理由です」

「それだよな。今、英さんが調べているんだろう?」

「はい。宮廷に何人かを入れています。それについても、あたりはつけておりました」

 竹簡、ふたつ。

「前王朝の血筋を使った後継者争いをさせたがっている。つまりは、現在の後継者に何らかの不備、不足があるということ。そして現在、帝には後継者が必要な状態であるということ」

 英の言葉に、王高越おうこうえつが、ほう、という顔を見せた。

「陛下が病を患われている。そして、ふたりのお子の血に問題がある、ね?」

 それで、場がざわついた。

「そして、それで誰が得をするか」

「あるいは皇弟おうてい鎮峡王ちんきょうおう殿下。陛下に対して、明らかな不満を表しています」

鎮峡王ちんきょうおう殿下ときょう丞相が接触する可能性があると?」

「私たちと、深山しんざん派とかいう連中が争うのにあたって、漁夫の利を狙うには、ちょうどいいぎょくにはなるわよね」

「そういうところで、きょう丞相として、今、一番に困ることと言えば?」

「皇帝陛下、崩御」

 ためらわずに発言した。それで、場は凍りついた。

「姐さん、おっかねえことを言ってくれる」

 しばらくして、何良かりょうが額をおさえた。

「俺たちに、陛下暗殺をやらせようってわけじゃあないよね?」

「それをこちらが認識している、という情報だけで十分でしょう。盤面が整う前に陛下がお隠れあそばされる。それはきょう丞相だけでなく、我々、紅月寺こうげつじにとっても危険な状況になりえますから。だからこれは、使えない手札です」

「みすみす賊に成り下がるだけだものね」

「ですので、今、倒すべきは陛下ではなく、きょう丞相でしょう。招安(反政府組織を帰順させること)を成し、陛下の威光をもってして、きょう丞相とそのぎょくと戦う」

「それが最短最速の策だな。時間をかけるとなれば、その逆か?」

「はい。きょう丞相がぎょくとともに立ち上がったとき、紅月寺こうげつじはそれを支え、陛下を打ち倒す」

「どっちにしろ朝廷か。こりゃまた難しい話だな」

 文朗ぶんろうが苦い顔をした。

「待てよ?そうなれば、深山しんざん派とやらと、あん美人のお子を取り合うっていうのは、真面目にやらなくたっていいってわけだな?向こうには将軍も潜り込んでいるわけだし」

「はい。向こう側はそれしか取り得るぎょくがないのでそうせざるを得ませんが、我々はぎょくを選べる立場にいます。むしろわざと握らせて、陛下の詔勅をもって相対する、ということもできます」

「なるほど、自由度が高くて参っちまうね」

 魏賢ぎけんが鼻を鳴らした。楽しそうな顔をしている。

「ところで、その深山しんざん派。資金繰りはどうしてるのかしらい?聞いたところ、どこまでいっても禁軍の少数派閥でしかないわけだが」

「今のところ情報がありません。旦那さまも、そこは懸念としておりました」

いたずらぎょくを手にしたところで、決起までとは簡単にいくはずもないわ。魏賢ぎけん何良かりょうには、そっちを洗ってもらおうかしら」

 王高越おうこうえつの言葉に、ふたり、頷いた。

 ここが、一番に引っかかっていた。深山しんざん派。その後援者が見えてこない。

 紅月寺こうげつじは、それ自体がひとつの国家といってもよかった。自身で行動する分を生産し、流通させる仕組みを用意できるのである。このあたりは、王高越おうこうえつが兵站に強い理解を持っていることに起因していた。

