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98 ローズマリア、家に帰る

「ところで祈年の儀は初日に行われるのでしたか?」


アガロテッドが美味しそうにマドレーヌを齧りながら問う。祈年の儀とは女神ソフィテルに感謝を捧げるとともにこれから始まる一年が平和に無事過ごせるようにと願いを込めて祈る儀式のことである。この世界ではロマリアがソフィテルを抱き留めた日を一年の始まりの日としており、祈年の儀はその前日に行われることが一般的だった。

ちなみにかつてカリーナがジルサンダーに一目惚れした儀式がこれである。


「建国祭の一番始めに行う儀式ですから、明日の午前ですね」


ジルサンダーが淡々と答える。


「今年も殿下が?」


祈年の儀で女神ソフィテルに祈りを捧げられるのは大神官かロマリア王国神祇官、もしくはロマリア王族だけである。ジルサンダーが15歳でこの大役を得てからずっと執り行ってきたが、


「いや、今年はアレクシスが指名を受けたので代替わりする」


と、説明した。

アレクシスも今年15歳になる。はじめるのに早すぎるというわけではない。


「なるほど、では殿下は?」


「俺は見学だ。今年は神像ではなく、実際の女神に祈ることになったから、アレクシスに譲りたくはなかったがな」


女神の顕現を告知するのにちょうどいい儀式だとマリオットがレティに祈るアレクシスとともに参加してほしい、と頼んだのだ。もちろんレティは快く引き受けた。アレクシスと一緒にすべての人々のために祈りたい、と嬉しそうに。ただし、とひとつだけ条件をレティは提示した。貴賤の差なく優先的に怪我や病気で苦しんでいる人を神殿内に招いてほしい、と。女神の顕現を周知させたいマリオットはどのような条件でも女神の御随意に、と恭しく一礼を返した。

レティはマリオットに約束ですよ、と小指を出して、互いの小指を絡めることで神聖なる女神の誓いを施した。マリオットがこの程度の約束を破ることはないが、かつての史記には違えたものの小指が腐り落ちたと記載があるほどのものだと思えば、あまりにも軽々しい態度である。しかしレティの可愛らしい仕草だけでも価値がある、とジルサンダーは悔しがった。

羨ましげに身悶える息子を眼にして、きっとカザーロマルタがその場にいたら鼻血を噴いた挙げ句に卒倒し、その後暫く戯言を吐き続けただろう、とマリオットは妄想して嘲笑した。


あれは極端なまでの女神信奉者だからな、とさも可笑しそうに呟いていた。


「なるほど、ではレティ様が祈られるのですね、それは楽しみなことだ、場所は…」


「王都中心にある大神殿だ、当然だが、賓客としてアガロテッド殿下にもバーバラ殿下にも出席して貰いたいと準備しているから、詳細は知らせているとばかり思っていたが…?」


