春雨の降る頃に
1.
その日も、同じようにはじまった。座を組み、心を整え、体を培う。
神さびた寺のなか、ひとり、そうしていた。
かつては志があった。国を正し、世を平らかにするというもの。そのために心技体を養った。紅月寺に加わり、そのために働いた。
すべてを捧げた。自分も、周りのものをも。
それでも、どこかですれ違った。招安(反政府組織を帰順させること)や、宮廷の陰謀。国を正すためとはいえ、国そのものにすり寄ること。本意ではなかった。悪しき国を打倒し、新しい秩序をもたらす。それが紅月寺ではないのかと、薛奇と何度も論を競わせた。国になること、国を直すこと、国を倒すこと。
結論は出なかった。だから、紅月寺から離れた。
望月山。紅月寺の、はじまりの地。かつての名を捨て、ここに移り住んでいた。剃髪し、ひとりの僧侶として暮らしていた。
暮らしに苦労はなかった。顧飛鈴という尼が麓にいて、本当にありがたいことに、暮らしに必要なものを届けてくれる。文筆の覚えもあるので、手紙の代筆や、子どもたちの手習いなどで日銭を稼ぐこともできた。
そうやっているうちに、麓のものからは望月さまと呼ばれるようになった。だからそれを、自分の名として使うことにした。
確か五年ほど前だったと思う。薛奇が死んだという知らせがあった。書簡ひとつで、それは知らされた。
志は、いつしか忘れた。あるいは別の形に昇華したのか。それは望月としてもわからなかった。ただ、やるべきことを失い、それでも生きるために生きていた。
いずれ役に立つものだと思い、心技体のそれは磨き続けている。
修めている功夫は護王拳といって、既に廃れたものである。神代に、川均しの繆沢とかいう覇者がいて、それを弑した六人の王が修めていたものだとかいう伝説がくっついているが、真偽は定かでないし、気にしてはいない。ただこれが強力なものであり、また紅月寺頭首たる“生まれ変わり”の能力を保つのに必要不可欠なものであるということは知っていた。
薛奇の死を知らせた書簡に、遺言らしきものがあった。またいずれ行く。その一文だけ。
つまりはそのために、自分は心技体を保ち続けているのかもしれない。次代の“生まれ変わり”に、護王拳の真髄を授けるために。
それならそれでいい。その宿命は、志とは別のところにある。次代の“生まれ変わり”は、その心技体を保つためだけに護王拳を修めればいいし、望月としては、それに潜むであろう、薛奇を含む“生まれ変わり”が修めていた真髄を思い起こさせれば済むだけの話なのだから。
心と技に磨きが掛かる一方で、体は弱まってきていた。病ではないだろう。ただ単純に、老いただけだ。そしてその老いに合わせて、心技が補いをかけているだけなのだ。そう、思うことにしていた。
冬の開けた頃、麓の顧飛鈴から鳩ひとつ届いた。望月に訪いを入れるものがいるという。
訪ねてきたのは、深い臙脂の長袍に身を包んだ、若い娘だった。
「よう、卜仙」
その声に、はっとした。
「その名を知っているとなれば、お嬢さん。そなたが、もしや」
言葉を続けるよりも先に、体はすっと、二歩ほどを離していた。
気を放ってくる。そして、見える。大男。真剣を携えた男、ひとり。ただ立っているのではない。剣を青眼に構え、こちらを殺そうとしてくる。
やはり、薛奇。しかし。
離した二歩を、戻した。自分でも不用心と思えるほど、無造作に。それだけで、娘の顔は苦悶に歪んだ。
「心に乱れがある。正しく生まれ変われなかったか、あるいは、その娘の先天的なものか」
「おそらく後者だ。これは小楓というのだが、我ら“生まれ変わり”の記憶を取り戻しても、このこの記憶だけは、どこにも見当たらないのだ」
「小楓。杜小楓というのだな?」
望月の言葉に、娘は静かに頷いた。それを見て、望月は小さくため息を吐いた。
更に踏み込む。小楓が三歩、下がった。それを許さず、一気に距離を詰めた。丹田に力を込める。
今一歩、下がろうとしたところに、喝を放った。それで、小楓の体は崩折れた。
小楓の身体を担ぎ上げ、麓まで下った。麓の村のものに小楓を預け、しばらく面倒を見てほしいと頼んだ。最初のうちこそ混乱していたが、そのうちに、望月さまの頼みなら、と承諾してくれた。
俺がこのこと一緒にいても、いいことは何ひとつ、ないだろうから。
三日ほどして、寺の正面に、娘の姿ひとつ、あった。小楓だった。座し、拝礼していた。
