死にぞこない
声が聞こえる。闇が、開けていく。
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1.
男が覗き込んでいた。朱夏の入りたて、といったぐらい。
見たことがあるような顔だが、思い出せなかった。
「おう、目が醒めたか」
息が荒い。肩も上下している。
「行くぞ。こんなところで、死んでる場合じゃない」
男は妙なことを言いながら、体を起こしてきた。
長く、眠っていたようだ。その割に、体は重さを感じなかった。
何かを思い出そうとしたが、何も、思い出せない。
「詳しくは後で話す。まずはここから逃げるぞ」
「どうやって?」
「切り開く。後を付いてこい」
「まず、あんたは?」
「それも後だ。あんたを連れてくるよう、頼まれた。それだけ言っておく」
立ち上がる。視線が、いくらか低いような気がした。
男も立ち上がろうとした。だが、できないようだった。
「手負いか」
「ああ。随分、やられちまった」
軽く、微笑んだようだった。
脇腹。未だ、血が流れていた。側に転がっていた布をあてがい、簡単な手当をした。
そうして肩を貸した。死人のような重さだった。
「すまん、大哥」
「私は、お前の哥なのか?」
「いけねえ。余計なことを言っちまったようだ」
ぜえと鳴る息の中、男はまた、微笑んだようだ。
外。黒と、赤。燃え上がっている。
何かが、起きている。
正面。何かが飛んでくる。矢だろう。それぞれ、肩を貸していたとしても掴めたり、弾いたりすることはできた。
「権」
不思議と、男のことをそう呼んでいた。
「少し、待っていてくれ」
そうして、肩から権の身体を降ろした。
何かが、欠落している。体はそれを覚えているが、頭がそれを思い出せないでいる。そんな感覚が、ずっとあった。
体も体で、違いがある。小さく、細い。何より若い。もっと分厚く、大きかった、そして、老いていたはず。権の重さに、苦労をするほどだった。
吸った息を、丹田に入れていく。そうして体のうちで練っていく。その感覚だけは、変わりなかった。
「行ってくる」
二歩。それで、足りた。
男三人。相手は、準備ができていない。
軽く叩くようにした。それだけでよかったようだ。三つの体が、糸が切れたようにして崩折れた。
戟ひとつ、拾い上げた。奥に五人、見えていた。
そこまでは、三歩。
ひとり目。戟の石突で、こめかみを薙いだ。
剣二本、飛んでくる。ほぼ同時。重なる点、そこまでは、見る。
戟を突き立てた。少しの力で、男ふたり、剣を石に突き立ててしまったかのように動けなくなっていた。
体が、回っていた。手に感覚はある。どさりと、ふたりが倒れた。
「誰の手のものか?」
発した声は、若かった。やはり覚えているものとはだいぶ異なる。
返答はない。代わりに槍か、杖。振り下ろしてくる。
その線の中に、点が見えた。ならば、そこに手を添えるだけでいい。
男の体ひとつ、宙に舞った。
それが落ちてくる前に、最後のひとり。怯んでいる。それでも攻める姿勢。
一歩を出してきた。その足が、土を踏みしめる瞬間。
喝。
それで、男は倒れ込んでしまった。
もう一度、内に籠める。それで見えるものがある。
権の呼吸。浅くなっている。
「やはり、見事なもんだな」
権はもう、死を見ていた。
「ここから三里。真っ直ぐで、いい」
「権。お前を、ここには」
「先にいるものに、伝えてくれ。仕事は、果たしたと。無理やりだが、大哥を起こせたと」
にこりと、やはり微笑みながら。
「これでまた、紅月寺は生まれ変わる」
それで、動けなくなった。
まだ生きているが、体が死を選びつつある。後はもう、つらいだけだ。
「権」
呼んだ。振りかぶりながら。
「さらばだ」
苦痛を、与えたくはなかった。
動かなくなった権の顔は、安らかだった。本当に、眠っているようにしか見えなかった。
それで、いくらか溢れた。顔を覆って、泣いていた。
駄目だ、行こう。権の思いを無駄にしてはいけない。
竹林。赤いものは少なくなっていた。暗がりばかりが、周りにあった。
思い出せない。何もかも。それでも、体は何かを覚えている。だから今までのことができた。
ただこれも、守りの術であるはずだった。
ひとごろしの、術ではない。
体を無為に動かしていた。そうすることで、頭のものを呼び覚まそうとした。内に練り上げたものを吐き、あるいは外にあるものを呼び込んだりした。竹を折ったり裂いたりもした。道中で襲いかかってくるものに対し、それをぶつけたりもした。
それでも、浮かんでくるものはない。
「大哥」
三里。歩いたあたりで、呼び止められた。
「あんた、きっと大哥だろう?」
髭面の大男。やはり見覚えは、あってないようなものだった。
「すまない。何も、思い出せない」
「ああ。きっとそうだろうさ。まずは、大丈夫だ」
「権という男。起こされた。それは、死んだ」
言葉に、大男ははっとしたような表情を見せた。
「どのように、死んだ?」
「私が起きたときには、深手だった。仕事は果たしたと。無理やりだが、私を起こせたと。そして」
それを言葉にするのが、少し難しく感じた。
「これでまた、紅月寺は生まれ変わるとも、言っていた」
その言葉に、大男は踵を返した。
「とにかく、行こう」
震える声だった。
歩いている間にも、何人かが詰め寄ってきた。どれもこれも、やはり思い出せないが、自分のことを、大哥と呼んできた。
不意に、ひとつのことを思い浮かんだ。
「鏡はあるか?」
言葉にしていた。
「鏡を、見せてくれ」
大男が、ぎょっとした顔をした。
「いいのか?」
「わからん。ただ、いずれは見なければなるまい。正直に今、その覚悟があるかはわからんが」
「そうだよ。大哥も、見るべきじゃないって言っていた」
「私自身がか?」
「受け止められる自身がない。そう言い残していたよ」
川まで来た。大男が、舟を用意していた。
浅い川。手を差し入れる。冷たかった。その冷たさに、心地よさを感じた。
水面。夜だからか、顔は輪郭しか見えなかった。
そのまま、覗き込み続けた。
冷たい。心地いい。この冷たさが、何かを、きっと。
「大哥。おい、大哥」
目を開ける。大男の顔だった。
舟の上に寝そべっていたようだった。
「びっくりしちまったよ。急に川に飛び込んでさ」
心配した声だった。
「冬だったか」
「そうだよ。そういうことも、まだわからんかね?」
「わからんな。何もかにも」
服は、脱がされていた。何かしらの布や羽織物を、何枚も掛けられていた。寒さはなかったが、震えていた。
内にあるものを練れば、それも、無くなった。
手を見た。明らかに白く、細い。女のそれだ。腕の、肉の付き方もそうだった。あるいは乳房もあるし、男のものも付いていなかった。
「私は、女だったっけか?」
大男は、答えなかった。
「鏡。置いといた。見るといい」
ぼそりと、告げられた。
銅鏡。手のひらぐらいの。手を伸ばそうとしたとき、僅かな恐れが、こみ上げてきた。
ひとつだけ、思い出した。
「白朗。私は、死んでいるな?」
その大男を、そう呼んでいた。
白朗は答えなかった。その身体が、震えていただけだった。
確かその名も、これの兄弟からもらったものだったはずだ。それも、思い出した。これの元の名も。
「どっちがいいかだけ、聞く。白朗か、文二児か」
「文二児だな。それこそ白朗は、死んだひとの名前だもの」
「そうだったな。お前も、大きくなった。文朗と名乗りなさい」
「ありがたく、頂戴します。薛の大哥」
声に涙が含まれているのは、すぐにわかった。
鏡を手に取った。それだけで、思い出せた。
五年から、七年。それぐらいは経っているかもしれない。どこからかは、わからないが。
大半が死んでいる。それでも、自分は死んでいない。何かしらの理由がある。
あるいは生まれ変わったのだろう。古く病んだ身体から、新しい身体に。
「やはり、私じゃないか」
鏡に写ったのは、知らない娘の顔だった。
2.
