97 アガロテッドとローズマリア
鳥の囀りが穏やかに響き、木々のざわめきが耳に心地いい。ときおり撫でるように優しく吹く風が季節外れに咲いた薔薇の芳香を運んできた。
会話の途切れたテーブルではそれぞれが紅茶を飲んだり、焼き菓子を摘まんだりしていたが、ふいにレオンが深紅の瞳を上げると、ローズマリアに問い掛けた。
「ローズマリア嬢、お父上にもう会っただろうか?」
かつてはその心を得ようと必死になり、その為に兄に対して歪んでしまったレオンがマリオデッラを心配する心情だけを込めて聞いている。
ジルサンダーはレオンの浄化は確かに行われたのだ、と確信した。今の弟にローズマリアへの情など欠片も感じない。
アガロテッドから渡された雅なレースハンカチで口許を軽く押さえるように拭くと、ローズマリアは軽く微笑んだ。
「ロマリアに着いてすぐ旅装を解いて王妃様にご挨拶を、とこちらに参りましたので、まだ公爵家には顔を出してないんです」
「そうか、マリオデッラ殿のお加減が優れないとお聞きしてな、私も見舞いに行きたいのだが、時間が取れずに申し訳ない」
レオンの言葉にほんの僅かな間、ローズマリアの口許が弛んだのをジルサンダーは逃さない。
「左様ですか、そのようなことはお聞きしておりませんでしたが、これからすぐにでも父を見舞ってみますわ」
「そうしてやってくれ、ローズマリア嬢は薬に詳しい。マリオデッラ殿を頼む」
コリンナがロマリアを攻め落とす気があることも、ローズマリアがマリオデッラを亡きものにしようと毒を盛っただろう憶測も知っているはずのレオンだが、そのような素振りは一切見せずに真摯に言葉を紡ぐ態度に、ジルサンダーはドリューもいい王配を手にした、と心中で喝采する。
「マリオデッラ殿で気になっていたのですが…」
唐突に会話に割って入ったのはアガロテッド。
色素の薄いグレーの瞳を細めて、レオンを睥睨した彼は頬だけは柔らかく緩めて手元にマドレーヌを取り分けた。
「私の我儘でローズを求めてしまいましたが、本来はロマリア王家に嫁ぐ身、その後ブルーデン公爵家はどうなされるのかと、気を揉んでいました」
わざとらしい眉の顰め方に奇妙なほどの侮蔑を感じたジルサンダーは肩を大袈裟に竦めてみせた。
むしろ毒婦をロマリアから連れ出してくれたことに感謝しているよ、とはさすがに言えない。
「早馬を出してローズマリア公爵令嬢宛に書簡を送ったが、行き違いになったか、無駄になったな」
「書簡を?」
ちらりとアガロテッドを見遣ってから、わざとゆったりとした動作で紅茶を口に含んだジルサンダーが徐に言葉を繋いだ。
「ええ、ロマリア王国次期国王に指名されたのは末弟のアレクシス、次弟のレオンはそこにおられるバーバラ·ドリュー王女殿下との婚姻を結ぶことになりましてね、マリオデッラ·ブルーデン公爵はアレクシスの選んだ令嬢を養女に迎えると快諾され、ブルーデン公爵家を継ぐものは現在、父王とアレクシスによって選出しているところです。すべては王家に任せる、と公爵が言ったので」
「あのマリオデッラ殿が?それは心配だね、ローズ。随分とお加減が悪そうだ」
アガロテッドは表情だけは曇らせてローズマリアに眼差しを送ったが、ローズマリアはただ真っ直ぐにジルサンダーを見つめている。
その瞳の奥にジルサンダーにとっては非常に不快な恋情の炎が垣間見え、ぞわりと悪寒が背中を這った。
「ではジルサンダー様は?」
「俺はそこにいるレティ·マルガと結婚してマルガの子となる」
レイチェルが是非にもレティを娘に、そしてその婿にジルサンダーを、と懇願したのだ。ジルサンダーがリッテ国に訪問している間にロマリア王国国王夫妻とレティ、そしてレティの両親を含んだ話し合いで決まり、この日の朝早くにレティはカザーロマルタとレイチェルの養女となっていた。