何も言わず、真剣ひと振り、渡した。
構える。青眼。こちらは同じほどの長さの棒切れである。
一刻、ただ向き合った。小楓は大汗をかいて、肩で息をしていた。それでも、額からこぼれ落ちる汗が目に入ろうと、必死に堪えていた。
棒切れを振った。それで、構えていた剣は叩き落とせた。それと同時に、小楓の身体も、糸が切れたようにして倒れた。
井戸から水を汲んで、そのまま倒れた小楓に浴びせた。冷たい水。跳び上がるようにして起き上がった。震えながらも、素手で構えていた。
「そのまま、構えていよ」
それだけ言って、望月は寺の中に入った。
二日ほど、放っておいた。小楓は倒れていた。
背負って、麓の村まで下りた。
「このこは、何をされておられるのですか?」
顧飛鈴に、心配そうな顔で訪ねられた。一番に世話を焼いているらしい。
「功夫を仕込んでいる」
「望月さまのそれは、身を守るためのものと仰っておりました。それなのに、このこを死なせるようなことを」
「死の間際までいかねば、護身の真髄は見えんのだ。すまぬがわかってくれ」
それだけ、言い残した。
ひと月ほど、そういうことをした。正対し、気を放ち合い、そうして倒す。
「音に聞こえた望月殿の腕前、是非にとも拝見したく」
大柄な男ひとり、訪ねてきた。葉典と名乗った。武芸者だという。
ちょうど小楓も訪ねてきていたので、立ち会わせることにした。
「これなる娘は?」
「弟子のようなものです。まあ、準備運動とでも思っていただければ」
「はあ。女、子どもとはいえ、手加減はいたしませんぞ」
「ご存分に」
それで、葉典は鼻息を荒くした。
ふたりともに、木剣を渡した。葉典は半身青眼。小楓は、構えもしなかった。
「はじめ」
声を、かけた。
動きが多いのは、やはり葉典だった。間合いを変え、構えを変え、時に吠え声を上げた。それでも斬りかかれず、ただ徒に時を費やした。
小楓。何も考えていないように、一歩を踏み出しただけのように見えた。
「それまで」
望月は声を上げた。それで葉典はへたり込んでしまった。
小楓の前に出る。膨大な気が膨らんでいた。正面に踏み込むのが、ためらわれるほどに。
ただ、純粋なものではないように感じた。
裏拳で木剣を叩いた。それで、小楓の手から木剣は飛んでいった。
「まだ、むらがあるな」
崩拳。顔面寸前で止めた。それで、小楓が倒れた。
「俺との立ち会いは、やるかね?」
葉典は、ただ首を降るばかりだった。
倒れた小楓を背負い上げた。軽い身体。ほんとうに、まだ子どもだった。技はともかく、心も体もまだまだ完成には程遠い。
それでも、紅月寺頭首として芽吹かせなければならない。
「お前をもってしても、簡単にはいかんか」
背負っていたものが、男の声で呟いた。
「難しいな、薛奇。それでも仕上げてみせるさ」
「お前がそう言うなら、信じよう」
「あなたたちにも、そう時間の余裕もないだろうから」
「そうだな。喬倫志が我らを狙っている。あるいはいずれ、ここにも来るかもしれん」
「ならば、なおさらだ」
「このこには」
いくらか、悲しみの乗った声だった。
「言ってはやらんのか?」
「何も、言うことはない」
「あるいはそれが、鍵かとも思っている」
「思うだけにしてくれ。そんな、ろくでもないこと」
「お前のことを覚えてもいないし、恨んでもいない。このこにとって、お前は望月だ」
「それでいい。そのままで、いい」
「そんなものなのかね」
「言ってくれるな。俺は、もはや資格のないものだ」
言って、口の中がいくらか苦くなった。
そのうちに、背負っているものは、何も話さなくなった。ただ寝息だけが聞こえた。
顧飛鈴の家に、小楓を置いた。寝台の横で、その寝顔をしばらく見ていた。
なぜかは知らない。どうしてか、そうしていた。
「お知り合いなのですか?」
「いや、知らぬ娘だ。ただ、功夫を教えてほしいとだけ」
「それだけなのに、ここまで」
「そうだな。それだけなのに、どうしてだろうな」
顧飛鈴の、覗き込むような視線を、望月は瞑目して躱した。
「起きたら、何か食わせてやってくれ。それでまだやる気なら、それでいい」
「かしこまりました」
それぐらいにして、望月は席を立った。
「おとうさん」
部屋を出る間際、小楓の声で、そう聞こえた。
振り向いた。寝顔。ちゃんと、息をして、眠っている。
「そうだな」
それだけ、言い残した。
卜仙。あるいはかつて、杜仙とも名乗っていた。
2.