紅月寺の残党狩りのひとつがやられたらしい。英の手下が、それを掴んできた。
華淳の妾ではあるが、ほとんど参謀、謀臣のようなものだった。英を長とした諜報部隊を各地に潜ませ、あるいはことを起こすこともできた。
丞相である喬倫志が、いやに残党狩りに拘り続けていた。直近の出現、そして招安(反政府組織を帰順させること)から八年ほどが経とうとしている。そしてその大半が行方をくらませるか、朝廷に協力的な姿勢を見せているのにも関わらずである。
先代頭首、薛奇の右腕である楊漢。尚書僕射として才覚を発揮していたが、やはり紅月寺中枢にいたことを理由に弾劾、放逐されていた。能吏ひとり、くだらない理由で捨ててしまったことになり、各所からは反感が湧いていた。
そういうところで、残党狩りがしくじった。
最初、あの李桂や文二児あたりの勇猛な連中を突っついて、手ひどくやられたのだろうとばかり思っていた。しかし情報が明らかになるに連れ、そうではないこと、そしてもっと深刻な自体であることを、華淳は理解した。
喬倫志は、あたりを引いたのである。つまりは紅月寺の次代頭首を。
紅月寺。不気味な集団だった。秘密結社と言っていいだろう。世が乱れるときに必ず現れ、世の乱れを正しては消えてゆく。その乱れは国境の異民族であったり、宮中の不穏分子だったりと様々である。その度、朝廷とは敵と味方をやることになっていた。
その紅月寺を率いるのは、代々の頭首の“生まれ変わり”と呼ばれる存在だった。
華淳と薛奇とは、まさしく敵と味方をやっていた。時に兵を率いてぶつかり合い、時に馬を並べて反逆の徒を平定したりもした。その時の紅月寺の面々とは幾度も顔を合わせており、時には酒を交わしたりもしていた。
その薛奇は、確か五年ほど前に病で亡くなったと、楊漢からの手紙で知っていた。
喬倫志は、わざと紅月寺を目覚めさせたのかもしれない。もしくは二度と目覚めないように。
「陛下が不老長寿を望んでいるなどは、話には聞いていないが」
寝室に英を招き入れ、その件について話していた。
「あるいは、“生まれ変わり”の呪法に用事があるのかもしれないね」
「陛下の享楽ぶりはいささか度が過ぎております。先の招安で“生まれ変わり”の事を知り、興味が湧いたというのは、ありうるかと」
「あれは不老長寿の術ではない。それでも喬丞相としては、剣呑なことだろうな」
言って、ため息ひとつ。
帝と喬倫志は反目し合っていた。政から普段の素行まで、すべてにおいて折り合いが悪いのである。ことあるごとに帝が剣を抜いて、喬倫志の首に突きつけるという事態まで起きていた。
「紅月寺を起こしてしまった。となれば、紅月寺は、喬丞相を狙うかな?」
「あるいは両方。つまりは国、そのもの」
「国家転覆か。それは大ごとだな」
「それだけの力が、今の紅月寺にあるとは思えません。しかし、紅月寺がそのために立ち上がったとなれば、政に不満を持つ民衆が付き従うかも知れません」
「西の意国のような、民衆革命かね」
「まさしく」
英の細い喉が、こくりと鳴った。
大陸西部の意国連邦では、民主共和政権が樹立していた。それも大量の血を流してのものである。
誤った不老長寿を望む暗君と、それを傀儡化して独裁を望む丞相。それを世の乱れと見做して紅月寺が動くとなれば。
「喬丞相のご不安は、旦那さまのこともあるかと」
英が、不意に。
「武功第一。それでも、いち将軍である。前後左右、いえ、諸大将軍でもよろしいほどの武勲があり、人望もある。どこまでも頼れる反面、一番、信用がならない。旦那さまの一声で、国が興せる。それほどのところまで来ています」
「俺は君主の器ではない。あるいは、紅月寺どもも」
「何卒、高位の叙任にお応え下さいませ。雑号のままでは、周囲に不安を与えるだけです」
英の目を覗く。真剣な眼差しだった。
首をひねる。面倒だというのが正直だった。
叛乱を平定するため、西から東へと走り回っていた。功績は認められるため、家禄は上がるが、高位の叙任だけは面倒と思って、辞退していた。
それほど、この国の政治というものには、関わりたくなかったのである。
英の顔。必死、といっていい表情。
「三品、後将軍にしようか」
「ご決意、天晴」
「工作を頼むよ。呼盛殿と組もう」
それだけ、英に伝えた。
齢五十。庶民の生まれが、後将軍まで上り詰めた。美談に映るか、あるいは不穏を呼ぶか。
それでも雑号のままよりは、喬倫志を安心させることはできるだろう。
朝廷に新春の言祝ぎを済ませたあと、華淳は屋敷への道を歩いていたはずだった。
それでも、何かが違った。路地裏、煉瓦張りの壁。どんどん細くなっていく。
「葎。これが帰り道だったかね?」
「いえ、異なります。ですがどうしてか、旦那さまも我々も、この道を選んでおりました」
「なるほどね」
思わず、笑っていた。
誰かに誘われている。
供回り三人、腰の剣に手を掛けながら進んでいく。華淳だけはそうしなかった。剣の気が、先にいるであろうもののそれを察する力を鈍らせる気がしたから。
しばらく歩いて、影ひとつ、見えた。小柄な体が壁に寄りかかっていた。
黒に近い、臙脂か。簡素な長袍。つばの広い、西の国の帽子。髪は黒。後ろで結っている。
きっと、若い女だった。十の半ばぐらいだろう。
「何者か」
則が前に出た。若く、血の気が多い。
女。誰何には答えない。ただそこにいるだけ。
則が、剣を抜いた。構えないまま、真っ直ぐに詰め寄る。
「誰何に答えぬとあらば」
「如何様にも」
剣戟の音すら。
振り出した剣の先には、それはいなかった。
「紅き月に見る夢は」
則の肩の上。両足で乗っていた。
そして片足を、天高く。
「甘く、儚く」
落雷のように。
女は、すっと降り立った。倒れた則を、置き去りにして。
「ふたりは下がれ」
華淳の言葉に、残りは二歩ほど下がった。
「用事があるのは、俺だろう」
剣は抜かなかった。
半身の構え。見たことがある。こちらは、迎え撃つことでいい。
二歩半先。それでも、届きうる。
来た。弾丸のごとく。
見える。右の拳を、鼻先で躱す。体も寄越してきた。そこに肘。
左手が、待っていた。
「薛奇のそれだ」
動かそうとした右足。膝頭に、足の裏を合わせた。
離れる。一歩半。
こちらから詰める。踏み込み、体重をかけた左足に、足が絡んできた。
崩される。倒れ込みながらも、振り下ろされる拳は見えていた。背中の方に流して、また距離を離す。
石畳。割れていた。
また二歩半。飛んでくる拳。それに、背を向けるだけだった。
肩が、女の肋に突き刺さった。苦悶の声。反吐。
