68 女神は信仰の対象ですから
ブルードラゴンの姿がふわりと弛み、次第に色と形を失いながら小さく縮んでいくと、いつの間にか、ジルサンダーが麗しい王子の姿を取り戻していた。
レティは驚きが覚めたように破顔するとジルサンダーに駆け寄り、その腕にしがみついた。それを愛おしそうに見つめたジルサンダーが腕にすり寄る彼女の赤毛をゆっくりと丁寧に漉いた。
「とても綺麗でした」
レティが感動に声を震わせて伝えれば、ジルサンダーは視線が合うように僅かに腰を屈めてレティを覗き見る。
「俺にとってレティほど美しいものはないんだよ、愛してるからね」
「ジル様!」
飾らない言葉で賛辞を受けたレティが恥ずかしがって紅潮した顔を慌てて俯けてしまうと、ジルサンダーが愉しげに呵呵と笑った。
そのふたりを囲むようにカザーロマルタ、レイチェル、アレクシスが立つと、申し合わせたように一斉にその場で額づいた。
レティがぎょっとして後退るが、ジルサンダーが腰を抱いてその場に留まらせる。
「この世界の創成王たるジルサンダー陛下並びにこの世で最も尊き存在であり、神の愛し子である女神レティ様、わたくしども穢れたものが眼前にある御目汚しをどうかお許しくださいませ!」
カザーロマルタが床に強く額を押し付けたまま感極まった叫びをあげた。レティは突然の対応の変化にオロオロと狼狽えるが、ジルサンダーはしっかりと彼女を物理的にも支えたまま、鷹揚に頷いた。
「わたくしの生あるうちに女神様の顕現に立ち会えました僥倖をなにより有り難く、そして新たなる素晴らしき王を選ばれましたこと、なによりの慶びと申し上げ奉ります!」
固い、固い、固い…!!
レティの頭で悲鳴が上がるが、この世界の根幹を為す信仰の対象として女神がどれほどの影響力と大きさを持つのかを知るものとして、神経が壊れても彼らの信仰を否定するような言動は控えなければならない。
レティは唇を一度強く咬んでから、ジルサンダーから身体を離して姿勢を糺すと口許を僅かに緩めた慈愛深い微笑みを湛えた。
記憶のなかのソフィテルそのもののように…
「貴方がたの真摯なる想いに感謝します。私にとってその瞳はなによりの力となるもの、目汚しにはなり得ません。どうか頭を上げて楽にしてください」
落ち着いた軽やかな声はまさに神のごとく。
あまりの感動にカザーロマルタもアレクシスもボロボロと涙を床に落としては池を作る。
「形式的なことは終わりにしよう、叔父上。これからは家族として頼むよ、レティが震えている」
ジルサンダーの最後の言葉にハッとしたカザーロマルタが勢いよく立ち上がると、直立不動で固まった。その夫の姿に同じように額づいていたレイチェルが堪らず吹き出した。
普段は誰に対しても丁寧な態度を変えず、かといって国主としての威厳を保つカザーロマルタの、緊張に縛られた様子が可笑しくて仕方ない。
女神を直視することすら不敬だと思っているのか、彼の視線は定まることなく浮遊している。
額を床につけたままのアレクシスの肩も細かく震えているところをみると、カザーロマルタの態度に沸き起こる笑いが抑えられないのだろう。
ジルサンダーは叔母と弟の笑いに巻き込まれるようにして大きく声を上げて笑った。
するとふたりも我慢の限界を越えた、と言わんばかりに釣られて腹を抱えて笑い転げはじめた。
ロマリア家の笑いの伝染に呆気にとられたレティは足元でヒーヒー苦し気な呼吸で笑い続けるアレクシスに心配そうな眼差しを向けることしかできない。
「レイチェル叔母上もアレクも笑いすぎだ、叔父上を座らせてやってくれ」