試毒のものが泡を吹いて倒れた。周りのものは青くなっていたが、喬倫志はつとめて冷静に、片付けるようにだけ言った。
帝から下賜された酒である。
「これは、陛下が丞相を排除しようという」
「陛下が私を害そうとするはずがない」
駆け寄ってきた馬勲にも、それだけを言った。
「とにかく、陛下の病だけは隠せよ。どこから漏れるかがわからん」
何年か前から、帝は病を得ていた。飽食の病である。肝が固まってしまい、手足が攣ったり、震えが出たりしている。そのまま進行すれば、脳の機能が低下するなどするらしい。
嫡子である征海王宋爽は、愚鈍だった。比べれば次男宋哲は些か若すぎるし、どちらも外戚どもがよからぬことを企てているのは透けて見えていた。
そしてふたりとも、帝のほんとうの子どもではない。
これを知っているのは、喬倫志と薛奇ぐらいである。他は女であれ、すべて葬ってきた。
帝が病であること。ふたりの子がほんとうの子ではないこと。これを今、明らかにされれば、市井も宮廷も大混乱に陥る。
そしてその先は、長い動乱になる。
薛奇とは、喬倫志が下級役人のころから長らくの付き合いがあった。友といっていいだろう。だから喬倫志が丞相になってからはじめて紅月寺が蜂起した際、招安に応じさせることもできた。
だからこそ、この秘密を打ち明けた。そして最近になって、それが恐ろしくなった。
“生まれ変わり”。薛奇の記憶を受け継ぐもの。それが何を意味するのか、喬倫志は恐怖に震えていた。
隠さなければならない。薛奇が持っていたものを、覆い尽くさなければ。誰彼からも嫌われようと、この国を永らえさせるために。
「“生まれ変わり”は、はたして討ち果たせなんだか」
その知らせを聞いて、喬倫志は天を仰いでいた。
「流石は薛奇殿の“生まれ変わり”だな」
「この責は、私めが」
「構わぬ、応才。それよりも次の手だ」
「はっ。紅月寺としての行動を鈍らせます。懐柔した賊どもに、紅月寺の旗を掲げさせます」
「民を敵に回させるか。下の策だのう」
「手段は選べませぬ。鳴翁山など、他の反政府組織と合流されれば、手に負えなくなります」
「禁軍、深山派」
その言葉に、応才の体が小さく跳ねた。
「陛下と安美人(側室)との間に、お子がいる」
「紅月寺と深山派、両方に流しますか」
「玉の取り合いをさせる。紅月寺には大義名分が必要だ。前王朝の血筋である安美人というのは、使える看板だろうさ」
「では、早速」
「私の方でやる。お前には、また別の仕事だ」
紙切れひとつ、応才に渡した。それで応才は頷いた。
これについては、喬倫志の方で予め、楊漢に握らせていたものである。薛奇の記憶があるというなら、お子を正統後継者に選ぶのも固くない。
帝の後継者争いの表面の部分だけで、騒げるだけを騒いでもらおう。
華淳が高位の叙勲に応えた。後将軍だという。これでしばらくは中央に華淳を置いておくことができる。
屋敷に華淳を呼んだ。
「此度の叙勲、丞相のお口添えについて本当にありがたく」
「ついでにひとつ、頼もうと思ってな」
「紅月寺、あるいは」
「深山派だな」
杯を舐めながら、喬倫志は答えた。
現状、紅月寺よりも懸念が大きい。軍官僚や将校の末席どもが、軍事政権の樹立を考えていた。それだけならまだしも、いくらかに急進的な行動を起こす場面も増えてきた。
「表面化して刈り取りたい。潜り込んで欲しい」
「何かおありなのですか?」
「陛下と安美人とのお子。もうじき十になる。これを御旗にするつもりだ」
「ほう」
「紅月寺はこれから、といったところだ。まだ考えなくていい」
「呼盛殿もお使い下さい。俺と呼盛殿には、繋がりがあります」
「わかった。深山派側の人間として貴公を、こちら側の人間として呼盛殿を使おう」
華淳が拝礼する。案外に物わかりがいい。
つとめて派閥だとかそういうものに肩入れしようとしなかった大物である。それでも西に東にと走り回った功績から、兵や将からの人気は高かった。あるいは中枢に対する不満ありとして、深山派からも声がかかっていただろう。
同じような立場である呼盛ともども死なせたくない男だが、使えるものは何でも使っておきたかった。
明くる日、鎮峡王宋子学に拝謁した。帝の弟である。