 たかが軍部のいち派閥である深山しんざん派。後援者がいないのならば、手に入る物資や資金は、国から捻出される程度のものを出ないはずである。

 三日ほど経った。端女はしためひとり、戻ってきた。

「陛下が行幸をお考え遊ばされております」

「まことか?」

「接触する機会ではあるわね」

「私めが、小楓しょうふうさまに化けて行きましょう」

 えいはそれだけ告げて、さっと立ち上がった。

「これは、旦那さまの字でございますがゆえ」

 微笑んで、小楓しょうふうのそばに控えていた成秋せいしゅうの手を取った。

 顔を見やる。あどけないが、整った顔立ち。頬を赤くして、目を逸らしている。

、よろしくね」

 その頬に、軽くだけ唇を乗せた。そうすると、成秋せいしゅうの体が面白いぐらいに跳ね上がった。小楓しょうふうは視界の隅で、頬を膨らませていた。ついおかしくなって、口元を抑えながらで笑っていた。

 巡幸の一群がいく州に入った連絡を受けてから、動いた。ちょうど城郭まちの近くを通るようだった。

 数、およそ一千。薄暗がりの中、思った以上に豪華な軍容だった。

「俺さまと呂信りょしんめの竜騎兵ドラグーンで前後を塞ぐ。そのうちに、文朗ぶんろうたちと一緒に、陛下に拝謁することだ」

 李桂りけいが悪どい笑みで言ってきた。えいは、微笑みと拝礼を返すだけにした。

 物陰に潜んだ。馬群。整然と近づいてくる。

成秋せいしゅうさま。中央の馬車です。傘の色が見えたら、教えて下さいまし」

「承知いたした」

 言葉とともに、成秋せいしゅうは矢を番えた。顎から既に滴り落ちている。文朗ぶんろうの額にも、脂が浮いていた。

 どよめき。馬の嘶きが聞こえる。銃声もいくつか。

 はじまったか。

成秋せいしゅう、うまく外せよ」

「わかってます、文哥ぶんにい。見えてきた。でかい馬車。色は、白か?ああくそ、まだ薄い」

 やじりの先の馬車。そこに、近衛がわっと集まっている。

「傘は、黄」

 それで文朗ぶんろうとふたり、飛び出していた。

 文朗ぶんろう。徒手空拳。熊のような咆哮と巨体が、近衛たちにぶつかっていった。弾き飛ばし、ぶん投げる。そのたびに、狂ったような雄叫びが上がる。

 背から、矢の雨。ほぼすべて、地面に突き立っていく。それでも近衛たちは、それに怯えて動けなくなっている。

 ふたり、斬り伏せた。急所は外しているはず。それで、開けた。正面、馬車。黄色い傘。

 それは、帝の印。

「我ら、紅月寺こうげつじ

 そこに、飛び込んだ。かがみ込み、拝礼する。

「我が名こそ、杜小楓としょうふう

 見上げた。男の影だけ、見えた。

 それと、瞬き。

 火花。なんとか受け止めることができた。本気の剣閃。二合、三合と続く。防ぐことしかできない。

「よく来てくれた、えい。偉いこだ」

 六合打ち合って、鍔迫り合いのかたちになった。華淳かじゅんの顔。目の前にあった。

「陛下は病を患われている。禁軍全体に、それが漏れた」

「やはりですか。それも深山しんざん派だけでなく、全体とは」

「それと、もうひとつ」

 圧される。本気の力。耐えるのが難しいほどに。