そのまま、背中に裏拳。戻さずに、肘。振り上げる左の手首で、挟み込むように。
女の体が回った。天地、逆。顎に手のひらが、届く。
「死にぞこないの、出来そこないか」
膝を落とすようにして、振り下ろした。
石の感覚だけだった。
五歩。離れていた。
女。かがみ込み、拝礼していた。
「紅月寺。杜小楓と申します」
可憐と言っていいだろうか。整っている顔つきだった。
「華将軍に、お頼み申す」
「命乞いかね?」
「まさしく」
合図。
控えていたふたりが、抜刀する。小楓の横、首に剣を突きつけて、並んだ。
「先代、薛奇が亡くなられて久しく。我ら紅月寺、来たるべき動乱に備え、新たなる“生まれ変わり”を用意しておりましたるところ、何らかの勢力の襲撃により、私以外の“生まれ変わり”は死亡。私も術式の途中に覚醒し、正しく生まれ変わること能わず。薛奇と知友のあった華将軍に、この身を安んじていただきたく、馳せ参じた次第にございます」
目が、何も語りかけてはこなかった。
「小楓殿は、薛奇殿とはお会いできるかね?」
「はい。薛奇より、華将軍への帰順も指示されました」
「よろしい。着いてきたまえ」
もう一度、合図をした。それで、ふたりは剣を収めた。
屋敷への道は、開けていた。
「杜性とあらば、癸州の出かね?」
「わかりません。私には、私の記憶も、薛奇の記憶もないのです」
「術式の途中で目覚めたと言った」
「はい、それ故でしょう」
「起こしたのは、誰かね?」
「権という男でした。それは、死にました」
「ああ、あの」
言われて、それしか言えなかった。
長く斥候や伝令、あるいは外交の使者を担当していた男である。もとは治州穆林県の盗賊だというのを、本人から聞いていた。剛毅かつ誠実であり、華淳としても頼りがいがある男だった。
あれが死んだか。
寂しいものが、胸に湧いていた。紅月寺も、人が少なくなったものだ。
屋敷に戻り、英を呼んだ。離れに小楓と姿見を入れるようにだけ、伝えておいた。
「英は、見るのははじめてだったね?」
「はあ、きっとはじめてだと思います。先代の薛奇さまともお会いしたこともございませんし」
「そうだった。不思議で、貴重なものだから、見ておくといい」
英はずっと、怪訝な表情だった。
離れ。暗がりの中、姿見の前で小楓は座っていた。
「はじまっているかな?」
「いつでも」
「それでは、頼む」
卓の上に竹簡を広げて、華淳はそう告げた。
小楓が気を練っていく。大きく、鼻から丹田へ、息を入れていく。ふうと吐いたと息に、熱がこもっていく。
その白い肌に赤みが差したあたりで、姿見の中の小楓の姿に、揺らぎが生じた。
「薛父。華将軍、御前にございます」
そこまでは、小楓の声だった。
俯いた小楓。対して、姿見の中の小楓は、じっとこちらを見据えていた。
目は、男のそれであった。
「薛奇殿。お久しゅうござる」
「久しいな、華将軍。小楓殿が世話になっておる」
女の声。しかし、堂々としたもの。朗々と響き渡った。
「旦那さま、これは」
「これが、“生まれ変わり”だ。鏡の中だけで、それに会える」
「小楓殿は、不完全な“生まれ変わり”だ。俺以前の“生まれ変わり”とは、未だ巡り会えておらん」
「まずは、それを何とかする必要があるわけだ」
華淳も、聞いた話程度でしか、知識はない。
“生まれ変わり”。外法のもの。あるいは、超克者。歴代の紅月寺頭首の記憶を受け継ぐ、異端の存在。
そしてそれらは、鏡の中に現れる。今こうやって、華淳と英の眼の前にいるように。
「喬丞相が、紅月寺の生き残りを狙い続けている。小楓殿が目覚めたのは、それのあたりを引いたからだろうな」
「世に乱れはなし。然れども、為政者が我らを脅威とみなすならば、我らは身を守らねばなるまい」
「楊漢殿とは会われたかな?」
「未だ。あれも朝廷を放逐されたと聞いた。今はどこかで私塾でもやっておるのではないかな。まあ、呼べば来る男ではあるから、心配はしていない」
「それで、俺を頼ったのは何故か?」
「俺が遺言を遺していたはずだ。それを教えていただきたい」
「なるほど。確かに授かっていた」
それは楊漢からの手紙に綴られていた。不思議な文言だったので、今でも容易に思い出せる。
「鏡は二枚ある」
華淳の言葉に、姿見の中の小楓がはっとした表情を見せた。
「喬丞相が、我らの生き残りを狩っていると申したな?」
「ああ。きっと急がなければならんことだ。そうでなければ、“生まれ変わり”の呪法は、きっと再現できなくなる。おそらくは、それにまつわることだろうから」
「かたじけない、華将軍。まこと、頼むべきは貴公であったな」
「小楓殿は、なんとか逃がそう。その先、俺が協力できることは少なくなる。あるいは敵として見えることになるだろう」
「それで構わん。華将軍にも立場があろうからな」
姿見の中の小楓。いくらか表情が和らいだ。
「権が死んだと聞いたよ」
「ああ。俺と小楓殿を起こしてくれた」
「あれは、いい男だった」
「惜しむことを。いや、悲しむべきことをしてしまった。しかし、あれが気を回してくれなかったら、もっとひどいことになっていただろうから」
「少なくなったな。俺たちの知る、紅月寺というものは」
「あれの弔いのためにも、我らは立ち上がらねばならん」
「ああ。ならば次は、戦場で」
「そうだな。お互い、息災で」
そうやって、鏡の中の小楓は揺らいだ。
ごとりと、音がなった。姿見の前の小楓だった。英がその身体を抱きとめていた。
「華将軍。かたじけのうございます」
息も絶え絶えといった様子だった。あれだけの時間でかなり消耗している。やはり呪法が完璧でないから、負担は大きいのだろう。
小楓。そうやって、静かに瞼を閉じた。少しもしないうちに、寝息を立てはじめた。
「しばらく、寝かせてやっておくれ」
「これが、“生まれ変わり”」
「そうだ。先代、薛奇殿の時に、何度か見せてもらっていた。小楓殿はそれの不完全なものだから、きっと消耗が激しい」
不意に、英の手が動いた。光るものを持っている。
「よしなさい」
「しかし、旦那さま。危険です」
「代々の朝廷は、これを御してきた。どうして我らにできないことがあろうか」
そこまで言って、英はそれを仕舞い込んだ。
わからなくもない。華淳も、何度も薛奇を殺そうとした。それほど危険なものである。それでも心を通じ合わせ、並び立つことができた。
それを、喬倫志たちは呼び覚まし、利用しようとしている。愚かという他なかった。
華淳としても、身の振り方を考えなければならない時が来たのかもしれない。
3.