「兄上の病は不治であれ、致死の病ではない」
「然れども、万一のことがございます。征海王殿下は残念ながら陛下の覚えめでたからず。弟皇子殿下もまた若すぎる」
「双方、面倒な母親を持っているということもある」
「鎮峡王殿下が玉座に昇られれば、世は乱れますまい。その後、両皇子のいずれかに玉座を譲ることになったとしても」
「私は、私の子に玉座を譲りたく思うがね」
「構いませぬ」
ほう、という顔だった。
「兄上を見限っておるのかね?」
「陛下は、私を排そうとしております。仰ぐべき主君に値しませぬ」
「詳しくは聞かぬ。だが喬丞相が私に着くというなれば、張り切り甲斐もあるというものだよ」
宋子学が身を乗り出した。近う、とひと声。喬倫志は、眼前まで歩を進めた。
「紅月寺が、動いたとな?」
「まさしく」
「あれを引き入れることはできるかね?」
「いかがなものでしょうか。先の招安は、伊韓達という、共通の敵がおりましたがゆえ」
「兄上、そのもの」
目を見た。淀んだものが滲んでいた。
「実際、そうだろう。時節を弁えない放蕩享楽ぶり。あれのせいで国庫はいつだって火の車だ。貴公も見限っておるとなれば、尚更のことだよ」
「とはいえ、しかしですな」
「廃するには、もう少し名分が欲しいところかな?」
ぞくりと、肌が粟立った。それを悟ったのか、宋子学はずいと顔を寄せてきた。
「よく聞け。あれは不義の子だぞ。父上の子ではない」
「陛下が、ですか?」
「あるいは私ですらな」
宋子学は、そうやって笑った。喬倫志は笑えなかった。
「瑞とはそういう国だ。そういう血が永らえさせている。保つべき正当性など、はじめから存在しないのだよ」
喬倫志は、黙って拝礼した。その手は震えたままだった。
淀んだ血。それに振り回されている。それに毒され、害されることもありうる。
それでもいつか、腐ったものすら朽ち果てる時が来る。それだけ、腹の中に仕舞い込んだ。
3.
ふた月もすると、小楓の心技体は、随分とさまになってきたようだった。
卜仙はほんとうに厳しく、何より真剣だった。麓から望月寺までの山道すらも、ひとつの修行になりうる険しさである。そうやってたどり着いたとしても、数刻もしないうちにへたり込み、あるいは倒れるようなことをされる。
薛奇は、時折の意識の合間から、それを眺めていた。
卜仙。友と言える男のひとりだった。志を違えたとはいえ、こうやって小楓のことを託すことができる、唯一の存在と言っていい。“生まれ変わり”以外への伝授を制限されていた護王拳を伝え、ともに切磋琢磨した仲でもある。
自分が死ぬとなったとき、不測の事態があれば頼るようにもした。
小楓の生命の中で生きているうち、その不自然さに気付いた。小楓には、“生まれ変わり”になる以前の記憶がなかった。それは、“生まれ変わり”として完全なものになった今ですら、そうである。
“生まれ変わり”の呪法とは、歴代の“生まれ変わり”の記憶を受け継ぐことだけに留まらない。呼び起こした記憶に追随するための心技体が必要不可欠なものである。それを培うことは呪法の序盤に行われることであり、そして小楓からは、その記憶すらも失われているのである。
呪法の中途で覚醒した弊害か、あるいは別の要因か。
小楓を通じて、他の“生まれ変わり”とも語り合った。何しろはじめてのことである。結論は出なかった。
だから、卜仙を頼ることにした。それが、実の娘たる小楓のことだとしても。
異なる志を持つものたちを、多く友に持った。薛奇個人としては、それでよかった。ただそれが、残されたものたちに、よくない影響を及ぼしている。
喬倫志はおそらく、紅月寺というよりは、薛奇個人を恐れているのだろう。あれが下級役人の頃からの付き合いで、帝に関する秘密も、ともに分かち合った。だから死した後にも、自身の“生まれ変わり”の存在を恐れている。
いずれ、ぶつかるとは思っていた。その前に薛奇の寿命が来た。それだけのことである。
「意図的に記憶を封じているのかもしれんな」
卜仙が、そういうことを言い出した。いくらか話がしたくなり、小楓に頼んで身体を借りていた。
「あなたの“生まれ変わり”にさせるため、俺が生贄に捧げたようなものだ。その半生は、よくないことのほうが多かったのかもしれないだろうし」