レティの後ろ楯になる予定だったフェアウェイ伯爵家は残念がるだろうが、女神であることを考慮すると一国の姫君であったほうが後々を考えるとレティのためだろう、と判断されていた。
「レティ·マルガ…?」
「あぁ、レティ様には私の娘になってもらったのだ」
レイチェルが内心の警戒心など噯にも出さず、にこやかに応えた。ローズマリアの顔が笑顔のまま醜く歪む。これは憎悪なのだろうか。
「これも書簡には書いたが、今世の女神が顕現した」
ジルサンダーの思わぬ宣言にポーカーフェイスだったアガロテッドの表情が消えた。
「ほう、それは目出度いことだが、どういうことだろうか?」
低く問われた声に、レオンが飄々と掌でレティを指し示した。
「レティ·マルガ様が女神様だ」
「レティ…!様が……?!」
ローズマリアが息をのむ。そして彼女の纏う衣裳の意味を知る。
「彼女には女神たる力があると?」
アガロテッドの至極当然の質問にもジルサンダーは笑顔を絶やすことなく、薔薇の垣根を両手を広げて示した。
「季節外れの薔薇だと思わなかったか?あれはレティが来るまでは咲いてなかったが、神の祝福を願った途端に咲き乱れたんだ」
女神の力。
癒しと浄化。
「それで私の身体も楽になったのですね」
バーバラがふいに言葉を挟んだ。ダリアが彼女に視線を遣って眼を丸くした。
「あら、そうなの?」
「はい、いつものことなので気にしてなかったのですが、長旅で疲れていて、身体がとても重かったんです、でもレティ様が祝福をしてくださったあとから、とても楽になりました。癒してくださったんですね、ありがとうごさいました」
バーバラはレティを女神と認めている、と周囲に示すように立ち上がると両膝を地に付けて両掌を額に、頭を下げた。
「そんな、バーバラ様、お立ちになってください、癒すのが私の役目でもあります。私こそお役に立てて嬉しいです」
彼女の持ち上げられた肘に手を添えて優しく立つように促したレティはまさに女神そのものの光を纏っていた。ジルサンダーは自慢げにふたりを眺めている。
「なるほど、これは素晴らしい慶事です」
アガロテッドが言うが早いか、身のこなしも優雅にレティの足元に跪くと、その手の甲に額づいた。
「女神レティ·マルガ様、お会いできましたこと、この身における最大の栄誉です、どうかわたくしにも貴女様の祝福をお恵みください」
薄いグレーの瞳が妖しく光る。
ロマリアを我が物にしようと企むものにソフィテルの祝福など授けたくもないのがロマリア王家の心情だっだが、レティはほんわかと笑むと小さく頷いて、アガロテッドの額に手を翳した。
「どうぞコリンナにも祝福がありますように」
やはり淡い光が彼女の手から放たれて、アガロテッドを包み込むように広がっていった。その光はあくまでも優しく温かいもので、周囲にいるものたちにもじんわりと干渉してきた。
「…素晴らしい!」
実際に感じた祝福の感覚にアガロテッドは感嘆の声を洩らすと、ジルサンダーを鋭く見つめた。
「レティ様の愛を得た、ということはジルサンダー殿下が創成の王にお成りか?」
「神話が真なら、そうであろうな」
なんの感慨もなく、ジルサンダーは当たり前のように応えた。これでロマリア侵略を諦めてくれればいい、そう願わずにはいられない。
戦などしなくて済むなら回避すべきもの。
実際に戦いになったら南を守護する神獣朱龍になって先陣をきるつもりだった。
なによりも硬い鱗を持つドラゴンに。
「ではコリンナもロマリアに忠誠を誓わねばならぬな、いや、マルガに行かれるならマルガだろうか?」
「コリンナの忠誠はレティ様に誓ってくれ」
レイチェルが冷たく言い放つと、アガロテッドは大きく笑った。
それはとても忠誠を誓うものの態度ではなく、誰もが彼の眼の奥に蠢く野心に警戒を強くした。




