85 ジルサンダー、偵察します
風を切る。
風を掴む。
まるで己が風の一部になったように、冷たい空気のなかをジルサンダーは泳ぐ。
羽撃いた当初はこれがずっと続くなら翔ぶのも楽じゃない、と文句も呟いたが、風を掴み、風に乗れば驚くほどのスピードと安定感でぐんぐんと前に進んだ。
上昇気流に乗ればどこまでも昇って、上空を龍のように流れる気流に乗れば遥か遠くまでもすいすいと行けた。
風との一体感が心地よく、眼を細めたとき、眼下にロマリアの西側の国境を示す城壁が見えてきた。そこから先は闇夜にうっすらと黄金に輝く砂漠が暫く続く。空から見ても一面砂だらけで、微かに陽炎のような町の灯りが瞬くオアシスが視界に入るが、それも何十キロと離れている。
ジルサンダーは旋回してコリンナ国境を目指す。まだ夜は深く、朝までは遠い。
鳥なのに夜目が利く不思議にジルサンダーは小さく笑った。
「隼というのは速いもんだな。風が味方に付けば実に楽だ。やはりリッテに行くときはレオンに来て貰わなければ」
くつくつと喉から込み上げる笑いにジルサンダーは実に人とは変わるものだと実感していた。あのレオンとふたりで警戒心もなく短いとはいえ旅に出るとは少し前まで考えもしなかった。
ジルサンダーはレオンを弟として見てきたが、レオンは常に張り合うばかりで遊んだことすら記憶にない。懐かれたことも、纏わりつかれたこともなかった。いつもじとりと羨ましげに睨む弟からジルサンダーは逃げていた気さえする。
レティと出会い、彼女を護るために警戒すべき人物として、ジルサンダーはローズマリアとレオンを脳に刻んだ。決して関わらせてはならない、と。なのにレティはレオンそのものを浄化してしまった。
レオンは本来あるべき姿になり、それは少し頭の足りないところはありつつも、実に好ましい青年だった。
真っ直ぐで、実直で、素直で、可愛らしい。
「ふっ、まさか俺があれを可愛いと思うなんてな…」
流れの変わった気流に、ジルサンダーは僅かに羽を動かして風を掴み直す。ぐっと抵抗が減り、ふわりと身体が浮いて、また風に運ばれる。
もうそろそろだろう、と思った頃、コリンナの国境にある城壁が数キロに渡って、この夜中にもかかわらず煌々と灯りが灯っているのが見えた。
ジルサンダーは隼の身体をしているのに、かなり慎重に上空を旋回しながら様子をみた。
篝火が焚かれた城壁の上には物々しいほど武装した兵士が立ち並び、ざわざわと喧騒を作り出している。城壁内部は女たちが忙しそうに食事の準備に大わらわだ。
城門付近にある宿屋はすべて閑散としていて、泊まり客どころか、宿屋の人までいない。
本来なら商人で溢れていてもおかしくないはずの国境の町が兵士で埋め尽くされていた。
来る途中で見たオアシスに灯りが多かったのは商人たちがそこに集まっていたからだろうか、とジルサンダーはふと思った。
やはりこれはだだの建国祭訪問ではない。
そう断じて、ジルサンダーは城門内の人気のないところに降り立った。少し考えたのか、小首を傾げた隼の姿がふわりと闇に溶けた。そして瞬く間に白地に黒と茶の斑模様の小型犬に変わる。
目的は町の中心部。
そこに行けばアガロテッドがいるはずだ。
ジルサンダーは慣れない四つ足でとたとたと歩き始めた。手だった前足はやはりちゃんと無意識でも前足で、普段はないはずの尻尾も意識できる。
身体に合わせて意識も神経も切り替わるのだとジルサンダーは不思議な気持ちで納得した。
慣れなくても己の意志がきちんと四つ足を動かし、ジルサンダーは調子にのって小走りになる。鳥とは違う風の切り方をして、毛を撫でていくのがとても気持ちよかった。このまま目的を忘れて全力疾走したい気分になり、ジルサンダーは心まで子犬にならないように気持ちを律した。