「俺は、みなしごだった。人売りから紅月寺に買われて、“生まれ変わり”にさせられた。確かにそれまでの道のりは、思い出したくもないことばかりだったよ」
「“生まれ変わり”。紅月寺頭首。聞こえはいいが、ただの神輿であり、御旗だ。歪んだ思想の具現化だよ。そんなものが、人並みの幸せな人生を歩めるはずもない」
「確かにな。どれもこれもが修羅の道だよ。あるいはそれに嫌気が差し、逃げ出そうとして殺されたりな」
「あなたとこのこの中に、どれだけの怨念が詰まっていることだろう」
「皆、いい顔ばかりをするからね。腹の中はどんなことになっているものだか」
差し出された茶を啜った。世話になっている尼が手配しているもので、香りが特段によかった。
「ともかく、あとひと月あれば、安定するところまでは持っていけるだろう。それまで辛抱してくれ」
「相分かった。世話をかける」
「身の回りは、安全かね?」
「密偵を何人か連れてきている。今のところは何ともないようだが、しかし」
ひとつ、伝えることにした。気がかりなことである。
「もうひとつ、動いている勢力がある」
「ほう」
「おそらくは軍部。それの急進派だろう。喬倫志とはまた別の企ての様子だ」
その言葉に、卜仙の身体は跳ねた。そうして側に置いていた煙管を咥え、火を点けた。
紫煙が香る。卜仙の目は、あの頃のように燃えていた。
「世は、やはり乱れるか」
ただ、頷くだけにした。
動かしはじめた密偵たちが掴んできた情報である。禁軍の末席どもが、どうやら宮廷の打倒を企んでいる様子とのことだった。実際、薄暗いところで、それらしい活動をしはじめているとも入ってきていた。
喬倫志だけでなく、これらともいずれ、戦う必要が出てくるだろう。あるいは今回の主軸とも成りうるかもしれない。
「小楓は、なんと?」
「乱れを正し、その後に、紅月寺を解散すると申した」
「ほう、それは」
「在り方に、疑問を抱いていたようだ。市井や宮廷にとって、都合のいい存在になりつつあると。だから救済者たる紅月寺そのものをなくし、世の中そのものを自浄できる力を、世の中そのものに備えさせると」
卜仙が、声を上げて笑った。薛奇はただ、にこやかにしているだけに留めた。
「面白いことを言う。俺とも、あなたとも違う道だ」
「俺も、面白いと思った。あるいは他の“生まれ変わり”たちも」
「“生まれ変わり”の使命は、どうする?」
「それはまだ、小楓殿には伝えてはいない」
“生まれ変わり”たちの使命。それは紅月寺とはまた、別のところにある。世を正す。それはあくまで、紅月寺頭首としての使命である。
原初の存在にたどり着くこと。我々ははたして、誰の“生まれ変わり”なのか。
薛奇はおそらく、“生まれ変わり”の中では長寿であり、また優秀であった。鏡を通じて、多くの“生まれ変わり”に出会うことができた。その数は、これまで記録されてきたものよりも遥かに多かった。
それでも、原初の存在には、たどり着くことはできなかった。
何か条件がある。それだけ、言われたことがある。何人かは、たどり着いていた。ただそれを記すことは叶わず、しかしたどり着いたならば、この世のすべてを律する力を得るとさえ言われていた。実際、現存する歴史書に記載された大きな分岐点には、それにたどり着いた“生まれ変わり”が強く関わっていた。
小楓には、その使命だけを伝えていってほしい。いつの頃からかはじまった、この不思議な生命の継走の果てに何があるのかを、確かめてもらいたい。
それを伝えるのは、小楓の、紅月寺頭首としての使命が本懐を遂げたあとでも十分だろう。
そのためにも、心技体を培い、護王拳の真髄を身に付けなければならない。強き功夫がなければ、“生まれ変わり”の媒体として十分に機能しないためである。
鍛錬を終え、麓に戻ってから、小楓は姿見の前に座った。意識の中で、薛奇はその正面に座した。
小楓の顔は、明らかに曇っていた。
「望月師と薛父は、私のことを話されておりました」
「そうだな。お前は、何かを忘れている。忘れようとして、忘れたものがある」
「できうれば、思い出したくありません。あくまで蓋をしているに過ぎないと思っているものです」
