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73 ふたりの女の願い

優秀なメイドのせいで、短時間でローズマリアの荷物は整えられてしまった。

当座のものだけでいい、とアガロテッドが指示したので、当然と言えば当然だろう。あとは私が用意する、と嬉しそうに宣言して彼はローズマリアの肩を抱いた。


「ローズ、貴女の願いはすべて叶えたい」


私の願いは見事に叶った、と破顔したアガロテッドがローズマリアに囁いた。


「なんでも我儘を行ってごらん、私が叶えてみせよう」


そう甘く伝えられてもローズマリアの望むものはひとつしかない。ジルサンダーだけ。

なにもアガロテッドからは施されたくなどない、と言ってやろうと口を開いたローズマリアはするりと


「ロマリアが欲しい」


と言ってしまっていた。

まさかの返答にアガロテッドは瞠目したが、すぐに吊り上がった眼に妖しい光を宿して頷いた。


「承知した。整い次第、貴女に献上しよう」


耳元で囁かれた言葉はローズマリア以外の耳には届かなかった。


歴史の影に女あり、戦の影にも女あり。

いつの時代も事が動くときには、その動機に女の影響があるのだと、ローズマリアは身を持って知ることになる。


その頃、ジルサンダーがマルガ国に養子に入ることで決着が付きそうになっていたマルガリッテのサロンで、ジルサンダーがレティに同じ質問をしていた。


「俺がマルガの国主となるとして、レティは望むものはないのか?すべてを叶えてやりたい気持ちはあるが、できないこともある。それでもレティの希望は聞いておきたい」


「私はザッハ地区の再開発をお願いしたいです。あと、両親の移住も!」


「ザッハの再開発?」


「はい、ジル様がマルガを治めるなら観光地としての特産を増やしたいんです」


ザッハに滞在中、特に冷え込んだ朝ほどレンティーニ湖に霧が出たことをレティは思い浮かべていた。

しかも湖面に濃く立ち込める霧を。

もしやと朝の散歩に出たときに湖水にそっと手を入れてみれば、冷たくも温かくもなかった水に、手が濡れていなければ触れたとさえわからないほど人肌の水温だった。

見れば湖の中央にコポコポと泡が浮かんでは消えていく様を眼にして、いよいよレティはかつてソフィテルが生まれた山を思い出していた。


「特産?」


「はい、ザッハはおそらく温泉が湧きます」


「温泉?」


「地中で温められた水がレンティーニ湖に湧いてるんです。きっとあの辺りを掘れば温泉が出るはずです。万病を癒し、怪我も治す、奇跡のお湯です」


「まるでレティ様のような湧水ですね」


楽しげに言ったのはアレクシス。

そして彼は諦めたように眉を下げて、ジルサンダーを見つめた。


「ジルにいさまが頑固なのは知ってますし、決めてしまったのなら僕がいくら説得してもロマリアには戻るつもりにならないんでしょ?」


レティを護るためならなにを犠牲にしても構わない、と決めているジルサンダーが彼女のためにマルガを選んだなら絶対に引かないだろう。


「なら、レオンのレオニティを謀反の証拠にして馬鹿を叩き落としたあと僕がロマリアの王になります。僕は父上に憎まれているので、レオンを廃さない限り王に指名されることはないですから、レオンのことは諦めて貰いますからね、ジルにいさま!」