成秋は小楓とふたり、夏匠山を登っていた。薛奇の墓に行きたいというので、案内をしていた。
麓から、およそ三日ほどの道のりである。
薛奇と妾との子だった。薛奇が紅月寺にいたことも知っていたし、薛奇の臨終の際、それにまつわる遺言も授けられていた。
薛奇が死んでからは、母と共に文二児という人に匿われた。その人から、小楓のことを頼まれた。
父の“生まれ変わり”。ただ、その俤は感じなかった。
成秋は、紅月寺についてはあまり知らない。人づてに、世直しをする集団と聞くぐらいだった。父である薛奇がそれの頭首だったというのも、ほとんど臨終間際に教えてもらったものである。
眼の前の小楓は、ほんとうに、ただの女の子だった。
「このあたりから、また険しくなります。少し休まれますか?」
「大丈夫。私には、功夫があるから」
にこりと笑ってくれた。それが嬉しかった。
歳の頃は同じくらいだろうか。凛々しくも可憐な顔つきだった。同世代の女と会うことは少ないので、成秋はいくらか緊張していた。小楓の記憶が曖昧だということもあり、道中の会話はあまり弾まないが、それでも気まずさがないだけましだろう。
岩肌。鉄の杭に縛り付けられた縄をつたいながら進んでいく。場所によっては、小楓の手を取りながら。白く、小さな手。綺麗だった。心が揺り動かされるほどに。
年頃の娘そのものの、小さな体。それでも険しい山道に音を上げることもなく、すいすいと進んでいく。功夫の心得があるとはいえ、生半にはできないことだろう。
抜けた先、暫く進むと、竹林に入った。今日はここで夜を過ごすのがいいだろう。
羽休めしていた雉を仕留め、夕飯にすることにした。
「成秋は、弓が上手いのだね」
「弓の名人を名乗る爺さまに、教わりました。功夫のことはわかりませんが、これだけは負ける気がありません」
ほんとうに、それだけは自信があった。小楓は、微笑んでくれた。
できるだけ、色んな話をした。家族のこと。薛奇のこと。これまで会った人のことなど。小楓は、薛奇としてのことも、自分自身のことも、あまり覚えていないようだったから、そういうことを聞きながら思い出して欲しいというのがあった。
それでも小楓は、自分のことを、つとめて語ろうとはしなかった。
「きっと、成秋は」
夜の帳が下りきったころ。お互いの寝床に入ったあたりで、小楓が言い出した。
「いいひとなのだと思う」
「そうなのでしょうか。自分のことは、よくわかりません」
「私だってそうだよ。でも、そんな私に、成秋はよくしてくれる。色んな話をしてくれたり、ごはんを作ってくれたりする。だからきっと、いいひとなのだと思うよ」
「ありがとうございます。そして、そうだと思いたいです」
「ありがとう、成秋」
少し、笑ったようだった。それがどうしてか、嬉しかった。
“生まれ変わり”。どういうものなのだろう。人から聞いたその話は、正直によくわからなかった。記憶と意思を受け継ぐ。それは、自分自身がそうでなくなるという意味ではないのか。それが何百年という単位で続いてきた。それだけの価値と意味があるのだろうか。
そして、小楓のような、小さな女の子が、その宿業に組み込まれていいものなのだろうか。あるいは自分が組み込まれたとしたら、父である薛奇はどう思うのだろう。
成秋が考えても、それは答えが出なかった。
不意に、何かの気配で目が覚めた。それは、小楓も同じようだった。
何かの、けもの。じっと、こちらを見ていた。
身を乗り出した小楓。成秋は、とっさにその身体を抱きとめていた。手で口をふさぐ。
「虎です」
ふたつの眼。光っていた。
大きな虎。飢えてはいない。縄張りに近づいてしまったか。
小楓は、震えていない。怯えてはいないようだった。けものは、他のものの怯えに反応する。
しばらくの間だった。
ふたつの光が、ゆっくりと動いた。そうして、それはいなくなった。
気配がいなくなってから、成秋はようやく呼吸ができるようになった。
「成秋」
くぐもった声。
はっとして、手を放した。小楓を抱きとめていた腕は、じっとりと汗が浮いていた。きっと、力を込めすぎていたのだろう。
「申し訳ありません、小楓さま」
「ううん、大丈夫」
闇の中。それでもきっと、小楓は笑ったようだった。
「成秋、かっこよかった」
言われて、顔が熱くなった。
思い返せば、女の子に対してとんでもないことをしていた。後ろから抱きついて、口をふさいで、だなんて。ふしだらどころの話ではない。
それを、かっこいいだなんて。
飛び込むようにして、寝床に潜り込んだ。目をつむり、なんとか眠ろうとした。何度となく小楓の柔らかさが蘇り、それを邪魔してきた。
それでも、眠れたようだった。夢を見たかは覚えていない。
「おはよう、成秋」
目が覚めると、眼の前に小楓の可憐な顔があった。それで跳び上がっていた。
「小楓さま、どうして」
「成秋、覚えていないの?」
「ええと、何をですか?」
小楓が、どこか残念そうに目を伏せた。どうしてか、その身にまとった長袍は、ところどころが乱れていた。
まさか。俺は、なんてことを。
「なんてね」
少しの間を置いて、小楓が吹き出した。
「昨日、かっこよかったから、おかえし」