「それほどまでに、いやなものかね?」
「いいえ。ただ」
正面に座した小楓は、静かに瞑目した。
「母が、可哀想で」
「ほう。小香殿とな?」
「それとともに、私は母のことも忘れました」
戦慄きが伝わってきた。それをつとめて、薛奇は気にしまいとした。
これの母のことも、あるいは知っていた。心の崩れた女。誰彼からも忘れ去られ、捨てられることを選ばれた女。
小楓が、“生まれ変わり”のひとりに選ばれたあたりで、首を括ったとだけ、聞かされていた。
「父のことです。忘れなさいと、母から言われて育ちました」
しばらくの間をおいて、ぽつりと小楓は語りだした。忘れたものを、掘り起こしてくれたのだろう。その目はひどく潤んでいた。
「お前の父は、戦って死んだのだ。雄々しく戦い、誇るべき死を遂げたのだ。人々を守って死んだのだと。母はそう言い、そして必ず、忘れよと申し伝えられました」
そこまで言った。そうして、小楓はその瞼をきつく閉じた。眉間に皺が寄るほどに。
「いつぞやに、ほかのご婦人がたが話をしていたのを聞いたのです。私の父は、私と母を捨てたのだと」
それが、ほんとうのこと。
卜仙は、薛奇と志を違えた。だからすべてを捨てて、この望月山を登った。
あるいはここで、新たな紅月寺を興すこともできただろう。それぐらいの才覚と人望を、卜仙は備えていた。
だが、卜仙はそうしなかった。世の中そのものを捨てた。紅月寺も。そこで出会った女と、その間にできた娘すらも。
それは、小楓が産まれてすぐの頃だったと、記憶している。
「それを、忘れようとしたのだね?そして、忘れたのだと思い込んだ」
「はい、薛父。今、促されたことにより、こうやって思い出すことができました」
「ほんとうのことを、知る勇気はあるかね?」
「おそらくは、望月師」
ゆっくりと、瞼を開いた。小楓の目は、澄み切っていた。
それで薛奇の方も、勇気の準備が整った。
「卜仙、あるいは杜仙と云う」
「やはり、そうなのですね」
「あれもまた、葛藤の中にある。それでも、俺はお前のことを頼んだ。そうして今、お前は本来の意味で、“生まれ変わり”として完成しつつある」
「父母のことのみを、忘れます。あのお方は、望月師です」
「心のあり方については、小楓殿に任せよう。ただ選択に、後悔のないようにだけ」
小楓はまた瞑目し、そうして頷いた。それに続くかたちで、薛奇も重くなった瞼に任せた。
小香。ただ人を恨み、それでも娘にはそれを継がせまいとしたのか。もしくはほんとうに、壊れてしまっていただけなのか。自分自身、それを忘れたくて、そうしていたのかもしれない。そうしてできずじまいになり、ただ終わるだけの生涯に成り果てた。
あれの墓は、どこにもない。今となっては、弔いようもない生命である。
「早く、帰ろう。成秋が待っている」
薛奇のその言葉に、小楓の顔はいくらか綻んだ。
妾に産ませた子である。あまり会ってやることをしなかったが、それでも真っ直ぐに育った。学術や軍才はからきしではあるものの、弓術の腕前は、贔屓目なしに熟達したものを持っている。
薛奇の墓を訪れた際、小楓をかばって大怪我を負っていた。それでも、合流した陳籍が診てくれたおかげで、大事には至らなそうだった。
それもあってなのだろうか、小楓は成秋にいたく懐いていた。歳でいえば、成秋がふたつほど上か。薛奇としては、その様子がとても微笑ましく、また血を分けた息子のことともあり、とても嬉しかった。
あとはもう少し甲斐性と男気があればいいぐらいか。李桂が合流したら、世話を焼いてもらうことにしよう。相手は紅月寺頭首とはいえ、嫁取りは早いに越したことはない。
書簡ひとつ、届いた。文朗からである。成秋は弓を引けるほどに回復したとのことだった。様子を見に、ふたりでこちらに向かうとのことだった。
その書簡にも、小楓は跳び上がるほどに喜んでいた。
「さあ、成秋にかっこいいところを見せてやろう。そのためにも、鍛錬をしっかりやらねばな」
「はい、薛父」
小楓は、うきうきとしていた。その様子は、本当に微笑ましかった。
支度を整えていたあたり、密偵ひとり、飛び込んできた。
手負い。何かあったか。
外に出る。小楓の額には、既に脂が浮いていた。
望月山。赤く、燃えていた。
4.