「ふたりのお子は、陛下のほんとうのお子ではない。これはりんが掴んだ。あとで向かわせるから、褒めておやり」

 そこまでで、力の向きが変わった。

 剣。弾き飛ばされた。体はへたり込んでいた。

 華淳かじゅんの手。結い上げた髪に感触があった。それと、首筋にも。

「少し、痛むぞ」

 なにも、感じなかった。ただ、何かが軽くなった。

 うめき声。それで、顔を上げた。

紅月寺こうげつじ前頭首、薛奇せつきが長子、薛成秋せつせいしゅう

 男ひとり、華淳かじゅんの前に立ちはだかっていた。華淳かじゅんの肩甲には、矢が突き立っていた。

 成秋せいしゅうの体。震えていた。

「それまでじゃ」

 それだけ、聞こえた。

 視界がぐらついていた。馬蹄。誰かに、抱えられている。

「肝が太くて腕が立つ。いい女だ。華淳かじゅんめのものでなければ、俺がもらっておったわ」

 呵々とした声。見やれば、李桂りけいだった。思わずで、こちらも笑っていた。

 合流地点。成秋せいしゅうは、呂信りょしんが回収したようだ。文朗ぶんろうも戻ってきた。体に無数の浅手があったが、平気そうだった。

えい、ごめん。その髪」

 小楓しょうふうが待っていた。顔が悲痛に歪んでいた。

「生命がありますもの。髪は自ずと戻りますわ」

「それでも、やらせてしまった」

「自ら望んだことです。どうか、お気に病まず」

 そうやってうなだれ、唇を噛む小楓しょうふうを、えいはつとめて微笑みながら抱きしめた。その震えが収まるまで、しばらくそうした。

 体を離したとき、小楓しょうふうは笑ってくれていた。

「それと、成秋せいしゅうさま」

「はい」

「ありがとう。かっこよかったわ」

 こちらも、抱きしめた。腕の中で、成秋せいしゅうの体がびくりと跳ねたのがわかった。

 やはり視界の隅。小楓しょうふうの可憐な顔が、驚きと怒りに歪んだのをみとめてから、えいはその体を離した。

「この、ばか成秋せいしゅう

 間髪入れず、甲高い音がなった。成秋せいしゅうが頬を押さえていた。そうして小楓しょうふうは離れたところまで駆けていって、しゃがみ込んでしまった。それをみとめて、成秋せいしゅうは慌てたように、その背中を追って走り出していた。

「あらあら、仲睦まじいこと」

えいさん、あまりからかわないでやって下せえ。ふたりとも、まだ子どもなんですから」

「でもまあ、やるじゃねえか、あの小僧も。えいさんをかばって、あの将軍の前に立ちはだかるとはね」

「おう、呂信りょしん。人を小僧扱いとは、お前も大きくなったものだな。それこそお前もいい年なのだから、いい女のひとりやふたり、とっ捕まえてこいっていう話だよ」

「やめて下さい、大将。俺はまだ、そういうことについては」

「大将じゃない、大大将おおだいしょうだ、馬鹿者」

 李桂りけい呂信りょしんの頭に拳骨を食らわせていた。それで兵たちも笑い出した。

「まったく、どいつもこいつも」

 文朗ぶんろうだけ、呆れたようにため息を入れていた。その様子もなんだかおかしくて、えいはただ静かに笑っていた。

 これが紅月寺こうげつじ。数多の人々が夢を馳せた、紅き月の麓。


3.