「脅かさないで下さい。俺だって男なんですから」
「男だから、女の私に対して、えっちなことを考えていたんだ?」
「そんなことは、決して」
「成秋になら、いいよ」
微笑み。とろんとした顔。どきりとした。
「成秋になら、何されても、いいから」
手を、取られた。小さく薄い掌。細く白い指。
導かれる。心室、いや、乳房の、上。
心音と、温かさを感じた。
「駄目です」
それでも、なんとか引き剥がした。背中を向け、赤くなっているであろう顔を見せないようにした。
「駄目?」
「駄目です。そうやって抱きついても、そんな声出しても、駄目なものは駄目です」
「なんで?」
「小楓さまは、紅月寺の頭首なのです。俺とは身分が違いすぎます」
「じゃあ、頭首として命じようかな?」
「そういう、ずるいことをするなら、もっと駄目です」
「ちぇっ」
小楓は、楽しそうに笑っていた。背中に感じる温かなものが、成秋に安らぎとそうでないものをもたらしていた。
地図と場所を照らし合わせた。今日の夜には、辿り着けそうだった。
「鏡は二枚あると、華将軍は仰っていた」
進みながら、小楓がそう言った。
「父さんは、水鏡を墓に入れよとも、言っていました」
「その水鏡が、きっと二枚目の鏡なのだろうと思う。そしてそれを、薛父はこの山の奥に隠された」
「それほどの価値があるものなのでしょうか?」
「もしくは、こういう事態を予期していたのかもしれない」
小楓の表情から、感情は読めなかった。
「薛父が亡くなられた五年前と今で、何が異なる?」
言われても、何も出てこなかった。それほどに、成秋たちは歳を重ねていないというのも、ひとつにある。
あと一合登れば、というぐらいで、日が傾きかけていた。
「もう少しです、小楓さま。お疲れではないですか?」
「大丈夫。それより」
険しい顔だった。あちこちに目を走らせている。
「誰か、来ている」
言葉に、既に弓を掴んでいた。
「少し、迂回しながら進みます」
「お願いする」
顔を合わせる。小楓が頷いた。
注意深く進んでいく。確かに、人の気配がする。それも、複数人。
この山は、ほとんど禁足地みたいなものだった。そんなところに、わざわざ人が来るはずもない。
日が暮れたころ、ようやくに薛奇の陵墓の前まで来れた。墓の入口の前には、三十人ほどがたむろしていた。
すべて、具足を着込んでいる。軍人だ。
「切り開く」
「お待ち下さい、小楓さま」
出ていこうとする小楓を、成秋はなんとか引き止めた。
「俺が行きます。父の墓を荒らしているのです。そうやって、気を引き付けます」
「そのうちに、私が行けと?」
「大丈夫です。引き付けるだけですから」
小楓の顔には、ためらいが強く出ていた。
返答も聞かず、成秋は身を乗り出していた。
「そこで何をしておられる」
松明に向かって声を掛ける。何人かが振り向いたようだった。
「これなるは我が父、薛成新の墓にござりますぞ」
「子どもが、こんな時間に何をしている」
「近頃は物騒です。麓では墓荒らしだとか、空き巣が増えております。父の墓も心配になり、見に来たところでした。皆さまは軍人さんと見えますが、ここで何をしておられますか」
「子どもに答える必要はない」
「親の墓を荒らされて、黙って見ている子がありましょうか」
張り上げた。きっと、震えていた。それでも、そうするより他なかった。
影ひとつ、するりと墓の中に入り込んだ。それをみとめて、成秋は弦を引き絞った。
「答えぬとあらば」
「待て、小僧。我らに弓引けば」
その言葉と、同時ぐらいだった。
悲鳴。墓の中からである。
「鼠かっ」
「小僧、謀ったな」
振り向いた兵の眉間。放った矢は、そこに突き立っていた。
一瞬の混乱。それで十分だった。成秋は必死になって、墓の中に飛び込んだ。
扉を閉めている時間はなかった。
「小楓さま」
「こっちだ、成秋」
声のする方に駆けた。陵墓は広く、最奥までは三室ほどある。
最奥の埋葬室。横たえられた薛奇の棺は、開いていた。そうして小楓は、ひと振りの剣を眼の前に掲げて、じっとしていた。
「水鏡」
その言葉に、背筋に電流が走った。
これで、ほんとうの“生まれ変わり”になる。
「時間を、稼ぎます」
「成秋、お願い」
落ちていた剣を拾い上げ、入り込もうとする兵の足を凪いだ。剣の覚えはないが、鉈と同じようなやり方なら使える。
「こいつ」
三人ほどを凪いだぐらいで、横合いから思いっきりに蹴っ飛ばされた。呼吸ができないほどに痛い。
「女をやれ」
「させるかっ」
寝そべった状態で、成秋は弦を弾いた。悲鳴が上がる。
痛み。踏みつけられた。そうして何人かがまとわりついて、引きずり起こされた。
「この、くそがき」
憤怒の表情の男。剣。振り下ろされた。
痛みだけ、あった。鎖骨が、剣を押し留めていた。
もう一度、振りかぶっている。
「成秋っ」
その声は、小楓のものではなかった。
何かが吹き荒れた。そうとしか、表現できなかった。気付けば骸五つ転がっており、誰かに抱きかかえられていた。
「よくやった、成秋。流石は俺の息子だ」
聞き慣れた声だった。そして、久しぶりに聞く声だった。
霞む視界の中、大きなひとが見えた。
「父さん」
それだけきっと、言えたような気がした。
4.