「まだ執事から受け取っていないだけだと思いますよ、なにせゆっくり休む時間もなかったからね」


「それは申し訳なかった、お疲れであろう、部屋に案内させよう」


ジルサンダーが四阿の入り口を警護するかのように立っていたギルバートを呼ぼうと手を上げたとき、


「殿下、父に会いに行きたいので、この辺りで辞したいと思います」


とローズマリアがアガロテッドに阿った。そして彼女はダリアに向き直り、一礼をした。


「公爵家に下がらせていただきます。そちらで過ごしますので、部屋の用意は不要でございます、お気遣いに感謝します」


「あら、そう?好きになさったらいいわ、貴女にとっては貴重な里帰りだもね、マリオデッラ殿に宜しく伝えてちょうだい」


「有り難きお言葉に感謝します」


まだ辞す気のなかった様子のアガロテッドの腕を取ると、ローズマリアは強引に彼にエスコートさせて四阿から去った。

彼らの姿が薔薇の垣根に遮られて見えなくなると、途端に一同の肩から力が抜けて、あちらこちらから吐息の洩れる音が続いた。


「ローズ、どうしたんだい?」


いつもなら添えられるだけの彼女の手が己の腕を強く握る感触にアガロテッドは興味深そうに尋ねた。ローズマリアは前を見据えてひたすら無言で歩くだけ。


「女神の顕現かい?」


それにも応えない。


「ジルサンダーがマルガの子になったことかい?」


己の未来の妻が想う男の名を出せば、僅かに腕を掴む指に力が入った。アガロテッドの片方の眉が意地悪く上がる。


「ならロマリアだけでなくマルガまで欲しくなったのかい?」


それならそれでいい、どうせすべてを手中に収めようという腹積もりだったのだ。ロマリアを落とせばあとは簡単に落ちるだろう、ましてや今のロマリアには女神がある。あれを己のものにしてしまえば、創成の王は私のものだ、とアガロテッドの頬が緩む。


ローズを気に入ってはいるが、私に媚びないところがいいのだ。捕らえたジルサンダーを与えてしまえば、私が抱く度に嫌悪を募らせ、いい表情を見せてくれるだろう。


想像しただけでぞくぞくと快感の波がアガロテッドを心地よく刺激する。


同様にあれほどの愛情をみせる女神をジルサンダーの前で瀆してしまえば、どれほどの憎しみをぶつけられるだろう、と考えただけで身体中から歓喜の渦が迸りそうだった。


ロマリアを落とす愉しみは尽きない。

次はマルガ。

あの澄ましたレイチェルの顔が憎しみで歪むのも見ていて飽きないだろう。噂で無能と知れ渡るカザーロマルタもその実なかなかの策士だという情報が入ってきたばかりだ。レイチェルの留守を狙ってマルガに攻め入り、北と西から同時にロマリアへ侵攻する案はあっさりと却下するしかなかった。

マルガを落としてカザーロマルタをどうやって苛めてやろうか、今から愉しみで仕方ない。


アガロテッドはローズマリアに従って大人しくブルーデン公爵家の馬車に乗り込んだ。


所詮、女の激情など嫉妬と下らない愛からしか生まれないのだ、と高を括っていた。


だがローズマリアの関心はそこではなかった。


もちろんレティが女神であったことは計算外もいいところだったし、女神を信奉する一人の信者として赦しがたい気持ちもある。己から唯一愛しいと思っていた男を奪った女が女神など、到底受け入れられるものではない。

が、どこかでジルサンダーが創成の王だということはすんなりと納得できている部分もあった。納得、というよりさすがは己の選んだ男だ、神もなかなか見る眼がある、くらいの不遜な思いのほうが強いのかもしれない。


わたくしが女神だったら良かったのに…


それがレティに対する本音だろう。

ジルサンダーがレティを愛したのは女神だからではないが、しかし愛する切っ掛けとなった淡い癒しの光が彼の恋心を刺激したのは確かな事実。

ソフィテルの魂がロマリアの魂を求めた結果なのだが、ローズマリアはそれは理解できない。


ただ己が女神であればジルサンダーの愛を得たのだ、と思うだけ。


ジルサンダーがマルガに行ってしまうことにも衝撃を受けたが、そしてあれほど己を求めていたレオンがバーバラに深い愛情を表すことも驚きだったが、ローズマリアの興味はそこではない。


マリオデッラにしかない。


体調を崩している、と聞いて、あれほど邪魔だと毒を盛ったのに、心が騒ぐ己が信じられなかった。心配しているのだろうか、と自問自答するが答えはない。


ただ会いたかった。

会って話をしたかった。


場合によっては解毒剤を渡してもいい。

すでに手遅れかもしれないが。


そして気付く。


内臓が溶けてしまえば解毒剤など意味がない。

だが女神の癒しなら…


ローズマリアは小さく頭を振ると下唇を噛んだ。

隣に座るアガロテッドの、微かに触れる体温が煩わしくて苛立ちが募った。

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