 文一通、返した。もとから貰っていたものである。返事が遅くなった旨を詫びるぐらいの気は利かせておいた。

 深山しんざん派というのは、外部からの呼び名である。仲間内では同志とか、そういう呼び方をしているようだった。そこから、華淳かじゅんは幾度となく誘われていた。

 世を平らかにする。そのための運動だという。

 後将軍となった今、政治から離れつつ、不穏なものを嗅ぎ取るには、いい隠れ蓑だと思い、喬倫志きょうりんしの言うことに従った。

 宮廷よりなら、軍部のほうがまだである。どちらもろくでもないことを除けば、だが。

「音に聞こえた将軍を迎え入れることができた。これほど嬉しいことは他にはござらん」

 会ったのは虞同ぐどうという将軍だった。叛徒平定で何度か沓を並べた男である。功績十分だが反骨心が強く、朝廷としては些か使いづらい人材だろう。

「ほんとうであれば、手土産ひとつ、お持ちできたものを」

「滅相もござらん。小楓しょうふうとやらめ。将軍の力量と度量とを思い知り、今頃は恥じ入っておることでしょうよ」

 持ち込んだ女の髪を眺めながら、虞同ぐどうは満足げな声を上げた。

 名簿を見せてもらった。正直に、曲者揃いといった感じではある。ただ、それぞれ能力はある。それを活かせる場所がない、といったところだろうか。

 ひとり、引っかかる人物がいた。先の執金吾しっきんご(警視総監)、簡旺かんおうである。

簡旺かんおう殿もおられるとは」

「いかにも。我らが同志の中枢にござる。簡旺かんおう殿のお声で、我らは立ち上がり申した」

「なるほど。お会いすることはできるだろうか?」

将軍とあらば、喜んで」

 虞同ぐどうが顔を綻ばせた。

 日取りは一週間後と相成った。屋敷に戻り、早速、えいのもとにひとり、走らせた。

 確か簡旺かんおうは、喬倫志きょうりんしと親しいはずである。政治的方針も、喬倫志きょうりんしに近いものがあったはずだった。

 帝の不興を買い、志を違えたか。あるいは別の思惑か。

「流石はえいだ。少しの間に、小楓しょうふう殿だけでなく、他のご歴々からも厚い信頼を得ている様子だったよ」

 らんを寝室に呼んだ。端女はしためのひとりであるが政治に明るく、えいに次ぐ参謀のような役回りであった。

呼盛こせい殿につけたふたりも、着実に成果を上げています。紅月寺こうげつじ深山しんざん派。そして朝廷と、三勢力の情報を網羅、駆使できる状況です」

「まさしく」

「それで、旦那さまはどうなさるおつもりで?」

「しばらくは様子見だな」

 らんの膝に頭を乗せながら、そう嘯いた。

 喬倫志きょうりんしが、皇弟おうてい鎮峡王ちんきょうおうこと宋子学そうしがくと接触していた。つまりは帝の後継者。それが喬倫志きょうりんしの最大の懸念事項ということになる。そこから、帝のふたりのお子がほんとうのお子ではないということを推測し、裏を取ることもできていた。

 帝の病については、喬倫志きょうりんしは必死に隠していたようだが、どこかからか軍部に漏れ出たそうだ。ただし不治であっても致死の病ではないらしいから、こちらはそれほど考える必要はないだろう。

 これから誰が、どれだけ騒ぐか。華淳かじゅんが動くのは、それからでも遅くはない。あるいは紅月寺こうげつじも同じく、そう考えているだろう。

 今のところは、深山しんざん派という勢力を明らかにする。それだけに注力することでいいかもしれない。

 基本的には、政治の中枢に昇りきれなかった軍官僚や末端の将校で構成されている。その代表格が虞同ぐどうだったり、もと執金吾しっきんご簡旺かんおうだったりするだけで。それでも組織としては円滑に、そして順調に機能しつつある。

 それだけの金を、誰がどこから出しているか、だ。

 現状、紅月寺こうげつじと違い、金を生み出す仕組みもないまま、中央で活動を続けている。中枢にいるという簡旺かんおうは名族だが、現状は左遷されたいち役人でしかないから、あれひとりだけで、あの分の人数を制御し切るのは幾らか難しい。軍内の急進派となれば、商人たちも表立って寄り付きにくいだろう。

 となれば、すでに支持基盤の完成された別の組織か。

 紅月寺こうげつじに次ぐ勢力となれば、よく名前が上がるところでいえば鳴翁山めいおうざんあたりになるが、あれは地方自治を目論む豪族どもの寄合世帯と言えるものだ。思想がまるで異なるだろう。伊韓達いかんたつの残党とあらば資金力はあるだろうが、既に灰になっているようなものだ。諸外国については、現状でずいと対立する必要性はまったくない。

 ともあれ、動き方としては決めていた。誰に王才ありか、である。

 まずは紅月寺こうげつじ深山しんざん派の戦いになるだろう。深山しんざん派は、組織としての力は未知数だが、腐っても禁軍である。簡旺かんおうに不足ありとなれば、次から次へと神輿が湧いて出てくるはずだ。ああいう類は、草の根まで叩き潰さなければ潰えない。