先遣隊が墓に到達した。そこまでは情報として入っていた。そこからのやり取りがうまく行っていない。
黄瑾は焦っていた。兵糧は最低限以下。兵站は繋がっていない。しかもこの山奥である。兵数二百とはいえ、これ以上の無理はできないというほどの強行軍だった。
軍部ではなく、喬倫志の独断で動かした軍勢である。現地に駐屯している州軍に悟られれば、何かとまずいことになる。
黄瑾は元来、戦場の人間である。政治の話は苦手だった。それが仇に出て、未だに勢力としては大きくなれていない。兵は精強だが、自分と同じく、戦争以外での使い道はなかった。
喬倫志に取り入るつもりで、紅月寺の生き残り排除の話を引き受けた。そして今こうやって、兵に無理強いをさせてしまっている。
「斥候を、もう一度」
「まだ、先に送ったものが帰ってきておりません」
「それでもいい。何が起きているか、確かめさせろ」
声を荒げていた。
兵の不満は、肌に感じるほどに膨らんでいた。ただひたすらしんどいだけの行軍の果てに、墓参りにでも向かわされたのかとでも思われたら、反乱どころでは済まされないだろう。
紅月寺先代頭首、薛奇の墓。そこを破壊しろとの命だった。そこに何があるかは知らされていない。
先遣隊からの連絡がない。すでに反乱したか。あるいは別の何かと衝突したか。
「先遣隊、何らかの戦力と交戦中」
戻ってきた。そして、思わぬ言葉が返ってきた。
「規模と所属は?」
「不明。ただ寡勢。そして精強です。押されています」
「何とな」
驚きの言葉とは裏腹に、身体は戦意に猛っていた。あるいは喜びか。戦うしか能のない連中である。遂に、それの出番が来たのだ。
短戟を掲げる。それで、喚声が上がった。
「進めい。紅月寺次代頭首となれば、千金の首ぞ」
叫んでいた。
高山。全員、軽装である。馬も連れてこれなかった。持ってこれて、鉾か戟と、あとは短弓ぐらい。それでも数がある。
紅月寺、そして薛奇。何度も戦場でぶつかった。騎馬でなく、こうやって歩行でも。手の内はお互いに知っているというところまで、戦いあった。
しかし相手は老いぼれの代替わり。対してこちらは歴戦の勇士。経験の差だけで有利が取れるほどだった。
戦術がどうこう、功夫がどうこうなど、知ったことか。ここですり潰し、何度でも死なせてやろう。
見えた。松明。揺らいでいる。剣戟と、悲鳴。
「敵。女、ひとり」
言われた言葉に、眼の前が真っ赤になった。
女ひとり相手にして、この黄無敗が手こずっているとな。
「袁順子、行けい」
「おう」
傍に控えていた、ひときわに大きい姿が前に出た。袁順子。兵の将としても強いが、ひとりの兵としても抜群に強い。
「火矢と鉄包。投げ入れや」
吠えた。闇の中、いくつもの光が奔った。
時折、光が爆ぜる。火が上がる。その中で、影ひとつ踊っているのが、時折見えた。
背筋に、怖気が走っていた。
「女子と申したではないか」
「はっ?」
「あれは薛奇じゃ」
言いながら、身体を前に出していた。
踊る影。女の身体ではない。もっと大きく、分厚い。そして何より疾かった。兵の間を縫うようにして、それが駆け抜けてゆく。そうして通ったあとには、骸しか残されていない。
「薛奇殿とお見受けいたした」
影。眼の前。短戟ふたつ、思い切りにぶっつけていた。
離れる。暗がりの中、目が冴えてきた。
「我こそは黄元徳。黄無敗とは、我なるぞ」
腹からぶっ放していた。そうしなければ、縮み上がりそうだったから。
「無敗に土を付けたるは、どこの誰なるかな?」
影が揺らぐ。篝火に照らされ、影がひときわに焦げた。
女。歳の頃、二十もない。ほんとうに、幼い娘。
それに末娘の顔を重ねそうになり、黄瑾は自分を叱りつけた。
剣の光。真っすぐの突き。短戟の月牙で受け流す。左の短戟を振り下ろすが、感触はない。回り込まれたか。
肩に感覚。だが浅い。
「水鏡に映るは、紅き月」
女の声、後ろから。
振り向きざま、凪いだ。それでも、何にもぶつかっていない。
「将軍、お下がり下さい」
何人か、割って入った。それもすぐに、悲鳴に変わった。
骸と血しぶきの間、見えたのは大男。
やはり、薛奇。
袁順子が入ってきた。特注の鉄棍。振り回す。薛奇はそれをうまくさばきながら、自分の距離に持っていっている。そうして下腕や足を攻めていく。
うめき声。それでも、袁順子は大きく振りかぶった。
その、振りかぶった鉄棍の先に、影は佇んでいた。
「紅き月に見る夢は」
地面に降り立ったようにしか、見えなかった。
「甘く、儚く」
それでも、袁順子は断末魔を上げ、ずしりと倒れ込んでしまった。
その影は、薛奇ではなかった。見知らぬ男だった。
これが、紅月寺。これが、“生まれ変わり”。異端のもの。超克者。顔も名前もない、輪郭だけの存在。誰にもなれるという、摩訶不思議。
これに、どれほどの兵がやられたことか。
「死にぞこないがっ」
言葉とともに、短戟ふたつ、投げつけていた。
「我ら、紅月寺」
躱される。それでも、近づけてはならない。
剣を抜こうとした。手を腰に回したところで、何かに気付いた。
佩いた剣が、どこにもない。
「すべて一夜の夢なれば」
女の声。肩に、感触。
見上げたところまでは、きっと覚えていた。
視界が、回る。それも、高いところで。
「まどろみのうち、すべてを忘れるまで」
薛奇の声でも、女の声でもなく。
首のない、自分の身体が、眼前に突っ立っていた。
5.