装束から、禁軍だということはわかった。練度は気にするほどではないが、とにかく数が多い。そして銃兵も。
寺の周りを囲まれていた。
望月は、とかく動き回っていた。薛奇が連れてきた密偵もいるが、ほとんどが撃たれて動けなくなった。
どれほど功夫を積んだとて、銃列の前では無力である。組ませる前に崩すしかない。
戟、三本。すべて払い除けた。拳はすべて、急所に入れていく。一撃必殺を心がけなければ、体力が底をつきかねない。
蹴倒した兵から小銃を奪い取った。銃剣付き。銃の習いはないが、銃床を槌に、銃剣を槍に見立てれば進んでいける。裂帛の気合ひとつ、兵の群れに飛び込んでいった。
久々に浴びる人の血。死の匂い。圧し潰されそうなほどに巨大な恐怖。
不意に、足が動かなくなった。倒れた兵が、足首を掴んでいた。
瞬間だった。腹に、何かがぶつかった。
それでも、動いた。足元の男に銃床をぶっつけ、突きつけられた銃に対し、銃を投げつけた。落ちていた槍ひとつ引っ掴んで、振り回しながら駆け回った。
雨が降っていた。春の、温かな雨。それが、心地よかった。
「望月師、無事でおられるかっ」
声だけ、先に来た。組みかけた銃列を後ろから吹き飛ばし、小楓の姿が現れた。
それに、安心してしまった。
衝撃は、ふたつ。後ろからだった。叫び声。それより先に、やはり身体は動いていた。突き刺し、へし折れた槍の柄を、無理くりに胴にぶっ刺して。
「紅き月はここぞ、ものども。こちらへ死にに来い」
小楓が、ひときわに吠えた。
真剣。唐竹で、ひとりをふたつに割った。舞うように、あるいは縫うようにして、人の群れの中を駆け抜けていく。そうするたび、絶叫と血しぶきが上がった。あるいは、その姿は見る間に大男となり、剣のひと振りで三つの首が宙を舞った。そしてその姿は、瞬きの数だけ変わっていく。
槍衾。その切っ先に立つ女。鞭のように剣を振るい、人を薙いでゆく。その姿は小楓よりいくらか背が高く、なにより鋭かった。二刀を振るい、戟を払い、あるいは六本の剣身の尽くを身に受けても、その刃はすべて、肌を貫いてはいなかった。
これが“生まれ変わり”。顔も名前もない、輪郭だけの姿を持つ者たち。そして、護王拳の真髄。
小楓の蹴りが、最後に残った兵の首をへし折ったところで、望月は倒れ込んでいた。
あたりは、赤かった。あるいは暗かった。自分から流れ出たものが、そうさせているのかもしれない。
抱きかかえられていた。小楓。可憐な顔。悲しみに歪んでいる。あるいは、死人を見るような顔で。
ああ、大きく育ったなあ。
「おとうさん」
その声は、確かに、そう言った。
「ああ、そうだ。小楓」
「言わずに済ませるつもりだった。でも、もう言わなければいけないと思った。おとうさん。私の、おとうさん」
「忘れていてほしかった。謝らなければならないことの方が、多いのだから」
「いいの、おとうさん。謝らなくたって」
抱きしめられていた。小楓は、すすり泣いていた。
「お前たちに、つらい思いをさせてしまった」
それぐらいしか、言うことはなかった。
「いいの、おとうさん。私は今、紅月寺になった。おとうさんの志とは違うだろうけれど、おとうさんの紅月寺を守っていく」
「いつでも、やめなさい。つらいと思ったならば。俺は、お前を道具のようにしてしまったのだから」
「それでもいい。産んでくれた。それだけでいい」
「そうか、そういうものか」
涙が伝う頬を、撫でた。温かかった。
「俺は、ひとりの娘の親として」
死ねるのだな。
そこまで言葉に出たのかは、わからなかった。
5.