 紅月寺こうげつじ小楓しょうふうはどうか。えいからもたらされる情報としては不足なし。また、先代頭首、薛奇せつきの息子がいるというのも大きい。“生まれ変わり”が潰えたとしても、組織としては成秋せいしゅうを神輿として立ち直せる。最高幹部も楊漢ようかん李桂りけい王高越おうこうえつと傑物揃いで、まったく隙がない。今回に限って言えば、行動原理が定まりきっていないところが難点なので、それを用意しきれないと、兵の間では厭戦感情が広がりやすくなる。

 そして、そこふたつの漁夫の利を取るかたちで、喬倫志きょうりんしが出てくる。

 あれは忠臣だ。帝ではなく、ずいという国に忠誠を捧げた国家の臣だ。ぎょくがどんなものであれ、その行動には理念と道理を必ず伴わせてくる。確固たる行動原理には確実な資金源が必要になるが、これについては国庫というものがそれにあたるので、何を心配する必要もない。たとえそれで国が傾いたとしても、すべてを後進に委ね、自身は刑場の露となる、という極端な動きも可能だ。

 どれを味方にするにも、どれを敵にするにも、華淳かじゅん個人としては問題はない。肩書が変わるだけで、動乱を収めるという、やるべきことは変わらないのだから。

 使いが来た。案内されたのは、簡旺かんおうの館だった。

 一番奥の、客間と思われる部屋に案内された。そこにいたのは簡旺かんおうと、見知らぬ少年だった。

 着座を促された。供された酒には、まだ口を付けなかった。

簡旺かんおう殿は、きょう丞相とは近しい思想の方だと思っておりましたが」

喬倫志きょうりんし殿には恨みはない。ただ、帝だ」

「やはりですか」

「時節を弁えぬ放蕩享楽ぶり。あれのせいで、民は貧しい思いをしている。これを正さねばならない」

「廃帝し、誰を立てますか?」

「誰も、立てぬ」

 眼は、燃え盛っていた。だがどこか、濁りを感じた。

ずいの在り方を変える。民の力によって、国を成す」

「その代表としての存在が必要でしょう。王、ないしはぎょくが」

「無論。それもまた、用意しておる」

 そうして簡旺かんおうは、ちらと少年を見た。つまりはこれがぎょくだというか。

 茫洋とした少年。十を過ぎたぐらいか、いくらか背が高い。しかし。

「これなる男子おのこは?」

志明しめい、我らがぎょくだ」

 違和感があった。あん美人のお子としたら、大きすぎる。

「我々のための、“生まれ変わり”だ」

 その言葉に、華淳かじゅんは思わず、簡旺かんおうの顔を見ていた。

「聞き間違いですかな?」

「いいや、これは“生まれ変わり”だ。我々、紅月寺こうげつじの頭首だ」

「お戯れを。紅月寺こうげつじは、杜小楓としょうふうという娘を頭首として、既に立ち上がっております」

「そう。それとは別のかたちの、紅月寺こうげつじだ」

 にやついた。邪悪な笑みだった。

「秘密結社。反政府組織。義賊。武侠。言い方は何とでもできる。それよりも紅月寺こうげつじ紅月寺こうげつじだ。その名に意味がある」

「自ら、虎の威を借る狐に成り下がるか」

「人聞きの悪い。我らが本物なのだ。紅月寺こうげつじを騙り、人心を惑わす不心得共を、我ら真なる紅月寺こうげつじが打ち倒すのだ。紅月寺こうげつじ。そう、それこそが世の乱れ」

