第六章:関西弁の男
夜の静寂に包まれた浴室で、近藤は湯船に浸かりながら過去の記憶に沈み込んでいた。蒸気が立ち込める中、彼の心は暗黒の過去へと引き戻される。ジャスミンとの関係、自分の弱さ、そして絶望に満ちた事件が鮮明に蘇る。あの時、上智大学のキャンパスで味わった青春は、今も彼の心に重くのしかかっている。
6月の上智大学のキャンパスは、初夏の陽光に照らされて新緑が輝き、暖かい空気が学生たちの間を漂っていた。ゼミの部屋は重厚な木製のドアと窓から差し込む柔らかな光に包まれ、静謐な雰囲気が漂っていた。近藤は教室に足を踏み入れるたびに、その独特の香りと重厚感に圧倒される気持ちを感じていた。教室の中の木の机や椅子は歴史を感じさせ、窓から見える青々とした木々が心を癒してくれる。
しかし、その静けさの中には、近藤の心に絶え間ない葛藤と不安が渦巻いていた。ジャスミンは、その美しさと知性でゼミの中心的存在だった。彼女のハーフの容貌はまるで異国の光を纏っているかのようで、周囲の人々を惹きつけた。近藤もその一人だった。彼女の存在が近藤の心を癒す一方で、同時に深い絶望をもたらしていた。
ある日、カフェテリアで皆が集まり、笑い声と共に和やかな雰囲気が漂っていた。カフェテリアの大きな窓からは暖かな光が差し込み、外の庭園の緑が一層鮮やかに映えていた。近藤は自分の感情を抑え込みながらも、ジャスミンの隣に座る奥田の様子を注視していた。奥田の視線がジャスミンに向けられるたびに、近藤の胸には嫉妬の炎が燃え上がった。
奥田は神戸出身で、関西弁を話すが、ジャスミンと話す時だけは辿々しい標準語を使おうとしていた。その不自然な標準語は、どこか滑稽でありながらも誠実さを感じさせた。
「ジャスミン、今日はどこか行きたい場所とかある?」奥田が不器用に標準語で話しかけると、ジャスミンは微笑みながら答えた。
「そうね、今日は特に予定はないけど、ちょっと勉強しようと思ってるの。特に、イギリスの金融政策についてもっと理解したくて。」
「そっか、じゃあ、頑張ってな…」奥田は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
近藤はそのやり取りを見つめながら、心の中で嫉妬と劣等感が渦巻いていた。奥田もまた第一志望の早稲田に合格せず、意図せず上智の大学生となった過去を持ち、自分に自信がない部分があった。彼もまた、よくいる大学生の一人に過ぎない。それが、近藤の心をさらに苦しめた。
ゼミの時間が過ぎるにつれて、近藤はジャスミンとの交流を深めていった。彼女の明るさと優しさ、そして誰に対しても平等に接する態度が、近藤の心をさらに引き寄せた。ジャスミンは、いわゆる高飛車なタイプではなく、両親の教育が良かったのだろうと思わせるほどの品格を持っていた。
「近藤くん、今度のゼミのプロジェクト、一緒にやらない?」ある日、ジャスミンが近藤に話しかけた。
「もちろん、一緒にやろう。」近藤は喜びを抑えきれずに答えた。
その瞬間、彼の心は軽くなり、暗い情熱が少しずつ癒されるような気がした。しかし、同時に奥田の存在が彼の心に重くのしかかった。
奥田もまた、ジャスミンに対する強い思いを抱えていた。彼はジャスミンと過ごす時間を大切にし、彼女に近づこうと努力していた。しかし、その努力はどこか空回りしているように見えた。
「近藤くん、奥田くんもプロジェクトに参加しない?」ジャスミンが提案した。
「もちろん、それが一番いいね。」近藤は微笑みながら答えたが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。
ある日の午後、近藤と奥田はゼミの教室にいた。教室はひんやりとしており、外の蒸し暑さを忘れさせるような心地よさがあった。奥田は関西弁で他のゼミの生徒と話していた。
「この前の課題、ほんまに難しかったわ。なんでこんなに複雑にするんやろな?」奥田が頭を掻きながら言った。
「ほんまやな。もっと簡単にしてほしいわ。」他の生徒も同調した。
しかし、ジャスミンが近づいてくると、奥田の態度が変わった。
「ジャスミン、こんにちは。今日の授業、どうだった?」奥田は辿々しい標準語で話しかけた。
「こんにちは、奥田くん。今日の授業も面白かったよ。特に2000年初頭のイギリスの金融政策についての話が興味深かったわ。例えば、当時のイギリス銀行(Bank of England)が金利をどう操作してインフレーションと戦ったかについて詳しく学んだの。ゴードン・ブラウン財務大臣の政策や、IMFとの協力関係も深く掘り下げられていたわ。」
その光景を見ながら、近藤は心の中で奥田に対する複雑な感情を抱えていた。彼もまた、ジャスミンに対する思いを抱えながら、自分と同じようなランクの奥田に対して強い嫉妬心を感じていた。
ゼミの後、皆で集まるカフェテリアでの時間は、近藤にとって特別なひとときだった。ジャスミンの隣に座ることができると、彼の心は少しだけ軽くなった。
「近藤くん、最近の経済学の講義、どう思う?」ジャスミンが微笑みながら尋ねた。
「とても興味深いと思うよ。特に国際金融の部分は、将来のキャリアにも役立ちそうだし。」近藤は心から答えたが、実際にはジャスミンに好意を抱いてもらえる方法の方が知りたかった。
「私もそう思う。でも、難しいところも多いよね。特にイギリスの金融政策についてもっと勉強しなきゃ。イギリス銀行の金利政策やインフレーション対策について、もっと理解を深めたいの。」
彼女の真剣な眼差しに、近藤は心を打たれた。ジャスミンは美しいだけでなく、努力家でもあった。その姿勢にますます魅了されていったが、近藤の心には常に焦燥感が付きまとっていた。
近藤と奥田の間には、見えない緊張が漂っていた。奥田もまた、ジャスミンに対する強い思いを抱えていたが、それをうまく表現できずにいた。
「ジャスミン、今度の週末、一緒に映画でも見に行かない?」奥田が、さりげなくジャスミンに話しかけた瞬間、近藤の心はズキリと痛んだ。
「ごめんね、奥田くん。週末はちょっと予定が入っていて。でも、また今度ね。」ジャスミンは微笑みながら答えた。
その微笑みは、誰に対しても優しく平等だった。しかし、近藤にはそれが一層の絶望を与えた。ジャスミンにとって、彼も奥田もただのゼミの仲間に過ぎない。その現実が、近藤の心を締め付けた。
奥田もまた、自分の感情をどう扱えばいいのか分からず、時折悩んでいるようだった。彼の関西弁と辿々しい標準語のギャップが、彼の内心の葛藤を表しているように感じられた。
「近藤くん、奥田くんもプロジェクトに参加しない?」ジャスミンが提案した。
「もちろん、それが一番いいね。」近藤は微笑みながら答えたが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。
夜が更けると、近藤は再び「Basin Street Blues」を思い出し、そのメロディに浸った。だが、今はもう一つの曲、「Oregon Mist」が彼の心に響いていた。この曲は、オレゴンの霧のように彼の過去の痛みを包み込み、静かに彼の魂を再生させる力を持っていた。
近藤にとって、この曲は新たな希望と共に、暗い過去を乗り越えようとする自分自身の象徴だった。オレゴンの霧が彼の心を浄化し、彼を再び前へと進ませる。