望月山。山育ちの成秋からすれば、その険しさは、どこか見知ったものにすら思えた。文朗も山には慣れているのだろう、遅れることなく、すいすい着いてくる。
小楓がここに修行に出てから、紅月寺はいくらかに、その規模と目的を固めつつあった。
前王朝、溱朝の復古である。
瑞という国は、国号は変わらずとも王朝は絶えず変わり続けてきた。現在の東南宋氏の前は溱氏であり、直系の断絶という名目で禅譲を果たしているが、その実はほとんど武力革命だったという。
それが成れば、政治の改革だけでなく、南西の隣国、殊国との国交も、回復が見込めるだろうとも言っていた。
成秋としては学がないので、そのあたりのことはよくわからなかった。それでも世の中がよくできるということだけはわかった。そしてその活動に、成秋も関われるということも。
小楓が紅月寺復興を宣言してから、人は集まった。志を持つものだけではない。中央に反感を持つ地方役人。賊崩れ。そういったものを、楊漢や、途中で合流した李桂という将軍が見定め、あるいは鍛えていった。
資金繰りは、王高越が行っている。大平原や夷波唐府との交易で、相当数の人数を賄えるようになっていた。
麓は、物々しかった。あるいは死んだようになっていたとも。だからほんとうに、通り過ぎるようにして進んできた。
途中、密偵たちから、望月山が襲われたと聞いていた。
それでも、小楓はうまく撃退したらしい。それだけ聞いて、成秋は安心した。
古ぼけた廃寺。その奥の、開けた場所で、小楓は静かに座を組んでいた。
その目の前には、誰かの墓がひとつ、あった。
「王たるを望むもの。紅き月を望み、天道を征くものなり」
座していた小楓。瞑目したまま、音もなく立ち上がる。
徒手。青眼の構え。緩やかに、しかし力強く。
「ならばそれを守るは護王の士。支えるは救世の志」
崩拳。そのまま、静かに腰を落とす。気が立ち上るのが、成秋にもわかった。
「紅き月に見る夢は、甘く、儚く。なればこそ」
震脚。空気が、爆ぜる。
「我らは、征く。天に交わり、地に栄え、人と在るために」
一礼。
こちらを向く。その姿は、小楓ではなく。
「よう、成秋。そして、文朗」
雄々しい大翁。薛奇のそれだった。
身体は、勝手に動いていた。それに駆け寄り、抱きついていた。
「父さん」
あの時と、同じ。夏匠山。大きな姿。あれは確かに、父だったのだ。
よくやった。流石は俺の息子だ。父は、そう言った。
小雨の中、父は成秋を背負い、山を駆け下りた。もう大丈夫だ。必ず助かる。繰り返し、そういうことを言いながら。
それが温かく、心地よかった。
「成秋、痛い」
ふと、抱きしめているものが、女の声でそう言った。
見やる。小さい。父ではない。深い臙脂の長袍。女。
小楓。
跳び上がっていた。そうやって、成秋はへたり込んでしまった。それが面白かったのか、小楓はくすくすと笑っていた。
「成秋ったら、大胆」
「びっくりさせないでください。なんて意地の悪い」
「本当にな。俺も思わず騙されるところだった」
文朗は、困ったように笑っていた。
「できたみたいだな、護王拳とかいうやつ」
「うん。これできっと、皆の役に立てる。“生まれ変わり”として、そして紅月寺頭首として」
「よしきた。それじゃあ、皆のところに帰ろうぜ。楊三嬢たちも、お前の帰りを待ちわびている」
「うん」
振り向いた。そうして小楓は、墓石にもう一度、一礼した。
「行ってきます。おとうさん」
(つづく)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。紅月寺頭首。
・薛奇:故人。先代頭首。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・成秋:薛奇と妾の子。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・楊漢:戦略、人材を担当。
・楊三嬢:楊漢の末娘。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。帝と対立。
・応才:喬倫志の配下。
・宋爽:征海王。帝の第一子。
・宋哲:帝の第二子。
・宋子学:鎮峡王。帝の弟。
・華淳:後将軍。紅月寺に誼のある将軍。
【その他】
・望月:卜仙、杜仙とも。もと紅月寺。
◆改版履歴
・24.12.6:初版。