「矛盾を孕んでいる。どうかしているぞ、簡旺かんおう殿。俺はそれを許容することはできない」

「そうだ、華淳かじゅん。貴公の言う通りだ。紅月寺こうげつじ。それは世を乱し、正すもの。大いなる自己矛盾だ。我らは乱し、正し、ならすのだ。すべて、すべて、すべて」

 熱に浮かされたような言葉。聞きたくもなかった。

 剣。抜いていた。そして、深く突き刺していた。簡旺かんおう。笑った顔のまま。

 そうして、崩折れた。笑ったまま、事切れていた。

「おい、坊主。大事ないか?」

 志明しめいの方に向き直った。変わらず、ぼうっとしていた。

 近寄り、肩を揺さぶる。志明しめいは困惑した表情で、何かを発しようとしているが、できないでいた。

 まさかこの坊主、聾唖ろうあか。

簡旺かんおう殿」

 入ってきた。男たち。虞同ぐどうもいた。

将軍。血迷うたか」

「血迷っているのは貴公らだ。何が紅月寺こうげつじだ。俺は降りるぞ、馬鹿馬鹿しい」

「頭首閣下をお守りせよ。簡旺かんおう殿の仇じゃ」

 憤怒の表情で、虞同ぐどうが剣を抜いた。

「我ら、紅月寺こうげつじ

 そうやって、襲いかかってきた。

 剣を投げつけた。虞同ぐどうがそれを払う。それだけでよかった。眼前まで歩が進んでいる。顎に一撃。倒れ込む虞同ぐどうから剣を奪い取り、斬り進む。

 混沌。誰も、何が起きているかを捉えきれていない。好機。

 少しもしないうちに、建物の入口まで出てこれた。正面の水路に、らんたちが船を用意していた。

 それに、飛び乗った。

 銃声。いくつかの矢。それでも既に遠い。端女はしためたちが見を盾にして守ってくれているが、大丈夫なようだった。

 そのままの格好で、喬倫志きょうりんしの館まで向かうことにした。

「突然の訪い、まずはお許しあれ。きょう丞相」

「これは、将軍。いかがした?それは誰の血ぞ?」

「時間がないので、簡潔に申し上げます。深山しんざん派、紅月寺こうげつじを騙って決起せり」

 その言葉に、喬倫志きょうりんしは絶句していた。

「この先どうなるか、まったくわからん。まずはどうか、陛下と御身を安んじられませ」

「相分かった。将軍はいかがする?」

「俺も追われています。どこかに身を隠す」

「ならば、紅月寺こうげつじじゃ」

「なんですと?」

 思わずで聞いていた。喬倫志きょうりんしの顔は、決死だった。

紅月寺こうげつじご頭首殿、いや、薛奇せつき殿にお伝えあれ。世に乱れあり。紅き月、今こそ昇るべしと」

「それで、よろしいのですな?」

「こちらは大将軍、徐勇じょゆう殿を動かす」

「かたじけない。生命ひとつ、頂戴いたしました」

「武運長久を」

 そうして、喬倫志きょうりんしは屋敷の扉を閉じた。

 向き直る。追っ手はまだ来ていない。

「妻子には、死んだとだけ伝えてくれ」

 端女はしためのひとりに、そう伝えた。

 らんを見る。決意の表情。その肩を、軽く叩いた。

 行こう。混迷のとき。紅き月に、儚い夢を見るために。


4.


 深山しんざん派、簡旺かんおうが死んだようだ。それでも王璧おうへき陳新陽ちんしんようなどがすぐに立て直したという。

 あれらもまた、紅月寺こうげつじと名乗るようだった。

 いくつかの勢力が、紅月寺こうげつじの名を騙っていた。小さな賊ばらだけではない。深山しんざん派や、かつての緑衣衆りょくいしゅうなど、しっかりとした基盤を持っている組織ですら、そうだった。

 そうするように、仕向けていた。

 覇者を産む。淀んで流れることのない腐った沼をかき乱し、このずいを塗り替えることのできるだけの力を持った、大きなものを。

 世はもはや、それをこそ、望んでいる。

 やってみるまではこわさの方が強かったが、簡旺かんおうを崩せたあたりで、思った以上に簡単だということがわかった。そうしてそのあたりから出来損ないを集め、あらゆる勢力の長どもを言いくるめていくということをやってきた。