「あと2日後には王太子殿下様はロマリアに入国するらしいぜ」
休憩なのか、この日の仕事は終わったのか、焚き火の元で地べたに座り込んで酒を飲んでいた兵士が仲間らしい兵士たちと輪になっていた。
ジルサンダーは何気ない風を装って彼らに近付く。
「ここからロマリア国境までは一日かかるよな、じゃ明日の出発か」
「あぁ、さっき隊長が言ってた。付いてくのは近衛の連中だけだから、俺らはまだここで待機だとよ」
つまらなそうに思いっきり酒を煽った男は空になった瓶を逆さにしてなかを覗き込んだ。酒のなくなった瓶を忌々しそうに後ろ手に投げると、仲間から渡された新しい瓶に口を付けた。
「せめて娼館くらい人を残しといてくれりゃあ、俺らだってこんなに暇じゃなくて済んだのによぉ!」
「なぁ、毎日野郎の面ばかり拝んだって欲求が溜まるだけでどうしようもねぇよ!」
「だからって、俺を襲うなよ?」
がはははっと笑いが起き、乾杯の声が唐突に上がった。
「おまえをやるくらいなら、命賭けてあそこに忍び込むぜ」
密やかに交わされた視線が彼らの背後にある豪奢なホテルへと注がれる。
その最上階へ。
「確かにな、いい女だったな、王太子殿下様の婚約者様はよ」
「あぁ、一度でいいから抱いてみてぇよ」
「おまえ、いい嫁さん、いるじゃねぇか!」
「確かに気立てはいいが、見目はないぜ」
「そりゃそうだ、こいつの母ちゃんより踏み潰した蛙の方が可愛げがあるって評判だ!」
一斉に下卑た笑いが彼らを包む。
「誰だよ、そんなひでぇこと抜かす野郎はっ!」
妻を侮辱された男が酒のせいでなのか、顔を真っ赤に拳を上げたが、
「おめえだよ!」
と仲間の一人から突っ込まれ、やはりがはははっと大きく破顔した。
これが彼らの楽しみ方なのか、とジルサンダーは犬の姿で肩を落とした。しょんぼりと歩く子犬の愛らしさに、下らない話で盛り上がっていた彼らの眼が細められた。
「おい、そこの犬っころ、なんか食べるか?」
手に持ったハムをひらひらとさせて兵士がジルサンダーに声をかけてきた。欲しいわけでもないのに、これが犬の性なのか、尻尾をぷりぷりと振ってジルサンダーは彼に寄っていった。
「可愛いなぁ、おまえ!でもな、ここも戦になって危ないかもしんねぇから、早く離れろよ」
慈しむようにジルサンダーの頭を何度も撫でながら、男はハムを犬にやる。
「しかし本当にやるのかね、うちの王太子殿下様はよ」
「ロマリア王がこの世界を造ったときに互いに不可侵がお約束だったんだろ?罰、当たんねぇかな」
先程までの愉快な雰囲気から一変してしんみりと場が静まり返る。ジルサンダーは貰ったハムをもそもそと口にしながら彼らの様子を窺っていた。
「神話、だろ?罰なんて当たんねぇし、仮に当たっても俺らじゃねぇよ」
王太子に当たるだろう?と意気地のない瞳が視線を交わし合う。そして安心するためなのか、お互いに頷き合った。
「だよな、もう遅いし、寝ようぜ」
食べ終えたのを確認した男がジルサンダーの頭を最後に撫でて、男たちは立ち上がって去っていった。
なるほどアガロテッドだけではなく、ローズマリアも来ているのか、とジルサンダーは目的は果たしたと城門に向かって歩き出した。
アガロテッドがロマリア入国をしたのち、ここに配備された軍が動くのだろう、と目算を付けたジルサンダーは頭のなかでどのように動くかを想定しながら、また隼の姿に戻った。
城壁からバサバサと飛び立つと一路真っ直ぐに己の私室目指して風に乗った。
その頃には東の空からうっすらと茜色に染まり始めていた。あと少しで夜が明ける。心なしか、ジルサンダーの羽が空気を孕み、さらに上空へと昇っていった。