紅月寺再興の知らせを受け、王高越はすぐさまに駆けつけていた。薛奇が死んでからも財と人とを蓄え続けたので、琢州の官軍三千程度を動かすこともできそうだった。
あれから、朝廷の官吏として地方再生を任されていた。地方の荒廃と汚濁は想像以上であり、ともに来てくれた廿礼がいなかったら、やっていけなかっただろう。廿礼が残ってくれるというので、王高越は心置きなく出立することができた。
今世の“生まれ変わり”である小楓とは、すぐに打ち解けることができた。男ながら女の心を持つ王高越と、“生まれ変わり”として男や女の心を備えた小楓である。すぐに王高越の性分や、今までの境遇についても理解をしてくれた。
「鏡はどう?ちゃんと見れてる?」
「うん。薛父以外にも、何人か会えた。昨日は、薛父の二代前の、張浚というひとだった」
「張浚さまのお話は、薛哥から伺ってたわ。背が高くって、色男だったって」
「そうかなあ。ちょっと声が甲高くて、あまりいい人じゃなかったな。功夫が巧みだというらしいから、ちゃんと話を聞かなきゃとは思ったけど」
楊三嬢が用意した菓子をいただきながら、庶務を片付けた小楓と世間話をしていた。再興したとはいえ、軍備や文官が整うまでは、基本的には暇である。
“生まれ変わり”として完全なものになったとはいえ、どうやら薛奇としての意識がまだ強いらしく、小楓の所作のところどころは、男のそれが強かった。人が揃うまでは、身の回りの世話は王高越と楊三嬢とですることにしていた。
「ところでさ、小楓は好きな人とかいるの?」
「成秋」
にっこりと笑いながら。隣で楊三嬢が口元を抑えて赤くなっていた。
「夏匠山で、虎から守ってくれた。それに、禁軍に襲われたときも。本当にかっこよかったんだ」
「へえ。薛哥に似ず、なよっとしてると思ったのだけれど、やるじゃない。で?その後、どうなの?進展した?」
「ううん、まだ駄目みたい。ちょっと強めに迫ってみたんだけど、拒まれちゃった」
「それは残念ねえ。でもどうせ女なら、いい男に口説かれて、抱きしめられてみたいじゃない?ちゃんと、そういうふうに持っていかないと」
「やっぱり、そう?ちょっと、がつがつ行き過ぎたかなあ」
「ちょっと、何の話しているんですか」
「あら、成秋ちゃん」
見やれば、真っ赤な顔の成秋がいた。かなりの傷を負って療養していたのだが、ようやく動けるようになったようだ。
「あんた、駄目じゃない。女ひとり誑かしておいて、迫られたら迫られたで二の足踏むだなんて。手を付けるんなら、最後まで一直線で駆け抜けなさいよ」
「ちょっと待ってください。本当に、なんて話をしてるんですか、小楓さまったら」
「成秋がかっこよかったって話。弓術だけでなくって、身体もしっかりしているんだ。虎が出たとき、私がやっつけてやろうと思ってたんだけど、後ろから抱きとめられちゃってさ。思ったより力強くって、私、どきっとしちゃったんだあ」
「そうなんですか?成秋さまったら、大胆なのですね」
楊三嬢が赤い顔できゃあきゃあ言っている。あのくそ真面目な楊漢の末娘であるが、話してみると、まだまだ年相応の娘といった感じだった。
「あんまりいじめてやらないでくれよ。お互い、まだ子どもなのだから」
のそり、といったふうに、成秋の後ろから大きな姿が出てきた。文朗。かつての文二児である。
「楊漢殿より文。そろそろ合流できるとのことだ」
「父上が?」
「私塾は楊延黃殿に任せるとのことだよ」
「よし、本格的になってきたわね。あとは李桂のおっさんが合流できれば、中核は完成だわ」
「軍はまだ早いんじゃないか?そもそも何を成すべきかが決まっていない」
文朗が腕を組みながら。猪突猛進を絵に描いたやつだったはずだが、薛奇が死んでから時間が経って、随分と大人になったようだ。
「衣食住については王高越殿が来てくれたからよしとして、何をやるにしても、世論や朝廷を動かせる特殊工作員が必要だ。白朗哥がいなくなってしまったから、だいぶんに難しいことではあるのだが」
「魏賢や盧宣は?峡南河の修繕が終わっているから、船が使えるわ。となれば虞班鍾殿みたいな職人も必要よね」
「そういう感じで、目下必要なのは人材だ。そのために、まずは何を成すべきかを定めることが重要だと思うのだよ」
「ありゃま。文二児にそんなことを言われるだなんて」
「俺も、こんなことを王高越殿に言うとは思ってもいなかったよ。ともかく楊漢殿だ。あの方なら広い視野を持っていらっしゃるから、何をすべきかはわかるはずだ」
それを言い残して、文朗と成秋は去ってしまった。
「何をするべきか、か」
「来たときにも言ったけど、地方の腐敗ぶりは相当よ。辺境の琢州や謙州だけでもひどかったんだから、余所はもっとでしょうよ。今の政治の仕組みを変えないと、中央と地方の貧富差はもっと広がるわ」
「夷波唐府の西洋化も性急です。あるいは大陸進出もありうるかと噂になっているほどに」
「それを言ったら、やっぱり意国よ?国体が変わってから、何をしでかすか、まったく読めなくなったもの」
「陛下と喬丞相。そこが変わらない限りは」
「ふたりとも、大丈夫」
割って入った小楓の声は、いたって静かだった。
「もう、思いついているから」
「ちょっと、小楓?」
「あとは、今までの“生まれ変わり”の皆に承諾を得るだけ。今日から、薛父から順に説得していく」
そう言って、小楓も奥の間に消えていった。これから鏡を見るのだろうか。
残された楊三嬢とふたり、首をひねっていた。
今回の決起は、偶発的なものだった。喬倫志が紅月寺の生き残りを殲滅していく中で偶然見つけた、次の“生まれ変わり”。だから今は身を隠し、守ることだけを考えていた。
古くは平原の襲来には確認されていたという紅月寺。薛奇の折は、伊韓達らの反乱や、外戚の排除などが目的だった。
今のところ、国難と呼べるほどのものは見当たらない。地方の腐敗にしても、廿礼をはじめとした若い文官が増えてくれれば、なんとか対応しきれるだろう。夷波唐府や意国も、不穏ではあるものの、今のところは噂止まりである。
しばらく小楓は、鏡を見ることを繰り返していた。そうやって、今までの“生まれ変わり”と対峙しているのだろう。
鏡像との対話。何度か見たことがある。ほんとうに、不思議なものだった。
次の日に楊漢が到着する、といったぐらいで、小楓に頼んだ。薛奇と話がしたいと。いくらか考え込むような様子を見せてから、小楓は承諾してくれた。
鏡の間。姿見が一枚と、下女が何人か。部屋の隅には、竹簡がうず高く積まれていた。
「そういえば」
小楓が。
「王高越も、薛父の遺言を授かっていたのだよね?」
「ええ」
「聞いてもいい?」
言われて、少し戸惑った。その内容は、まったく意味のわからないものだったから。
「鏡に自分が見えたら、逃げろ」
「自分のようで、自分でないやつ?」
「ええ、そう。私には、まったくわからなかったのだけれども」
「ありがとう。気を付ける」
背を向けたまま、小楓がはにかんだ。