 紅月寺こうげつじ。“生まれ変わり”。なければ作ればいい。簡単なことだった。

 喬倫志きょうりんしの側近として、長く働いた。そして、喬倫志きょうりんしより先に、帝のことを見限っていた。ただ朽ち果てるだけの生命に成り下がるよりならばと思い、水面下で動きはじめた。

 喬倫志きょうりんし。忠臣だった。ただなにより頑迷だった。国家というものに対し、忠誠が厚すぎた。また立場としても昇りすぎた。丞相。立身出世そのものは素晴らしいが、しがらみが大きく、多くなりすぎる。

「四人、用意できた。これも“生まれ変わり”として使える」

 応才おうざいが寄ってきた。聾唖ろうあの子どもを見繕ってもらっていた。

たく州に流す。国境付近でも勢力ができあがれば、更に混乱をもたらすことができる」

かい州、ほう州にも送る。夷波唐府いはとうぶの介入も期待できよう」

 ふたり、頷いた。

「ほんとうの紅月寺こうげつじについては」

華淳かじゅん将軍が合流するそうだ。となれば呼盛こせい将軍や、他の禁軍将軍も」

「というより、招安の方向で動くだろうな。ぎょくひとつ、欲しいだろうし」

「勢力として大きくなりすぎる。少し崩せんか?」

「難しいだろうな。結びつきが強固だ。ならば他勢力を合従させるなどしたほうが現実的だ」

「やはり、ほんとうの“生まれ変わり”には敵わぬか」

「仕方なかろう、馬勲ばくん。それよりも、毒の方はどうだ?」

「そろそろ、花咲く。いつでも行けると思ってもらっていい」

「わかった、頼むぞ」

「ああ、我らが紅き月のために」

 応才おうざいが離れた。が成れば、応才おうざい深山しんざん派につきっきりになるだろう。

 ひとり、入ってきた。顔は隠しているが、身なりで誰かはわかった。馬勲ばくんはその男に対し、静かに拝礼した。

「紅き月は、今宵、昇る」

「承知いたしました」

「楽しみだな、馬勲ばくんよ。果たして誰が生き残るか。我々は、果たして生き残れるのか」

「着くべき月を、見定めねばなりますまい」

「無論、紅月寺こうげつじじゃ。ほんとうの紅月寺こうげつじ。“生まれ変わり”をこそ、我らは天に戴くべき」

「万事、御意のままに」

 その言葉に、その男は口元だけで笑った。

 紅き月。それは血染めの星。屍の上に咲く、暗闇の太陽。そうして産まれた覇者こそが、新しきずいを作り上げていく。

 我らは、その礎として死ぬことでいい。

 動きがあったのは、その日の夜だった。喬倫志きょうりんしが飛び込んできた。その顔は、真っ青だった。

 呆然とした顔で、ひと言だけを漏らした。


「陛下が、崩御なされた」


(つづく)


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◆登場人物

紅月寺こうげつじ

小楓しょうふう杜小楓としょうふうとも。紅月寺こうげつじ頭首。

薛奇せつき:故人。先代頭首。

文朗ぶんろう文二児ぶんじじとも。紅月寺こうげつじの猛将。

成秋せいしゅう薛奇せつきと妾の子。

王高越おうこうえつ:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。

楊漢ようかん:戦略、人材を担当。

楊三嬢ようさんじょう楊漢ようかんの末娘。

呂信りょしん呂無頼りょぶらいとも。銃兵を操る精鋭。

えい華淳かじゅんの妾。紅月寺こうげつじでは諜報を担当。

何良かりょう:諜報を担当。

魏賢ぎけん:諜報を担当。

【朝廷】

喬倫志きょうりんし:丞相(総理大臣)。帝と対立。

馬勲ばくん喬倫志きょうりんしの側近。

応才おうざい喬倫志きょうりんしの配下。

宋爽そうそう征海王せいかいおう。帝の第一子。

宋哲そうてつ:帝の第二子。

宋子学そうしがく鎮峡王ちんきょうおう。帝の弟。

華淳かじゅん:後将軍。紅月寺こうげつじに誼のある将軍。


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