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76 レオンを浄化しちゃいます

「ようこそわがマルガの誇るザッハへ!」


カザーロマルタが仰々しく両手を広げてレンティーニ湖畔に建つレイチェルご自慢の別荘の玄関を開けた。

広々とした玄関ホールは正面にレンティーニ湖を絵画のように配した巨大な一枚硝子の窓があり、すでに昼が近い時間であるにもかかわらず、空気が冷え込んだままなのか、湖面から霞が立つように漂っていて、湖畔に建ち並ぶ気品のある屋敷を浮かび上がらせ、なんとも幻想的な雰囲気を醸し出していた。

その眩惑的な絵画の一部に溶け込むように、ジルサンダーがレティの腰を抱いて、そしてアレクシスが右手に剣を携えて並んで待っていた。


「おかえりなさい、カジィ叔父様」


アレクシスが朗らかに挨拶して、胡散臭げにレオンを眇めた。


「レティ!!会いたかった!!」


レオンは見事な赤毛を高く結い上げ、華奢な肢体が際立つほっそりとした淡いブルーグレーの短いドレスを纏ったレティに駆け寄り、抱き締めようとしたが、アレクシスが差し出した剣により阻まれた。


「レオン兄上、レティ様はジルサンダー兄上のお気持ちを受け入れました。婚約式はまだですが、マルガ国主が立会人として仮婚約調停は済ませてあります。ロマリア王国に戻り次第、本式に婚約を結ばれることになりましたので、あまり妄りに触れたりなさいませんよう、お気を付けください」


淡々と述べられた末弟からの言葉にレオンは激昂した。


「アレクシス!道理もないことを申すなッ!レティは私を想っていて、ジルサンダー兄上に関係を強制されているだけなんだ、もしくは騙されてるんだッ!!」


「レオン…俺は強制も騙しもしない」


「嘘だ!レティは、レティは、私を、私だけを……!」


突然、頭を両手で抱え込み、レオンは呻き声を上げた。レティは眼を細めて彼を見つめてから、哀しそうに首を振った。


「葛藤です、本来のレオン殿下のお気持ちと薬効によるものの齟齬に苦しんでおられます」


滑るようにレオンに近付くレティはすでに全身から淡い光を発し始めていた。温かく、そして神々しい。


頭を抱えたまま蹲るレオンの前に立ったレティはそっと彼を包み込むように両腕で抱えると、レオンの頭頂部にキスを落とした。


ジルサンダーが声にならない声を上げたが、足を一歩踏み出しただけで、持てる意志を総動員してその場に踏み留まった。


キスをされたレオンは呆けた顔を上げる。

頭痛など消え失せたような、溶けた真紅の瞳を眼前のレティに向けるが、それはなにも映してはなかった。


レティが彼の顔を両手で包み、互いの額を合わせた。


合わせた額から光の渦が生まれる。


轟々と激しく、高波が襲うようにレティの脳にレオンのすべてが流れ込んできた。


レティは必要なものを見付けるまで、彼から流れ込む記憶を止めない。

アレクシスが生まれても父親は見向きもしないことに安堵した切ない感情。ジルサンダーを賛辞する声が高まり、歯噛みした夜。はじめて風を操れた瞬間。そして薔薇園で邂逅した美しき令嬢ローズマリア。

そのときのときめき。

胸の高まり。

紅潮する頬の熱さ。


ジルサンダーの婚約者であったこと。


愕然とする己のなかに突如沸き上がる憎悪、嫉妬、ありとあらゆる真っ黒な感情。


婚約が解消された悦び。

ローズマリアがジルサンダーを慕っていると知った衝撃。悔しさ。沸く憎しみ。


己のためにローズマリアが淹れてくれた珈琲。


にわかに光輝いて見えたレティ。


高鳴る鼓動に耳までが痛くなる。

なのに、また、愛した人はジルサンダーのもの。


どうすれば、どうすれば、なにをすれば己は兄に勝てるのか?


「軍を整えたらいかがです?」


囁かれた甘い誘惑。

かつて愛した女の声。


「王たるものとして即位したらすべては貴方のものでしょう」


艶然たる微笑みがレオンの脳を麻痺させる。痺れる。


「レオニティを率いてレティを迎えに行かれたら?どれほど喜ばれるかしら?」


甘い誘惑は毒のようにじわりじわりと己に染みるように広がって………


「私は何を………?」


呟いた声に、レティは額に汗を浮かべながら小さく笑んだ。それは見るものが見れば壮絶な微笑みだったろう。


菫色の瞳が光を点滅させている。


「いま、本来のレオン殿下にしますからね」


レティは彼の頬を押さえて口を開けさせると、己の口を寄せて大きく息を吸い込んだ。すると放心した様子だったレオンが急に苦しみ出す。暴れる彼をどんな力で押さえ付けているのか、レティが包み込んだ顔だけは動かすことができないようだった。

首から下が激しく抵抗する。


しかしそれも僅かの間で、気を失ったように身体から一切の力が抜けた。


その刹那、彼の口から闇より濃い塊がゆっくりと現れ出でた。


「レティ!!」


たまらずジルサンダーが叫ぶが、レティはそれを躊躇いもなく飲み込んだ。

瞬時に彼女の身体から眩い光源が四方へと飛び散っていく。


玄関ホールが真っ白の世界に塗り変わり、すぐにもとの色彩に戻ったが、あまりの光の強さに眼をやられたものたちは薄闇に突き落とされた気分だった。


ホールの隅で見学を決め込んでいたギルバートはジルサンダーが加護を受けたときと同じだと単純に感じ、はじめてレティの浄化の光を目撃したリチャードは女神の存在を知った衝撃に呼吸も忘れていた。


神話でしかない、と思っていた存在が生身の身体を持って眼前にある奇跡に心臓を吐きそうなほどだ。


カザーロマルタは感激に打ち震えながらレティに向かって額づき、アレクシスはジルサンダーに縋っていた。情けないことに腰が抜けたのだ。


陶酔しているようにも見えるレオンの真紅の瞳が突如生き生きと輝き出した。


それを確認して、レティは彼からそろりと離れた。


「レオン殿下?」


ごく穏やかに名前を呼んでみる。

するとしっかりとした意志を宿した瞳が真っ直ぐにレティを見据えた。


「おまえは誰だ?」


そして周囲を見渡す。


「ここはザッハの別荘か?」


さらに床に額を付けて咽び泣くカザーロマルタを眼にして


「叔父上?」


首を傾げた。


安堵のあまりレティは崩折れるように床に膝を付いた。そして女神として誰かを救うことができた喜びに思わず涙を流した。


それは次第にバイオレットに輝きを増したサファイアとなって大理石の床に音を立てて落ちた。


「奇跡だッ!!」


興奮にアレクシスが叫べば、カザーロマルタからはさらなる嗚咽が音楽を奏でるように流れた。


ジルサンダーは困ったように肩を竦めると、


「大事ないだろうか、レオン?」


と、レオンが生まれてからはじめて兄として気遣った声音で声をかけることができた。


混沌とした玄関ホールに、カザーロマルタの嗚咽が響き渡るだけで、その後、誰も口を開くことはなかった。


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