用意が整えられていく。しばらく、王高越は離れたところからそれを見ていた。小楓の気が、部屋の中に渦巻いていくのが、肌で感じることができた。
これが、やはり“生まれ変わり”。薛奇のときと同じく。
「よう、王高越」
不意に。聞いた声だった。
「薛哥?」
「お前が、呼んだのだろう?」
「ええ、ええ。今、行くわ。顔を見せて頂戴、薛哥」
足は、動いていた。ほんとうに、心から急いていたと思う。
姿見の前。小楓は、ずっと姿見を見ていた。
「ああ」
姿見の中に、それを見た。髪も髭も白い、大翁。穏やかな瞳。最後に見た姿と、ほんとうに同じ。
薛奇。
「お懐かしゅうございます」
それだけ言って、王高越は咽び泣いたのだと思う。
「お前は、綺麗になったな、王高越。お前は今でも、男よりも女よりも気高く、そして美しい」
「ありがとうございます、ありがとうございます、薛哥。私は、寂しゅうございました。薛哥が亡くなられて久しく、ほんとうに、ほんとうに寂しゅうございました」
「俺が死ぬときに、泣かぬと決めたであろう。誰よりも美しくあるためにと」
「はい、はい。ほんとうに、つろうございました。泣かぬということは何よりも。またこうして薛哥とお会いできましたゆえ、王高越は涙いたします。あなたの前では美しくなくていい。男でも、女でもなくていい。ただひとりの人間でありたいがために」
その言葉に、姿見の中の男は笑ってくれた。
東の海沿い、解州の商人の子として産まれた。嫡男だった。家は裕福で、食べるものには困らなかったし、教育にも恵まれていた。
自分のそれに気付いたのは、かなり幼い頃だったはずだ。男としての身体と、女としての心。そしてそれに蝕まれ、苛まれ続けた。
行商の隊列に紛れ込んで、家を出た。誰もそれを理解してくれなかったから。
行商では、見世物として扱われた。芸事を仕込まれ、あるいは男の腕の中にあることを強要された。心は女でも、身体はどこまでいっても男のそれだった。だからもたらされるのは苦痛ばかりだった。
行商を襲ったのは、紅月寺だった。積み荷の中に、役人への賄賂が入っていたのだという。
そうして、薛奇たちと出会った。
新鮮だった。嬉しかった。王高越のことを理解してくれるひと。もしくは理解しようとしてくれるひと。理解できなかったことを悔み、懺悔してくれるひと。あるいは同じ悩みを抱えるひと。そういうひとたちが、紅月寺にはたくさんいた。
そして薛奇。誰よりも王高越に理解を示し、そして道を示してくれた。男よりも女よりも気高い、ひとりの人間であれと。
紅月寺、そして薛奇。それが、王高越にとってのすべてだったのだ。
「小楓からは、聞かれましたか?」
「うむ。俺は、それでよいと思った。この国と、紅月寺を知る、すべての人にとって」
「ならば、私はこのこを信じます。このこと、このこの中にある薛哥たちのご意志に従います」
「また世話をかけるな、王高越」
「我が心の火は、紅き月とともに」
「うむ。長らく、頼むぞ」
「そして、薛哥」
鏡に、手を触れた。その指先に、鏡の中の人は、手をかざしてくれた。
「また寂しいときは、薛哥にお会いしたく思います」
涙は、流れ続けていた。それでも、視界と心は澄み渡っていた。
何かの倒れる音。小楓。それで、鏡の中の薛奇も消えた。
「よかった」
抱きとめた腕の中で、小楓が笑った。大汗をかき、息を切らしていた。
「はじめて、私、王高越の役に立てた」
「生意気言うんじゃないわよ、小娘が」
泣きながら、それでもつとめて笑ってみせた。
明くる日。楊漢が十数人を引き連れて現れた。すべて、私塾をやっているときに誼を通じたものたちだという。やはり人脈づくりに関しては、右に出るものはいない。
先の紅月寺では、楊漢が戦略と人材、王高越が兵站、李桂が軍事を任されていた。これで主要三枚のうち二枚が揃ったということになる。
「紅月寺再興の報は、市井でも広く聞かれておる」
五年ほどで、楊漢はすっかり老人のようになっていた。確か薛奇よりひとつふたつ下だというから、年齢としては老人になるか。それでも背筋だけはしっかりと伸びていた。
「とはいえ、ろくな噂は聞かない。平原を越え、意国に攻め込むだとか。宮殿に乗り込んで、民主共和の旗を掲げるだとか」
「どれも性分じゃあないわよね」
「ともあれ、身を守るためだけに、禁軍十万を相手取ることはできまい。何かしらの大義名分が必要になる」
「次のお世継ぎってのは、どう?」
「やはり、君なら同じところにたどり着いていると思った」
皺の中に隠れた小さな目が、ぎらりと光った。
「陛下と安美人との間に、お子がおられる」
「確かなのね?」
「征海王殿下は、陛下の覚えがめでたくないのもある。そのお子を御旗に、今の皇室をあらためる」
「安美人は、前皇室の血筋よね?政変で追いやられ、長らく迫害されていた。先ごろ名誉回復して、美人(公妾)に取り立てられたという話だったけれど」
「無辜の罪だということにすれば、名分も立とうよ」
前皇室のことは、史書の中では悪しざまにしか書かれていない。およそ二百年前のことだから、当時のことを知るものなど、誰もいない。
確かにまあ、皇室と佞臣を排し、政を改革するには、ちょうどいいお題目かもしれない。
「それで」
切り替えるように、楊漢は大きく息を吐いた。
「頭首閣下は、如何かね?」
「いいこよ?少なくとも、私は気に入った」
「“生まれ変わり”は英傑でなくてはならぬ。薛奇さまのように」
「その薛哥の記憶と意思を受け継いでいる。つまりは、志をも」
「そのための“生まれ変わり”でもあるからのう」
「自分で答えを出すんじゃないわよ」
相変わらずの応酬で、王高越は懐かしさと嫌気の両方を覚えていた。真面目な割に口も達者だから、相手をしていて疲れる。
堂に全員を集めるようにだけ、小楓には言われていた。幹部、およそ二十。次席の将校たちも二十程度である。兵数はこれの百を掛ければ妥当といった具合だから、勢力としては現在のところ適正だった。
「紅月寺頭首、杜小楓」
幹部と将軍たちの前に現れた小楓は、毅然としていた。
「これより、ことを成す」
その言葉に、おお、と喚声が上がった。
「我ら紅月寺、世を正すためのものなり。正すべきは宮中の乱れ」
その声に、王高越の背筋が伸びた。
やはり宮殿。つまりは、帝と喬倫志。
「我らの力を陛下に知らしめた後、その御前に馳せ参じ、そこで」
振り返る。壁に掛けられた紅月の旗。
小楓。腰に佩いた剣を抜いた。
ひとつ、笑ったようだった。
「紅月寺を、解散する」
(つづく)
◆登場人物
【紅月寺】
・小楓:杜小楓とも。記憶を失った少女。
・薛奇:故人。先代頭首。
・権:紅月寺の一員。小楓を覚醒させた。
・文朗:文二児とも。紅月寺の猛将。
・成秋:薛奇と妾の子。
・王高越:兵站を担当。男の体と女の心を持つ。
・楊漢:戦略、人材を担当。
・楊三嬢:楊漢の末娘。
【朝廷】
・喬倫志:丞相(総理大臣)。帝と対立。
・華淳:後に後将軍。紅月寺に誼のある将軍。
・英:華淳の妾。調略を担当。




