70 マリオデッラ・ブルーデン公爵の内なる苦悩
マリオデッラ・ブルーデン公爵は苛立ちを抑えられなかった。なにもかもが上手くいかない、とただただ腹立たしく、そしてその原因が己の娘にあることがさらに彼の腹立ちを煽っていた。
「ローズはまだか?!」
怒鳴るように執事に聞けば、まだ王城から戻ってないとの返答がある。ジルサンダーがレティを伴ってマルガ国訪問に出てからすでに2週間が経つが、その間目的の男がいないのにローズマリアは屋敷に戻ってこなかった。
それも再三の帰宅命令を無視して、だ。
胃の辺りにキリリとした痛みを感じて最近肌身離さず持ち歩いているブルーデン公爵家秘伝の胃薬を苛立ちも露に口に放り込むとガリガリと噛み砕いた。
強烈な苦味が口腔内に広がり、鼻にまで抜けるが慣れているのかマリオデッラは眉ひとつ動かさない。
丸薬の味よりもローズマリアの生意気な態度の方が気になる。マリオデッラが怒り心頭なのも仕方がないことだろう。
彼にとってはジルサンダーはただの邪魔者でしかなかった。賢く、正しく、強く、しかも頑固だ。なにを眼前にチラつかせてもあの男は己の信じた道を進む。それに比べてレオンは扱いやすい。自尊心が強く、腕もあるが、残念な脳を持つ。損得勘定はできるが、損して得とれの精神はない。
つまり相応の餌さえブラつかせれば簡単に食い付いてくる。
だからマリオデッラはローズマリアを餌として差し出した。
しかし狡猾な娘は得意の調剤でレオンに媚薬を盛り、あろうことかレティに惚れさせた。
それも強烈に。
おかげでレオンはマルガ側から許しの出ていない越境をしようと毎日のように国境警備兵と揉めている。マリオデッラとしてはかなり頭の痛い問題になりつつある。
それもこれもローズマリアのせいだし、またその状況を影で嘲笑っている気配がわかって、マリオデッラの怒りは治まるときがない。
さらに面白くないことといえば、三大公爵家のバランスだ。
今までは宰相という立場上、ブルーデン公爵家が半歩ほどだが先んじていた。戦でもあればデイグリーン公爵家の力が強まるが、現状で将軍に出番はない。ブラッディ公爵家は常に王家のために存在し、権力とは一線を画した宗教的側面を強く持った家系だったので、これもまた政治的な意味では力を持たなかった。
そこへカリーナ・ブラッディ公爵令嬢のレティへの嫌がらせが始まり、このままエスカレートすれば真面目一辺倒のピナールを潰せるのではないか、上手く立ち回ればブラッディ公爵家そのものを消して次の高家としてマリオデッラの息のかかった伯爵家を公爵に押し上げてしまえるのではないか、とほくそ笑んでいたのに、ローズマリアがカリーナに要らぬ入れ知恵をしたおかげで、アーロン・デイグリーン公爵令息まで巻き込んで、結果、ブラッディ公爵家とデイグリーン公爵家の結束が固くなってしまった。
これは失態だ。
問題を抱えているときに限って新しい問題が浮上するのが常だが、三大公爵家に不穏な空気が流れているにもかかわらず、レオンが私軍を整えたと報せが入ってマリオデッラも開いた口が塞がらなくなった。
各地に出している間諜からレオン謀反の噂が立ち、さらには内乱の兆しありと疑われて財政難に喘ぐコリンナ国が軍備を整え始めたと連絡があった。
あの馬鹿王子がレオニティなどと阿保らしい軍を揃えたのは玉座を目指したからではない。
単純に己の力を誇示したかっただけである。
ジルサンダーもアレクシスも持たない軍を持つことで感情的に優位に立った気になったのだと、マリオデッラは本人の口から聞いて愕然とした。
扱いやすい馬鹿だと思ってはいたが、まさかの真正馬鹿だとは考えてもなかったのだ。
事の善悪の判断ができない、事を起こしたときの前後を考えられない、レオンができるのは己が善だと信じることだけなのだ、とわかったときにはすでにすべてが遅かった。
見抜けなかった愚かな己のせいで、マリオデッラはいま、人生最大の窮地にあった。
ここを無事に抜けきるにはローズマリアがキーになる。ジルサンダーの留守を最大限に利用して次期王妃となるローズマリアを餌にマリオットを煽動してレオンを指名させなければならない。レオンに謀反の意志がないことを内外に示し、レオニティがロマリア王国を護るために組織されたと宣言し、第二王子が誰よりも王たるに相応しいと認めさせ、ローズマリアとの婚約を結ぶ。
これでマリオデッラの悩みの半分は解決する。
残りはジルサンダーを帰国させなければ済む話だ。レオンさえロマリア王になってしまえば、あとはブラッディ公爵家に伝わる秘薬をときおり使うだけで傀儡が出来上がる。
その存在はブラッディ公爵家当主にしか明かされない、秘中の秘である薬だった。マリアベル以来の毒の使い手と名高いローズマリアでさえ知らない秘薬。
服従薬。
服用してから四半刻の間に言葉として伝えたことを確実に実行するようになる薬。
しかも服用前後の記憶が飛ぶので、飲んだ本人の意志として行動する。
先代のロマリア王にも使ったと言われる薬だった。
どうしても第一王子を指名すると譲らない先代王に痺れを切らして使ったと父が話していたのを鮮明に思い出す。
結果、指名されたのはマリオットだった。
意志薄弱で女のことしか頭にないマリオットにレオンを指名させるのは容易いだろうとマリオデッラは安易に考えている。いざとなれば離宮のひとつを美姫を集めたハーレムにして献上すれば、すぐにでもレオンが即位できるだろう。
そうなれば待っているのは己の天下だ、とマリオデッラは黒い笑みを浮かべた。
レオンがレティに拘るなら、ローズマリアを正妃に迎えたあとジルサンダーから奪って側妃にしてやる、とでも言えばそれで済む。
ジルサンダーが簡単に渡すとは思えないから、消えて貰えばいい。先代の第一王子のように………
毒にも薬にも精通するマリオデッラはまたもや胃に不快感を覚えた。最近、妙に体調が優れない日が増えている。腹立ちの多い日々だから胃腸が弱るのか、もしくは己も年なのか、と思いながら、上着の胸ポケットからもう一度胃薬を出してなかを確認した。
まだ丸薬はいくつかあるが、そろそろ調剤しておこうか、といつそんな暇があるのかと自嘲しながら思った。
そしてふといまや胃痛の種であるローズマリアの幼き頃を思い出した。まだ10歳にもなっていなかっただろうか、病で母親を亡くす直前のあの娘は万能薬を作るんだ、とそれまで見向きもしなかった薬学に気が狂ったように夢中になった。
結局完成を見る前にマリオデッラの妻は逝ってしまったが、それができていたら今の己の不調もたちどころに治せたのだろうか、と考えていたマリオデッラのもとに執事が遠慮がちに寄ってきた。ぎろりと睨めば身を竦ませて、震える小声で告げた。
「お嬢様のお帰りでございます」
マリオデッラはすぐに顔を出すように伝えろ、と怒鳴ると、抽斗から薄い緑に輝く小瓶を取り出した。
娘に使いたくはないが、と僅かな躊躇いで当主のみが受け継ぐ薬剤の入った小瓶を持つ手が震えたが、それもすぐに治まった。
すべてはローズマリア次第だ。
責任のすべてを他人に押し付けるような思考を当然のように受け入れると、マリオデッラは薄く微笑んだ。