「憎まれてる?そんなことないだろう?」


あまりにも当たり前のことのように言ったアレクシスに動揺を隠せないまま、ジルサンダーが窺えば


「いえ、本人からはっきり言われました。私は息子たちがみな憎いがおまえが一番だ、と」


アレクシスの表情は変わらない。それだけで、その言葉で傷付かないわけもないが、すでにそれを乗り越えるだけの時間が経っていることがわかる。


「無関心だとは思っていたが、憎まれてるとは…でもなぜだ?」


父親の愛を得ようと踠いていたときを思い、ジルサンダーはそれがはじめから無駄だったのだと思い知らされた気分だった。


「理由などわかりません、ただ僕たちが邪魔だったのだと、そのときに言われました」


理由に思い至る節があるレイチェルが顔を暗くしたが、カザーロマルタだけがそれに気付いて妻の肩をそっと抱いた。


「とにかく僕が王になります。でも条件があります」


アレクシスが真っ直ぐにカザーロマルタを見つめて言うので、叔父はレイチェルの肩を抱いたまま片眉を上げてみせた。


「なんだ?アレク、言ってごらん。私たちはマルガの子を得るためなら、どんな犠牲も厭わないつもりだ」


「遷都を願います。場所はザッハ地区」


「アレク?!」


ジルサンダーが驚きに声を上げるが、カザーロマルタはにこりと微笑んだ。


「承知した」


「叔父上?!そんなに簡単に約束してしまっていいんですか?」


創成の王として意識的に話していたジルサンダーの口調がすっかり戻ったことにすら気付かない様子の甥に、カザーロマルタは頷いた。


「アレクも寂しいのだろうさ、ザッハに都があればジルがそこにいる。会おうと思えば半日もあれば会えるし、手紙だってすぐに届く、だからだろう?」


「はい!さすがカジィ叔父様!」


「おまえ、そんな理由で都を移せ、だなんて…」


「いや、案外いいかもしれないぞ、そうなれば私たちはマルガリッテを領地として動かずに済む」


にやりとしてレイチェルが嬉しそうに言った。ジルサンダーの即位に伴い、カザーロマルタとどこに行こうか、考えながら面倒だと感じていたのだから、マルガリッテから動かないで済めばレイチェルにとって最上の策といえた。


「レイチェルもこう言っているし、私たちがここにいれば都でなくなるだけで、街はそれからも存在できる。問題はないだろう」


「そうですけど…」


「別荘を王城にするには狭いが、あの辺りの屋敷を軒並み買ってしまえば充分にそのまま都として使える場所でもあるしな、遷都するにも最低限の金で済むから、マルガとしては有難いことだ、しかもその温泉とやらがザッハをさらなる観光地に押し上げてくれれば儲けられるからな、先行投資みたいなもんだ」


なんでもないことのように言って、レイチェルは呵呵と笑った。


「これでジルがうちの子になって女神まで降臨してくれてマルガは安泰、ロマリアもアレクなら安心だし、万々歳だな!」


ローズマリアの一言でコリンナが動き出したことをまだ知らないレイチェルは暢気に言って焼き菓子を口に放り込んだ。


「それからもうひとつ」


条件のひとつザッハへの遷都が決まったアレクシスが機嫌よく人差し指を立てて言った。


「僕が王に指名されたとしても、自分の人生を諦める気にはなりません。ジルにいさまの幸せを願うのと同じくらいには僕自身の幸せも欲しい」


「それは当然だろう、おまえの不幸の上に成り立つ俺の幸せなどあってはならん」


怪訝そうに眉を寄せてジルサンダーは弟に柔らかな光を湛えた眼差しを向けている。兄の言葉を聞いて、ごく幸せそうにアレクシスは微笑んだ。


「僕はローズマリアを娶りたくはないです。ブルーデン公爵には養子を取って貰うつもりです」


「あのマリオデッラにそれを認めさせるのは難しいのではないか?」


レイチェルが思案げに首を傾げて、視線を揺らす。


かつてダリア・デイグリーンがマリオット・ロマリアに溺愛されていると知ったマリオデッラがデイグリーン公爵家の今後の影響力を不安視して、ブルーデン公爵夫人としてレイチェルの臣籍降下を願い出た。

ダリアを愛するあまりにマリオットがミケーレを重用しないようにレイチェルを娶ってマリオデッラは牽制しようと目論んだのだ。

けれどあまりにも己が死に追いやったと噂される長兄に気質の似ているレイチェルを傍に置いておきたくなかったマリオットは自身の婚姻の前にカザーロマルタとの政略結婚を決めてしまった過去がある。


マリオデッラとはそういう男だ。

己の利益でしか動かず、その為なら誰を不幸にしても構わない。そんな男が大人しく養子を取るだろうか?


「レオンをブルーデン公爵家に降下させます。謀反の罰は必要ですから。ローズマリアには公爵夫人で我慢して貰いましょう」


「しかし王妃教育が遅くならないか?」


新たな王妃候補を迎えるなら教育もはじめなければならない。カザーロマルタはどうしても国主としての職業病で、その期間と費用を考えてしまう。


「僕はまだ年若いんです。それで悔しいことばかりでしたけれど、こうなるとラッキーでした。8歳から12歳までのご令嬢を集めた会を発足して全員に王妃教育を受けて貰います。その中から相応しく好ましいと思った方を娶ります」


「想う人はないのか?」


ジルサンダーはレティを愛してはじめて知った悦びをアレクシスが放棄しようとしてないか、心配だった。しかしアレクシスは俯いて首を振った。

その心にあるのは大好きな兄の横で慈愛深く微笑む女性の姿。けれど彼女を手中に納めたいと我欲に走るほどではない、ほんの淡い恋だった。


「…ありません」


震える否定にジルサンダーほ僅かな罪悪感を胸に抱く。それがなにに由来するのか、気付きもせずに。


ない、と答えたアレクシスの、小さな躊躇の意味を知るのは彼を息子のように愛するマルガ国主夫妻だけだろう。


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