眼尻に涙を滲ませたジルサンダーが未だにくつくつと笑いを溢しながらも言えば、アレクシスが弾かれたように立ち上がって、カザーロマルタの背中に優しく手を添えた。そして先程まで座っていた椅子に誘導する。
「さぁ、叔母上も」
ジルサンダーが椅子の背に手を置き、レイチェルを促す。女神よりも先に座っていいのか、悩む素振りを見せたので、レティが率先して手近な椅子に腰かけた。
それを確認してから、カザーロマルタもレイチェルも浅く腰かけて、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
「あまり畏まらないでくれ、俺は俺で変わらない。多少丈夫になって姿を変えられるくらいなんだから」
「ジルにいさま、不死身は多少丈夫レベルじゃないですよ」
あまりの雑な言い分にアレクシスが苦言を呈した。サロンには侍従も執事も給仕のものも入れない、完全に身内だけの空間だ。いつもならギルバートが呈する文句も今はない。
「そうだな」
だからこそ、アレクシスが彼らしい真面目さで己をいつも通りにジルにいさまと呼ぶ様子にジルサンダーはにやりと笑んだ。
「なるほど、レティ様は確かに女神様だ。そうなると、ジルはうちの子にはなれないのか?」
衝撃も覚め、眼前で起きた特異な事態に早くも順応したレイチェルが今度はマルガ目線で交渉に戻った。ジルサンダーがロマリアを継ぐ新たな王だとしても己の可愛い甥であることには変わらないのだろう、と感じてジルサンダーはさらに嬉しくなって破顔した。
「俺は叔母上が嫌でないならマルガの養子も厭わないよ」
レティの横でジルサンダーは彼女の赤毛を指で弄ぶ。
「もちろんレティを俺が娶ることに異論があるなら別だけど」
創成の王と神の愛し子を同時に手に入れる機会に異論を唱える執政者はない。ましてやレイチェルはジルサンダーを愛している。例えふたりに身分がなくともマルガの王妃は大喜びで彼らを迎えるだろう。
「ならばジルがマルガの子となればいい、女神レティ様を娶るなど、光栄でこそあって異論などあるはずもない」
レイチェルの言葉に拒絶反応を示したのはアレクシスだった。鋭くジルサンダーを睨むと彼は強い口調で反論しはじめた。
「いけません!ジルにいさまはロマリアの王となる方です。マルガの子となられてはロマリアが滅びます」
「ロマリアにはおまえもいればレオンもいる。俺がなくとも大丈夫だと言っただろう?」
穏やかに諭すが、アレクシスは引かない。
「この世界を造ったのはロマリア王です。新たな創成の王が立つならばそれはロマリア王国でなければなりません、それがロマリア王のご意志です」
アレクシスの断言した言葉にレティは首を傾げた。
そして徐に口を開く。
「ロマリアはそんなことを考えてはなかったわ。彼が私を殺す前までは隠居して離宮でふたりだけで過ごしたい、と願っていたもの。彼にとって国は私を護るためだけのもので、それ以上じゃなかったの。私はロマリアと造り上げたこの世界に思い入れは強かったけれど、彼が執着して想ったのは国でも民でもなかったわ、私だけだったの」
神話の、歴史書の、そして語り継がれる物語のなかのロマリアは国を思い、民を憂い、自然に寄り添う神が人に与えし最上の加護だと記されている。
なのに今世の女神がロマリアをただの愛に溺れた男だと言い切ったのだ。
愕然としてジルサンダー以外の誰しもが身動きひとつできなくなる。
「伝え忘れてたが、レティにはソフィテル様の記憶が鮮明にある。それからソフィテル様の死はロマリア王が彼女に剣を突き立てたことによるものだ」
ジルサンダーが説明をして、すでに覚めた珈琲を一口飲んだ。
飄々とした態度に真実味が増して、誰よりも敬虔な女神信奉者であるカザーロマルタが衝撃の事実に白目を向いて卒倒した。




